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物象化論の現在は いかに?

qsxdrfvgyhの回答

回答No.3

「物象化」という聞き慣れない言葉に戸惑ってしまいますが、少しだけ考察してみましたので、記述させていただきます。 たとえば、最近、野菜が売れず、値崩れしているようです。生産過剰と言うよりも、消費縮小と言う分析結果らしいです。価格決定メカニズムとしては、市場経済ですから、需要と供給のバランスで決まると考えられています。日用品等の諸物価高騰と景気減速局面で誰もが生活防衛に必死であると考えられます。ここまで、見てきて、「物象化」って、何ら重要な日常言語でも専門用語(ターム)にもなっていません。必要ないのではないかと思われます。人気が無く、常用されていないのです。 なぜか。空理だからではないでしょうか。農作物として市場において社会的な評価を受ける時、他の生産物やサービスと直接比較されるわけではなく、その農産物の需給状況によるだけです。その農産物に化ける源泉は、農業労働、土地の便益、設備・機械類の減価償却分、肥料・燃料・用水等、技術・熟練度、天候であり、労働が商品に物象化するという単純化モデルの出てくる幕は何処にも無い様に思うのです。観光農園の場合は、○○狩という体験に価値が付き、農園直営レストランの場合は、材料費が安いので商品と言うよりもサービスメインの対価です。この場合も、「物象化」と言うのでしょうか。単純過ぎると思うのです。使い道のない言葉になっていると思います。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。きわめて抽象的と言えばそうですが 要するに われわれ人間が 仕事をするというとき あくせく働かなければならない情況のことだと思われます。あくせく働いても 大して何か充実感もないというような状態が 一般的であり ふつうのことになっている情況。・・・  石油の値段が高騰して 漁師たちが 仕事をつづけていけないという情況 この事例が わかりやすいのではないでしょうか。人間が仕事をするのではなく 仕事が 人間を 動かしているという情況。人間のおこなう経済行為が モノとモノとの交換過程の流れに 従属してしまった状態。今回の漁師の休業の場合は そのような物象の流れに従わざるを得ず 仕事ができないという内容の事例ですけれど。  たぶん 野菜の値崩れの場合も 大きく構造的な物象化の過程に位置していると思われます。生活がやっていける程度に 物象化しているなら それほど 気にならないでしょうし なくても済むかと思います。  勤勉資本主義とガリ勉資本主義とを分けましたが 最先端――と言っても 何が最先端なのか よく分かりませんが――の金融業界ですとか ICT業界などでは モノの流れのほうに 人は 合わせなければならないでしょうし 人は むしろ 動かされているかも知れません。  ですが 中小企業は そのような物象化した大企業の動きについて行かなければならないでしょうし そのとき 同じく 物象化してくるのではないでしょうか。  かつての高度成長経済の時代には たしかに《エコノミックアニマル》と呼ばれたわけですが その時は むしろ 需要が増えて生産が追いつかないくらいであるなら 楽しくおもしろがって 人びとは 《物象化されていた》かも知れません。  この先 グローバリゼーションが どういう形で どの程度まで グローバル化していくのか 分かりませんが 世界が隅々まで緊密につながって資本主義化したときには この物象化は どういうかたちになって現われるのでしょう。競争というものが どういうかたちになっているのか。などなどと 考えが向かいます。  範囲が広いとは思いました。

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