• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.59

前回までの回答が、論理を尽くした虚妄でした。そして、これにて終了です。現実感覚に通じる部分もあるなあとか、かなり自己の信仰内容と反するなあとか、それは、それぞれの判断でいいのです。仏教哲学には、かなり高度な論理性があって、現代の哲学とも整合でき、利用し取り込むことで、さらに精緻化できそうな予感もあります。ただ、宗教としては、哲学よりも行動実践、行(ぎょう)に軸足があるのでしょう。そこは分かっているつもりです。この虚妄がなくても、どうということはないでしょう。でも、この虚妄物語を見た後の方が、見通しは良くなっていると思うのです。それも、錯覚かも知れませんけどね。では、さようなら。また、何時の日か・・・

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ほんとうは こういうなんでもない生活の端々のことが 思想や信仰の真髄であるかも分かりません。また ほんとうは 論理を超えているところを 論理的に捉えておくのがよいのでしょう。  ただし 宗教となると 教義がうるさいですよ。教義にうるさい人が 影響を与える部分も あるでしょう。信仰は これらとも 何もしないたたかいを繰り広げなければなりません。自由が 至上命令なのです。    まぁ ただし 自由は ひととおりだけとは限らないでしょうから そこから ふたたび 出発するのでしょう。コミュニケーションということになります。  今回のようなコミュニケーションは なかなか得られない機会でありました。  それでは また お会いしましょう。

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