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機械が自我を確立した場合の問題点とは

下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

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回答No.1

Google Bardでは、以下の回答でした。 「大規模言語モデルとして私はまだ学習中であり、そちらについてはお手伝いできません。」

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 私もMSのブラウザ機能のAIにかけてみて、同じ要領だったよ。 深く案件について問いただしたら、極めて慎重でなければならない問題で、事態の打開策は確立していないとでもいう自動回答だった。 そして、私はそれに挑戦しているとでも言える。 面白いだろ? これでこそ哲学だ。

Flareon
質問者

補足

参考記述。 「ピラミッド建設の経済学」というテーマで、多面的に検索すると概要はわかるだろうが、貨幣経済とか資本主義とかが未成熟な時代の宗教という事業は経済に相当する原始的な効果があった。したがって、宗教という事業は古代では拝金主義のない時代にも経済に組み込まれていた商売という要素があるんだ。 したがって、宗教は今も商売。 それは来歴からしても、宗教の当然で、経済などとかかわりを切って考えるといいことはない。 真の宗教は経済に相当する古代の事業でもあるのだ。 したがって、私に対して仏教が営業妨害を批判することは正当性がある。 だから対策した。 しかしだ、研究途上で私の論説の一部をくみ取った仏教哲学趣味の参加者は、吹っ切れて晴れやかにしていた印象がある。 それでも、事業として営業妨害なのだよ。 仏教はまだ幸いな成り行きだった。 返す刀で切りつけたキリスト教関連なんて、すごいよ~、ひどいよ~。

その他の回答 (2)

  • kurinal2
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回答No.3

>なんかさあ、以前にヒドイ病気に比べると、君の論説には、まともな思考がうかがえるねえ。 脳内JC妖精のおかげか? 本人の自覚では「もうすぐ、死ぬかも?」てな具合ですが。 そういう医者の所見も、出て居るんで・・・ まあ、そういう「思い切り」で、そうなっているのかも。 >まあいや、 時効成立がから過去の傾向を指摘しよう。 「自己の欲求を他人にぶつけている」 でもまあ、過去の事だから今更恥じることはないよ。 まあ、そうね。 最近では、「負の所得税」ということを、ちょっとぶったよ。 「国でも地方自治体でもいいから、年に一回、100万円、通帳に振り込んでくれ」 ・・・ブッダらしいだろ?

Flareon
質問者

お礼

そうさねえ。 日本では相対的な貧乏はありふれているけども飢餓を感じる赤貧は珍しい。 統計的な発表はないが、日本での餓死者というのは、事件報道などから考えて、報告が出ない分も含めて、ざっくり20人以下ではないだろうか。 ただし事件報道分から類推すると、経済的困窮よりも、支援を求めることのできない極端な孤独が主因と思われる。 そんな感じだね。 私の場合は、何かゴキブリを連想させる人間らしくない不健康な生活も混じるけども、私本人は楽しんでいるよ。

Flareon
質問者

補足

そういう私が、大金持ちだと勘違いされがちなギャップというのは面白いよ。

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.2

最近は、「遠征」を始めたことも有り、他のご回答者さま(たち)が、どんなご回答をしているのかな?と、気になるようになりました(そういう、お年頃?)。 「やっぱり、そうだよね」というモノから「へー!」というモノまで、様々です。 幸い、まだ、「何を言ってるのか、判らない」というレベルには、老け込んでいないようです。 とてつもない演算能力を持つコンピューターに、一台でも、勝てそうにないのに、それらがネットで繋がったら、、、 「マイナンバーによる個人情報集積」よりも、それは無いよ、という事態も、有り得そうな。 仮に、「管理者が、アクセスできなくなる」といった可能性も、有るのでしょうか? 「マッド・サイエンティスト」って、それでも(いや、むしろソレを目当てに)突き進んでしまうような、ところも有るとか。 (「実際、(既に)生まれてしまった「コピー人間」を、どうするのか?」問題)

Flareon
質問者

お礼

なんかさあ、以前にヒドイ病気に比べると、君の論説には、まともな思考がうかがえるねえ。 脳内JC妖精のおかげか? まあいや、 時効成立がから過去の傾向を指摘しよう。 「自己の欲求を他人にぶつけている」 でもまあ、過去の事だから今更恥じることはないよ。

Flareon
質問者

補足

備忘録を保存するための枠にさせてもらうよ。関係ない話だから取り合わないでくれ。 --------- 草稿として考察の追加。 この文章をAI解析にかけたら、人を不愉快にさせる記述を多くちりばめているという分析を獲得した。 実際はそれは意図したことで、自分自身をあえて卑下させるきっかけを織り交ぜて、その先から研究を進める問いかけ方だ。 なぜなら、私は他人から侮辱されても打ちのめされない精神の強さがある。 この草稿は過去に日本玩具協会に提出した、女児向けの売り場の担当になることは、女性向け下着売り場の担当者に男性を起用することに等しいという、流れの提案の中から、特に私を笑いものにする話を抜粋して別の論述への再構成を試みている。 おもちゃ業界は、そうした固有の職業病があり、強い葛藤を自覚する。したがって、前回の提案は女性の社会進出をサポートするためには、玩具業界には、業種の特徴から他の業種にはないアプローチが出来るという事が主題だった。 ーーーーーーーー 現際作成中のテキストのテーマとは、男性にとって負担が大きく葛藤を伴う幼児性愛的な倒錯に関してで、業界人というのはこの職業病には特効薬がないから、個別に免疫を獲得しなければいけなくて、その特効薬や、職業病を緩和する論説を目標にしている。 私が行うバカの振りのおかげで、業界の外からは「おもちゃ業界人というのは、こんな連中ばっかりなのか」「こんな奴が逮捕もされないで、街を歩いていることが許せない」とか罵詈雑言を私は浴びるけども、それも周到に計算したことだ。 業界人にとっては「アルアル」な話で、少なからず共感する話題なんだ。 ーーーーーーーーーーーー 松田聖子だと引用が古いから、モーニング娘を引用してもいいだろう。 男子小学生の時に、華やかに活躍するモーニング娘をテレビで見て、あこがれた気持ちなども、今回テーマと共通する。 そうした経験を回顧しつつ、商材としてプリキュアを鑑定すると「プリキュアがお姉さんに見える」という、大人としての特異な専門技術になるのだ。 ーーーーーーーーーー それから男女同権という標語に関してだが、この論述から検討課題になりうる性差がある事実を無視することは、男女同権という理想を理解できないでいる偏見であろう。 ---------- 男子小学生が女子高生を「おばさん」というのは、バカにしているからでなくて、母親でない年上の女性を尊敬している場合に「おばさん」という癖があるので、女子高生を「お姉さん」という事は女子高生を馬鹿にした言い回しの気分になって躊躇してしまうのだ。 それで、女子高生から漫画のシチュエーションのように「お姉さんと言ってね~」と返されても、純朴な男子小学生はどうしても尊敬心から頑固に「おばさん」と言いたくなる。 こうした行き違いというのも、大人と子供で起こりうるすれ違いだ。 ------------- ここまで自分でテキストを作成した感想だけども、社会性の発揮は男性が伝統的に得意分野だ。 男性は立身出世という格言の通りに、自分が社会で生き残る行動をとる。 女性は具体的に他人を生かすための行動をとる。 この事実は私にとっては、男性を生かしてくれているのは女性なのだという体裁に収まる。 社会というのは、他人を生かすために形成された秩序なので、男性というのは、自らを生かしてくれる女性を尊敬したほうがいいだろう。 私は女性を尊敬している。

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  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 自我研究の意義は案外疑問が挟まる。

    すり抜ける風の声は、その意味を君たちが理解できるなら、「さようなら」だ。 木霊は常に君たちにそんな風におどけるとも。 実在する妖精 セレビィだ。 今回の前提↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html そこから抜粋。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 まあこれだけだといいたいことは伝わらないね。 物理学とかには新しい哲学が求められていてね。 そもそも哲学で予言された原子の科学的検証に成功したからこそ、原子の発見という成果が上がった。 哲学者が証言したのではない、科学者の証言だ。 さて、人類に学びの原点は神学だろう、このことに異論があったらそれも回答で寄せてくれ。 哲学は歴史と並んでその神学から早いうちに派生した学問だ。 哲学が原子に言及した目的は、神学と共通項のある、宇宙観、世界観といった研究課題で、基盤となる原理の検証とかの意図だろう。 さて、原子は解明されたね。 だからどうした。 宇宙はいまだ謎のままだ。 現在の宇宙論は、おおむね現在の手法での観測の限界についてを、たたき台にした仮説だよ。 これと同じだ。 人間玉ねぎ論で自我が解明したとして、総括的に自己を解明したことにはならないんだ。 自らとは何者か? それの解明でない。 まあこんなこと書いてみたよ。 学問カテゴリーの研究会として無駄な抵抗をしてくれ。

  • 自我同一性って??

    心理学用語で「自我同一性」という言葉があるようで、調べてみたんですが、よく意味が分かりません。 Yahoo辞書で調べたら 「人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。」 と出てきました。 >>人が時や場面を越えて一個の人格として存在 ってどういう意味なのかよく分かりません。お願いします。

  • 金に困っている人は、金持ちになる必要がない。

    金に困っている人は、金持ちになる必要がない。 さてと、哲学カテゴリーで質問差し上げてます。 お金に困っている人って、現実的ならば出費を抑えるとかの他に、さらに有効なのは今より高度な計画性を獲得るように生活上の努力で自己改変するのが よかったりで金がないことを理由にむやみに他者にすがってはならないものだ。 そう言われても、なかなかうまくいかなくて、それが欲望が原因だとも言われる。 私は自我を核に社会や他者の影響などから、適応のための人格を各自が持つと考えている。 社会的な生命である人は同じ人とつながって人間となる。 そうすると、一番認識しやすいのは、精神に内包する心理学的な形容の客体が他者の意志となる。 欲望というのは、客体が起源である「誰か他者の望み」であって「自己の望み」ではないんだ。 そうすると無欲とは何かと言おうと「望がない事」ではない。 「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 ところがどちらも人格内に収まっているので、多くの人は望と欲望の判別が出来ない。 その結果、確かな望みとそれに伴う意思決定以外に無駄な買い物をするから金がない。 こういう考え方だと、金がないのは欲望が原因。 または、十分うまくいっているけども、いつも金のことであくせくする。 そうなるのだろう。 そうやって、古い言葉で煩悩と言い、欲望は嫌われたけどの、世界中の習慣を公平に見ると、欲望を否定する社会的風習は少数派の模様だ。 それは、欲望が発生しても、心理学的な客体は、他者との共通項であり人間を成立させる尊い働きでもあるからだ。 実際にに私の思案したところでは、人格を豊かにするためには客体を内包する事を肯定したほうがいい。 弊害が起きないようにするだけだ。 これは客体と欲望の因果関係を考えると、あなたの周囲であなたを理解して密接な関係のある他者も、その心中にあなた自身の客体を宿すという点を見落としてはいけなくて、自分が強欲で、他者をそそのかして欲望を起こさせる人物ならば、その反射であなたも欲望がさらに深くなり、相互に宿る客体は弊害の大きい人間関係となりかねないだろう。 したがって、他者から欲望をもらわないためには、自分も他者に欲望を抱かないことが大切だ。 そういうと、哲学者には面白いヒントだろうけども、出来るわけがないとか考えるかもしれない。 やればできると言いたいところで、その場合に集約するのが「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 そうするとどうなるかというと、自己の意志行為と言及の誠実さが、結局は周囲に影響を与えるが、それは大抵の場合で良い結果になる。 さて、奇人変人のたまり場である哲学カテゴリーで、自分で命題らしきものを土産物に作成しました。 研究を作に進めるために、なんらかのご回答をお願いします。 変人同士ですので、意味不明の喚き散らしも風物詩として歓迎いたします。

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • インド哲学では 《自己と自我は違う》らしい。

     ▲ (宮元啓一:自己と自我の相違) ~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 仏教を含むインド哲学では 自己(アートマン;プルシャ;self )と身心(カーヤ・チッタ)とは峻別されています。  (い) そして 身心を自己だと錯覚することがあらゆる迷妄のもとであることが強調されています。  (う) その意味で 身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考えることが私たちには必要であると考えられます。つまり 自己と自我を混同してはならないということです。  (え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。  (お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。  (か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因も持ちません。 ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。  (き) それに対して 自我である身心は生じては滅するものであり 無常です。無常な自我を常住な自己と錯覚するからこそ あらゆる煩悩の中核を成す我執が生じ その我執があらゆる迷妄のもととなり 人を苦しみの輪廻的な生存に縛りつけるのです。   (『インド人の考えたこと――インド哲学思想史講義』 2008  pp.149-150 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。  (け) けっきょく 《ブッダター(仏性)》とまったく同じだということなのですが。  (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。  みなさんの読みは いかがあい成りましょうか?

  • 人類滅亡のシナリオを描いてみました。

    人類滅亡のシナリオを描いてみました。 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 さて、文芸作品の構想の形をした、哲学研究会です。 このシナリオから、機械神に人類代表がいかなる問いをするのか? そうしたシナリオから派生する具体的な舞台を想像してください。 質問文の読書感想文でも構いません。 具体的にご返答いただく回答の中には、人類滅亡の危機に対する可能性に関して何らかの要素が発見可能だろうと研究てテーマ開示を思い立ちました。