仏様に人格はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • 仏教の思想に触れる中で、仏様の人格について疑問が湧いています。
  • 仏教では、自己の執着心を捨て、無の世界観に到達することが重要とされます。
  • また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性があるとされますが、仏様には人格があるのでしょうか?
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仏様に人格はあるか

独学で仏教の思想をかじっているものです。これまで読んだ本の知識では、己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。また、一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか?間違った理解のためにかなり混乱しているかもしれませんが、かなり仏教にお詳しい方がたくさんいらしゃるようなので、回答をお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.9

 こんばんは。  ★ 修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。  ☆ まづ  ★ 慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)  ★ 仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)  これらが あいまいな理解だと考えます。  慈悲については   【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html  を参照してみてください。《無縁慈悲》は われわれがそれぞれ仏性をやどす姿のままで 他人(ひと)に世界との和解を得させる・または得るきっかけをあたえることだと考えます。  ですから 《サトリを得させる・求めさせる》というのは 慈悲ではなく 単なる《執着心》だと見ます。《無明》とも言います。  それと同じように 《道徳を守るべき規範とすること。また人間としての自分の努力によってその規範を守ろうとすること》は ブッダであることではなく ただのやはり執着心です。ブッダであるなら 慈悲の場合と同じように・もしくは慈悲そのこととして そのままの姿や振る舞いで人を感化することが出来ることを言います。  《道徳堅固であろうとする》という《執着心》は 無明から来ています。執着心から自由になれないとあせるとき 特に問題となるのは 《人にむかって 道徳を知れ・守れと説教すること》です。無明=すなわち煩悩そのものの振る舞いです。  おのれの身と心にそなわった仏性を受け留めず それを離れて おのれの理性と努力とによって《ブッダ》の像をえがきこの観念としてのブッダ像に執着しつつ血迷っているすがただと考えます。  そういう人に限って 《無私》を説教しにかかります。自分は 無私でありえなくなったすがたです。    ★ 己の執着心を捨て、自分内面へと掘り下げていくと、そこは無の世界観であり、混沌とした、増減しないエネルギーの宇宙の下、縁起により、絶えざる変化の結果として生まれた形(色)が顕現するだけの無秩序に向かう思想と理解してます。  ☆ つまり 《執着心を捨てる》ことを考えるのは 執着心に囚われているからだと考えます。おのれの身と心に仏性のやどることを知らない・受け留めても受け容れてもいないことだと見られます。  かんたんですが このように執着心から自由になるなら 《無秩序に》ではなく むろん秩序に向かうように成りましょう。むろん いまの人間としてです。  その道をあゆむ上での完成度合いは みなどんぐりの背比べなのですから 心配要りません。どれだけブッダになったかに執着することはありません。

amenhotep2000
質問者

お礼

仏教の奥深さを感じます。いろいろな書物を読まれたことと思いますが、そのような覚者された方の考えを簡単にわかりやすく教えていただき感謝いたしております。仏生=慈悲という考えでよろしいでしょうか?ブッダであるなら 慈悲の場合と同じように・もしくは慈悲そのこととして そのままの姿や振る舞いで人を感化することが出来ることを言います。という言葉に「人格」という言葉を超越した、とらわれのない(執着がない)自由さを感じます。ベストアンサーとさせていただきたいのですが、まだ、お礼を書いていない方の回答があるので、お待ちください。お礼を書くことぐらいがせめてもの私の感謝の気持ちです。

その他の回答 (12)

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.13

>だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。 仰るとおり“可能性がある”だけで、根本的には修行が必要です。しかし、その修行とは如何なるものでしょうか? 釈尊在世のような、修行でしょうか? 日蓮大聖人は、末法の衆生に対して、成仏する修行を明確にあらわしています。それは、『南無妙法蓮華経』の御本尊に向かい、『南無妙法蓮華経』とお題目を唱えることです。それ以外に、成仏の修行はありません。しかしながら、『南無妙法蓮華経』と書いてあればどの御本尊でも良いという事ではありません。 >修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか? 仏の十号といって、その立て分けがありますので紹介いたします。 ●仏の十号・・・仏の十種の尊称のこと。 ・如来(にょらい)⇒一切諸法の根本の心理を体得し、三世にわたる因果律を証得した者。 ・応供(おうぐ)⇒応受供養の意で、人天の供養に応ずべき者。 ・正徧知(しょうへんち)・・・正等覚(しょうとうがく)ともいう。⇒一切の智をそなえ、万法をあまねく了知する者。 ・明行足(みょうぎょうそく)⇒過去・現在・未来の三世に通達し、一切の善行を修して満足する者。 ・善逝(ぜんぜい)⇒無量の智慧をもって、種々の煩悩を断じ尽くし、八正道を行じて仏の境地に達する者。 ・世間解(せけんげ)⇒因果の理法を悟り、世間・出世間の事をよく理解する者。 ・無上士⇒三惑を断じて涅槃に入り、衆生の中でこの上なく勝れている者。 ・調御丈夫(じょうごじょうぶ)⇒種々の法を説き、一切衆生を調伏し制御して、仏道を成ぜしめる力をそなえている者。 ・天人師(てんにんし)⇒天と人との師匠で、あらゆる人を指導し、師となれる者。 ・仏世尊(ぶつせそん)⇒仏(仏陀・知者・覚者)とは智と徳が円満で目覚めた者。世尊とは世のあらゆる人から尊敬される者。

amenhotep2000
質問者

お礼

回答ありがとうございました。仏様に十種類あることは、初めて知りましたが、そのような者になることはあこがれですね。あるがままの自分であることは肯定しながらも、人間的に成長して、明日は今日と少しでも違った、成長した自分になり、死ぬ時は、思い残すことなく、安らかに成仏したいものです。

noname#195588
noname#195588
回答No.12

仏教はなんだかわからない。 ニルヴァーナはジャイナ教の理想でもあり、 どうやら古いウパニシャッドの頃にはすでにある思想のようです。 ニヤーヤ学派は解脱を苦の無と考えていたそうです。 それに縁起や空は経典の中でも 後になってできた思想なので、 無ではない、というわけでもない。 ということになります。 要するに、仏教といってもどの時代のどの地域の思想をとるか でまったく言っていることが違うのです。 さらにいえば初期はブッダという呼称は 理想の境地ではなかったのかもしれない。

amenhotep2000
質問者

お礼

お礼も書き終わりそうです。正しい道に行くには、私のように独学ではなく、ちゃんとしたお寺のお坊さんという師匠について、その下でやるべきと思います。しかし、漠然としたものでいいから、仏教の世界観を得ようとしてます。こだわりをすて、ひろい心で物事を見られるようになること。難しいですね。本を読むことの執着は捨てられません。

回答No.11

どのような書物を読まれたかは存じ上げませんが、どうやら「仏教」に救われる(すくわれる)のではなく、「虚無」に巣食われ(すくわれ)つつあるように思われます。 ネット上であれば、「EO・虚無」で検索すると引っかかってくるような思想が該当します。 仏教に虚無を見いだす人々は、まさに、西洋文明がブッダの思想に出会って以降の変遷の中での「誤解」の過程そのものです。 詳しくは「仏教 虚無」でネット検索すると引っかかってきます。 たとえば、書物であれば、 http://www.transview.co.jp/05/top.htm 虚無の信仰-西欧はなぜ仏教を怖れたか- >>> ロジェ=ポル・ドロワ  [著] 島田裕巳/田桐正彦  [訳] 46判上製・372頁・本体2800円(税別)/2002年5月刊 ISBN:4-901510-05-3 1820年頃、ヨーロッパで「仏教」が成立する!? 「仏教」は、神なき死の宗教!? ニーチェ・ヘーゲル・ショーペンハウアーら、近代ヨーロッパ思想の形成に大きな影響を与えた異文化の誤解と受容の歴史。 (中略) <<< が代表的なものです。 これについての書評では http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html >>> 意外なことかもしれないが、仏教という言葉はアジアにはなかった。インドにも日本にもなかった。親鸞は『教行信証』で「仏教と相応せり」と書いているが、これはブッディズムという意味ではない。  仏教、すなわちブッディズムという言葉は1820年代にヨーロッパで生まれた。ところが19世紀にこのブッディズムがヨーロッパで恐れられた。仏教は何も考えようとしない「虚無」を信仰するものとみなされ、そんな虚無にすがるアジアの人間そのものまでが、蔑まれ、恐れられたのである。 (中略) ヨーロッパ近代、パーリ語やサンスクリット語を読める者たちがぼつぼつあらわれてくると、やがてブッダは単なるアジアの偶像神ではなくて、なかなかの哲学者なのだ、変わった宗教観を提出した者だというふうに訂正されてきた。  たとえばヘーゲル、たとえばショーペンハウアー、たとえばニーチェである。とくにショーペンハウアーはブッダ思想を称賛し、仏教は「完璧」だとすら言った。「霊性の空想上の番付のなかで第一等」だとさえ評価した。  しかし一般には、こうして仏教の実情が多少あきらかになり、その翻訳著作が“暴かれて”いくにしたがって、多くのヨーロッパ人はブッダを精神史の対象として恐れ始めたのだった。これはヨーロッパの精神にとって受容してはならないものと考え始めたのだった。こうして、かつての「インドは楽園」のイメージは「アジアという地獄」に代わり、ファンタジックな「涅槃」のイメージはどしがたい「魂の消滅」ではないかと解釈された。  なぜヨーロッパ人はそれほどに仏教を恐れたのか。本書はその理由と経緯を書いている。 (中略) 本書にはしょっちゅう「魂の消滅」という用語が出てくる。これは“aneantissement”というフランス語で、文字通りは「無化」という意味をもつ。本書の翻訳にあたった島田裕巳が解説しているように、この「無化」(アネアンティスマン)は仏教にあてはめられたときは「魂の消滅」の意味をもった。  「魂の消滅」という用語は強大な力を発揮した。わかりやすくいうのなら、この言葉によって仏教が説明されるときは、そこには必ず「自我の破壊」「意識の消失」「思考の停止」という特徴が付与されて、いっさいの積極性が語られていない宗教として、つまりは仏教はなんらの有効性がない哲学というレッテルを貼られることになったのである。 (中略) かれらから見ると、仏教が言う休息はまさに虚無そのもので、キリスト教からいえばサタンの行為そのものだったのである。仏教はとんでもない誤解のままに、こうして「虚無の狂信」の代名詞にさせられていったのだった。 <<< 等を参考にしてください。 また、ブッダの悟りと人格の「有」については http://okwave.jp/qa/q7718307.html?best_flg=true および、そこで引用している書物(「バウッダ」、中村 元・三枝充悳 著)を参考にしてください。 端的に言えば「空」は単純に 「自性(単独で自立した主体)はない」(この世を捨てる) ということではなく 「『自性(単独で自立した主体)はない』ということもない」(かの世を捨てる) という二重否定も同時に真であるということを意味しています。 ただし 「『人格がある・人格がない』といった二項対立そのものを否定する」 と捉えがちですが、ここに誤解が生じます。 単なる「否定」であれば「無」に結びつき、「空」とは異なります。 「修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)」 は、まさに 「『人格がある・人格がない』を二項対立とせず、両者を同時に肯定する」 といった側面で捉えるべきものでしょう。 「空」は「からっぽ」ではなく、あらゆるものが入る「空間」と認識した方がいいかもしれません。 ただし、「無批判に全てを肯定する」というものではなく、一度は「否定」という過程を経ることによって、深く思索した上でのことです。 「ブッダの言葉」(スッタニパータ)(岩波文庫、中村 元訳)の「洞窟に関する八つの詩句」 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 ここに、否定を見ると「虚無」に陥り、肯定を見ると「ブッダへの道」を歩むのだろうと思っています。

amenhotep2000
質問者

お礼

来生自然さんの知識の深さは私の目標でもあります。いつも、サイトや本などを推薦していただき、参考になり(いい本にめぐり合うというのも労苦を要するのです)感謝いたします。仏教や西洋哲学の土台踏まえた上で、量子力学と思われる研究をされているようですが、仏教は一元論の考え方と思いますが、科学的思考においてどのように融合されていらしゃるのか、一度お聞きしたいです。例えば、このサイトで客観とはなにか?という質問がありましたが、私たちは主観と言われたら、客観という対立概念を作りがちというより、二元論が当たり前の常識のような気がします。しかし、お聞きしてもまだまだ、私のレベルが低いので、理解できないかもしれません。マイペースでやっていきます。毎回ありがとうございます。今後もよろしくお願いいたします。

回答No.10

>だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。  あなたはもともと仏です。修行などせずともいつでもどこでも仏です。 >このように、修行して慈悲(悟った人が悟りを求めぬ人に悟りを求めさす)ことが出来る覚者となった仏様の人格(道徳的行為を持った主体としての個人)をどう考えればいいのかが分からなくなります。 考える必要はありません。あなたは仏なのですから。 >空の世界観では、自性(単独で自立した主体)はないとのことで、仏様は人格はないのでしょうか? 仏が人格であるかどうかは、仏であるあなたが仏をどう表すかだけです。

amenhotep2000
質問者

お礼

極めてシンプルな回答ありがとうございます。「相手の中に仏を見る」というのも、正しいでしょうか?回答から、そう感じました。

回答No.8

仏性とは『命を働かせている意識』です。草ならその草たらしめている働きそのものです。蛙ならその蛙の種族としての働きを『働く働きそのものです。』 人間にも確かに存在していますし、誰でもが持っている者です。ライオンをライオンとして認識させていながら、そのライオンとして成長してまた、老いて行く働きです。 具体的な表現をするなら『右脳に存在する意識です。』より具体的な表現をするなら、『心臓や肺やホルモンの調節などを司っている(支配している)機能の主人公です。 生きとし生ける者の生命の維持装置として働き続けている機能の主人公です。 人間に限って説明するなら、身体を生きさせている機能全ての主人公です。それが『仏性』です。 行動に関して述べるなら、人間の行動を自由にさせている者です。手が振るえる時では、『自我意識の、機能を持たない脳が』単独で、行動しようとしている事を意味します。 仏性の住み家は『無意識の底』です。道元が疑問に思った事『一切衆生悉有仏性』なのに、如何して修行をしなければ、その事が、『分からないのか?』と不可思議な疑問としていた理由です。 仏性の働きはもう一つあります、それは『湧き上がる感情や、考え』という場合です。『自我意識の背後に居ながら、その痕跡さえ残さないで』自我意識に伝えている事です。 その関係性を禅では、『没交渉』と形容しています。毎日何百回も出会っていながら、未だ分からないのか!と禅匠は激怒する場合があります。  臨済禅師は、「赤肉団上 に一無位 の真人あり。常に汝等諸人の面門 より出入す。未だ証拠せざる者は、看 [み] よ看よ」と叱咤激励しています。 仏性の存在を明らかにするためのよい例があります。健常者という場合では『仏性』と余り上手く行っているために、心の中に『違和感を抱く事が少ない』場合が多い事です。 人間は全ての瞬間に『自我意識がするのか?、或いは無意識がするのか?』という選択を常に行なっています。ですが『心のこうした交替制のシステムが、余りに巧妙に出来ているために、殆ど気が付かないでいます。』 例えば寒いところなどでは、血管が収縮して、体温が下がらない為の『生命維持機能が働き始めます、』では誰がそうしているのか?又暖かいところや、温かい飲み物を探すように、『指示さえ出しています。』では誰がその指示を出しているのでしょうか? この誰か?が『命の働き』=『仏性』です。 生きとし生ける者は、生命が授かった瞬間から、細胞分裂を始めます。是は誰の働きでしょうか?そうしておなかの中でも、生まれた瞬間からでも『全てを熟知した状態で』生まれています。そうして髪の毛が赤くなったり、黒くなったり、ブロンドになったりしています。是は誰の仕業でしょうか? 生まれたばかりで、言葉さえ分からない赤ん坊でさえ、安心する事も、不安と云う事も、恐怖と云う事も『何も学ぶ事無く、学ぶ以前から知っています。是は赤ん坊の中には知っている者が存在しているからです。それが『仏性』です。=『命の働き』です。 人間には『意識する自分』=『自我意識』と、命を働かせている意識=『仏性』=無意識の底で、或いは心の背後で、知られる事もなく働いている意識、と二つ意識があります。 科学的な証拠です。ウイキペデアからです。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 無意識の底にいて、人間の心の背後にいて(わから無い様に)人間を助けている者が存在しています。 この存在を、脳卒中の為に『体感』している、脳科学者の動画がありますので載せてみます、参考にして下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この動画は『ある意味で、見性体験』を表わしています。見性するという意味は『自我意識の機能では出来ない事』=人生の全てを諦める事によって『可能になる体験』だからです。 『自我意識では出来なかった事を納得する。』=『大死一番』する事によって、無意識の中の『右脳の意識』=『無意識の意識』=『仏性』の出番になって、『意識の根底で』=脳梁の神経細胞の中で、二つの意識の出会いがある事を意味します。 この出会いは、脳の回路構成の発達を意味しますので、もう二度と『二つの意識は』出番争いをしなくなるという意味になります。 通常では『心の中で、対話したり、争いあったりして、心の中が騒がしい事があります。』 この体験以後では『脳内の上下関係がはっきりとしますので』自我意識は、命の働きの前に出て、でしゃばる事が無くなります。 『心の中を、静寂が支配する事になります。』『自分の脳内での戦いに終止符が打たれる事を意味します。』『心が静まりかえる』という意味です。是が『涅槃』といわれている心境です。 今までは、どちらの出番かを争う場面が在りまして、心が騒がしい(矛盾や対立や分裂)を起していましたが、この出会い後では『命の働きの前に出なくなる事』になります。 キリスト教的な表現方法では『神と和解して、神の僕となる』という意味です。 自律神経失調症や難治性の心身症や、過敏性の腸症候群等の症候群は『命の働き』の機能の中の『身体の生命維持機能』と仲違いしている事を意味します。その内訳は『自我意識には出来ない身体の機能の調節を』自我意識単独でしようとしている事を意味します』機能的に自我意識には出来ない事をしようとしている関係上、『やっぱり出来ません』自分(自我意識)には出来なかった事を納得する場合に『完治します。』それが『悟り』の効能です。 神経症等では、『行動の機能に関する、命の働き』と仲違いしている事を意味します。メンタル面が弱いという意味は『自我意識がでしゃばってしまって、無意識の自分の出番を失っている事』を意味します。 自我意識単独では『機能的には』字を書く事も。話をする事も、歩く事も眠る事も出来ません。出来るものと勘違いする場合に、今書いた行動に『ギクシャクが始まります。』人間の意志の力では『自分の体さえ、自由に動かす事は出来なく出来ています。』脳の機能の関係です。 自我意識単独で『心に湧き上がる感情や考え』を自由に出来るとした場合に『心を病む』と表現される現象になります。 この三つの症状は、形が違っていますので、ぜんぜん違うものと考えられるかも知れませんが、全て同じ原因からです。 『意識する自分』と『無意識でする自分』は交替制をキープする事で、人間の暮らしは『正常がキープされています。』 言葉を変えて表現するなら『左脳の人格』と『右脳の人格』は交替制をキープする事で、健常者という人達の生活はキープされています。 神経質な性格や不安になり易い性格の人達はこの『交替制に、気が付いた事』を意味します。 そうしてその情報そのものか?或いはその情報を送る者かに、異常な反応を示している事を意味します。その原因は、『自分自身に対する身体や行動や心の内部観察が鋭い事に拠っています。』 この観察を『身体の機能に向けた事が』自律神経失調症等の身体の機能の異常を訴える原因になっています。検査をした場合では『異常無しです。』如何に精密な検査を施したとしてもです。人間の意識性を度外視ししている事から『原因不明』となっています。 この観察を『自分の行動としての昨日に向けた場合』が『神経症』となっています。この場合も如何なる検査をしたとしても異常は見つけられません。何故なら『人間の意識性という問題を度外視しているからです。』この度外視している原因があって『原因不明とされています。』 この観察を『自分自身の心の浮き沈みや、湧き上がる考え』に向けた場合に『心を病む』と表現しています。この場合でも大概の場合では『検査では異常が見つけられません』何故なら何処にも異常がないからです。只人間の意識性によって、『異常ではないものが』異常に感じられているからです。 命の働きとの仲違いで、『異常を訴えています。』右脳からの情報を嫌っている事から『薬が処方されています。』薬の効能は『右脳からの情報を遮断する働きで成り立っています。 右脳は『今現在の真実の情報を』送っているだけですが、『我』の好き嫌いという心の働きによって、『心地よい情報のみを認めて、心地悪い情報の受取りを拒否しています。 ストレスとは、自分が受け入れられないものを意味します。同じ環境でも職場でも、受容れられないものが多い場合では、より大きなストレスになるという意味です。 自分の中では『全てを受容れている者』が存在しています。この者と仲違いしている事がストレスの元凶になっています。 この者と仲直りする場合に、絶対肯定という立ち位置(足場)が出来上がります。生でも死でも同じ事として受容れる態度です。是が『悟りの効能です。』 不安が多い場合では『生と死』を、良い事と、悪い事と二つに分けて(分別して)みている事を意味します。その分別作用が『頭の中に、避けたい事をのみ、大きく膨らませています。』それが現実には存在しない地獄です。』妄想と云う事になります。 天国に入りたいなら、天国そのものを捨てなさいです

amenhotep2000
質問者

お礼

心理学的見地から、論理的な分かりやすい説明ありがとうございます。完全に理解しているかどうか分かりませんが、自分の意識(自我)を無意識にある仏性がコントロールしていることに気づき、自我を捨てることより仏性を感じられるようになって、静寂な心になりなさいと解釈いたしましたが、よろしいでしょうか?私はとにかくまだ未熟者ですが、現在の生という時間を大事に精一杯生きております。未練のないように死ぬ時は穏やかでありたいものです。回答ありがとうございました。

回答No.7

自分で 修行して 悟り開きたい みたいですが(自力本願ですか) 人には煩悩があり これが 生きる源に なっている 男が女を 女が男を 自然の 営みの結果が 今日の 子孫であり 私であるわけで 私の力では どうしようもないシャバにいる私を 仏様の お力を お借りして 救っていただくのが 他力本願です(浄土系) 又、いなかの曹洞宗の和尚の法話(説教)によると 葬儀で 和尚が お経をあげるから 浄土で成仏 するのではなく 過去現在未来の 仏様に お願いをし 参列者の 先祖を供養し その供養を 回向 (その功徳を その故人に差し向け) 餓鬼畜生と呼ばれるものの 力も 借りて やっと 成仏させるのだそうです。(その儀式が葬儀だそうです) 通夜の供養では嘆仏でその中から13の仏様の名を呼びます。御参考下さい。 尚、この辺の曹洞宗の卒塔婆は上の方に空 中に 風火水 下に地 と書いてから 下に七日~四十九日迄 七日毎の仏様 (如来様)の名を書きます そちらではどうですか? (和尚の御布施が高いから無宗教が安くていいと言うマスコミの影響で 葬儀いらないという 人が TV番組の後 湧いてきて 現場は 大変です・・・いなかでは寺=墓なので その教えを護ります=受戒を受け その寺の檀家になるという儀式=葬儀 を行わないと 墓に入れません  追記 墓地は永代供養料を 払い 借りているのに 買った墓地だ という人が います 本当に 買ったのなら 今の御時世 高速道路は 通りません 借りているから その貸主に 許可を取り 改葬して 道路ができるのです 知らない人結構います

amenhotep2000
質問者

お礼

仏教の死後の世界観というのは、閻魔大王も含む、十王が裁くらしいことは、仏像を美術館で見て認識してますが、仏教の葬儀というものはどのようなものか、わかり参考になりました。しかし私は、死後のことは、あまり考えず、現世の自分として、どうすれば、人格的に成長して、人生問題に向かいあえるかということに哲学や宗教に求めてます。生きている間にどこまで真の自己は見出せるか?ありがとうございました。

noname#181697
noname#181697
回答No.6

執着心が執着心を捨てようったって、そんな事は出来っこない。内観したって「無の世界観」に到達する訳ではない。万象が絶え間なく変化するのは自性が無いからだ。闇が無ければ光もまた無い様に、万物は独立単体で存在しているのでは無く、縁起して成り立っている。 悟りとは、自性無き自己という、真の自己の在り方に目覚める事。でも、個性はそのまんま、人間のまんま。でも人間そのまんまで仏である訳だから、特に何の問題もございません。慈悲深い仏様も居れば、鬼の様におっかない仏様もおりますよ。 一切衆生悉有仏性とは、本来全てが仏であるという意味だけど、実際には自らの煩悩の所為で、到底そうとは思えない。結局は、全部自分の所為なのだから、それを正していくのが、修行というもの。 でもね、結局、人間は自分の経験に当て嵌めて考える事しか出来ないのだから、未知の事柄について説明している仏教書をいくらを読んだって、何も理解なんか出来ませんよ。多少無様でも必死こいて生きている奴の方が、真実の自己に目覚める可能性は高いです。 仏道は 理屈こねれば 逸れてゆく  まこと求めて 全て疑え

amenhotep2000
質問者

お礼

「仏道は理屈こねれば 逸れてゆく、まこと求めて 全て疑え。」仏教の格言を教わったような気がします。たしかに、私は頭で考えるばかりで、実践が伴っていないので、真の自己にいたるには、限界のようなものを感じます。ネットという場で、顔が見えず、直接お会いしてお話ししたいというのが、本音でが、社会または、このようなネットの場でもいいのですが、考えを述べるためには、「自分」というものを持ってなければならず、西洋的、自我(アイデンティティー)を捨てて真の自己に目覚めろと言われると、そんな大それたものではない私は、何を述べたらいいのか分からなくなってました。現在のあるがままの自分で良く、このように人とのふれあいのご縁で成長する。少なくとも私は回答者皆様方のご意見から昨日よりは成長した気がします。昨日の私は今日の私ではない。これで良いでしょうか?ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

仏様は人格はないのでしょうか? ○難しい質問ですね。 「一切衆生悉有仏性により、だれでも仏様になれる可能性を有しており、修行して努力すれば、真の自己にいたり仏様になれるという理解です。」これは正しい理解ですね。この理解によれば、人格のあるものが仏になれるのですから、人格はあるはずですね。 仏教はそのように教えているのですから、教えの通りですね。 ここまでは、いいのですがその先ですね。さて、空観により宇宙と一体となったとしましょう、そこで何を感じ、何を見、何を知るかですね。 宇宙では大きすぎますから、卑近な地球ぐらいになってみましょう。その時、あなたは地球そのものになっているのですが、地球に人格があると言えるでしょうか? 次は太陽ですね。さて、太陽に人格があると言えるでしょうか? 銀河は?、宇宙はと続くわけですが、どのように考えますかということですね。 個人が仏になれるということは、つまるところそういう事なんですね。 仏が数千年に一度、人格を持つからそういうことが分かるということでもあるということですね。 このように理解が難しいものがあるということですね。

amenhotep2000
質問者

お礼

仏教の世界観を噛み砕いてやさしくイメージとして教えてくださる、mmkyさんは悟りをひらかれていらしゃる感じがします。心の中にも宇宙がある良く言いますが、執着を捨て、自分の内へ内へと思考を深めたら、宇宙と一体になれるという考えで正しいでしょうか?仏陀の時代の宇宙観がどのようなものか分かりませんが、科学が発達した現在、天体望遠鏡で見た、宇宙の写真を見えるという時代で、どうしても真理を外へ外へ求めてしまう傾向が私はあります。またすべては「空」であり、移り変わる宇宙観というのには漠然と理解してますが、混沌の中で縁起により「物質」が瞬間的にくっついたり離れたりして、そのような写真の像(色)を作っている。写真はそのような連続したものの一瞬で、色そのものではないかという宇宙に関する認識(識)になります。物質的な執着が取れていないのかもしれませんが、この世で自分が見ている形(色)はなんなのか、もしよろしけば再投稿していただけると幸いです。

回答No.4

『色即是空,空即是色』 余りお好きでない禅問答になりますが。 これが体現出来れば即身成仏の域に達し得たかと? 在るように見えて実は無い,無いように見えて実は存在する。 無秩序は秩序の始まり,秩序は無秩序の姿。 ちなみに私は仏教徒ではありません。単なるアマチュアの哲学愛好者です。 専門書もロクに読んではいません。 仏様には仏格はあっても,人格などと言う低級なものは必要ないと思いますよ!

amenhotep2000
質問者

お礼

私もひよっこアマチュア哲学者です。西洋の哲学思想「有」の思想。物事を必ず、必ず対象を立て思考する。例えば「有」(形あるもの)を考えると「無」(形のないもの)として分けて、「無」を否定的に捉える2元論の思想に対し、「無」の中にこそ、真理があるというというのには斬新と感じます。回答者様の難しい命題の答えを見つけるのは人生の宿題ですかね。キリスト教の神というのは絶対者・超越者として、人間には及びもつかないものですが、人格でなく仏格をもった仏様は人間のとって超越者と考えていいのでしょうか?いろいろな方から回答をいただいたので考えて見ます。回答ありがとうございました。

  • kfer_oope
  • ベストアンサー率12% (39/314)
回答No.3

死んだら仏になると言う戯言は別として、釈迦が説く「仏」とは何なのかを 零から学びなおした方がいいと思います。少なくとも、質問者の言う日常生活から かけ離れた厨二病っぽい存在ではではありません。 人格が意識か無意識かは別の議論で置いておくとして、「識」という言葉で 連想できるモノに九識論があります。これは天台・日蓮宗系列の思想ですが、 仏の「識」を9番目の、生命のいちばん奥深くにあるモノと定義しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%91%A9%E7%BE%85%E8%AD%98 この考え方からすれば、人格とは生命のまだ浅い表層部分の差異でしかなく、 仏の生命という観点から立てば、人格なんてありとあらゆる種類が存在するでしょう。 質問者のも言うように、「誰でも仏になれる」可能性があるというのは、誰しもが 仏という悟りの境地に至れる可能性を「内包」している事になるのでしょうから。 したがって、仏の悟りを得たからと言って、誰しもが仏像みたくなるわけではない。 俺はそう考えていますが。 最後に、誰しもが仏になる可能性を「内包」していると言う事は、修行によって 辿り着くのではなくて、内包しているモノを内側から引っ張り出す事になります。 これが仏の教えである仏教の基本スタイルではないだろうか。

amenhotep2000
質問者

お礼

私の生まれてから現在に至る、穢れた認識の集合が、仏教では「識」というようですが、穢れのない阿摩羅識という考えがあるのですか。仏様における人格についての考え方も面白いです。まあ、お寺に座禅に行って、説法を聞くほうがいいかもしれませんが、今日は、ネットで少々説法を伺いたく思います。貴重な説法に感謝いたしております。このレベルで禅病的では、悟りは遠いですね。もう少し、なにか回答があるか分かりませんが、ベストアンサーはお待ちください。

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