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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.57

結論から書きますと、輪廻転生はありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  死(逆転換)は、隔絶した「究極の他者」という未来に移行すると同時に、未来から現在への「ベルクソンの純粋持続」を経て、「アラヤ識」に降り積もるように移行して過去になっていくイメージです。そして、個々の夢の中に現れるようになって、夢の中で復活を果たすというイメージを持っています。これが、僕の復活観です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まず、自己の死が、究極の他者になるのですから、すでの他者の系列になっています。他者のアラヤ識に降り積もるのです。他者の夢や記憶として現れる想念上の復活です。自己として復活するのではありませんし、物体(空間)系の移行でもありません。時間系の視点なのです。悠久の「純粋持続」感を表現したつもりです。 >復活したわたしが 死を含み持つといった印象です。 ここが、違ってしまっています。 >不死の境地というのは解脱(成仏)の境地 自己の不死という視点なのでしょうが、自己の死から他者系列ですから、自己はありません。また、生存中の解脱(成仏)もありません。「究極の他者」・「未来」・「絶対領域」に逆転換するので、その時ことごとく一如化し、解脱(成仏)し、他者のアラヤ識(第8識、無意識)に降り積もるだけとなります。この流れが、経典では正確に表現できていないのではないでしょうか、あるいは、誤魔化しているため、分かりずらくなっていると推察します。論理上の整合性を追求しただけです。ただ、実感に近いと僕は納得しているのです。でも、論理的な妄想です。正確には、信仰ではないと思います。本来、語りえない領域を含んでいますので、妄想に近い物語・フィクションです。 自己の復活(《不死の境地》)に執着しないように、仏陀は諭すと思うのです。地獄も年忌供養も違った意味に変質せざるを得ないでしょう。 「地獄」とは、憎しみ感とともに他者のアラヤ識に降り積もることであり、「年忌供養」は、遺族・知人などのアラヤ識的なケアであるのかもしれません。「自己中」悟りからは、脱するべきと思うのです。社会と関わった悟り観(衆生救済)が、大乗のいいところだとは思います。

noname#80116
質問者

補足

 いやあ qsxdrfvgyhさん そこまで 科学の目で 考えておられるとは 気づかなかったです。ご回答をありがとうございます。  信教の自由・良心の自由という領域にかんしては その外枠としての類型を その自由という公理に背かないような内容=形式として 決めておけば あとは ほんとうに自由だと思っていました。もちろん 説明しうるように 言葉による表現も 用意するにはしますが 要するに あとは ドグマだと思っていました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 自己の死が、究極の他者になるのですから、すでの他者の系列になっています。他者のアラヤ識に降り積もるのです。  (2) 他者の夢や記憶として現れる想念上の復活です。  (3) 自己として復活するのではありませんし、  (4) 物体(空間)系の移行でもありません。  (5) 時間系の視点なのです。  (6) 悠久の「純粋持続」感を表現したつもりです。  (7) 生存中の解脱(成仏)もありません。 / 自己の復活(《不死の境地》)に執着しないように、仏陀は諭すと思うのです。  (8) 「地獄」とは、憎しみ感とともに他者のアラヤ識に降り積もることであり、「年忌供養」は、遺族・知人などのアラヤ識的なケアであるのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (2)と(8)は ほとんどまったく現実に相即的で 誰もが 納得すると思います。  そのほかで もし 感覚的に反応するところでもいいから述べよと言われたならという条件で お応えします。  (6)の《純粋持続》感は 《永遠の現在》という過程にも ありますねぇ。  〔ちなみに 相続した身分や 一代で築き上げた地位を守るという意味での 《現在の永遠》ではないですから 《純粋な時空間の持続 もしくは 〈わたし〉の持続》が 永遠の現在なる過程です〕。  でも いま・ここなる存在は 《時空間》にあるしかないですから 単純に考えるなら 復活は その場としては 《あたらしい時空間》(《新しい天と新しい地》)のことであるとは 思います。(4)と(5)との関係では 異同があるようですが これは おそらく 詰めるようなものでもないと思うのですが。  つまり 共通認識と言いましたが 異同が明らかになれば それを 互いに認め合えばいいのだとも思うのですが。  (3)は なんとも 分からないと思うんですが 決めたほうが いいですか。いま・ここなるわたしは 《自己の復活》であると思っていると思いますよ。だって ほかには 考えられないのではありませんか。  いや ということは (1)の問題があるのですね。  ★ 自己の死が、究極の他者になる  ☆ これに対しては たぶん わたしたちは 《死が どうにかなる》という発想はなくて そうではなく 《この朽ちるべき心と体のわたしが どうなるか》というふうに 捉えると思います。《朽ちる》こと自体は 自然史の過程です。それを超えて どうなるかです。  一方で 《どうにもならない。 / 死んだらおしまい》という答えも あると思います。しかも 他方で と言っても これを 別に否定するためではなく 否定しようと思って 夢見るのでもなく ただ 現在が 純粋持続になったのなら その後も おそらく この状態が 永遠につづくのではないか。と ここまでは 思うはづです。死が途中にあろうがなかろうが です。  要するに 《論理的に言って 甘い》ですよ。たぶん 復活は それを説明することを追究しますが そうなることを わたしたち人間が追求することだとは思っていないからだと思います。むしろ 甘えるだけだと思っていると思います。  (7)は こうです。《わたしが完全だということではありません》とパウロも言っていますが アウグスティヌスによれば(ただし 出典をいま覚えていません。思い出せません) 《永遠の現在なる過程でも とうぜんのごとく 〈あやまつならば わたしは有る〉ということなのだけれど その過程が 過程じたいとしては あやまちを修正して進む生として あやまちから自由になっていれば すでに 完全である》 こういう言い方もしています。  ★ 輪廻転生はありません。  ☆ とわたしも書きたかったのですが そう書くと わざわざ否定していることになると思って 止めました。その観念から自由であると言いたかったのです。この点は 論理的ですね。

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