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女性はなぜ生きているのでしょう

女性はなぜ生きているのでしょう 仏教において女性は必要のない人間なのでしょうか 生きている意味がない人間なのでしょうか シャカはなぜそんなにも女を嫌うのでしょうか 女って何なのでしょうか 女は女では仏になることはできない 女性は修業をしても仏になることはできない 「悟りに達しようと堅く決心して、ひるむことなく、たとえ測り知れないほどの理知を持っているとしても、女性は、完全な悟りの境地は得がたい。女性が、勤め励む心をくじくことなく、幾百劫(一劫は四三億二〇〇〇万年)・幾千劫の間、福徳のある修行を続け、六波羅蜜(修行の六ヶ条)を実現したとしても、今日までだれも仏になってはいない」(法華経) 私も女は愚かな生き物だと思います。 なぜ生まれてきたのだろうかと 生きる意味を求めてたどり着いた仏教でさえ女は必要ないととなえていました。 今の時代男より女が強いように思えてしかたがないのですが、仏教の熱心な信仰者の方々は今のこのような時代をどのように感じているのでしょうか ただなんとなく生きる。生かされているから生きる。 こんなことができる世の中だからこそしっかり生きたいです。 しっかり修業して生きていきたい 女はどんなに頑張っても仏にはなることはできないのにどうして仏教を信仰するのでしょうか 宗教のことはあまりよくわからないのですが、救われないものにどうしてそんなにもすがるのでしょうか 仏教を信仰する意味がわかりません。

みんなの回答

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.20

質問者が男なら、自分なぜ何でいきているのでしょうか。で終わりでしょうが。 質問者が女性となると、相当質問の意味が違う事になります。 男と女は肉体構造、(姓の)機能、が異なる訳ですから。その機能を縁として想起する、心、 や、知恵、の傾向が異なるのは当然でしょう。だからといって、女性が人間として劣る事には ならないことは、誰でも解っていることで、女性を嫌う男などいないのではないでしょうか。 女嫌いと言われる女好きのタイプ(若い頃の私?)はいるようですが。 私の女嫌いは相当なものだったようで ニヒル?な高校時代には、自分の母親を 「善良で、無能で、小心で、自分の事しか考えられない。良い意味でも、悪い意味でも、女らしい女」 と評していました。おふくろのような人間、にはなりたくない。という意味では、おふくろ、が嫌いでした。しかし、私を育て、反面教師の意味も含めて、また無口な親父に替わって手本となる、おふくろとは正反対の鬼(親父)の人生、生き様、を教えてくれた、、一番の仏(導くもの)は、おふくろ。だったのです。 シャカが教えた、仏(ブツ、導くもの)そういうものであり。仏に男も女もないし、人間が仏である事もありません。その人の語った内容、や、手本となる行動、を縁として、悟り、自己を成長させる真実への 接近、目覚め、)起こったなら。その悟りを起こした、縁、が、仏、なのです。仏像や人物、ではありません。シャカの仏教、とは。仏を縁として悟りが起こる。だから、仏を奉じ、悟りを繰り返すべく修行、努力をしなさい。という教えであり。 究極の悟りの境地、などと言うのは、釈迦以前の、バラモン修行者、あるいはヒンズー教思想です。 自分の幸せ、安らぎの境地、を国も妻子も捨てた(=自己(の心)を捨てた)シャカが目指す訳はありません。 シャカはなぜあんなにも、女性を嫌うのでしょうか。 どんなに?でしょう。シャカが好きとか嫌いとか、思う事はない。ただ慈しみと悲しみの目で見守り、 その人自身の内側にある、仏(菩提心、求める心、あるいは知恵)に働きかけよう、とするだけ なのです。 歴史哲学(ヘーゲル)の有名な言葉に 「ミノルベの梟は夜の帳が降りてから飛び始める」実在としての歴史は既が存在しない。終わってから 「歴史学」が始まる。歴史学は真実とはならない、歴史物語、歴史認識、とならざるをえない。というような事でしょうが。 仏教は、始めから、そのことを承知の上で、教典が解釈自由に編纂されている。とも見れます。 シャカが直接書き残き記した、言葉、文章、は存在しないのです。 シャカの死後何年もたってから、誤解、曲解、の説が広まっている頃になって。シャカの弟子たちが 集まり、正しいシャカの思想を記し、残すべく。シャカの話しを直接聞いた者たちを、探し聞き、本当か道かを検証し、仏教教典、として編纂したのです。 教典の、始まり、は、「私はこのように聞いた」であり。解釈、や講釈、定義、理屈付け、はないのです。やがて、仏教の大衆化、バラモンの反抗?としての大乗運動が起こり。膨大な教典が、釈迦の名の元に編纂され、神、が組み込まれ、仏像、偶像崇拝が始まり。やがて、ヒンズー教との区別が付かなくなり、大乗仏教はヒンズーの一部として吸収される形で、インドでは滅びる事になります。 それから、中国につたわり、漢訳仏教が広まり、日本に伝わり、鎌倉仏教に転化してきた事になります。それらが、すべて、釈迦の思想、仏教、を名乗っているのです。 解釈自由、とは。「カニは自分の殻に会わせて自分の穴を掘る」思想は自分の理解力、知恵、によってしか、解釈されない。伝聞、又聞き、の繰り返しは、意味が反対になり、全く別の概念が繰り込まれたり。になるものです。 釈迦という名は。シャカ族の皇太子であった、ゴータマ・シッダルータ。の事ですが。 いつの間にか。ゴータマ、という名が、部族名、に置き換わっているのです。 質問者さんはどんな仏教に接近したのでしょう? 近代になって、世界の仏教指導者が集まり。何処までが仏教(シャカの思想)と認めるべきか。を 定義したようです。3法印、とか、4法印、という。仏教の証とですが 諸行無常  世界は変化する過程として今ある。 諸相無我  世界の在り方、起こり方は、法則(縁起の)に従っており。つまり、神はいない。 と 一切皆苦  「人間の一切は苦である、と知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」 涅槃寂静  悟り、は、静けさ、安らぎ、と一体である。 のどちらかを、教義、に掲げていれば、仏教、と認める。と言うものです。 日本に、法印に適っている仏教宗派があるんでしょうか? 歴史書が信頼出来るかどうかはともかく。「世界の歴史」によると。釈迦の最初の説法は。 かって修行を共にした事のある、5人のバラモン修行者を前に 修行者たちよ ここに、4っの真理がある。苦と、苦の起源と、苦の滅と、苦の滅に至る道とである。 生も苦、老いも苦、死も苦、であり。愛する者と離別するのも苦なら、好まぬ者と結合するのも苦 である。 しからば、苦の起源は何か。 喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛着である。 苦の滅とは何か 愛着の心を残りなく捨て去る事、である。 苦の滅に至る道、とは何か。 八っの正しい道。 1、正しい思惟 2、正しい見解 3、正しい言葉 4、正しい行為  5、正しい生活  6、正しい努力 7、正しい思念  そして 8、正しい瞑想 である。 漢訳仏教の法門(仏教の入門)とされる。苦集滅道 とか 四諦八正道 なのでしょう。 男だから、女だから、には関係ない事だと思いますが。 シャカは女性には、心を捨てよ、は無理と考えていたふしはあるようです。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 今になるまで悩み考えていました。 女性は生きている意味がない、なぜ生まれたのだろうと。 私は思い違いをしていたのだなと気がつくことができました。 何の宗教が大切かなのではなく、心が大切なのだと。 どんな宗教でも共通して良いところがあると感じました。 私は女であることにとても劣等感を感じていました。 女であることが嫌で嫌でしかたがありませんでした。 そのうち仏教にたどりついたのですがこの事実を知り愕然としてしまいました。 どんなに修業をしても仏になることはできないと。 私は間違って解釈していました。いろいろと間違っていました。 hanniyagiさんの回答をはじめいろいろな方の回答を拝見していろいろなことに気がつくことができました。 改めて感謝いたします。 まだまだ勉強が足りないなと思いました。 正しい心ということを心に銘じて生きていきたいと思いました。 言葉が足りないのですがこれが精一杯です。 本当にありがとうございました。

回答No.19

訂正 ×誰が一人に理解してもらえれば・伝われば良い」と言うのも違います。 ○誰か一人に理解してもらえれば・伝われば良い」と言うのも違います。 どんなに屁理屈こねてもどちらか一方では成り立ちません。オス・メスの話ではなく、人の男と女の話です。 凹は受身、愛は与えるもので、受身ではありえません。 ○○○○♪ されないと、女は生きていけないのです(○○○○♪しないと生きていけないのも本当かもしれませんが)。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ご意見とても参考になりました。 女性男性問わずお互いの存在が大切なのですよね。 私はどうしても男性優位の立場でものごとを考えてしまいます。 前の10MillionVoltsさんの回答で、男性も子孫を残すためには必要とおっしゃっていましたが私はもっとそれが強く、男性がいなければ子孫繁栄はなされてこなかったという考えでした。 女性は男性がいなければ女性の意味をなさないとそう思っていました。 男が女がという問題ではないのですね。 生きていくうえでこの地球に存在していることでそれぞれの役割を果たしていかなければならないのですね。 言葉にするのは難しいです。 これからじっくり考えて生きていきたいと思いました。 回答ありがとうございました。

noname#183132
noname#183132
回答No.18

>シャカはなぜそんなにも女を嫌うのでしょうか 法華経はブッダの死の数百年後に今の中国でつくられたお経です ですから当時の中国の男尊女卑の思想が入っています それ以前は教えに男女の区別はありませんでしたので 男女差別はブッダのせいじゃありません どっかの教団の教えじゃなくて仏教史かなんか勉強した方がいいですよ

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 私は、仏教を間違えて解釈しているのですね。 今まで宗教とは無縁の環境で生きてきたのですがいろいろなことを考えているうちにたどりついたのが仏教でした。 仏教の始まりもシャカだと思っていました。そこで終ってしまっていました。 仏教史勉強したいと思います。 回答いただきありがとうございます。とても勉強になりました。

回答No.17

#8の者です。 生殖には男性も必要だ、という考えもあるようですが、 それは必須ではありません。 生物学では、たとえばナナフシのように特異な形に特化し、 もう適応の可能性がない場合には、単為生殖もできる (無精卵でも発生する)ことが知られています。 それは脊椎動物においても同様で、山奥の池に閉じ込めら れたフナで、単為生殖するようになった例が発見されています。 要するに、より早く進化する(遺伝子を交換して多様性を生む) ために、女性の必要(オプション)として男性は許されている のです。 アンコウのように、オスは小魚のように小さく遺伝子の運び屋 に徹して、交配した後はメスの体に食らいついて一体化し、 寄生するものがあり、男の本質をよく表しています。 (あるいは交配後、しがみついたままメスに食われるオスカマキリ) 人類においては、社会性の発達において、生物にとって本分 である生殖や進化よりも、それらをより確実に行うオプション である“マツリゴト”や“ものづくり”が幅をきかせてきたために、 まるで男性が優位のような錯覚を起こしているだけで。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 何となくわかったような気がします。 ありがとうございます。 生物学ではそのようなことが分かっているのですね。 何か私の思っていたこととは正反対のことでした。 女性がいなくては子孫は残していくことはできませんがその種である男性がいなければ子孫は生まれない。その種が必要だと思っていました。 男尊女卑という言葉も頭にあり女性は必要ないのだと思っていくようになりました。 いろいろ考えることがたくさんありました。 親切にありがとうございました。 勉強になりました。

  • eld3399
  • ベストアンサー率4% (16/345)
回答No.16

広大な宇宙全体そのものが陰と陽で成り立っています、古代からもそうであり、この先も永遠に、陰と陽の法則性は変わることはありません。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私もそのことを意識することが最近多くなりました。 人間単位で考えるのではなく広い宇宙単位でものごとを考えることが大切なのだなと思います。でもそのことはなかなか口に出して言うことができない。それも歯がゆいことがあります。 こうして回答を下さって気持ちが少しすっきりしました。 ありがとうございました。

回答No.15

No.14の創価学会の回答は完全に流してください。 オウム真理教と同じカルト集団ですので、何を言い出すのか皆目見当もつきません。 まあ、十中八九浅はかな理論武装の振りかざしに終始することでしょう。 その姿、滑稽という他当てる言葉がありませんね。滑稽!滑稽!親友人の顔が見てみたい!この恥知らず!www 無知・無能な集団に限って浅はかな哲学に触れては、これまたバカのひとつの覚えみたいに布教wwwし出すのですwww  馬鹿はほっときましょう!じゃあねえボケカスーwwwwアハッwwww アフォの池田然り。プッwww 池田マンセー!

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私も小さなころから宗教には気をつけなさいということで育ってきました。 なのであえて遠ざかっていました。 nisihigasi_6さんのような意見だったと思います。 しかし宗教は悪いということは一概に言うことができないこともあるのです。 何が正しいのか何が正しくないのかそれは自分も頑張って努力して見極めていかなければならないのです。 信じるか信じないかの問題ではないのかなと思います。 まだ私も頭の中で整理はできていないのですがこれらのことはわかりました。 いろいろな宗教がありますが必ず信仰しなければいけないということはないということも。nisihigasi_6さんの意見もとても参考になりました。 ありがとうございました。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.14

創価学会 壮年部の者です。 何か勘違いしていませんか? 法華経に入って、初めて「女人成仏」が説かれ るのですよ。竜女が即身成仏する場面があり、 これにより、今までの爾前経で女人の成仏が 出来ないということを覆しています。 さらに、天台大師の「一念三千法門」では、仏 (仏性)というものは、十界互具の中に平等に 具わっていると、説かれています。 ですから、女性だからといって成仏できないとい う事はないのです。 仏に成る根本要因は、正しい『法』を受持して、 正しい『本尊』に帰依すれば良いのです。 何故なら、釈尊自身も過去世において、法を受持す ることで仏になったのですから。 それが、寿量品の「我本行菩薩道」の文字が表わす 事なのです。 ※昨日の聖教新聞に、この事が分かりやすく、詳しく 出ていましたね。お手元にあるようでしたら、参照 してください。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私はまだ宗教のことはよくわからないのです。 何が正しいのかは人によって違うのかもしれませんよね。 そのときその場で正しい行いがある。 そう思います。 仏教にはいろいろな解釈がある。 そうですよね。 だから人は悩んで助けを求める。 宗教とはそういうことなのですよね。 これからたくさん勉強していきたいなと思います。 回答ありがとうございました。

noname#156094
noname#156094
回答No.13

>女はどんなに頑張っても仏にはなることはできないのに・・・ 少し悲観しすぎではないでしょうか。 子供を抱いた優しいお母さんも、年寄をいたわる優しいお母さんも、みな仏様だと思います。 時々そうした光景を見かけると あ・・・観音様がいらっしゃる、と思ってしまいます。 自分が仏だとは知らなくても、外から見れば仏様です。 そこにある人を慈しむ心は、正に仏そのものの心のように思えます。 悟りを開く開かぬ、の以前に仏の心をいただいているのではないでしょうか。 理智の面にこだわって悟りを開けぬ男共より、優しい女性の方がよっぽど仏様に近いかもしれません。 >・・・どうして仏教を信仰するのでしょうか 仏様の深い智慧と深い慈悲心に見守られていたい・・・という願いに男も女もないと思います。 これには現世利益という実利の面と、心の利益の両方の面があるような感じがします。 法華経の中の観音経には 人々よ、災いにあい苦しみに耐えかねても、観音の智慧は必ず救う。 とあります。 また、結びの言葉に (観音は) すべての良き働きを身にそなえて、諸人を凝視したもう 幸せは海のごとく無量である この故につつしみて礼拝するがよい。 とあります。 ご利益の面にこだわれば、救済はあっても悟りはない堕落だという見方もあります。 しかし、一般的に親しみやすく、誰でもが仏様に近ずくことができる、という見方をするならば 信仰の入口として大変に良いのではないでしょうか。 仮に、ご利益を求めるだけの信仰で終わったとしても、仏縁をいただいた貴重さがあると思います。 無宗教のままで過ごすよりもいいのではないかな、とも思います。 ご参考にしてください。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろな出来事が続いていて仏様に帰依したいと思ったときにこの事実を知ったのです。現世利益はどうでもよいのです。 なぜ生きているのかということが問題でした。 確かに今思うととても悲観していたのだなと感じてしまいます。 しかし少し救われたように感じます。 身近にできることはたくさんあるのですね。 私も少しでも仏様に近づくことができるように精進していきたいです。 ありがとうございました。

noname#150106
noname#150106
回答No.12

日蓮上人が、法華経提婆達多品の第十二に触れてこう仰っておられる。 「竜女が成仏此れ一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす」 日蓮上人ほどの方がそう言っているのだから、あまり悲観することもないのでは。

mai2011powerup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仏教のことをもっと勉強したいと思います。 ありがとうございました。

回答No.11

男の価値も絶対的です。 男がいなければ子孫を残すことができません。 それに、地球に住むすべての人間がNoといおうと自分がわかっていればそれでよい、とまで思えるようになれば他者に認められる必要もありません。「誰が一人に理解してもらえれば・伝われば良い」と言うのも違います。 レベルが低すぎですね。「参考になったボタン」を押す人もね。

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