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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.34

実は、信仰には興味がないのです。仏教哲学の論理的な側面とそのできの悪さに関心があるのです。ですから、ご質問のうち、「もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。」にだけ、関心があります。思想と言うよりも論理性の点に限定的ですので、ご容赦ください。 >(A) 経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対  これらの視点から どういうわけか 逸れていて 思惟や生のあり方が ブッディスムとして 提出されている。 これまでの流れを受けて、「経験領域とそれを超えたところ / 思想と信仰 / 相対と絶対」の二項対立の前方が世俗諦、後方が勝義諦に対応していそうですが、そう単純ではないようです。詳しい説明は省略しますが、これらの二項対立は、有為の遍計所執性にどっぷり浸かったままです。それぞれが自性的な概念に捉われている上に、二項では縁起の関係も世界に広がっていないと言う意味で限定的です。ですから、これらの視点はあまり重要に思えません。ただし、「絶対」だけ、後に触れます。 >(B)境地・境涯 のことを言っているのだと認識します。でも 煮詰めたかたちでは やはり (A)の判断の形式ないし基準は 有効であって   (B-1) 《境地》というからには 《人為》の世界であり 経験思想である。と考えられます。 なるほど、悟りの境地は、《人為》の世界であり、「経験領域」に属するようです。つまり、有からも離れ、無からも離れ、有と無の中道にあるという、「空」を悟るとは、論理的にばりばりの「有為」なわけです。ここが、仏教哲学の詰めの甘いところで、ボロボロな点です。 >もし そうでない場合があるとすれば   (B-2) 《人為を超えたところ》との関係として正規の《信仰》があり その信仰生活の結果 《境地》は もたらされる。という場合です。 逆に、悟りの境地が、《人為を超えたところ》の世界であり、「経験を超えた領域」に属するのならば、有からも離れ、無からも離れ、有と無の中道にあるという、「空」の悟りは、論理的には形而上学的な「有為」なわけです。これは、仏教哲学でも戯論として退けられている点です。どうも、「悟った」なんて言ってはいけないようです。 >・勝義諦 これは 《絶対》であると思われる。 「絶対」という自性的な概念では、有為の遍計所執性にどっぷり浸かっていますし、ウパニシャッド哲学のブラフマン・アートマンという(プラトンのイデアにも通ずるような)永遠不滅の概念に対抗して空観を説いた仏陀の意に反すると推察します。ゆえに、絶対との解釈は成立しないでしょう。 >・慈悲 これは 人為の極致でないとすれば 上の信仰の結果 もたらされる境地である。 論理性だけですので、パスします。 >・縁起=空観 これも 同じく 信仰の結果 の生活態度(としての思想)である。 「空」とは、「AにBがない」の論理形式をしています。「A(現象界の事象)にB(自性)がない」ことです。「B(自性)がない」ことは、「B(自性)が欠けている」ことです。そして、「非B(無自性)である」ことに変換でき、すべて類似表現です。この空性が、普遍的なので、A(現象界の事象)が、平等・一相・無相となることから、無差別という生活態度に繋がると説けば、そうかもしれませんが、この点が現代仏教で全面に出ているかどうか甚だ疑問です。結果平等、公的扶助には冷たい社会ですし、せいぜい所得再分配的な税制くらいだと見れば、机上の空論の感があります。 >・仏性 これは 以上の概念が 現実であり しかもまた 一人の例外なく 現実であるということを理由づけるために 想定したものではないか。(《神の霊が誰もの心に宿る》というたぐいの言い回しのごとく)。 想定・虚構(仏教的には虚妄)かもしれませんが、一見、知覚も認識もできないけれども、アスペクト変換できたら、有ると分かるよという比喩なのかもしれません。空観を基礎に置く仏性でしょうから、記述困難だとは思います。ただ、空観の普遍的な平等観に立てば、仏陀と同じ仏性がない方が論理的に矛盾します。ただ、有為の遍計所執性的に理解するとお粗末と言われそうです。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ちがいが分かりました。  ★ 記述困難  ☆ これは 《語り得ぬもの》かも知れないと推測しますが この領域のことを わたしの場合には  ○ 絶対  ☆ と想定するのです。《絶対》は あくまで 想定であり 作業仮説です。起きていることは すべて 相対の世界での出来事です。《有為》としての出来事であり その意味では  ★ 無為  ☆ が やはり 《想定としての絶対》のことであるかと思います。  (このように 《絶対》を想定であるとすれば 《信仰》のことも 概念操作としてだけで 扱うことができます)。  ★ 戯論・虚妄  ☆ これらを 想定の問題として――つまりは 広く 虚構として―― 議論に取り入れるという恰好です。そうでないと たしかに 《記述困難》の領域が 現われます。  また それでも たしかに この《記述困難》と 《絶対》とは 一義的に 同じとは言えないかも知れません。言えるかも知れません。後者は 《表象し得ぬ領域》を言います。それゆえ 仮りに 言葉という・表象を伴なう記号によって想定するかたちを採ります。  《無限・不可変性・超経験》としても想定し代理表現するところの絶対です。  《霊》というのも 絶対を言いかえたものに過ぎません。その内実など 分かるわけがないのです。そういう意味で 《仏性》を用いるなら 互いに通底するかたちで 相互理解への道が開かれるでしょう。

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