>楽譜は読めなくてもいいから耳で聞いた音を再現できるようになりたいです。それとも、楽譜が読めないとピアノを弾けるようにはならないんですか。
楽譜が読めなくても弾ける人は居ます。つい最近、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝された辻井伸行さんは、全盲です。しかし、見ることができるなら、楽譜を見て弾くことをじっくりやった方が近道です。どこの鍵盤をどのタイミングで指で押さえるかを知れば、ピアノは弾けるのではないかと考えられるかも知れませんが、そう甘いものではありません。初歩の段階から、しかも大人からのスタートで記憶だけでは大変難しいと思って良いと思います。
それに、即興演奏のように、何も見ずにその場で創作して弾くような人は、そもそも、楽譜を見て弾くというところで鍛錬している人がほとんどです。先生につくなら、楽譜は必要だと言われると思いますよ、95%以上は。楽譜無しで「さあやりましょ」という先生は非常に珍しいと思います。教育においては、楽譜のような視覚情報があったほうが、圧倒的に便利です。逆に聴覚現象だけを扱っていると、生徒に教えるのは大変です。
・楽譜が読めなければピアノは弾けない
・しかし、楽譜を読む経験によって、楽譜なしで演奏を楽しむ喜びがわかる
と言えると思います。
>それから少し話がそれますが、ある曲を自分で創ったり、弾いたりしている人は、単に聴いているだけのリスナーよりも感受性を働かせているのでしょうか。
聴くだけで弾かない人と、実際に弾いたことのある人では、ある楽曲を聴いたときに脳に伝わる感覚的刺激や、その音楽から受け取られる情報量には格段の差があります。ただし、「感受性を働かせている」ことについては、べつに聴くだけの人でも、その人なりの感受性を働かせており、弾いたことのある人より感受性が劣るとは言えません。
ですが、普通は、楽器を弾いてきた人は、感受性を磨くということもしていますから、楽器を弾いたことがなく聴くだけの人よりも、いろいろなところに気付くだけの耳を持っていると考えた方がよいでしょう。(NeoAlien55)
補足
技術や知識を身につけても音楽を楽しむ感受性を保っていられるならいいのですが、余計な?知識や技術を身につけると、肝心の感性が損なわれるような気もするんですよね。小室哲哉氏も楽譜は読めないようですね。だからこそ感受性を保っていて、良い音楽を作ることができたのでしょうか。オーケストラの演奏者などを見ていると、機械のように精確に楽器をひいてはいますが、その表情は無表情で、あまり感性を働かせているようには見えません。 たまに音楽を聴いていると、「この曲を創った人は聴いていることに徹している自分よりも感動しているんだろうか」と思うときがあります。もしかしたら、本能や、技術力、知識のみで創作していて、その本当の価値や意味を知っているのはリスナーなのではないかと思うときもあります。例えば映画を作った監督よりも、評論家のほうがより的確に、能弁に語るときがあります。作った本人が「なるほど、そんな意味があったのか」などと感心する場面もあったと記憶しています。他人が作った料理のほうが、自分が関わっていず、知らないからそのぶん美味しく感じるということもあります。 「この曲は聴いてもあんまり面白くないけど、楽器を使って自分がひくことができれば、演奏することでの面白さは生じるだろうな」と思うこともあります。実際、ギターの練習をしたときに、曲が良くなくても弾くことの面白さを感じたこともありました。 聴くのにも飽きてきて、満足できなくなってくると自然と楽器を弾くときがくるのでしょうか。