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慈悲は 経験現実か

 わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

noname#80116
noname#80116

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回答No.20

仰るように、仏の慈悲は我々俗人には無理な話ですと思います。 慈恩悲恩の言葉が出てくる「父母恩重経」などは、“愛”の形と捉えられると思います。割り切って仏ではないのに慈悲を云々すると言うのは無理と、NO!としました。だからと言って仏の御手の中で生かされて、慈悲の心に全く無関係と言っているわけではありません。 実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・ それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 余談ですが「神は愛なり」と言う事と「全知全能の神」が同一存在であると言う事は、人間の浅智慧では理解不能ですね。 ですから、答えは人間には慈悲も愛も絶対的概念では無理でしょう。真似事は出来ますが・・・ ▲衆生が 義に渇くというふうに見るわけには行かないのですか? 本当にそう思いたいと思います。又そうあって欲しいと思います。 でも、そうでないことはbrageloneさんが一番良く分かっていらっしゃるのだと思いますが・・・ 蛇足:荒了寛の《絵法話》は別の本です。 

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  1000827313さん 1000827313さんのご文章は 独特ですね。どこからでも まだまだ 言葉はわるいですが 隠し玉が出てくるように さらなる議論にも 準備万端というところですね。  どうも 素養が浅いと 途端に おいてけぼりになってしまう。議論も簡潔ですね。おやっと言っているあいだに 次の主題に移ってしまわれているようです。  今回は めづらしく と見るべきかどうか ていねいに補ってくださった恰好ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・  それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おおよそ このように 結論の方向を捉えたいと思います。  ★ 荒了寛の著書  ☆ は 次の図書館通い(20日)の日に先送りします。  ★☆ 衆生が義に渇く  ☆ の問題。もし 信仰が 向こうからやって来て 与えられるのであるならば  ★ 全知全能  ☆ の問題になります。まぁ 一度張り切って 護教論――なつかしい言葉ですね――をやらかそうと思えば 義に渇かない人びとの状態に 渇く人が どれだけ耐えることが出来るか これを神は見ているのかも知れません。(うまいこと 言うでしょう)。  ★ 「神は愛なり」  ☆ 《無根拠》が 《神の愛》ですから そうは問屋が卸しはしないと思いますよ。ただし 一人ひとりの主観内面においては たとえ実現しないとしても その事由について理解しうるかたちが 現われてくるとも思いますが どうでしょう。  ★ 「父母恩重経」  ☆ こんなの あまり聞きません。わたしは えらい博学の研究家に出遭ったものです。  * 慈悲は あまり 議論になじみませんでしょうかねぇ。

noname#80116
質問者

補足

 18日夕に記します。  図書館に行く機会が 早く 訪れました。  ★ 荒了寛:慈しみと悲しみ  1988  ☆ 読みました。正直に申します。  九十九匹の中に入れず 一匹となったわたしにとっては 毒の文章です。  人間 S 語を基礎として 随所に 普遍概念 A 語のことばを さりげなく 散りばめて おだやかな語り口で 日常生活を解き明かしていく手法は もう年季の入ったものです。親子や家族の愛情が 主題であって これが 慈悲に充ちた雰囲気を醸し出している。あたかも ブッダの慈しみと悲しみであるかのようだ。・・・  まづ ここに示された人間語を生きた実際の主人公の人たちについて 何の問題もないでしょうし 批判をする気も理由もないわけです。多少の抽象化による普遍概念語を 散りばめるとき それは きわめて――こういう語り言葉の中に著わされると――演出効果も 大きいと思えます。  じじつ わたしは 何を隠そう こういう仏教思想のもとに 二十代後半まで 生きていました。周りの雰囲気も そうでした。ただ 一点を除いてです。それは わたしに対しては この慈悲に似たに過ぎないものだとしても その思いやりという行為が 基本的に いっさい 無かったということです。そういう人生を 三十年弱 生きました。  その後も 外側のかたちは 同じ状態・同じ情況がつづいています。わづかに 三十歳前後には キリストの心によって わたしは すくわれましたので 意に介さなくなっているという違いが出て来ています。  じじつ わたしは 嫌われたり のけ者にされたりしても 常不軽菩薩よろしく 軽蔑もせず そういうものかと受け止め あとは 生来の能天気でした。  以上こういった事由により こういう雰囲気の文章は わたしにとって 面白くも楽しくもありません。  おそらく 無限・無根拠の光が 差していないから というのが 理論的な問題なのではないでしょうか。光は 雰囲気として いわゆる継起無限として つねに どこまでも 限りなく 慈悲に近づくという姿勢を促すようにして 差している。このゆえではないでしょうか。熱くもなく冷たくもなく 中途半端に映ります。  慈しみと悲しみを じゅうぶん 知った人間が   ▲ 人が悪い事をしたのを見てからと言って それを訴えたり 人にわざわざ教えたりして 罪人をつくるようなことはするな。人から他人の悪口を聞いても それを他の人に伝えるような事はするな。(p.106)  ☆ に従うならば――ひとつの危惧として―― 社会保険庁の死んだような仕事ぶりがつづくことが うなづけますし あるいは 社長の命令ゆえ 商品の偽装工作は 甘んじて 受け従うことになるのではないでしょうか。  もちろん 経験世界のことがらは なにごとも 程度問題です。すっかりきれいにせよとか 完全に解決せよと言うためではありませんが 限りなく貴い光にだんだん近づく理性と感性とによっては 好し悪しでしょうし どうも 《なまぬるい》。そしてその限りで 《人は死んでいる》とすら 感じられて来ます。  というのが 1000827313さんの比ではないへそ曲がりのわたしによる感想です。率直という言葉を となりの惑星にたどりつくまで言い続けても なお足りないほどの率直に申しました。ひとつの視点ではないかとは思っておりますが いかがでしょうか。

その他の回答 (23)

回答No.24

★ 三縁互具 これは造語ですが、 十界互具という法華経の思想ならば、当然そうであるはずです。  何か 日蓮が法華経をとり、それまでの仏教に反逆した気持ちが解かってくるところであるように思えます。 無縁慈悲が 仏にしかない心というのであるならば、私はこれは完全否定しています。 それは書きましたとおりです。 法華経論となると、私は今あまり考えたくないところです。 最後の決め手である仏界自体については 南無妙法蓮華経の説明でしか説明していないので それについての私の考えを書くのが大変であるにもかかわらず、今のところそちらが意地悪を押さえられないような答えしか出てこないだろうからです。   そこにそちらの真骨頂とか使命とかがあるならば、火に油を注いでしまったかもしれないですけどね。 でも、 この論議は 私の方からは後回しにしたいところです。 ★ 仏弟子の試験の話 そうですね。 もし私がその話を創作するなら 最後に、ニコニコして出てきた師匠さんは、「わが友よ、話し合おう」と言いながら出てくるで笑。 しかし、父母への健全な感謝の心とかは、もしそこに家族病理とかの理解と、人間の絶対個の知解があった上での心であるなら、 まさに人間の根源の、あるいは本性の「友」への心であり、  それはとてもわかりやすい「おしえ」となりうる世界と思います。 「父母恩重経」が そういう奥の深い健康な そして誰でも実践可能なあたりまえの心の世界の「わかりやすい、おしえ」であることを ともに望み(期待し)ます。 それでは、このへんで。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。それでは この辺としましょうか。  ★ 三縁互具  ☆ 成るほど たしかに 十界互具から 容易に 推論して出てきますね。となると またまた  ★ 仏性  ☆ の問題となります。ぼちぼち まいりましょう。  ★ 仏弟子の試験の話  ☆ ここで 問題は 父母と子との 互いの 愛情が あたかも ブッダの慈悲にたとえられていることにあります。  たとえなのだから いいとするか あるいは やはり 厳密に 表現するべきと見るか ではないでしょうか。  これも 引き継いでまいりましょう。

回答No.23

「ゲツセマネ」の方の愛の意味合いは、明らかにS語もA語もふくまれていますね。 仏教については、私も解からないとことが多いので、 ここは、やはり私の方からはbrageloneさんの質問には次の質問へ回答するという形で 対話をつづけたいと思います。 * 慈悲は たしかに自然、あるいは自然(じねん)な真心だと思います。そして、人間の中のそのような慈悲の心の可能性の深さ、無限さをわたしは仏性と思っています。 その仏性には私は謙虚になれますし、それをわたしは仏旅といつしか心の中で呼んでいました。 しかし、仏陀がその無限の仏性を持っていたか?とかは これを言うと解かりにくくなって頭のこんがらがる人がいるかと思いますが、  それは別に信じても無意味だとおもっています。   そんなことは 実際会ってもいないのになんで解かるのだろうか?ということです。 どっちでもいいじゃないですか?  ? ということです。 * 慈悲を 今  三縁互具としてとらえたり、 十界互具という法華経の教え(考え方)に、 その表現がめちゃくちゃに幼稚だからこそ昔の人の知恵の深さにかえって気がついたりするのは、  かんがえてみれば、これもキリストの言葉や 十字架の意味への感動から来ている考えなのかもしれません。     私の場合 順序から言えば キリスト者であるのでしょうが、がゆえにブッディストでもあるのかもしれません。 いずれにしても 「ゲッセマネとは」の方に、回答の筆を、こちらも「ユダ」の方と同じく、移動しようと思っています。 * こちらも 最後にひとつ付け加えておきます。 私は「父母恩重経」とかは知りませんが、 たぶんそれと似た仏教のお話があるのを知っています。 イソップの寓話のようなものですが、 ことの真実を深く語っています。 熱心な仏教徒が、有名なお坊さんの弟子になろうとして頼みに行くお話なのですが、 そのお坊さんは そんなに弟子になりたいならば、試験をパスする必要がある、 ここに座ったまま三日間なにもしゃべらずだまったまま動かないでいられたら弟子にしてやろう。 と言ったというお話。 たぶん聞いたことのある方は多いのではないでしょうか? やがて、 じっと黙って座っているその熱心な若者の前に、虎が現れて脅したり龍が威嚇したりするのですが、 その若者はぴくりとも動かなかったそうです。 あらゆる怖いものが現れては 脅すのですが、 とうとう三日目の朝方になっても彼はただ口を閉じじっと座っていました。 その三日目の朝がたのこと、最後に どこかで聞いた声を彼は耳にします。 その声がだんだん大きくなってくると、遠くの方に閻魔大王があらわれ、なんと鞭で彼の父と母をたたいている姿が見えてきたのです。 声は父と母の叫び声でした。  カッと目を開いた彼は  おもわず「あっ」と叫びそうになり はっとして口を閉じます。 その時です。そのうめき声とともに、あえぐようなこんな声が聞こえてきたのです。「 私たちは 大丈夫だから 」「 そうだ、おまえは動いてはいけない。 私たちは大丈夫だ」 そのとたん、 かれは、大声をあげて、飛び出します。 うわああああああああああああああ。 と、   そこに お坊さんがニコニコしてたっていました とさ というお話です。 「始めて試験をパスした人よ、 始めての弟子よ。」と言って抱きしめたかどうかは知りませんが^^。 あたりまえで、健康で、でも本当の心を 語っています。  

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  arayata333さん わたしが いぢわるの達人であることを忘れてはいけません。  その前に  ★ 三縁互具  ☆ なら 理論としては 実践可能ということになります。人間であるなら 慈悲の行為は 経験現実でありうると。《無縁慈悲》について 《それは仏にしかない心である》を否定しているわけですから。さらに出典や 解説が分かるといいのですが。  ★ 仏弟子の試験の話  ☆ これは――いぢわる魂をおさえることが出来ません―― はじめの約束の内容によって すべてが決まります。  ★ 座ったまま三日間なにもしゃべらずだまったまま動かないでいられたら弟子にしてやろう  ☆ というところで すべてが決まります。そのどこか。  ★ 弟子にしてやろう  ☆ です。あるいは  ★ 弟子になる〔かどうか〕  ☆ で 全部 決まってしまいます。《弟子になる》ことが 何ものにも優先するとすれば 条件を満たすでしょうし そうでなければ 条件を破るはづです。問題ないし焦点を 親子の愛情のほうに 持っていこうとしていますが 必ずしも そういう問題ではない部分が 隠されていると わたしは 考えます。  ○ 人間にして神である。  ☆ この《うそ》のほうが すごいと思いますよ。

回答No.22

私も、 “書きました意味での謙虚さを伴う仏旅”を歩まれてる人に実際には会ったことがないですし、>判定できない<のは同じで知識の浅い者ですが、  懐疑はいっぱい持ってます。 仏陀という人間を神格化してる人ならたくさん見ています。 禅はそれを否定したのでしょうが、 ならば、なぜ、今回紹介してくださったパウロのようにそのへんをわかりやすく語ってくれなかったのかが疑問です。 ほんとうに解かってたら優しくわかりやすく説明できるはずと思うからです。 それに対して、もし私が新約聖書を(当時は半分馬鹿にしながらですが^^なんで何度も何度も読んだのでしょうね。^^)読んでなかったら、よく考えてみたら今の私の考えも無いでしょう?   でも なんであんなに簡単なたとえ話にこれだけすべて影響されるのかが不思議ですよね。 そこをそちらから見ると私はキリスト者となってしまうということなので笑。 やはり、そうかもしれませんね。 (疑いぬいただけという感じもあるんですけど…。) * ご紹介くださったヨハネ福音書、 なんとなくしか記憶してないところでした。 たぶん当時は理解できなかったのでしょう。 これなんですよね。  そこには具体的な事実のことが語られているんですよね。 抽象的な大きな大きな視野そのものについて語られているときにても、 この存在の事実の深さが語られていたりするんですよね。 その上で、 まだまだ理解できていないということも気がつく世界? 神話の世界のたとえ話(ユダにのみ語ったような)のようにではなく これなら私にとっても、そこまでは解かるということに過ぎないのでしょうけど?    解からないことは解からくていいのかと思いますが、 知りたくはあります。 * 実は brageloneさんのお考えの解かりにくいところなのですが、 キリスト前とキリスト後ではやっぱり違うのでしょうか? 神にとってはどうなのでしょう?  まったく同じ おそら無限に愛するわが子みないな存在だと思うのですが。 であって、全く同じく、キリスト前もキリスト中もキリスト後も、何も助けてはいない(人間や生き物を)と思うのですが。 …。 「S語」で 言うと、全く別な歴史とも言える、ということなのでしょうか?   ならば、そうなのかもしれませんね。 * しかし、そのように「S語」でいうならば、 おそらくブッディストの中にもこの「真心」という庶民の心(意識)の奥に在るその地点からの仏旅(価値や感性の旅)を理解している方々は 歴史(史料の歴ということではなくて、名も無い人の「今」にいたるまでの時間という意味での歴史)上にはたくさん、いたと私は推理しています。 * わたし自身の質問への考えとしての回答はすでに書きましたが、いただいたコメントへの感想として筆を伸ばさせていただきました。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ★ 解からないことは解からくていいのかと思いますが、 知りたくはあります。  ☆ は 次の事柄の実際の内容を言うのでしょうか?  ▲ そればかりか、〔イエスの成したわざより〕もっと大きいわざをするであろう。  ☆ これは まだ 分かりません。将来すべきこととして いまわたしたちは 臨んでいるものと思います。いづれ しかるべき人が 出て 説き明かしてくれるのでしょう。楽しみです。  ▲ イエスの成したわざ  ☆ を 当面は 目指せば いいのではないでしょうか。  ★ キリスト前とキリスト後ではやっぱり違うのでしょうか?  ☆ これは 《質問番号:4551515:神様についての疑問=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4551515.html》のANo.9に 書いたことが わたしの考えているところです。  《Q:ユダ》のほうにも書きましたが イエスのあとに ユダヤ教イエス派は 世界に開かれたクリスチアニスムになりました。  もともと 人は 自由意志を与えられましたが――自由意志を抹殺する自由までをも与えられましたが―― 旧約時代は 民族として まとまって その民族の自由意志によって 自助の道を切り拓くかたちでした。民族 即 個人であったのではないでしょうか。  ★ キリスト前もキリスト中もキリスト後も、〔神は〕何も助けてはいない(人間や生き物を)と思うのですが。  ☆ の話を いま 考えているのですが キリスト後は 全世界にわたって おおむね 個人にとっての自助の道となったのだと考えます。むろん 愛を説いてやみません。(独立存在性と関係存在性 両側面だと思います)。  自助が 人との関係や交通においても 妥当なかたちで 達成されるのは 個人以上の力のはたらきがあるのだとも思います。  《キリスト中》というのは どうなんでしょう。弟子に選ばれた人たちは ほかの人びとから見て いくらかは 特殊であったかも知れませんね。イエスに翻弄されたとさえ言えるかも知れませんし 本望だという仕事――傲慢にも 人をすなどるという仕事ですが――を与えられたとも言えるのでしょう。  十字架上の死と復活とを境にして 世界は 歴史は その時空間は 断絶を見つつ 継続したのだと思います。  民族が 互いに 互いのふところへと 開かれた。また 《むさぼるなかれ・盗むなかれ・姦淫するなかれ・殺すなかれ》等の律法が 規範として――それが 単なる観念となってでも――君臨した時代も終わって 石の板に書かれたそれではなく 胸の板に書かれるようになった。一人ひとりの自助であり 自立であり 自己経営の時代へと入った。  いっそう自由に 生きていく情況へと 神は 人びとを送り込んだ。  その作業中という意味では 《キリスト中》は 特異な時代だったかも知れません。M.ヱ―バーは 鉄道の線路を切り換える《転轍器》という言葉を使っていたようですが それが 当てはまるかも知れません。  このように いろんなことを思ったりしますが いかがですかね。  ★ S語  ☆ の問題について 今後へつなぎます。

回答No.21

>待った無しで緊急避難が必要な場合は 別ですが そうでない場合には あくまで 相手との 魂の触れ合いとしての合意の上に立って おこなうものだと 心に言い聞かせておりますが いかがでしょうか。< お叱り、あるいは「おさとし」、ごもっともだと思います。 あせっておりました。 こちらも、読み落としてる点がありました。 * 「慈悲」と「はからい」のご議論のあたりを わたしの回答は飛ばして回答してしまっていますね。 この地点の>合意の上に立って<でなければ、 輪廻を批判するのはおかしくもありますよね。 「慈悲は、“神あるいは存在”の《はからい》によって成り立つ種類のものなのか?」についての私の考えを付け加えておきます。 《親鸞再考》の質問への私の回答にても この点についての議論が見落とされ無視されていたかと思います。  その時点では気がつかなくて、あるいは理解がいたらなくて、無視というのではなくて、その議論の大切さが解からなかったというのが 事の真相です。 もう一度、ここに>魂の触れ合いの合意の上に立って< に添い、その地点から書き直させていただきます。 * 神あるいは 存在は、 実は一切私たちを助けてはくれない。というのが私の理解の中にあります。 絶対的にというのではないのです。 これもまた相対理論^^ですが、このへんは複雑難解な議論となるかと思うので略させていただきます。 ともかく いわゆる「神は私たちを救う」という一般信仰の否定が私の中にははっきりしているということです。 まして「神は信じる者を救われる」などというのは子供の物語と思っていますということです。 その意味での神からの「はからい」が、時系列の中にあるというのは一応はいっさい否定しているという意味ともなります。 しかしながら、 この存在自体が どれだけ深い贈り物であるか(私たちが知らないだけ、 まだまだまだまだ知らないだけ)を考えると、なんとそれ自体が無限と言えてしまうような贈り物であり、  そこまで考えると、私たちの命が、実は 大きな意味あいの中にては“すでに《はからい》という存在の中に在る”とも言えます。 一生懸命 無心に、無我夢中で正しく生きようとしているときに、多くの気づきを私たちは 慈悲の根元である《真心》の源としての「感じる心」の中に感得します。  そのように私たちは 出来ているというふうにも大きな視野からは言えるところです。 つまり、何にも頼らないで自分の足で自分で考え 倒れ傷つき、また立ち上がり歩きつづけ、それでも絶望すら味わいつつ、闇と光の交差の中をそれでも無我夢中ではいずるのは、わたし自身という 自律した魂ですが、 その中でこそ気づく、慈悲の源泉は(本来の自己とか 原初の魂とか あるいは子供のような新鮮な地点とかのことです。)   そのすばらしい どこまでもつづく山道は、 すでに与えられている贈り物でもあるということです。  時空を越えて存在するその贈り物が《はからい》というのならば、  その信仰は正しい信仰だと私も思います。 同じように存在への深い感謝をそこに伴うでしょう。 そのような意味での信仰は 道徳にも魂を与えるものだと思います。 私たちがそのような贈り物の中、そのような《はからい》の大地に生きているという事実についての認識、そういう認識としての信仰は、 人と人との間にリスペクトの泉のようなものだと思うのですが、  この尊敬という地点を抜きにしたら、 感謝って何なのでしょう?  感謝すべしという道徳すらも 薄っぺらなものとなり、すぐに功利的なお返しを求める(心の面にてでもです。)ものにすり変わってしまうでしょう。 大きな意味では、 こうして信仰とともにかつ“《はからい》(「はからい」ではない)の中”にこそ、 始めて私たち人間は どんな生の中からも仏性の入り口、慈悲の入り口にての実践が可能になる。 というふうに論理的には、語れるところなのでしょう。 が、そこにては、確かに慈悲は誰にも実践可能なのだ。という主張には変わりありませんし、 そこをこそ火の情熱で語りたいところであることも変わりありません。 しかして、 そこはまだ はるかなるはるかなる山道、仏旅のほんの入り口なんだという理解が 必要だということです。  理屈ではないと言えばこの謙虚さも理屈ではないので、 これが仏教における信仰なのだと私は思うのですがどうでしょうか。 がゆえの 答えとしての 慈悲の実践は不可能という意味でのノー!なら それもまた正解であり 自律した大人の信仰の姿と私は思うのです。 あるいは 《慈悲》もまた、それ以上は《無思考》の世界であり、ノーとも言えるしイイェスともいえる。 無縁の慈悲の実践は、実践可能だが、、その姿形は慈においても悲においても仏の実践とは 天と地の差がある、  という理解の世界です。 以上なのですが、 この理解で、よろしいのでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をあありがとうございます。   ★ 以上なのですが、 この理解で、よろしいのでしょうか?  ☆ それが わたしには 結論づける素養がないのです。仏教の勉強は かつて 道半ばで ほっぽり出したのです。おおむね おっしゃった方向で わたしも 考えていますが ブッディスム全体として 判定する知識がありません。  ちなみに   ★ なんとそれ自体が無限と言えてしまうような贈り物  ☆ に関して 次のように パウロが言うのは 同じような趣旨であって おもしろいと思います。  ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~  いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 慈悲――もしくは 愛――の実践が まったく人間には無理だと言うのも早いと思われる聖書の文句があります。イエスが 弟子たちに諭します。  ▲ (ヨハネ福音14:7-12)~~~~~~~~~~~~~~   ――・・・もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも    知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たの    である。  ピリポはイエスに言った。   ――主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたした    ちは満足します。  イエスは彼に言われた。   ――ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわか      っていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わ    たしたちに父を示してほしいと、言うのか。     わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないの    か。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているので    はない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。     わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそ    れが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。     よくよくあなたがたに言っておく。     《わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。    そればかりか、もっと大きいわざをするであろう》。わたしが父のみも    とに行くからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むろん 《もらっている能力を活用し さらに能力をもらって》  ▲ そればかりか、〔イエスの成したわざより〕もっと大きいわざをするであろう。  ☆ とのことです。

回答No.19

今回は 自分の馬脚かわからないですが、 なんというか理屈とか理論とかかなぐり捨てて書きます。 慈悲が実践できない などということがあったら、この世の中どうなるんですか? 仏陀にもキリストにも 信頼してるならば疑っていいんです。 徹底して疑っていいんです  甘えていいんです。 いやそこは甘えるべきなんです。(ここまでは 理論です。) で、甘えて言いますが、 もし人に上下をつけるのならば 仏陀もキリストも私は人間のくずだと思う。 そんなくずのことなんか 私たち人間の哲学にいらないと思う。 考えるだけでも けがらわしいと思う。 いや、キリストも仏陀も ほんとうは急進主義者だったと思う。 心とか精神は 私なんかよりももっともっとはるかに急進主義者だったと思う  でもあの時代には だからこそ失敗もするしかなかったのだと思う。 なんで、 なんでたった今 苦しんでいる人が世界中にいるのに、 もしかしたら、北国に住む家を失い 寒さの地獄を目をカッと開いて見てる人がいるかもしれないのに、  なんで、いつまで、仏陀の慈悲はカッ目を見開いてるかどうか、お話し合いしてばかりいて、 なんで、この時代にて、慈悲や愛のコミュニティーの話し合いにいたらないのでしょう? なんで、いつまで  なんで?   なんで?  (ユモレスク《可笑しい悲しみ》なる急進主義者より) なんでだ?  慈悲 実践不可能 凡人には ??   ??????

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  こちらのほうも いらいらさせてしまって すみません。  ただ こちらは 次の点は はっきりしています。つまり  ○ 《愛》についても同じですが 《慈悲》について やはり 定義によれば 人間の行為能力が 及ぶことであるかと言えば 基本的に 及ばない。となるのではないでしょうか。  ☆ それでも 努力しますし その努力しうる範囲のことで よいのだとも わたしは 考えています。《よいのだ》という意味は 《〈人間の有限な愛が 信仰をとおして あたかも 神の愛としてのごとく はたらき 人と人とを和解させ 人の心を癒す〉ことが 起こり得る》ということです。  慈悲については 不用意に述べることは 出来ません。全体として 知っているのではないという感覚があるからです。  ★ なんでだ?  慈悲 実践不可能 凡人には ??   ??????  ☆ 凡人が 慈悲を実践しようとします。その努力を 有効にするのは 人間の能力ではなく ブッダとしての境地の問題になる。こういう認識 と言いますか 問題意識をもって この質問を発進させています。  けっきょくは やはり 《信仰》つまりは《人間のはらかいにあらず》ということが かかわっているのではないでしょうか。その扱いによって 《慈悲は 実践不可能だ》という説も 《慈悲こそ 人は実践するのだ》という説も 現われるというように思われます。  どちらも その《はたらきのあり方 もしくは逆に その限度》について 明らかにすると よいのだと考えますが どうでしょう。    もう一点は こういうふうな考えも持ちます。つまりは 人に向かって 慈悲を実践するというとき あくまでも その相手の意志ないし意向を確かめることも 大切だということです。待った無しで緊急避難が必要な場合は 別ですが そうでない場合には あくまで 相手との 魂の触れ合いとしての合意の上に立って おこなうものだと 心に言い聞かせておりますが いかがでしょうか。  

回答No.18

今頃になってbrageloneさんの質問を発見いたしました。遅ればせながら参加させてください。 またまた他人に責任をおしつけようとしています。 「慈しみと悲しみ」荒 了寛(大法輪閣 1988)は天台宗の僧がハワイでの布教のための法話集です。自分自身の抱えていた個人的問題にも初めて触れています。一読の価値はあるかと・・・ 私自身は、道元禅師と同じく間違えて「山川草木衆生悉皆仏性」と考えます。だから、仏様は穏かな、安らぎに満ちたお顔をなさり、“慈しみ”に満ちておられる。しかし、衆生が仏性を見失った時、あるいは失ったとき、其の者を捜し求めて眼は大きく爛々と見開き、助けを呼ぶ声を聞き逃すまいと耳は大きく、尖り、その者の名前を呼び続けているうちに口は大きくなり、裂けてしまい、あたかも般若の面のようになって「悲しみ」に満ちておられる。(能の隅田川ですかね?) 我々、凡人にはそのような究極の「慈悲」を持つことは有り得ないでしょうね。ですから回答はNO!!です。 人になりたかった猿に「お前には“け”が三本足りない。その一本は“情け”と言う“け”だ」と諭された仏様に比べるのは、如何なものかと思ってしまいます。

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  ブッディスムそのものについて ご投稿いただいたのは 初めてのように思います。  荒了寛の公式サイトにも 特には文章があるわけではないようです。 http://www.tendaihawaii.org/about/profile.html  《絵法話》というのがあって その中に   ★ またまた他人に責任をおしつけようとしています。  ☆ と書かれたことと関係する文章を見つけました。  ▲ 人のせいにしていることを みな 自分のせいにしてみな きっとうまくいくよ  ☆ ううーん。まだ よく分からないですね。  ★ 私自身は、道元禅師と同じく間違えて「山川草木衆生悉皆仏性」と考えます。  ☆ 道元は 仏性がどうだこうだと 述べていますね。まだ わたしは よく捉えたわけではありません。残念ながら 評言を成し得ません。  ○ 《悉有》が 仏性であるなら ブッダは 《慈しみ》であり その顔が 迷いの中にある衆生を見つけると 《悲しみ》の表情を表わす。  ○ このブッダに 衆生は なることは出来ない。  ☆ とおっしゃっているのでしょうか。  一点 思ったことは  ★ しかし、衆生が仏性を見失った時、あるいは失ったとき、其の者を捜し求めて眼は大きく爛々と見開き・・・  ☆ というときのブッダの表情や姿は あたかも 衆生の姿だということは出来ないのですか? このときには むしろ  ▲ 衆生が 義に渇く  ☆ というふうに見るわけには行かないのですか?   実際には わたしも ひとが慈悲を実践することは 無理だと思っているのですが それでも あたかも ブッダの慈悲に呼応するかのように ひとも その一端にあずかることが起きる のではないか とは思うところがあります。これは むしろ キリスト信仰の愛の概念を類推して応用した見方ですが   ★ 回答はNO!!です。  ☆ か? ま それでこそ ブッダの そうだとすれば 絶対の慈悲が 生きているとも 考えられます。つまりは したがって これの恩恵に浴するだけでよいとも 考えられますが ううーん。  はっきりしていらっしゃいますね。分かりました。反芻して 咀嚼してまいります。

回答No.17

マーガンディアについては、 ほぼ実話とは関係ないと思いますが(誰かのかってな創作でしょうが→いかにもそれらしい「くささ」^^ですしね。)、 ともかく 瀬戸内寂聴さんが語るくらいには有名な話であるようですし、(彼女が気がつかないのは 煩悩について語ることに一生懸命すぎているからだと思ってますが)  長い間 この当たり前の 人間どうしの慈悲の心の無さについての批判がどこの宗派からも語られてこなかった(語られていたとしたら、 激しいでしょうから 現在にて少なくとも寂聴さんが見落としてはいないという推理が働きますので、)ことは、   仏教の歴史のたしかな汚点ですね。 brageloneさんが、仏教の《信仰》を問いただしたい 誠実な気持ちが深く理解されてくるところです。 * 十羽ひとからげみたいな言い方をしてしまえば、 (三)の「無縁とは」という説明で止まってしまう考えは 一般大衆のなかにもある真心を上から目線で馬鹿にしてしまっている考えとも言えてしまいそうです。 これでは、仏への入り口(真心)の世界もけして捉えられてはいない。 入り口抜きで中を説明してるつもりなのだろうか? と思われてしまってもしかたないと思います。 ただ、 阿頼耶識論にしても、十界互具論にしても、ちゃんと確かに「入り口」を説明することで 仏陀の最後の涅槃の境地への謙虚さを 昔の人の表現ではありつつ 確かに説明しています。 つまり ほんとうの仏教の慈悲は あたかも≠【S語】と疑われるような理論ではなく、【A語】で語られるところの けして大衆を馬鹿にしたりしてなどいない友誼のもとにある>人類の財産<だと 私は当然思っています。 ただし、だからこそ、 この仏教の歴史にたいして、 だからこそ厳しくあるべきだというのならrageloneさんの気持ちは、 正直ようやくなのですが、解かってきたように思えます。 寂聴さんも、中村元さんも、bonbonneirさんも 一生懸命すぎるほど一生懸命生き考えていますよね。 その方たちのためにも、 ここで3種の縁という形でストップする地点を私たち信仰者は認めてはならないでしょう。 人に上下は無いはずですということです。 以上です。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  十羽ひとからげみたいな言い方をしてしまえば、  (三)の「無縁とは」という説明で止まってしまう考えは 一般大衆のなかにもある真心を上から目線で馬鹿にしてしまっている考えとも言えてしまいそうです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と わたしも考えますし 同時に  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、 阿頼耶識論にしても、十界互具論にしても、ちゃんと確かに「入り口」を説明することで 仏陀の最後の涅槃の境地への謙虚さを 昔の人の表現ではありつつ 確かに説明しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という側面も 一般にも 認められていると思います。  これら両側面を合わせて考えるなら おそらく  ○ 悟り(空観による縁起共生という説明が よいように思います)を通じて 慈悲を実践する。  ☆ ということなのだとは 思います。実践可能なのは そういう道筋においてなのだと思います。  しかも さらに その成道は つまり ブッダになることは いくらかの・いくつかの生を経て 実現するであろうという見方になるのではないでしょうか。つまりは arayata333さんが 指摘されていたように  ★ 輪廻   ☆ これに いわば逃れていると言うべきではないでしょうか。  たとえば こういう説明の仕方も 考えられるのです。  ○ 慈悲は 生身の身体において 実現しうるとは 考えられない。ただし その想定は ブッダの境地の想定と同じで 到達目標に持っていても よいはづだ。  ○ その上で 考えられることは 何も ひとりの人間が 涅槃に達し 慈悲を実践しうるようになるという見方をするのではなく そうではなく やはり 社会的な関係性を 基礎に置いて 人びとは 互いに 慈悲の想定のもとに 努力する。いわば民主主義の話し合い過程のごとく どこまでも どこまでも 対話を繰り広げ 重ねていくこと ここに 時として 人間が 慈悲を実現したという事態が 見られるかも知れない。われわれは 希望において すくわれている。    ☆ S語=人間語の中から 普遍概念語=A語の理念また悲願が 実際に 顔を出すことがあるかも知れない――泥の中から咲く蓮の花みたいですが―― といった一例だと思うのですが。  ★ 人に上下は無いはずですということです。  ☆ これは ユダの人格の問題にもかかわるのではないですかね。  * マーガンディヤー事件は――詳しくないので 要検討ですが―― 原始経典の話だったようですので 案外 実話である可能性が 高いですよ。けっきょく 物語だとしても どういう思想が 示されているかの問題だと思うのです。いかがでしょう。

回答No.16

無学な私には仏教の学識豊かなbonbonierさんのURLの部分を読むのにも一苦労させられました^^。 誠実な仏教徒のgenesha_meさんの文にも考えさせられるもの学ぶものがありました。 おそらく、私たち(brageloneさんと私)に共通の“仏教へのここでの疑問”は 輪廻という哲学にあるかと思いました。 しかし、その前に、瀬戸内寂さんの取り上げていた仏典について、ちょうど「ユダの福音書」への疑問と同じような疑問が沸くことを語っておきたくなりました。 日蓮の時代にてすら、仏教ではまことしやかな後からの創作がかってに付け加えられています。    仏陀に関しては 王子が出家して修行し、やがていろいろな体験や修行の後に大きな悟りにいたるという大雑把な個人史に、 後からそれらしい物語がたくさん付け加えられたことは 推理できそうなところです。 これは そのような創作仏陀物語の一つであると考えるほうが自然に思える内容だと私は思います。 釈迦は美女なんかにとらわれていないぞ、という感じの仏典?でもあるわけですから、 これは現代心理学(わたしは、これもかなり荒削りだとしか思えないでいます。)からすれば、“本当はとらわれてる”ということになりかねない話ですよね^^。 まず そのへんからして 原始仏教ですか もともとの原点のような世界であるとは思えません。 この不浄の問題は 後回しにするとすれば、問題は やはり仏陀の「無明」ということが輪廻を前提にしているかどうか、という疑問の起こる問題だと言えそうです。 輪廻については私も悩んだ問題ですが、 でもやはり仏教にしてもスピリチュアルの人たちにしてもそれを方便としてではなく、事実として考え方語っているかと思え、 それは結局否定せざるを得なかったことです。(私の見解ではです。) 《その輪廻も歴史も全部の因果を 仏陀は「全知者」として知っている→ということを》=《「無明」の逆の「無の悟り」とか大きな悟りの世界だ》とするならば、  まずそこがおかしいです。 その「知」(神みたいな知)で、 過去現在(未来は、神ですら知らない部分もあるはず)を知り尽くして「今」の挑めるのが仏陀というのならば   それはなおのことありえない話です。 が、たとえば私には 仏陀という人間は わたしなどより はるかはるかかなたまで 人間が生まれた時の新鮮さも、そしてやがてゆるぎなく強い心で再びその新鮮さを取り戻す地点のことも、 それがどんな心理であるかという点も、 遠い昔の地点で仏陀は知っていたという信念のようなものが私の中にはあります。   これはたぶん信仰ではないと思います。 神を信じてるかと言われれば信じているのですが、それはそれが自然に思えるからで、 それならそれは信仰だとも思いますが、 仏陀へのその信念はつきない信頼という感じのものです。 そこから考えると、とてもとても、 それがまだ修行の過程だったからといって仏陀のとったマーガンディアへの無慈悲な態度を それなりに頓知のある話だからといって正式の仏典だったろうとは認めることは出来ないところなのです。 ちゃかして言いますが、  ほんとうに仏陀は、その時、マーガンディアの来世も含めた救いの道のために一番の早道である方途として 叱咤し、つっけんどんにしたという全知者の宿命がそこにあったという  お話なのでしょうか? (信仰もなにも「ありえないことはありえない」ことです。) であるとすると、確かに仏教とは慈悲も含めて完全に私たちの実践できない私たちにとってはオシャカな思想?か宗教?ということとなってしまうではないですか。  そこに後からどんな理屈をつけても無理です。 そう思います。 方便として、「仏陀は全知者」とか言う言葉を置くのは宣教者の使命の内でしょう。 虚構という表現の世界自体奥は深くありえる世界として 私たちに贈られています。 しかし、その場合も マーガンディアへの仏陀の態度は変です。 不浄という地点にとらわれている仏陀の話があったって意味無いです。 明らかにこれは 現代風に言えば捏造された物語だと思います。 いかにも仏陀らしい知恵に満ちた物語だと創作者は思っていたかもしれなくても?    うーむ、? となってしまうところです。 不浄については、後から書きますと言いましたが やはりまともには書くつもりはありません。  たぶんこれは文明の大問題なんです。 ですので まともにこの設問内で話を進めてゆくと とてもまとまるようなところまでは行かないでしょう。 そこで わたしとしては 得意な体験談でお茶をにごしておくことにします^^。 私が青二才の遊び人だったときの話です。  あるキャバレーで私は みんながおっぱいをもんだりしながらキャッキャさわいでるその場にて、 自分だけはみんなみたいにいやらしくは無い(不浄ではない)ぞ、 なぜなら私は何も感じないで何も欲望もいだかないでおっぱいをもむことができるからだ。 とかいうことでです。  いざそれを実践したことがあるのです。   すると、そのキャバズケがりっぱな人だったのでしょう。 その私の心の内を見抜いたその女性は わたしにだけ火のように怒ったのです。  「こんな男が日本にいるなんて 日本の恥だ。 こういうのがいるから世も末なんだ。」 「わたしは、マーガンディアの足にさへさわらない」 ? そんな青二才のお話が仏典にあったって それが釈迦の時代の文書であることを考古学が発見したって わたしはそれを釈迦の実話とは信じないでしょう。(かどうかは、神しか知らなくたって ともかく私には関係ない話です^^) もちろん、 わたしは、慈悲が 分け隔てをするような愛の世界だとはとても思えませんし、 あるいは慈悲が、はぐれ者をとくに大切にするという地点を忘れてるともとても思えないものです。 * ブラフマン、というのはよく知りませんが、 ヨガのチャクラやサハスラーラチャクラだと思いますが、頭上のチャクラの意味合いならすこしわかります。  そこからの自然な愛が 誰にも平等なのもわかります。 インドも本来は平等を大切にする瞑想の宗教だったと思います。  そして釈迦は歴史的にも それが曲がってしまったことへの反逆者として悟りを開く形となっているかと思います。 であるなら なおさらのこと、マーガンディアをクソミソ(現代の慣用語に約しました^^)にいうのはおかしな話です。 わたしなら(今の私ならということです。 未熟な馬鹿な時の私のことじゃないです。) すくなくとも 結婚を申し込んできた機会を逃さずに、 一夜で、彼女の慢心を 愛でたたき出すで笑。 叱咤よりも 愛の方が 平凡でもはるかに強いと思います。 若き頃、慈悲深い遊び人でもあった仏陀が それを知らなかったとは思えません。だだし、王子様だった時には 欲望におぼれてただけで、わたしよりも青二才だったのかもしれませんけどね^^。(神様しか知らないことに私は関心がありませんが^^。)

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ありがとうございました。たいへんだったでしょう。かなり読みでがあったと思います。ご回答ともども ありがとうございます。  ☆ どう見ても――どんな場合を考えても――   ★ マーガンディアへの仏陀の態度は変です。  ☆ と思います。理屈は要らない。好きか嫌いか 交際するかしないか それだけしかないと思うのですが。還俗しないのなら そう伝えれば 済む話です。  ★ なおさらのこと、マーガンディアをクソミソ(現代の慣用語に約しました^^)にいうのはおかしな話です。  ☆ 親に対する説教は また 別の話です。きちんと区別して 対応すればよい話です。  この求婚申し込みへの変な応対が 尾を引いて のちに 犠牲が出てしまった。そこでも ただひとえに 嘆き悲しむなら まだしも 《くさい》説教をぶってしまった。《死んでいるかたちで生きていても 何にもならない》などと よくも言えたものだと思います。どこまでも 済度するのが ブッダだと思います。  《友情をもって すべての人に 差別なく 接する》ということも 出来ない場合があると考えられて来ます。  《慈悲》とは 何ぞや??? です。  * わたしは 欲望に 精神が 屈服したなら あとは 理屈をつけることをしないようにしています。  * ブッディスムが 人類の財産であるなら もっと 哲学の目から見て合った(妥当な)理論や その実践を 明らかにしていくべきだと考えます。  * ★ 輪廻 ――☆ これの扱いについて 同じ考えです。無記がいいと思います。

回答No.15

遅ればせながら参加させていただきます。 仏教はなるほど、さまざまな理論が交錯している世界ですね。 でも、最後にやっぱりどれも仏とはという定義自体は 有名な解釈はかなり一致しています。  それぞれ、一生懸命考えた《跡》なのだと思います。 そしてそのへんはかなり面白そうです。 しかし、その究極を追いかけてゆくとそのどれもが、最後の決め手のあたりで疑問を越えられなかったりします。 それが また、そちらのQ1,2,3と符号するかと思われるところです。 * >Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。< まず、(一)衆生縁 と(二)法縁と、(三)無縁は、  《十界互具》を唱える法華経ならば、《三縁互具》ともとらえるでしょう。 要するに(一)目の前に縁として起こっていることへの抜苦与楽であろうと、(二)物事を客観的に大きな視点から見つめきる心からの抜苦与楽であろうと、(三)、縁が無い遠くの人であろうと存在してるならおなじ人間として感じる尊敬の心のゆるぎなき人におけるしかも自然は真心のみの抜苦与楽の心にしても、     「今」の事象、「今」の情報やそのキャッチ力の中での、どれだけ感性が豊かでどれだけ他の存在の可能性も実際に感じることができるか(リスペクトできるか)に応じて すべてにそれに応じた仏の世界が、存在するということです。 “無縁→「それは仏にしかない心であるという。」”という捕らえ方は、法華経的ではないですね。 が、それでありつつ、明確にそういう自然な真心、嘘がない心の中の状態(表には方便を使うこともあるのを否定してるのではないです。)を仏というふうに どれもしっかり説明はしているということです。 そして、このような捕らえ方からは、慈悲は 全体として 人間に可能か?という設問には 可能であるという答えが仏教の理論でも解かれていることになります。 > Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。< Q1の回答によって、A語とS語は、互いに流れている血液のようなものとも言えるので、 その意味でも《仏性》ということならば、 そのようにも言える。 そして、そちらの最後の転結の文は、私たちの疑問の結論ですよね。 ↓ > Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。< すくなくとも法華経では、すべての人間が慈悲を実践しうる、その可能性は常にあると説いているかと思います。 しかしながら、 感性やリスペクトの如何にかかわらず、私たちは同時に弱い生物でもあるのです。 あたりまえのことですけどね^^。 ならば、たとえば深い苦しみがどんなものかを知ってる人は それをその分恐れもするでしょう。 実践しうる者とそうでない者とに、そのへんのみ分かれると私は はっきりと思いますね。 プラス《信仰》で、そのへんいきなり強くなれる人もいるかもしれません。  しかし、ニルバーナでしたっけ、涅槃は私にとっても はるかはるかかなたの感性と信仰の世界に思えます。 キリストがそうであるようにです。 (三)無縁、とは 仏界の入り口のことでしかないでしょう。 いえ、仏教は 仏性は解いても仏界の入り口しか結局解いていないとは思います。 それが私たち人間の哲学の限界なのかもしれません。 おそらく埋葬すべきなのは、 (一)(二)(三)の縁に差別をつけてそれでおしまいとしてしまう学者達のことなのでしょう。  仏陀に謙虚な人は キリストにも謙虚だと思います。 キリストに謙虚な人は仏陀にも謙虚であらざるを得ないと思います。(埋葬後のことなのかもしれませんが^^。) 以上です。

noname#80116
質問者

お礼

 資料の補足です。   ▲ 《マーガンディヤーという絶世の美女がいた》~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.melma.com/backnumber_31267_1625651/  彼女の両親はこの娘を溺愛し、縁談はことごとく断るといういわゆる箱入り娘状態であった。  ところが、マーガンディヤーの父親が、たまたま釈迦に会い、その説法を聴聞すると父親は釈迦にほれ込んで、この男になら娘を嫁にやってもよいと思う。父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。  ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。    「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人   の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。   大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは   この女の足にさえ触れようとは思わぬ」      (『スッタニパータ835』)  「大小便の詰め込まれた女」とは、ほかならぬマーガンディヤーのことである。  釈迦の真意は、娘を溺愛し、盲愛し、執着しすぎている両親をその苦から救うことにあった。いずれ死別はくる。両親が先か、万が一娘が先か、それはわからぬが。であるならば、娘に執着せずに手離しなさいとうのが釈迦の深い諭しである。この説法で両親は真意を悟り、出家を決意する。  しかし、救われないのは娘のマーガンディヤーである。目の前で「大小便の詰め込まれた女」と言われれば、傷つき「許せない」と思ったであろうことは容易に想像がつく。そして彼女は当然、釈迦を憎んだ。  その後、マーガンディヤーはコーサンビー国(* コーサンビーはヴァンサ国の都)の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。  このように誤解ゆえの迫害は、釈迦にもあったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 出典を思い出せませんが 《大小便の詰め込まれた》という表現は 当時 慣用句だったそうです。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ★ 仏陀に謙虚な人は キリストにも謙虚だと思います。 キリストに謙虚な人は仏陀にも謙虚であらざるを得ないと思います。(埋葬後のことなのかもしれませんが^^。)  ☆ このことを《宣伝》してもよいと思います。それに ブッダ葬送と言っていましたが いま 《Q:親鸞再考=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4508234.html》で どうも 親鸞は 信仰の類型として キリスト信仰と軌を一にすると言っていいのではないかと 考えなおし始めています。おのれの不明をはぢ お詫びしなければいけなくなっています。  とは言うものの 批判の目は そう簡単には 幕を下ろすというわけにも行きません。  一度 arayata333さんに No.11お礼欄に挙げたブッダの女性に対する関係の問題を考えてもらえたらと思います。とうぜん 慈悲の実質的な内容を問うことになるはづです。→《質問番号・3454478:〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教)=​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html》No.43以降です。  ほかのところで 次のようにも わたしが 問いかけています。 →《質問番号:3647182:水子思想と無明と覚り=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3647182.html?ans_count_asc=0》No.10&11あたりです。    ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例の鼻を高くした美女マーガンディヤーに対して ブッダは なぜ かのじょを突き放すような態度をもって 接したのか。  瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』の《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》では こうあります。このマーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーヴァティーに敵愾心を燃やします。しかも その原因=遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかっていたようです。とうとう最後には サーマーヴァティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中のサーマーヴァティーとその侍女たち全員を焼き殺したと言います。  《このサーマーヴァティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記す誰もの感慨です。  僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴さんが伝えます。    僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら   生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで   に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い   つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて   いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても   魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で   何の生命もなかった。サーマーヴァティーは どんな死に方をしても   永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから   すでに聖者の位を得て死を迎えている。    (瀬戸内寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』2002 p.158)  さらに寂聴の結語のような思いは こうです。    人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は   考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で    はかってはならないのだろう。     (同上 p.159)  わたしの思いですが 一つに 因果応報は 目に見えた法則ではないと認識すべきではないか です。ことを 前世・来世の問題に持って行くべきではない です。  因果応報も その法則としての(あるいは 信念としての)説としては その信念や法則から 人は 自由であるべきだ / さらにつまり そのときには そこでは 因果に応じて報われるという事態もありうると見ているが この見方を固定観念とはしない。・・・  つまり わたしはもともと能天気のミーハーですので おろかになって言うとすれば ブッダあやまてり ではないかという思いがあります。ゴータマ・ブッダは マーガンディヤーを相手にした応対では 別の振る舞い方がありえたのではないか これです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.14

最後ッ屁の後、書き忘れしことあり。仁者の文、文語の方が読み易しと気付けり。

noname#80116
質問者

お礼

 くだらぬ回答をありがとうございました。

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  • 慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

     わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

  • 無縁社会ってんなら 無縁慈悲の出番ぢゃん。

     《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。  そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?  地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?    農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?  そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。  少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。  就職の形態が正規でない場合が増える。  となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?  昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?  ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。  経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?  ○ ヰキぺ:無縁社会:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E7%A4%BE%E4%BC%9A  ○ ヰキぺ:個人主義:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ここでは 次の二点を問います。  A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。  としか考えられないのですが どうでしょうか?  B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。   1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。    《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。  ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。  2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。  ということではないでしょうか?  (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。  3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?  これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?    おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。  自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。  すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。  C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

  • 仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい

    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか

     スピノザの言う    《神すなわち自然( Deus sive Natura )》  は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての    《一切衆生 悉有仏性》  と同じか?  どう同じで どう違うか?   たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。  1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい  ▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6    2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。  3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。  4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。  ▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~  神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。  ~~~~~~~~~~~~  5. 心身平行論  ▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。  6. ▲ ~~~~~  その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、  7. ▲ ~~~~~~  この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。  すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。  両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。  ~~~~~~~~~~~  8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7   § 1.1 歴史的な流れ  仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。  さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。   § 1.2 宗派による違い  さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。  ~~~~~~~~~~~  ご教授ください。

  • ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか

    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • 仏陀の思想について

    ちょっと引っかかることがあるので質問します。 仏陀は『慈悲の心』というものを実践しています。 しかし彼はこの世の苦しみとは何なのか?と考えるとき それは四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦etc)を断つ 諸行無常・諸法無我を知らないこと(無明) だいいます。 そこで質問なのですが (1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。 (2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう? 自分はほんのちょっと教科書を読んでみて(自分の理解が間違ってる可能性も大)感じたことなのですが、どうなのでしょうか?

  • 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • ニーチェの阿呆にどうして日本人はイカレテしまうのか

     《神は死んだ》ったって キリスト・イエスはすでにハリツケになって死んでんぢゃんか。このバカタレが。  《ニヒリズムにあらがう・チカラへの意志は そのニヒルの暗黒なる孤独の影がわが身にわが心に迫って来たそのつど何度も何度も永劫回帰のごとくおのれの内から発揮するのだ》ったって それぢゃ 進歩がない。シシュフォスの神話ではないか。  ニヒリズムを《思うようにならないという苦》から解脱するのは凡夫ではダメだとでも言うように大化城なる――つまりは インチキなる――さとりを自分は得たと説いたペテン師なる誰か知らんの言う《苦》がけっきょく凡夫のままでは乗り越えられないのだと言うそれと同じだと説くかのごとく 賽の河原で石を積む《力への意志行為》を永劫におこないつづけると言う。   一切衆生 悉有仏性 あるいは 梵我一如  とひと言となえて 一点突破すればよいはずであるものを。  どこまでも・いつまでも主体性無き人生をあゆむムラカミハルキのモヤモヤ・ワールドにどうしてイカレポンチになるのか?  トラウマは一生直らないだって? そういう定義のトラウマを先に前提として置いたのだから 当ったり前だよ。このあほんだらめが。  ひとびとはなぜ目覚めないのか? 誰かに義理立てしているのか? 《有名や肩書き》によわいのか? それほど人びとも阿呆なのか? 阿呆どうしの傷のなめ合いなのか この世界は?

  • キリスト教の信者さんに聞きたい

    (1)私・親しい人々・生きとし生けるものが、幸せであること・悩み苦しみがなくなること・願い事がかなうこと・今やるべきことがわかるという智慧が現れることなどを喜ぶような心をつくることについては、問題ないでしょうか? (2)今起こっている身体の感覚・状態、感情などの事実を確認することに問題はないでしょうか? (3)論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを実際に事実か確かめることについて問題はないでしょうか? 以上は僕の思う上座仏教の「実践」です。 (1)慈悲の瞑想・正定 (2)ヴィパッサナー瞑想・正念 (3)正見・正業・正語・正思惟・正命・正精進 論理的道徳的に問題なければキリスト教の方々も実践できるということになると思います。 どうでしょうか?