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ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.35

勝義諦(至上究極真理、無為の世界に属す真理、非有非無、不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去の八不)が<絶対>だと、流れ的にも、論理矛盾になってしまいます。世俗諦にも劣る稚拙な不変実体やイデアのようになって、完全なる戯論になります。 つまり、無為と言う時、『「無為」なる有』を「語る」のが、世俗諦で、『「無為」なる無』を「示させる」のが、勝義諦です。語ると示されるの違いがあります。ただし、『「無為」なる無』は、「究極の他者」ではないかと考えられています。私から完全に隔絶した他者です。ゆえに、語ることも示すこともできず、ただ示されるのみの他者です。ですから、語ることはできませんが、何らかの方法で示されるかもしれませんが、その方法を僕はしりません。ですから、絶対ではなく、「究極の他者」としての勝義諦ならば、続けて展開できそうです。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  ★ 完全なる戯論  ☆ と見なした領域を――つまり 言いかえるなら 《無根拠》という領域を―― 《絶対》として想定するのだと思うのですが。そうでなければ 相対を超える世界を想定する意味が ありません。したがって  ★ 『「無為」なる無』  ☆ も むろん 想定に過ぎないという立ち場に立ちます。つまり 《「無為」なる無》も そう表現してしまうなら それは あくまで この世としての人間の行為に属する《有為》としての出来事です。  ★ 「究極の他者」/ 私から完全に隔絶した他者  ☆ これは 定義があいまいであるように思います。《私から完全に隔絶し》ているとしても たとえば《言葉によって たとえ 表層のことだけとしても 互いの意思や 事実の認識について 理解しあえる》という場合には それは 《示され》ようが示されまいが 《有為》であり 人為であり 相対の世界に属します。  ですから 《絶対》という概念が 作業仮説として 必要であり 有効であると考えます。つまり  ○ 他者ないし 究極の他者 これをも超えた領域を 仮りに 想定してみる。それを 絶対と名づける。  ☆ という《戯論》なのです。たぶん  ★ 勝義諦  ☆ は 同じ概念内容になると思います。そのことを――つまり 実論(?)と戯論との全体を―― 有為の人間が 生の全体として・人格の全体として 摂り入れて 生きるとき その境地として  ○ 円成実性  ☆ が 実現するということだと思います。《慈悲》も 伴なうようになるでしょうし その《円成実性》の境地からする思惟や世界観は 《縁起関係そのものを見つめ かつ 捉えた空観》として 現われてくるでしょう。  ただ――ただ です ただ―― 仏教は この《絶対》を想定するのを どういうわけか 拒絶するようです。また 《信仰》の概念を 哲学として あきらかにしようとも 思わないようです。いかがでしょうか。

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