精神の充足は量なのか?

このQ&Aのポイント
  • おいしくて体に良い食べ物をほどほどに摂ることで、心も満たされるのではないか?
  • 精神の充足とは、物質的な満足ではなく、何を求めるかによって異なるのではないか?
  • 国際関係においても、人々の精神の充足は異なる要素によって影響を受ける可能性がある。
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精神の充足は 量なのか?

 (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか?  (β) 仮りに心が満たされることは モノにかかわる感覚としての充足から切り離されると見たばあい その精神の充足というのは 果たして量であるのか?  (γ) われわれ人間にとっての《食べ物》は 口に運ぶモノ一般を代表させて言うときの《パン》だけを言うのだろうか?    (δ) 仮りに別のパンがあるとして そのようなたましいの糧は けれども 何であるか? それが充足されるとは どういうことを言うのか?  (ε) 果たしてわれわれは いったい何を問い求め 得ようとしているのか?  (ζ) それは 民族によって違うものなのか? 日本人とほかの国の人たちとで それぞれ欲するものに違いがあるか?  (η) 国際関係においてそれぞれの国の人びとにとって たましいの糧とは 何があるか? あるいは 無いか? われわれは その人たちをも含めた自分たち自身に対して どんな食べ物を用意できるか?  よろしくどうぞ。  質問者からのたたき台が無くてすみません。  精神の充足が 感覚の満足から切り離されてあり それは量だというのは いったいどういう料簡なのか? という怒りを持っており これを添えます。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

こんにはです。 今回は、哲学と言うよりも、世俗的道徳についての問題ということもあるのでしょうが、 量の意味が曖昧なように思えます。 ここでの量は質と量を併せ持っているのでしょうが、これではかみ合わない議論になる危険性があると思います。ある人は量に質を含ませ、またある人は「質を含まない量」を量として定義して議論をするので。 ここは、quantity(量)とquality(質)と分けて考えるべきではないでしょうか。 もちろん、qualityは比較級的な量の概念を含んでいます。また、人間においては、quantityとqualityは不可分の関係にあります。なので、厳密な意味では両者を分けることはできませんけれども。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか? ~~~~~~ この質問は動物的感覚の次元と考えて、この「ほどほど」にが難しい。さして食べ物に対して関心のない眠り猫も、美味しいものを食べるときには、ついつい食べすぎてしまう。そのほどほどを掴み、習慣化させるということが大切なのでしょう。つまり、《知足》。 なのですが、この《知足》という言葉が曲者。うがった見方をすると、《老子》じゃぁ、人は無知になれ、馬鹿になれ、為政者は愚民化政策をおし進めて民衆を馬鹿にしろ、ですんで。今の自分に満足しろ、自己満足をしろ。一種の自己欺瞞。そこからしあわせが生まれる。まぁ、実際、そうなんでしょうけれども、こうした考え方はどうなんですかね~。老子の《知足》とは少し違いますけれども、西洋では、エピキュロスがそのいい例ですし。 やっぱ、ここはゴータマ・ブッダの両の極端を避けて、その中を行くってのが大切ということなんでしょう。 「ほどほど」をその意味をとらえるとすれば、異論なしです。あくまで動物的感覚次元の話としてですけれども。 でも、この「ほどほどに」がムズカシイんだよな~。腹八分目では、やっぱもの足りない(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (β) 仮りに心が満たされることは モノにかかわる感覚としての充足から切り離されると見たばあい その精神の充足というのは 果たして量であるのか? ~~~~~~ この「量」はquantity、それともquality、どっちの意味でしょう? 眠り猫はquantityとqualityの両方が欲しいです。 bragelonneさんもきっとそうでしょう? 「いえいえ、わたくし、ぶらじゅろんぬは、ひたすらquantityのみを追求します」と言われたらどうしよう。。。。 ただ、qualtityの追求から、副産物として具体的に計測可能なquantityが発生することもあるので、そこのあたりは難しいですよね。とくに《こころ》においては。 《こころ》において計測可能なものがあるのか? それは問わないでください。計測可能なquantity的なものくらいの意味に取っておいてください。概念間の新たな連関とか、上位概念から新たな下位概念の派生とか、新たな精神的な価値の創造とか。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (γ) われわれ人間にとっての《食べ物》は 口に運ぶモノ一般を代表させて言うときの《パン》だけを言うのだろうか? ~~~~~~ 動物的次元、欲求の世界、物質的な豊かさにのみ価値を見出す住人ならば、《食べもの》=《バン(に代表される物質的なもの)》。 知的好奇心にあふれる眠り猫は、NOです。時々は美味しいものを食べたいけれど、《パン》はあくまで生命をつなぐものと割りきって生きています。そして、飲食そのものよりも、その時の、隣り合う人とのワイワイガヤガヤや連帯感(?)といったものに価値を見出しております。 bragelonneさんとこうしたやりとりをするのもすごく楽しい!! だからと言って、《食べもの》=《パン》の人を否定するつもりは毛頭ございません。ひと様に迷惑にならない範囲で、できたら、結果として他者に恩恵をもたらすという形でその道を邁進して欲しいと考えます。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ (δ) 仮りに別のパンがあるとして そのようなたましいの糧は けれども 何であるか? それが充足されるとは どういうことを言うのか? ~~~~~~ これはムズカシイ質問ですね。 僕なら、本で代表される知識でしょう、気心の知れた友達との絆と和気藹々でしょう、音楽や演劇などの芸術なども欲しい。特に、本とネットにつながれたコンピュータ、音楽がなければ、生きていけない。 もともと、物質欲強くないし、僕。 さりゃぁ~、人が何かいいものを持っていれば、「いいなぁ~、欲しいかも」とチョッピリくらいは思いますけれども。 でも、物質的なものは大切なんだけれども、そこに大きな価値を見出すと、物質や物質的な欲望の虜になっちゃうと思うし。 充足とは、精神的、物質的な欲求がquantity、qualityの両面でとりあえず一時的に満たされることでしょうね。で、問題は、その充足状態の持続(時間)ということになるのでしょう。 なんか、この回答は、(δ)の回答は全体を通して、エピキュロス的な答えだな。陳腐過ぎるかも、ポリポリ。 充足という感覚、primitiveな感情的な話だから、仕方ないか。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (ε) 果たしてわれわれは いったい何を問い求め 得ようとしているのか? ~~~~~~ さぁ~。なんか、最近の日本の潮流を見ていると、《清貧》や《知足》、現実生活内での消極的《隠遁主義》ってことになるんでしょうかね。江戸時代が、ここ数年、静かなブームになっています。落語ファンも若い人を中心に増えていますし。 《清貧》にはちょっと憧れるのですが、やっぱ《貧乏》は嫌だな~。栄養がカロリー面、バランス面で十分だとしても、毎日、同じものを食べつづけるのは、ちょっと辛い。たまには美味しいものを心が満足行くまで食べるくらいのゆとりは欲しい。 まぁ、それでも、周囲の人がすべて《清貧》状態であれば、困っている人への譲り合いや分け合いの心が自然に芽生え、それはそれで困らない生活は送れるであろうし、そこから、人間本位のあらたな哲学や思想が生れてくるのだろうけれども。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ (ζ) それは 民族によって違うものなのか? 日本人とほかの国の人たちとで それぞれ欲するものに違いがあるか? ~~~~~~ これは環境的、文化的、生物学的な民族の遺伝的背景を考慮に入れないと議論をできないと思います。なのでパス。 ただ、同じであって欲しいと思います。そして、物質は大切だけれども、物質的なものに過剰なまでの価値をおかない、ということであって欲しいと思います。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  (η) 国際関係においてそれぞれの国の人びとにとって たましいの糧とは 何があるか? あるいは 無いか? われわれは その人たちをも含めた自分たち自身に対して どんな食べ物を用意できるか? ~~~~~~ そろそろ、地球が人類の飽くなき物質的欲求に答えられなくなっていると思うのですよ。いや、もう遅いかもしれない。逆戻りできないところまで地球を搾取し、回復不可能なまでの負荷を地球に与えたのかもしれない。 自然、地球、まぁ神みたいなものですわね~、に甘えすぎた。自然なる神を、人間の現象下で殺した、死なないまでも再び活動ができないまでの致命傷を与えた。 地球にダメージを与えたなんて、これもまた傲慢な、人間本位的の見方って奴なんですがね。そんなもの、地球にとって、ダメージでも何でもないんですがね。ただ、人間が自らの手で自分の棲息環境を悪化させたくらいの意味しかないんですけれど、本当のところは。 正直、百年後の地球の姿を考えると、人類はどうなっているんだろうと、空恐ろしささえ感じています。 資源の枯渇や地球温暖化によって環境が悪化し、資源や環境的によりよい土地、水を求めて、国家や民族間の凄惨な戦争を起こしているのではないか、などなど。それも世界規模で同時多発的に。 地球規模で《命の糧であるパン》の意味を真剣に考える時期にきているのではないかと。もう遅いのかもしれないのですけれども。 でなければ、人間は本当のオオカミになってしまう。眠り猫なんぞは、すぐに食べられてしまう!!

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ 人間においては、quantityとqualityは不可分の関係にあります。なので、厳密な意味では両者を分けることはできませんけれども。  ☆ なるほど。たとえば 《内容》と《形式》は 一般に一体である。ただし 《質料》と《形相》とというふうに抽象化すれば それでいちおう 両者は分離する。    ★ 量の意味が曖昧なように思えます。  ☆ なるほど。たしかに たとえ数量化して《指標》にしてしまったあとにも その指標という形式に《内容》のことは けっきょく伴なわれていると見るべきかも知れません。  そうですね。ただ そもそも精神の充足が 数量化された指標で表わされるか? という問いもまだ残るようにも思われます。     *  (α)  ★ ~~~~   (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか?  この質問は動物的感覚の次元と考えて、この「ほどほど」にが難しい。  ・・・  「ほどほど」をその意味をとらえるとすれば、異論なしです。あくまで動物的感覚次元の話としてですけれども。  でも、この「ほどほどに」がムズカシイんだよな~。腹八分目では、やっぱもの足りない(笑い)。  ~~~~~~~  ☆ なるほど。この《ほどほどに》は われながらよくぞ書き入れることが出来た。と思いますね。  もしそれがなければ もろに  ★ 動物的感覚の次元   ☆ におさまってしまったかも知れません。だって 《動物的感覚》を扱いつつ  ★ やっぱ、ここはゴータマ・ブッダの両の極端を避けて、その中を行くってのが大切ということなんでしょう。  ☆ というふうに中庸・中道・中観が当てはめられようとするほどの議論になっているからです。  ★ 腹八分目では、やっぱもの足りない。  ☆ なる世俗諦を活かしつつ 空諦から中諦に突き抜けなくてはいけないという帰結が待っています。     *  (β)  ★ ~~~  《こころ》において計測可能なものがあるのか?  それは問わないでください。  ~~~~~  ☆ この問いのみだったのです 初めの心つもりは。《一生をつうじての精神的充足量》という命題をかかげる回答を 到るところで目にするものですから。  ★ 計測可能なquantity的なものくらいの意味に取っておいてください。概念間の新たな連関とか、上位概念から新たな下位概念の派生とか、新たな精神的な価値の創造とか。  ☆ こころが満たされるという《内容》にかかわって 味なりヘルシーさなりの《形式》が 《計測可能な量》でありうると。しかも その指標を 大きく全体として《ほどほどに》の観点から評価する。という意味でも  ★ 新たな精神的な価値の創造とか。  ☆ になりうるかも知れません。     *  (γ)の問いは いわずもがなでしたね。     *  (δ)   ★ 充足とは、精神的、物質的な欲求がquantity、qualityの両面でとりあえず一時的に満たされることでしょうね。で、問題は、その充足状態の持続(時間)ということになるのでしょう。  ☆ なら 《時間》は 量であろうという・わたしへの反論が来そうです。  ★ 持続  ☆ は 質なはずです。深さ・濃さなど。    *  (ε)  ★ ~~~~  まぁ、それでも、周囲の人がすべて《清貧》状態であれば、困っている人への譲り合いや分け合いの心が自然に芽生え、それはそれで困らない生活は送れるであろうし、そこから、人間本位のあらたな哲学や思想が生れてくるのだろうけれども。  ~~~~~~  ☆ やっぱ《関係性》も 入って来ますね 考慮の中に。そういうコトが 数値的指標に成り得ますかねぇ。     *  (ζ) それは 民族によって違うものなのか? 日本人とほかの国の人たちとで それぞれ欲するものに違いがあるか?    ★ ~~~~  これは環境的、文化的、生物学的な民族の遺伝的背景を考慮に入れないと議論をできないと思います。 なのでパス。  ただ、同じであって欲しいと思います。そして、物質は大切だけれども、物質的なものに過剰なまでの価値をおかない、ということであって欲しいと思います。  ~~~~~  ☆ 考えてみると この項目は いい問いを置いておいたと思います。ただし 実質的に見ると 飾りのようなものにとどまるかも知れません。こういう問いは すべての哲学の問いにまで発展するかも知れません。  ということは この種の質疑応答の場を けっきょく国を超えて人びとがやり取り出来るようにもうけるといった方向へ議論がすすむのかも分かりません。   これは ここまで。     *  (η)  ★ ~~~~  ・・・  地球規模で《命の糧であるパン》の意味を真剣に考える時期にきているのではないかと。もう遅いのかもしれないのですけれども。  でなければ、人間は本当のオオカミになってしまう。眠り猫なんぞは、すぐに食べられてしまう!!  ~~~~~~  ☆ オオカミとネコの揃い踏みですか。イザヤでしたかは 獅子やマムシと子どもたちがともに遊んでいる風景を描いていませんでしたか?     *  ★ 今回は、哲学と言うよりも、世俗的道徳についての問題ということもあるのでしょうが、  ☆ といったところから さらに単純なところで なんで精神の充足に量という規定をするのだろう? ということが どうしても腑に落ちなかったものですから 道草のごとくにだったと思います。ありがとうござしました。

その他の回答 (1)

回答No.1

精神的充足は、物質的獲得からは切り離されていますが、感受からは切り離せません。 物質的に与える事が充足感を生む事もありますが、その時もその状況を感受しています。 また、同一の行為でも、充足感の程度は人によって異なる(意志の強さ、感受性)ので、外から正確に計量できる「量」ではありませんが、少なくとも当人は、それぞれの行為から得られる充足量を比較して意志を定めており、それを指標とするのに支障はありません。 (昨今、「国民総幸福量」を国是とする国も出る時代です)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1)  ( a )★ 精神的充足は、物質的獲得からは切り離されていますが、感受からは切り離せません。  ☆ 《おいしいご飯を求め得た》という《物質的獲得からは切り離されていますが》 《その食事がおいしかったという感覚的満足》としての《感受からは切り離せません》という意味に取れてしまいますが 果たしてそれでよいのでしょうか?  (2)  むろん確かめることもないことですが 《精神的充足》を言う場合には そうしますと 《うまいご飯にありつけた》ことと《うまかった》ということとは別のことになりますが それでよろしいでしょうか?  (3)  ( b )★ 物質的に与える事が充足感を生む事もありますが、その時もその状況を感受しています。  ☆ こうでしょうか? つまり  ( b-1 ) モノが与えられたりモノを得たりするという物質的獲得のほかに そうではなく ほかの人に《物質的に与える事が〔与える人においてその精神としての〕充足感を生む事もありますが、その時もその状況を感受しています》。  (4)  たぶんそうだと考えますが まだよく読み取れません。  ★ その時もその状況を感受しています。  ☆ この部分です。  (5)  ( b-2 ) あたえるあたえられる双方およびこの両者をめぐる情況全般 これを精神は感受している。  という意味でしょうか? ということは さらに( a )と考え合わせて 次のようになりましょうか?  ( b-3 ) モノを与えるということは 自分が物質を獲得するのではないから そのときにはもともと精神は《物質的獲得》とは切り離されている〔=( a )〕。けれどもそのような贈与の場合にも その贈与をめぐる双方および情況全体については――それも物質的事象であるが―― 精神は感受している。  (6)  だから どうなのか? という問いを持ってしまいますが これは これとして次に移ります。  つまり 贈与するそのモノを こちらは 一たん手に入れなければならない・つまりそのようにして《物質的獲得》を経ることになる。のですが それは 精神から切り離されているということでしょうか?  (7)  ( c )★ ~~~~  また、同一の行為でも、充足感の程度は人によって異なる(意志の強さ、感受性)ので、外から正確に計量できる「量」ではありませんが、少なくとも当人は、それぞれの行為から得られる充足量を比較して意志を定めており、それを指標とするのに支障はありません。  (昨今、「国民総幸福量」を国是とする国も出る時代です)  ~~~~~~  ☆ これについて批判を述べ お礼に代えます。  (8)  ( c-1 )★ 昨今、「国民総幸福量」を国是とする国も出る時代です  ☆ ですから 国民総所得といった定量的な指標を国の政策の中に用いていた時代にあっても 《感覚》としての量と《精神の充足》としての質とは ともに互いに相い携えて 求められつつ捉えられていた。と見るからには 《国民総幸福量》なる指標が出されようが出されまいが 《身と心から成る人間の問い求め得ようと求めるもの》に変わりはないであろうと――趣旨説明欄に何ら記載していませんが―― 見ていますし そのことを間接的に問う質問です。    (9)   要しますと そういう新たな指標を国是にしようがしまいが 議論(問い求め)にとっての大勢に影響はない。こういう考えを 遅まきながら 趣旨説明として添えます。その上で 掲載した質問内容を問います。  (10)  ですから 今度は  ★ 「国民総幸福量」  ☆ とは 何ぞや? というのが 質問の焦点にあります。つまりは  ○ 精神の充足は 量なのか?  《幸福》なら 精神にからむことでしょうから。むろん 誰もが推理するように それは 量ではなかろうという含みにおいて 問うているものです。  (11)  「国民総幸福量」なる指標の内容については こちらからは触れません。(8)(9)の記述からも推し測ることができるように 質問者はどうでもよいと考えているからです。  ひとこと触れるならば  ( c-2 ) 同一の行為でも、充足感の程度は人によって異なる(意志の強さ、感受性)  というのであるとき どうして定量的な測定およびましてその評価が 成し得ましょうやと。  (12)  さて周辺の問題はさておき たぶん次の命題が ここでの互いの問い求めの中心となるかと思われます。  ( c-3 )★ それぞれの行為から得られる充足量を比較して意志を定めており、  (13)  まづすでに定義をほうっぽり出して ご自分の議論の中に《充足量》というようにそれは量だという前提が出て来ています。  ( c-4 )★ 外から正確に計量できる「量」ではありませんが、    という考慮(ことわり書き)のもとにです。このことをもすでに措いておいて:  (14)  もし仮りに( c-3 )の命題がただしいとしたなら――というふうに すでに焦点をはづしにかかってはいますが(つまり そういう条件としての情況を甘受して話を進めざるを得ないと考えるからですが)―― こう問い返す必要がありましょう。まづ  ( c-5 )☆ それぞれの行為から得られる充足量 これは 《精神的充足》を言うのか?  です。  (15)  答えはおそらく それも含まれる。でしょう。だとすると 今度は その人において  ( c-3 )★(あらまし) 充足量の比較とそれによる意志の決定(選択)  という局面の問題に移ります。  (16)  この局面とその問題というのは   ( c-6 ) ~~~~  局面は 精神の充足を目指しておこなう行為をワタシはいくつか〔事前にも〕持っており その中からどれをえらぶかを決めるという地点にある。   問題は その選択にあたって いくつかの行為についてそれによって得られる充足の度合いをそれぞれ見積もるのであるが その見積もりを量的に成しうるか? つまりその意味は最終的に 比較しうるか? ここにある。  ~~~~~~~~~~  (17)  つまり  ○ 精神の充足は 量なのか?  つまり  ( c-7 )★ それを指標とするのに支障はありません。  というごとく    ( c-7-1 )☆ 精神の充足は ひとつの行為ごとに量として測定しえて 互いに比較しうる。ゆえに その定量的な規定を 人びとに共通の一般的な指標としうる。か?  (18)  どうなんでしょう? 回答者の答えは 決まっているようです。  ( c-8 )★(あらまし) 正確にではないが 測量しうるし比較しうる。      (19)  質問者は ここでもう論議はやめにして 実証の問題に移ったほがよいと考えるに到りました。  ( c-9 )☆ 一つひとつの行為によって得られる精神的充足の量を測定する手法およびそれの有効性について 理論を作成し実験をおこなって欲しい。  と。     *  (20)  どうでしょう? これで公平な問い求めとその結果の有効性について 保証されるのではないでしょうか?  言いかえると 《精神的充足量》という規定をおこないこれを みづからの主張の中に採り入れるのなら (19)の要請に答えなければならない。こう帰結されると考えられます。  (21)  もしそうでなければ 主観としての希望や期待を込めてこの《精神的充足量》という言葉を或る種の用語として用いている。だけである。と その主張を読む人をも含めて みとめなければならない。  こう問うて 質問者の問い求めを確認しつつ 述べたことになります。  (22)  おぎない:精神の充足にあたって モノを得ることや感覚的な満足を――故意に――切り離すことは 必要ないのではないか〔(1)および(2)〕。この点をも問うているとつけ添えたほうがよいと考えます。

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