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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.21

>ブッダ葬送を執り行なう >ひょっとして 復活する恵みが起きるかも この比喩を理解できない人が多いと見ました。 つまり、仏教哲学では、最新の哲学水準(ここが一番曖昧で何を含み何を含まないのかが大問題なのですが)に比べて、見劣りするので、整除したら復活できるかもね、という趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。あるいは、最新の哲学が混乱の極みであり、仏教哲学の中から、既存概念を超越して、混乱収拾の手がかりを生み出す深化が見えてこないのでしょうかという趣旨を汲んでもらえなかったということでしょう。 信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。ということなのではないでしょうか。でも、それは無いものねだりです。あくまでも、葬儀と供養中心の衆生は既存の寺社制度にお任せして、一部の有識者のみで、生者のための無為の世界、勝義諦を極めた議論をするのみと思います。「・・・有為の奥山、今日越えて・・・」の探究です。質問者様ならば、その手がかりを提示できるのではないでしょうか。そのように推察しました。勝手な思い込みです。失礼しました。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  読み継ぐにつれて これは 仏教に対して わたしよりも厳しい態度なのではないかと思い そしてもう一つには ふうむ たしかに 現実的な問いかけの仕方もあるのかと思いました。  概念の確認をしておきます。《ヰキぺディア:法 (仏教)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)》から。  ★ 勝義諦(しょうぎたい)~~~~~~~~~~~~~  勝義諦とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。  覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。  ★ 有為法と無為法~~~~~~~~~~~~~~~~  形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法と分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変のを説く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん――なぜなら これまで けっこう 深く ここの質疑応答の場で 質問を積み重ねて来ているので―― いま掲げている課題が 避けて通れない焦点になっており すべての分かれ目を成すというほどの問題だと思うのです。  でも 現実的な対話法を 別の頭の働かせ方によって 模索してみようかとは思います。  そして もう一点 象徴的な争点になると思われることは  ★ 信仰に逃げるな。煙に巻くな。実践・修行の成果を報告せよ。  ☆ ということなのですが まったくそのとおりの趣旨なのですが(――なぜならば ここの回答としても あまりにも 百科事典からの引用とあまり変わらない内容が多いからですが――) 細かく見るならば こうです。ブッディストは 《信心》という言葉は使っても 《信仰》とは言わないですし 言ったとしても そもそも《信仰》とは 何なのかが 分かっていないように思われます。  《一部の有識者》は おそらく そのまた一部の人びとが 不承不承に 仏教は 無神論なのだと 問い詰めた果てに 述べる程度なのではないかと思います。しかも 無神論であるならば 無神という神の信仰なのだと分かっている人は きわめて少ないのではないかと思います。  わたしの場合は ここを しっかりと 仏教界内部から みづからが 明らかにするということが 肝心要であり すべての対話の第一歩になるのではないかと いまは 思っているのです。《絶対》の概念の問題ですね。  わたしにとっても あたまの切り替えが 大事のようですね。

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