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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.51

No.34の回答で 「空」とは、「AにBがない」の論理形式をしています。「A(現象界の事象)にB(自性)がない」ことです。「B(自性)がない」ことは、「B(自性)が欠けている」ことです。そして、「非B(無自性)である」ことに変換でき、すべて類似表現です。 と書きました。 つまり、「B(自性)がない」、「B(自性)が欠けている」、「非B(無自性)である」を強調して、空観縁起、無主体・無実体を説いて、執着からの離脱・解脱に視点が集中していたわけですが、「AにBがない」の論理形式全体を生かすと、有為即無為の一如観であることに気付くわけです。 「有るという概念」に「無いという概念」はない(含んでいない)。 「有限という概念」に「無限という概念」はない(含んでいない)。 「有為の現実時空世界(全宇宙)」に「無為なる絶対」はない(裏に隠れている・有っても無効だ)。 このような形態でA(有為)がB(無為)を無効にしつつ取り込んでいるわけです。 生の世界、有為の世界、現実の時空世界(全宇宙)、相対領域の存在感・認識感を充分反映できていて、自然な言語ゲームになっています。 >《死》なんかは 簡単に 吹っ飛んでしまいます。 これには、反対です。 有から有が生じている。無から有は生じない。 生から生が引き継がれている。 個々において、生は不連続的に連続してきた。 有がその有限性のゆえに消滅するとき、無が出現させられる。 個々の生は、必ず死に転じてしまう(死が出現させられる・自ら出現するのではない)。 A(生)にB(死)がない(無効にしつつ取り込んでいる)が、終末時には、B(死)にA(生)がない(消滅している)。 と考察しました。 有為即無為の一如観は、論理的かつ常識的な認識です。死は飛んで行きません。必ず訪れます。ただ、生有る限りは、無効となって飛んでいますが・・・

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん 《〈死〉よ おまえの棘は どこにあるのか?》という宣言は もう 趣味の域に近いと思います。遊びではないのですが 有神論のそういう特徴です。  ご回答をありがとうございます。  ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >《死》なんかは 簡単に 吹っ飛んでしまいます。 これには、反対です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ 無神論として そういう立ち場は 成り立つかと考えます。そうして 有神論にしたところで 次の引用文のように 《〈死〉は 必ず 訪れる》 この前提(事実)は 動きません。その上での物語の新たな更新です。  ▲▲ 《コリント前書》15:42-44 ~~~~~~~~~  死者の復活もこれと同じです。  蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、   ・・・  つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。  自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いわば 絶対が 相対の世界に介入したときからは そのような有神論ふうの《一如》のもとに 物語が書き替えられたと考えます。死を迎えることじたいは 変わりありません。  言いかえると いま生きているときに その時空間が 永遠の現在になる。それゆえ 死が 来ようが 虚構としては 永遠の現在が そのまま つづいていくという妄想のことです。それ以上のことは 分かりません。  ★ 有がその有限性のゆえに消滅するとき、無が出現させられる。 / 個々の生は、必ず死に転じてしまう(死が出現させられる・自ら出現するのではない)。  ☆ という事態を へのかっぱだと思っているという意味です。その意味で 《死が 吹っ飛んでしまいます》。むろん 事実問題としては  ★ 死は飛んで行きません。必ず訪れます。  ☆ です。したがって そうであるからこそ 信仰世界が 充実していくのだとも思います。つまり 錯覚が もう要らないというほど 豊かなものになっていくのだと思います。  つまり これは あくまで 有神論の世界観です。  なぜなら   ★☆ 無自性の《大いなる欠如》  ☆ は 《〈わたしは有る〉 それが わたしである》と名乗ったというのですから。これが 有神論です。遊びではありませんが 趣味の域に近いと言わなければならないでしょう。  簡単にいえば   ○ 死は来ますが 死に蔽われるわけではない。  ☆ こういう死生観です。もっと簡単には 生老病死を苦とは見ない(つまり 見ないように 転換が成る)のだと思います。信仰が与えられてからは 信仰世界のことがらは 向こうから来るのですから。それをこちらは 受け取り 受け容れるというだけですから。

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