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物象化論の現在は いかに?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.4

>そうですね。きわめて抽象的と言えばそうですが 要するに われわれ人間が 仕事をするというとき あくせく働かなければならない情況のことだと思われます。あくせく働いても 大して何か充実感もないというような状態が 一般的であり ふつうのことになっている情況。・・・人間が仕事をするのではなく 仕事が 人間を 動かしているという情況。人間のおこなう経済行為が モノとモノとの交換過程の流れに 従属してしまった状態。 なるほど。分かりました。「物」だけに焦点があるのではなく、労働者の自己疎外をテーマにしているようですね。組織や制度の(使い捨ての)歯車的に扱われて労働に喜びがなく、刑務所の労役のような人生において、飲食と生殖中心の動物的な状況に追い込まれて、それすら満たされない時、秋葉原通り魔のように反社会的分子に変質していくと言う自己喪失のことを背景としているのではないかと推察しました。 ただ、僕の場合、自己疎外という用語に少し抵抗があります。主体・自己と言う抽象的な実体を立てる見方・認識に対する抵抗です。縁起関係にある自己として見ているので、所与の制度を脱するとか、疎外を解消できるとか、自己実現だけ可能な社会とかの幻想を持てません。残念ながら、制度や組織は微調整できても、根本的には変わりません。しかし、労苦の中に小さな喜びも無くは無いと思います。創意工夫の発見、何らかの達成感、意思決定過程における重要な役割、企業の社会貢献とその担い手など、必ずしも自己疎外一色と言うわけではないと考えます。また、労働時間以外(余暇等)はゼロではなく、旅行や趣味や自分らしい生き方の時間にできると思います。人間は、経済だけの存在ではないと思います。もっと多面的に考察すべきかと思いました。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  じつは この質問の方向性(志向性)は qsxdrfvgyhさんの今回おっしゃる内容なんです。  ★ 創意工夫の発見、何らかの達成感、意思決定過程における重要な役割、企業の社会貢献とその担い手など、必ずしも自己疎外一色と言うわけではないと考えます。  ☆ 質問趣旨にも 述べていますが ほかに たとえば   ☆☆ (No.2補足欄) ここで 人間の か弱き主観を 持ち出します。モノをめぐっての経済生活の上で 疎外の状態を受け容れ なおかつ 物象化した行為関係に入った段階で この資本主義を どう見るか。どう取り扱うか。どうあしらうか。そういう主観のあり方です。(自己満足であっても いいという想定です)。  ☆ ただし ここで 物象化という問題は 疎外を超えたものだという見解もあるようなのです。  前回 わたしは そのことに触れ得なかったようですが たとえば こうです。疎外というのは 野菜の品質について 自分が 農業を放棄して 製造なり営業なりの仕事に専念するようになった時点で 疎外されたわけです。直接には 問えない。責任をもって 品質の管理をできない。つまり 疎外されています。  それに対して 物象化というのは まづ 野菜の栽培じたいが 社会ないし世界全体の生産の様式の中において すべて その経済活動の体系の中に 雁字搦めのごとく 組み込まれていることを指します。いつだったか テレビで モンサントという会社が 大豆などの遺伝子組み換えの技術を 独占して その限りで 世界中の農業ないしその食品を 牛耳ろうしている動きがあると聞きました。だとすると 疎外の情況を超えて 生産・流通・販売のすべての段階にわたって モノが動くというその事態を中心にして 人も動くという情況が 現われないとも限りません。(遺伝子組み換えには 危険も生じるとのこと)。  たしか 広松渉が言っていたことは そのような物象化があるとすれば その物象化のごとくに 人の頭が・その思考が 働くようになる。そして そのことが 当たり前になって 人は 何も 不思議に思わなくなる。そういう情況が 現われないとも限らないということだったのではないでしょうか。  したがって 逆に 言ってみると その情況というのは  ★ 縁起関係にある自己  ☆ そのものだとも考えられて来ます。中身が変わっていくとも言えるでしょうし しかも 依然として 世の中は 縁起=相互の作用と依存の関係にあると言っていることも出来ます。  その後 しばらく追究していなかったものですから 現在 この物象化論は どうなっているのかと思って 質問しています。どうなんですかねぇ。

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