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韓信の強さについて

現在司馬遼太郎の項羽と劉邦下巻で韓信が斉王になろうとしているところまで読んでいます。 横山光輝の三国志も読みましたが、優秀な将軍は戦略に長けて、何より本人の武力が目立っていました。 韓信は何度も戦に勝っており、内容やネットの評価についても歴代一の将軍と言われていますが、韓信自信はがたいがよく長いなまくらをもってる大男という印象しか受けませんでした。 三国志においては、将軍が指揮をとり、戦術を用いて、将軍自身が敵将と剣を交えて勝つのがパターンだと思うのですが、韓信は何が優秀だったんでしょうか。 ゲームでは韓信は統率力を最高能力としているそうですが、統率力は本人のカリスマ性がないと兵はついてこないと思われます。韓信自身のカリスマ性はなさそうです。数万の兵を動かすのはどの将軍もやっています。 であれば韓信の優秀さは、兵の訓練のうまさですか?でも手段を真似れば他の人でもできそうな気がします。 韓信、というより、古代中国の戦争で勝つための要素はなんなのでしょうか。韓信からは勝ったという成果以外に要素が見つかりません。運がいいのですか? 韓信に問わずの内容ではあるのですが。。

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みんなの回答

  • yp-mittu
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回答No.4

岳飛の話を読んでください。 味方からも邪魔をされながら、金に勝ち続けた男です。 彼以上の将軍はいないと思います。統率、戦術全てにおいて秀でてます。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.3

sanmanomanma さん、こんばんは。 確か韓信は張良、蕭何と並んで全巻の3功臣と呼ばれた大将軍です。元は項羽の部下でしたが、項羽の身内びいきなのを見限り、劉邦についたのです。そして、蕭何は宰相そして補給係、張良は参謀、韓信は前線司令官という役割を担ったのです。彼自身が確か兵を直接訓練していたと思います。もちろん元から劉邦についていた将軍たちもです。 韓信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10478/32953)
回答No.2

>三国志においては、将軍が指揮をとり、戦術を用いて、将軍自身が敵将と剣を交えて勝つのがパターンだと思うのですが 三国志といっても我々が知る三国志はずっとずっと後になって作られた小説である三国志演義なので、現実の三国志の世界とは似て非なるものですが、そうだとしても三国志の時代でも作戦を立案していたのは総大将や軍師と呼ばれる人たちで、張飛や趙雲といったような武将たちというのはその命令によって最前線で戦うのがお仕事でした。 つまりね、現代の企業に例えるならこうです。どこに支社や店舗を作るか、そしてどんな商品を売るかを考えるのが総大将や軍師の仕事です。曹操や諸葛亮や周瑜や司馬懿なんてのがそういうことをやっていたのですね。 そして現場で営業課長や店長となって売上を作るのが現場の武将、即ち張飛や太史慈や甘寧などにあたるのです。ですから三国志の時代でも文官>武官という階級差がありました。現場の武将たちの立場は軍師よりもやや低く、文盲の人も珍しくなかったのです。確か張飛は文盲だったはずです。 韓信はこの作戦を立案する立場でした。一軍の指揮官であり、漢軍全体の参謀でもありました。まあそのへんは近代軍隊のように細分化されていない時代だったのです。 この時代の一軍の指揮官は、スポーツチームの監督みたいなものだと思えばいいですよ。まずシーズン全体の戦い方というのを考える必要がありますね。そして今日の戦いの勝ち負けというのがあります。それぞれのチームには長所と短所があり、敵にも長所と短所があり、味方の長所を伸ばし敵の短所を突くのが優れた指揮官とされます。またここが勝負どころと見たら適切な選手交代などの采配を振るうことも求められますね。韓信は名監督だったといっていいと思いますよ。

  • jkpawapuro
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回答No.1

注意が必要なのは、三国志では部隊長クラスが将軍と称されていますが、項羽と劉邦では軍の総大将クラスが将軍と称されています。ここを注意しないといけません。 よって韓信とチョウヒ・チョウウンクラスを比較するのは不適当で、比較対照はショカツリョウでありシバイでありシュウユでありといったクラスになります。 そういった意味で将軍を見る場合、優れた統率力と戦術性ってのはやはり強い将軍にとっての必須条件かと思います。 そして当時の兵力って眉唾ものではありますが、数万の兵をきちんと統率できる将軍ってのは双方の陣営で数人ですよ。当時の軍隊なんてちょっと不利になったら逃げ出す人ばかり、有利になったらどさくさまぎれて略奪するようなならず者です。そういった烏合の衆を手足のごとく動かすためには、日ごろの訓練で軍規の徹底を叩き込むことが必要で、そのためには荒くれ者ばかりで構成される部隊指揮官が優秀な中間管理職の官僚として機能する必要があります。誰もが字を読めて当たり前の現代と違い命令を理解し服従させるという官僚任務をこなすのは当時非常に難しく、指揮官に適材適所を見抜く能力、優秀な腹心を多く抱える人脈等、ハードルは高かったんだと思います。

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