• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.54

No.51の「死」に関して、どうも見解の相違が、縮まらないようです。 >A(生)にB(死)がない(無効にしつつ取り込んでいる)が、終末時には、B(死)にA(生)がない(消滅している)。 ・・・ >死は飛んで行きません。必ず訪れます。ただ、生有る限りは、無効となって飛んでいますが・・・ 生者に死はないが、死を無効にしたまま隣合わせているイメージです。 ところが、生から死に移行する時、死とは、絶対領域への逆転換ですから、相対領域の私には、観察視点がないのです。ウィットゲンシュタインも「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない。」と『論考』6・4311で書いています。古代ギリシアのエピクロスも同じです。普通の他者の死という事実は、いくらでも見ている気がしているのですけれども、自分のは、だめなのだと思うのです。  ▲▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~  死者の復活もこれと同じです。  蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、   ・・・  つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。  自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これが、私たちの相対領域から隔絶した絶対領域の話ならば、納得ですが、私たちの相対領域の話だとすると、詰めが甘いと言わざるを得ないのです。死(逆転換)とは、隔絶した「究極の他者」になるという理解を僕は、結構、気に入っているのです。シックリ来るのです。ここは、そういう信仰と言えます。 最後に、死の直前までの、この相対領域の中で、自利利他行の実践と共に一如を成す沈黙・無記の勝義諦(別名 無為の絶対)は、見事な透明感で示されていると思いませんか。この感じを無理に言語化すれば、これこそ、悟るという体験ではないかと思うのです。透明で、静寂で、無味無臭で、捕まえられないのだけれど、ひっそりと隠れているのでした。絶対と相対の相転換・逆転換は、創造と破壊の御伽話ですが、結構楽しめたと思うのです。絶対が、相転換後、相対の背後で、無為の絶対として存続しているという想定は、結構、奇想天外ですが、相対世界の有為・無為の構造と整合させる上では、論理的に不可欠で、また、仏教哲学の欠点(沈黙・無記の勝義諦の理解)を補充する重要な着眼点にもなっているはずです。また、死を逆転換と捉えれば、絶対への復帰は「復活」であり、絶対=究極の他者、神の国というこの時空との完全な隔絶感も表現できると思いました。ただ、このあたりは、妄想になってますけどね。キリスト教とは、異質なのでしょうね。異端思想なのかなと思いました。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  たしかに 命題として提出したり さも理論ふうに 説明したりしましたが わたしのほうの死生観は 特殊であるかも知れません。  ○ わたしの朽ちるべき旧き人が すでに 死んだ。あとは わたしの〔霊の体につながる〕新しき人として 生きるだけだ。  ☆ これだけの むしろ 生きる実態があるに過ぎません。ですから これから迎える死は どうでもよいのです。そう思っているという意味です。  さぞ 理論として対抗するかのように 書いてしまいましたが ほんとうに 上のようなのです。ほかのキリスト者のことは知りませんが 天国にしても どうでもいいのです。あとは 思う存分 死ぬまで生きる これだけです。  参照しうると思う箇所です。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。  * わたし( bragelone )は 水による洗礼は受けていません。霊に  よるバプテスマを受けました。  わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。  もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。  わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。  死んだ者は、罪から解放されています。  わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。  そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。  キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。  このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。  (パウロ:ローマ書簡 6:3-11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですので 生物学的な死の時点は どうでもよくて 問題は バプテスマを受けたその瞬間です。それを境に 旧と新 そして あたかも 死(つまり 死に行き着く生)と生(復活につながる生)とに 分けられています。  つまり ごめんなさいということにもなるのですが もしこうであるならば 逆転換も もう あまり 関係なくなって来ます。もちろん その箇所では 一生懸命 そういうふうに考えをまとめて 書いたのですが 今回 こういうふうに問われて たしかに 上に述べた内容が 実際のわたしです。それに間違いありません。  《永遠の現在》 これは すでに出していましたね。そのことで 救われたかも知れません。そういう認識ですから。  * 神の国などについての神学 これは また それとして 探究されます。  * あと 《創造と破壊》 これは 表象していますので その点では ちがうように いま 思いました。  * キリスト者のあいだにも ちがいがあると言うべきかも知れません。――これは これで けっこう 重要な論点になってきたように思います。他人事のようですが。

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