• ベストアンサー

「アプリオリな認識」の実例

qsxdrfvgyhの回答

回答No.5

ア・プリオリとは、辞書的には、カント及び新カント学派の用法で「経験に基づかない、経験に(時間的にも論理的にも)先立つ認識や概念」とあり、ウィッキなどでは、「(経験を通じて知られてもよいが)経験によって反証されない」という性質と定義されているようです。 発見したとしても、経験からは独立した概念と言えるもの なかなかの難問ですが、一例としては、「二重否定は肯定であるということ」 そして、「論理」こそア・プリオリの代表例と考えられています。 ですから、ア・プリオリな認識の実例は、 「眩しくないことは、ない」は、「眩しい」と言うことだと気付く感覚かなと思うのですが・・・。聴く前から、決まっていて、変更不能の性質だと言えると思います。

farnesoid
質問者

お礼

「二重否定は肯定である」という原則は、排中律と同値ですよね? 厳密には違うのかな? 矛盾律、排中律については、先験的なのかよくわからなくなりますね。 場合によっては、矛盾律や排中律に反することも思考しますから。 まぁ、でも、体系やTPOに合わせて矛盾律や排中律に基づいて思考することもできますから、できるということは先験的にそのような認識の枠組みを備えているということもできるのでしょうか。 しかし、矛盾律や排中律が、「経験によって反証されない」とは限らないですし、主観と独立した外界で常にその論理が成り立つということは知ることはできないですから、外界にアプリオリに存在するということは間違いですよね。

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