jugemjugem の回答履歴

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  • 仏教を捨ててこそ仏陀となれる。

    仏教を捨ててこそ仏陀となれる。 お釈迦様の語った「無を悟りなさい」の内訳は有無について明白な分別を養いなさいです。 ところが有史以後の仏教教団は無の研究を違いありもしない極楽を夢想しています。 仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。 仏の立ち入りようがない娑婆世界で互助を装い自己満足にふけるのが仏土です。 そんな信仰は捨てたもん勝ちです。 よって仏教を捨ててこそ仏陀となれる。 仏教を捨てきれないくたばりぞこないの生きる屍よりの反論をお待ちいたします。 私の意見としては、 仏教徒は信教に非ずただ潜り抜けるのみの道であり、仏道と言う。 仏道は虚無のみの咲き誇る世界観である。 救いを求めるほど救いが無い事を知る絶望が仏道である。 あくまでも反証を正す質問です。 従うだけ、 飼われるだけの、家畜人ヤプーはお断りです。

  • 哲学よりボランティア

    哲学よりボランティア 哲学は、何の役に立つのでしょう? たとえば「自分と何か?」という問いに対し、深い認識を得たとしましょう。 しかし、それが、(社会の、)何の役に立つのでしょうか? 「哲学する時間があれば、ボランティアをせよ!」 そう言う人がいたとします。 あなたなら、何と答えますか?  

  • 宗教の意義

    こんにちは。 私の周りには宗教はインチキだという人たちが多いのです。そういう私も無宗教です。 ですが家には仏壇があり神棚があり庭にはお稲荷さんがいます。 お正月には神社に初詣にいきますし、法事はお寺で行います。結婚式は教会で挙げました。 本題に入ります。 その宗教がインチキだという人たちに意味のあるものだと思っていただけるようなお話を聞かせてください。 学がないもので難しい話はよく分からないと思いますがよろしくお願いします。 紛らわしい用語がありましたら区別ができるようにお願いします。 例)西洋の神(GOD)、中国の神(シン)、日本の神(カミ、迦微) 

  • 禅での「悟り」と「智慧」

    私は今、禅について学んでいるのでが、 「悟り」と「智慧」の違いが分かりません。。 「悟り」(般若)というのは、勿論言葉では表せないものだと書いてありましたが、あえて言葉に表せば、自分自身が「空」であるといった自分の本質を知り全ての「苦」から解き放たれるもの というように解釈しています。 ですが、「智慧」も基本的には「空」である認識?で同じような意味なのではないでしょうか? 後道元禅師の事について記述されているページに 「悟りを背にして、仏の光に照らされて修行すること、「修証一等」「本証妙修」といわれる。修行して仏になるのではなく、悟りを背にして、仏の光に照らされて修行するのである。したがって、その修行は、すでに仏であることに気づかされた本証の上の修行ということになる。」 とありました。 しかし、悟りを背にするとはどういうことなんでしょうか? 自らが仏である、という概念は分かるのですが、それに気づいたのなら何故修行する必要があるんでしょうか?。。(道元はそれを探しに中国まで行ったという話は読んだことがあるのですが、未だに理解出来ません。。) 参考「禅の入門 禅 滴」愛知学院大学 禅研究所 http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/word/text/12.html

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 人間にとっての快楽とはすなわち生存本能の満足のことか?

    いわゆる「快楽」についてなのですが、そのすべては「生存」の安定に結びついたものでしょうか? 性欲(恋愛)、食欲、睡眠欲などすべて自身の生存と種の保存本能を満足させることに付随しています。それ以外にも自己顕示欲とか社会的受容欲求とかありますが、これもまた人間という種の群れ的な満足、自身の生存の安定性につながったものです。 はたして、それ以外の「快楽」、まったく生存の安定あるいは繁栄から独立している「快楽」は存在しないのでしょうか?

  • 生きるのが苦痛です

    21の♀です。私は今まで自分がこう生きたいというような欲望がなかったので、恋愛にすがって生きてきました。でも恋愛経験薄弱なためにこの年になるまで気づかなかったのですが、恋愛も虚無だったとようやく気がつきました。 元々人付き合いが苦手で他者と長期に渡って関係を築くのが無理なんです。自分の中で理想に近い人とお付き合いできて、やっぱり他者は他者でしかなく、恋人でさえもその一定の距離を置いて付き合わざるを得なくて、あんなに夢中だった私も今はときめいたりすることもなく、ああ、これが恋愛なのか、要するに私は孤独を感じるのが嫌で恋愛に逃げていたんだな、というのが現時点です。 今の彼が性格もあうし最良なので今後彼と別れても誰かと付き合うようなことはなさそうで、唯一の逃避先だった恋愛もなくなってしまいました。 そしたら、自分の力で人生は生きていかないといけないというのは当然なのですが、何をしていても楽しくなく無感動で、やりたいことも何もなく、かといってどこかにまだ知らない本当にやりたいことが眠っているわけではありません。何をしていても暇つぶしなだけでつまらないんです。 毎日寝ることくらいしか楽しみがなくて、何もない未来に向かって生きていくのは、とてもだるいです。 こういうときはどうしたらいいのでしょうか?

  • 生きるのが苦痛です

    21の♀です。私は今まで自分がこう生きたいというような欲望がなかったので、恋愛にすがって生きてきました。でも恋愛経験薄弱なためにこの年になるまで気づかなかったのですが、恋愛も虚無だったとようやく気がつきました。 元々人付き合いが苦手で他者と長期に渡って関係を築くのが無理なんです。自分の中で理想に近い人とお付き合いできて、やっぱり他者は他者でしかなく、恋人でさえもその一定の距離を置いて付き合わざるを得なくて、あんなに夢中だった私も今はときめいたりすることもなく、ああ、これが恋愛なのか、要するに私は孤独を感じるのが嫌で恋愛に逃げていたんだな、というのが現時点です。 今の彼が性格もあうし最良なので今後彼と別れても誰かと付き合うようなことはなさそうで、唯一の逃避先だった恋愛もなくなってしまいました。 そしたら、自分の力で人生は生きていかないといけないというのは当然なのですが、何をしていても楽しくなく無感動で、やりたいことも何もなく、かといってどこかにまだ知らない本当にやりたいことが眠っているわけではありません。何をしていても暇つぶしなだけでつまらないんです。 毎日寝ることくらいしか楽しみがなくて、何もない未来に向かって生きていくのは、とてもだるいです。 こういうときはどうしたらいいのでしょうか?

  • 大乗について

    大乗とは、どういうことでしょうか。小乗に対して大乗、自分と他者、利益、大乗という考え方、結局大乗とは、どういうことでしょうか。よくわかりません。ご教示願います。

  • 仏教の輪廻転生の条件は?

    仏教の輪廻転生に六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)というのがありますが、この六道間の輪廻転生はどのような条件で起こるのでしょうか? 例えば、畜生道に生きた人が、他の六道に移って転生することは可能でしょうか? 可能だとすると、その条件は何でしょうか?

  • 人は何のために生きているのか?

    人は何のために生きているのでしょうか? 誰もが1度は考えたことのある悩みを抱いている大学生です。このことを考えていると、他のことなどどうでもよくなり、こんなことをして何の意味があるのか?とすぐ考えてしまいます。何か打ち込める趣味でもあればいいのですが、こんなものにハマっても仕方がない、と考えてしまい、自分でも何がしたいのかよく分からなくなります。この悩みの答えを見つけ、この状態から早く抜け出して昔の様に楽しく1日1日を過ごしたいです。 このことを考え始めてから自分では相当勉強(特に物理学)し、考えたつもりです。 まず、現在の僕の考えを箇条書きで書かせていただきます。 ・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。 ・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。 ・宗教的な話も全く納得できません。 ・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。 他の同じような質問も見たのですが、上のような回答が多いと感じます。 ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていませんが、答えに近づけると考えています。 みなさんの考え、この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。

  • 人は何のために生きているのか?

    人は何のために生きているのでしょうか? 誰もが1度は考えたことのある悩みを抱いている大学生です。このことを考えていると、他のことなどどうでもよくなり、こんなことをして何の意味があるのか?とすぐ考えてしまいます。何か打ち込める趣味でもあればいいのですが、こんなものにハマっても仕方がない、と考えてしまい、自分でも何がしたいのかよく分からなくなります。この悩みの答えを見つけ、この状態から早く抜け出して昔の様に楽しく1日1日を過ごしたいです。 このことを考え始めてから自分では相当勉強(特に物理学)し、考えたつもりです。 まず、現在の僕の考えを箇条書きで書かせていただきます。 ・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。 ・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。 ・宗教的な話も全く納得できません。 ・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。 他の同じような質問も見たのですが、上のような回答が多いと感じます。 ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていませんが、答えに近づけると考えています。 みなさんの考え、この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。

  • ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか

     末法が 現実であるのではないでしょうか。  もう何も新しい思想は ブッディスムからは出て来ないのではないでしょうか。  あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  《慈悲》は 人間にとって おこなうことは出来ないと なぜ 明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。  《縁起=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は 当たり前だと なぜ はっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただその場の気をそらせるための想像物(エポケー)です。  《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものは ないのではないでしょうか。絶対普遍なら そう言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題です。  一たんきちんと 葬送をしておくときではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。