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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.36

 ★ 完全なる戯論  ☆ と見なした領域を――つまり 言いかえるなら 《無根拠》という領域を―― 《絶対》として想定するのだと思うのですが。そうでなければ 相対を超える世界を想定する意味が ありません。したがって まず、<絶対>が虚妄であり、有為の有だと思います。論理的に、無為に馴染みません。  ★ 『「無為」なる無』  ☆ も むろん 想定に過ぎないという立ち場に立ちます。つまり 《「無為」なる無》も そう表現してしまうなら それは あくまで この世としての人間の行為に属する《有為》としての出来事です。   そうなると、《有為》として、《「無為」なる無》も《「無為」なる有》も同じになってしまいます。困ったことに、矛盾なのです。そこで、僕も記述には悩んでしまいました。やむなく、純粋(?)なる無為を《「無為」なる無》としたわけです。『無なる「無為」』の方がいいかもしれません。  ★ 「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者  ☆ これは 定義があいまいであるように思います。《私から完全に隔絶し》ているとしても たとえば《言葉によって たとえ 表層のことだけとしても 互いの意思や 事実の認識について 理解しあえる》という場合には それは 《示され》ようが示されまいが 《有為》であり 人為であり 相対の世界に属します。 つまり、「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者は、人(他者)ではないのです。言葉足らずで申し訳ありません。自分だけで納得していただけでした。「私」からは、如何なる視点も持ちえず、言葉で記載できないという他者を「究極の他者」と考えていました。そして、示されるだけだと考えたわけです。全宇宙のアスペクト変換として。 > ですから 《絶対》という概念が 作業仮説として 必要であり 有効であると考えます。つまり  ○ 他者ないし 究極の他者 これをも超えた領域を 仮りに 想定してみる。それを 絶対と名づける。  ☆ という《戯論》なのです。たぶん 『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。  ★ 勝義諦  ☆ は 同じ概念内容になると思います。そのことを――つまり 実論(?)と戯論との全体を―― 有為の人間が 生の全体として・人格の全体として 摂り入れて 生きるとき その境地として  ○ 円成実性  ☆ が 実現するということだと思います。 僕は、円成実性は、世俗諦の最高水準だと思いますが、勝義諦だとは考えていないのです。 >《慈悲》も 伴なうようになるでしょうし その《円成実性》の境地からする思惟や世界観は 《縁起関係そのものを見つめ かつ 捉えた空観》として 現われてくるでしょう。 そうですね。それが、世俗諦です。 > ただ――ただ です ただ―― 仏教は この《絶対》を想定するのを どういうわけか 拒絶するようです。また 《信仰》の概念を 哲学として あきらかにしようとも 思わないようです。いかがでしょうか。 そのあたりの事情は分かりませんが、空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、信仰は関心外なので、パスです。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん お早うございます。朝まで生テレビを見ていて 途中で眠ってしまい 起きたら こんな時間でした。ご回答をありがとうございます。  もうここまで来れば 定義の問題だけであるように思います。  ★ 『有為なる<絶対>』ではなく、『無為なる<絶対>』ならば、「究極の他者」と同類にできそうです。  ☆ 概念の規定にきめ細かく対処して行っておられるようですが そして むろん そのことは 大事だとわたしも思いますが 定義は 反面で 単純明快であるのも よいと思います。  ○ 相対の世界を超えたところ  ○ 表象し得ないもの(領域)  ○ 表象し得ず 語り得ず 記述し得ず わづかに そのものの代理としての表現で 互いの了解を得て 想定しておくもの これが 絶対である。  ☆ これで どうでしょう? 《 X 》でいいのだと思います。それこそ 《鰯の頭》でもいいわけです。これらの記号や言葉も 《絶対》そのものではなく 代理の表現でありますし しかも 《絶対》という言葉も 同じく 代理のしるしだということになります。  ですから 《無為》でもよいでしょうし 《究極の(あるいは 欠如としての)他者》(――《 Autrui 》という言い方を フランス哲学を真似て していたみたいですね――)でも もちろん 通ります。  ★ 空観は、中道ですから、対極点に通じる「絶対」という概念とは、馴染まないように思いますし、  ☆ 《対極点に通じる「絶対」》というのが よくわからないでいますが いま上のように想定した絶対からいけば この絶対の立ち場(もしくは それとの関係を あたかも絶対的に 持った人間の立ち場)に立って 見た世界観が 空観だと考えます。中道であり 世界の縁起関係が 見えているということではないでしょうか。  じつは――ひとこと つけくわえますが―― これが このままで すでに 《信仰》なのですよ。  絶対は 考えても・表象しようとしても 分からないのですから それと対面すると言っても 経験思考は及びません。そのときには 《信じる(もしくは 信じない=つまり 信じないとして 信じる)》という態度になっているはづです。《信じないとして信じる》のは いわゆる無神論になります。そういう信仰です。  つまり 絶対は 《非有非無》ですから 仮りに その想定をさらに延長して あたかも 代理表現の仮想世界をわざわざ作ってしまうとするならば 絶対(つまり簡単に 神)が《有る》とするか 《無い》とするか どちらか二つに一つです。あくまで すべては 虚構の世界における出来事です。  そして 添え書きとしては 《〈無為〉に対して採る〈有為〉の人間の態度》 これが 信仰だと思います。人間である限り 《世俗諦》にとどまるのは 致し方ないと思います。(円成実性もそうでしょう)。  ということは 《勝義諦》は あくまで 《絶対》という純粋(?)な概念ということになります。しかも これを 擬人化して表現すれば 《神》ということになっています。(これは 信教の自由・表現の自由という次元に移って一段 世俗的になった情況での話です)。  これが 信仰にかんする哲学だと思うのです。このことを 仏教は どういうわけか おこなわない。こういう物言いなのですが?

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