• ベストアンサー

ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.56

復活の考察では、いよいよ時間を導入せざるを得ないようです。その前に仮構の整理をしておきます。 第1仮構相(絶対・相対の相) 絶対領域 究極の他者 神の国 非空観 虚数時間 未来(隔絶感) 相対領域 時空世界 全宇宙 空観縁起 実数時間 現在と過去(親近感) 第2仮構相(相対内の有為・無為の相) 無為の世界 無為なる絶対 沈黙・無記の勝義諦 現在 有為の世界 有為なる相対 世俗諦 アラヤ識 過去 相転換(時間視点では、ベルクソンの純粋持続) 絶対領域→無為なる絶対 無限に持続する1回の相転換中と見る。相転換は時間の視点では未了である。 逆転換(死) 有為の世界→絶対領域(究極の他者)、隔絶の未来 死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。これも妄想です。

noname#80116
質問者

お礼

 ☆ ちがいとなる特徴として。  ○ わたし=brag. は 信仰が始まってからあとは すべてを通り超えて 復活(《不死の境地》)だけの心境になる。  ◆ bonb.さんは 現実において 《生命と生命との関わりの中で・・・の営為の積み重ねの過程》が必要と言う。  ○ brag は 経験的な思想や行為に 信仰(つまり 無根拠のもの)が 先行すると思っている。(この《先行》は 時間的なそれではなく 考え方の上でのそれである。言いかえると 両者が 同等だとも思っていない)。  ◆ ただし 仏教徒の中では珍しいと思われることに bonbさんは 《不死の境地というのは・・・何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています》。すなわち 無神論という信仰の立ち場である。  ○ ただし brag は 過去を問わない。輪廻転生には かかわらない。  ☆ そこで これらに照らし合わしてでも qsxdrfvgyhさんは 理論と現実〔および 信仰〕とが どのように かかわっているのでしょうか。にも わたしは 関心があります。どうでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  仮構の中においてではありながら さらに死生をめぐる基本的な仮構を 共通の認識としておくべきだとわたしも 思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん 第一文を飛び越えて 第二文の内容が わたしにも 結論に近いと考えます。  ○ 死は 訪れる。訪れるのですが 死が わたしを蔽うのではなく そうではなく 復活したわたしが 死を含み持つといった印象です。   以前に(昨年の秋ですが) 仏教を勉強しなおそうと おしえを乞うたとき こういう回答を得ています。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    《QNo.3454478: 〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教) = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》そのANo.47。  ☆(= bragelone )《問題は 因果関係が 人間にすべて 理解できるかどうかです。理解できないはづです。ブッダを除いて。ブッダの知恵は あらゆる縁起関係を知っているとすれば つまりその不死の境地は わたしたちにとって 信の中にあります。あると信じています。》  ◆ 不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。縁起の法とは、不死の境地(空性)における仏の智慧により覚知したものですが、この智慧は人により様々ではないかと思います。〔* ・・・シャーリプトラの例などによる説明がある・・・〕。  宇宙法界を貫く縁起の法の覚知と「不死の境地」の実現は、必ずしも不二であるとはいえないのではないかと思います。もし、そうであるならば〔* =不二だと言えるのなら〕、釈尊以外に解脱したものの存在がありえないことになり、釈尊の法を説いた意味が全くなくなってしまいます。シャーリプトラの実践修行も全く意味のないものとなり、六道を輪廻していることになってしまいます。  私たちの無明に対する仏道修行の実践の段階において、縁起というものが、実践者にどのように覚知されるかはわかりませんが、さしあたっては今まで、自分中心に生きてきた人が、自分の身近にいる他者のこころの痛みを、我がことのように感じられるようになるといった程度かもしれません。かりに、そうだとしても、その人の生命のベクトルの方向は、輪廻的生存の原因である自己と他者を対立的に捉える無明の働きの消滅化→生死への自由を獲得する境地に近づいているということはいえると思います。中道の境地を目指す仏道修行の中で、だんだんと他者のこころの痛みが分かち合える人が増えてきたとき、そこにのみ縁起共生の世界が現出するのではないでしょうか。  《信のなかに「不死の境地」がある》ということは、信によってのみでも無明が消滅することができるということでもありますが、果たしてそうでしょうか。自分の身近な人に困っている人がいれば、親身になってその人の苦を除こうと努力するとき、このふたつの、生命と生命との関わりの中で、無明の働き、自己執着の働きが生命の具体的な現実相の中で、具体的出来事として徐々に消滅化していき、この営為の積み重ねの過程に、「不死の境地」も実現できると思います。( =以上bonbonnier さんのご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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