精神の充足は量か?それも馬の鼻先の人参ではないのか

このQ&Aのポイント
  • 精神の充足は量なのか?それとも馬の鼻先の人参なのか?人間の存在や心について無を還元されることも考える必要がある。そうした問題を含む質問について考えてみました。
  • 思考の深さや考え方の豊かさこそが精神の充足なのか、それとも物質や外部の要素の量が重要なのか。その疑問について考えてみました。
  • 精神の充足は人それぞれで異なるものであり、量ではなく本質的な思いや感じ方によって決まるのかもしれません。無から生まれてくる理由や人間の存在についても考えてみました。
回答を見る
  • ベストアンサー

精神の充足は量か?それも馬の鼻先の人参ではないのか

 精神の充足は量か?  そうであっても・なくても それも馬の鼻先の人参ではないのか?  人間という存在あるいはその心のことについて 何ら顧慮しない思想がはびこっていますまいか。  もっともそれもこれもすべては無に還元される。というのなら ならば・だから どう世界をあらためて認識しどう振る舞うか? を明らかにしなければならない。  還元されるという無も それが何のことか はっきりしない。させない。  それにしても その無からどうしてわれわれは生まれて来たのか?  そういう問題をふくむゆえに:   精神の充足は量か?   そうであっても・なくても それも馬の鼻先の人参ではないのか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

#2の者です。 ご指摘の主旨がよく分かりません。 基本的に自己存在の本質に根差した、生の根源的 意志の展開としての自律的社会行動は、「馬車馬 の目の前のニンジン」ではありません。 「餌」というのは、その長期的結果や広範な影響 (による人生を通算した精神的充足への影響)を 把握しない=他律的な行動を導く、お金や出世と いった社会的虚構、自己顕示欲や虚栄心といった 短絡的衝動による“釣り”です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答内容がよく分かりません。  ★ 基本的に自己存在の本質に根差した、生の根源的意志の展開  ☆ それは 《無に還元される》という《本質》の事ではないのですか?  しかもそれでも《人生の目的》はあるということですよね?   ★ 〔精神の充足量の最大化は〕生の根源的意志の展開としての自律的社会行動  ☆ であるのですか?  《自律的》であっても 人びとに共通の定量性があるのですか?  《自律的》であるゆえに そのような定量的な測定が可能なのですか? それは 他律による行動の場合ではないのですか?  ★ 生の根源的意志  ☆ というものがあるのですか? あるいは あるけれども分からない。けれども 想定でもするのですか?  すでに《生の根源的意志》でありその《展開》であることが わざわざ人生の目的とされるのですか?   しかも その量的な最大化が目指されるのですか?  ――どこが《根源的》なのですか?   つまり 根源的意志の展開が 《わたしがわたしである》ときおのづから推し進められる。その結果 もしそうだと言うのならば精神も充足を味わうという順序なのではないのですか? つまり 順序が逆ではないのですか? つまり《馬の鼻先の人参》にして努力するという順序になっていませんか? なっているなら 意味がありません。あるなら 分かるように説明してください。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「餌」というのは、その長期的結果や広範な影響  (による人生を通算した精神的充足への影響)を  把握しない=他律的な行動を導く、お金や出世と  いった社会的虚構、自己顕示欲や虚栄心といった  短絡的衝動による“釣り”です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《短絡的衝動による》ものであろうと《長期的な見通しのもとにおこなう》ものであろうと 《人生の目的とする》のなら けっきょくどちらも同じく《釣り》なのではないのですか?  よそから与えられる《エサ》と自分からもうける《エサ》とに どういう違いがありますか?  他人から受け取ったエサであっても 本人はそれをよしとして受け取りこれを自律的に自分の行動に活かすという場合もあり得ます。  それと同じように 自分で打ち建てた計画であってもそれを遂行することを目的として――つねにそのつど少しでも充足量を増やすのだと言って――努力するのなら 他律の意志とあまり変わらず けっきょく馬の鼻先の人参というものになってしまっていることがあり得ます。  ご回答をありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

>《精神の充足は 〈定量性〉を基本的に有する》という答えであった場合 どうか?< この場合は、量も有する、ということになるのではないでしょうか。事実彼は情報量について発言していて、しかしそれだけではない、と言っています。私にとっては、幸せを、量で表現するという試みは、別に不思議ではなく疑問も生じません。ただ、それはひとつの表現であるというだけです。 > 《精神の充足 あるいは あなたの言うように幸福》は それぞれがおのれの《固有のとき》を持ちその時間において味わうものであって これが 主要な中身であると考えます。それに 多少は量的な――なぜなら 経済的なささえが無ければ話になりませんから――内容もくわわっている。というのであって 定性的なしあわせと定量的なそれとの間に《優劣がない》というのは おかしい。のではありませんか?< おそらく彼の言う量とは、経済力によって手に入れられるものではなく、どれだけたくさん幸せを感じたか、という意味での量だと思います。言ってみれば機会の数や、時間の長さ、のようなものではないでしょうか。或いは、その時受けた刺激の種類や量を言っているのかもしれません。質問者の言う、固有の時、というものが何なのかはわかりませんが、量についてはこのような意味で捉えています。 質問者の言う固有の時と、幸せを感じる機会の数および時間の長さ、を比べた時に、どちらが優れているかという答は今は出せません。固有の時についての説明がもう少しなされたならば、可能かもしれませんが。 >人間に《根源的な意志の展開》であるならば そのことを――精神の充足なる自律的社会行動を――わざわざ《人生の目的》とする意味はない。  順序が ぎゃくである。根源的な生の展開をすすめて行くとき そこに結果として精神の充足も――量的にも質的にも――伴なわれるというもの。< おそらく、根源的な意志の展開の先とはなにか、と問えば、自律的社会行動、となるのでしょう。それを敢えて目的とよんでいるのではないでしょうか。つまり、質問者の言うとおり、はじめに能動的な何かが人間の中に根ざしてあり、それは社会的行動を促すものである、ということだと思います。 >《無に還元されるの無とは何か?》は 質問済みだからです。《否定する》ことだという答えでした。<   私が聴いたところでは、無は光の風となって云々という詩的なものでした。おそらく、無という要素が絶対的で一元的なものではなく、多元的なものとしてサイテックスさんの中で解釈されているのだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私にとっては、幸せを、量で表現するという試みは、別に不思議ではなく疑問も生じません。ただ、それはひとつの表現であるというだけです。  ☆ 問題は たとえば《充足量の最大化》ということを言うわけです。それを目標とするというわけです。  これは 《ひとつの表現であるというだけ》でしょうか?  それに まだ問題はあります。  すなわち 職業について成りたいものに成ったとかこの大きな仕事をこういうふうに成し遂げたいと思ったとおりに励んだとか そういった定量的な側面もあります。仕事の達成感には 量的なもの以上の中身があるはずですが けっきょく量としての達成度などをめぐってそれを自分自身としてはどう捉えどう評価するかを――つまりそこで精神の質的に――考え振り返るわけです。そういう満ち足りた時間があります。  《量だけではない》というのは 量にも――量の問題にも――もとづきあとになって綜合的な評価をくだすわけです。つまり 充足は精神のものであってつねにじつは 最終的には質的なのです。  だから 《充足量の最大化》などという限りで その《量的な評価》というのは うたがってかからないとおかしいのです。そういう物言いです。  このような最終的な心の《決め》が 固有のときです。  ★ おそらく、根源的な意志の展開の先とはなにか、と問えば、自律的社会行動、となるのでしょう。それを敢えて目的とよんでいるのではないでしょうか。  ☆ マチガイです。なぜなら 順序がぎゃくだからです。《充足量の最大化》という目的・目標をかかげたときに マチガイがはっきりと現われて来ます。表現のまづさだけではなく 哲学としてはマチガイです。  ★ つまり、質問者の言うとおり、はじめに能動的な何かが人間の中に根ざしてあり、それは社会的行動を促すものである、ということだと思います。  ☆ というときには 精神の充足量の最大化といった目的は およそ思い浮かびません。という問題です。  それこそ熱情的に言うなら ダイモニオンに取り憑かれたように計画を立てたあとでは目の前の問題に向き合い一つひとつの課題に取り組んで行くわけです。あとになった段階にも 別に精神の充足量は極大になったかどうかなどと問うたり思ったりすることはありません。  ★ 私が聴いたところでは、無は光の風となって云々という詩的なものでした。おそらく、無という要素が絶対的で一元的なものではなく、多元的なものとしてサイテックスさんの中で解釈されているのだと思います。  ☆ これはまだ――まだです 落としめようと思って言うのではなく まだです――意味を発生させていません。のぞみをうかがったというところです。  ★ つまり、質問者の言うとおり、はじめに能動的な何かが人間の中に根ざしてあり、それは社会的行動を促すものである、ということだと思います。  ☆ というふつうの順序ではないからこそ 《馬の鼻先の人参》といった比喩が 世に言う自己チューな人びとを見て――自分自身の中にこそそれが反映されて来ているので それを捉えて――出されて来るのでしょう。そうとしか考えられません。  つまり 三度目か四度目としてでも言いますが 《精神の充足量の最大化》を目的とするというのは 明らかにその努力目標を《馬の鼻先なる人参》として自分自身がぶらさげたのである。それよりほかのことではない。こう考えます。  こういう批判をしておかないと 哲学カテに来た第三者は カテの参加者はみんなこの《精神充足》論に――それが いやというほど何回も何回も投稿されているのですから――賛同していると思いちがいをしてしまいます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.4

人生の幸福を量として量ろうとする考えは人間的で理解できる。 また、人生の幸福は量では量れないという主張も人間らしく理解できる。人生の幸福という言葉を同じ意味の他の言葉に置き換えても同じ。 しかし、これら双方を対立させてその優劣を問う行為の意味は理解できない。 それらには違いこそあれど優劣はないのだから。 この質問の主旨は何だろうか。 無についての何某を問いたいのだろうか。 それに、この説の提唱者自身は二つ目の回答で、自ら定めた目標、意志のあるところの生き方は、虚偽的な目標や志向性、つまり馬車馬の人参ではないと言っているように聴こえる。それはそうである。馬が自分で人参を目前に設置して走るということが想定されるだろうか? また、別の質問で、彼が、無を自由と絡めて説明しているのを聞いた事がある。彼の言わんとする無とは、自由の尺度ではないのだろうか。違っていたら、サイテックスさん本人の訂正を待ちます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ しかし、これら双方を対立させてその優劣を問う行為の意味は理解できない。  ☆ ここが たぶん誤解です。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  すなわち 問うているのは 《精神の充足》が《量》か? です。  たとえば《必ずしも量であるとは限らない。量だと言い切ってしまって あとは省みないことはやはりおかしい》というのではなく そうではなく《精神の充足は 〈定量性〉を基本的に有する》という答えであった場合 どうか? これです。この答えに異を唱えようとしています。  ★ それらには違いこそあれど優劣はないのだから。  ☆ いえ。この命題には ビミョウにではなくはっきりと反対します。  《精神の充足 あるいは あなたの言うように幸福》は それぞれがおのれの《固有のとき》を持ちその時間において味わうものであって これが 主要な中身であると考えます。それに 多少は量的な――なぜなら 経済的なささえが無ければ話になりませんから――内容もくわわっている。というのであって 定性的なしあわせと定量的なそれとの間に《優劣がない》というのは おかしい。のではありませんか?  ★ この質問の主旨は何だろうか。 / 無についての何某を問いたいのだろうか。  ☆  それは当たっています。ただし《無》の問題は 本人がはっきりとは明らかにしません。ゆえに 《精神の充足が量〔を主要な中身〕とする》のなら それは――その定量的な内容を達成しようとして何ごとも努力するにようになるのであるからには―― けっきょく《馬の鼻先の人参》と変わりないことになる。こういう批判を問うています。それが 趣旨です。  すなわち そのように考えるならば  ★ 馬が自分で人参を目前に設置して走るということが想定されるだろうか?  ☆ という問いに対しては しかり。イエスです。想定され得ます。  その根拠についてわたしはすでにお礼欄にて書いています。人間に《根源的な意志の展開》であるならば そのことを――精神の充足なる自律的社会行動を――わざわざ《人生の目的》とする意味はない。  順序が ぎゃくである。根源的な生の展開をすすめて行くとき そこに結果として精神の充足も――量的にも質的にも――伴なわれるというもの。順序をぎゃくにしているなら それは 馬の人参でありしかもその人参は馬が自分で鼻先に置いておいたものなのです。《充足量の最大化》というのは そういう努力目標であり 《えさ》です。《釣り》です。  ★ また、別の質問で、彼が、無を自由と絡めて説明しているのを聞いた事がある。彼の言わんとする無とは、自由の尺度ではないのだろうか。違っていたら、サイテックスさん本人の訂正を待ちます。  ☆ これは わたしはよく分かりません。  知っていることは 世界のものごとのすべてが《無に還元される》というのですから 仮りにそのように絡められた《自由》にしても 絡められているということは おそらく《無》に従属している。というようなことではないかと考えられます。  ★ 彼の言わんとする無とは、自由の尺度ではないのだろうか。  ☆ たぶん――分かりませんが・つまり知っていて言うのではありませんが―― 違うと思われます。なぜなら その人間のこの世における表面的な存在のあり方としての《自由》は それもとうぜんのごとく《無に還元される》ものだと考えられるからです。  つまり 要領を得ません。たぶんそのあたりのことは もうそれ以上は説明がないのではないかと思われます。《無に還元されるの無とは何か?》は 質問済みだからです。《否定する》ことだという答えでした。    いづれにしましても きちんとこのわたしの批判に対する反論がなされるよう問うています。質問者やみなさんに納得の行く説明が俟たれるところです。  それを俟たなくても これまでの資料や情報だけですでに議論は出来る。それでよいとか いや それではダメだとか。そういう見解の方はそのように回答をお寄せください。

回答No.2

情報量は定量的です(メモリーカードの容量)。 ただし、「精神的充足量」という場合には、情報量だけ でなく、欲求の強さ、その達成度、その感受性、それら の基底となる認識の深さなどの関数となります。

bragelonne
質問者

お礼

 だから 《精神的充足〈量〉》なのですか?  つまり どうしても人びとに共通の指標となるような充足の中身を取り上げたいのですか?  おのれに《固有のとき》として心は満ち足りるのではないのですか?  量であっても・そうでなくても その充足を人生の目的とするのなら それも馬の鼻先の人参なのではないか? と問うています。  ご回答をありがとうございました。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

この世は心で出来ている。その心が無ければこの世はない。般若心経の色即是空 空即是色の教えるところです。 しかし、私は般若心経は偽経だと思っています。馬の鼻先の人参と表現される目先の利益や目先の幸福を追い求めることが大事であると考えているからです。精神の充足には多くの人参を食べることが必要なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  と思わず出てしまいましたが まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。  《人参》が大事である。目の前にあってそれを食べることの出来るニンジンが必要なのだ。と。  つまり・そして ただし:  ★ 精神の充足には多くの人参を食べることが必要なのです。  ☆ つまり《ただし》というのは ニンジンが必要なのは《精神の充足のために》だということですね?  それは 腹が減ってはいくさが出来ぬからには先立つものだという意味なのか?  それとも モノの充足にこそ心が満たされるものだという意味なのか?  ★ この世は心で出来ている。その心が無ければこの世はない。般若心経の色即是空 空即是色の教えるところです。  ☆ 心も仮りの現象であるというところに力点は どちらかと言えば あるように思いますが この仮りの現象であっても とうとい人生の大切なものであるという意味でしょうか?  ★ しかし、私は般若心経は偽経だと思っています。馬の鼻先の人参と表現される目先の利益や目先の幸福を追い求めることが大事であると考えているからです。  ☆ 心が 仮りのものとしても とうとく大事であると言っても その見解には――二転三転して――従わない。むしろマチガイだと思うということでしょうか?  般若心経が偽経であるかどうかは その体裁などをめぐって疑いがかけられるというところまでわたしは 同意します。  あるいはつまりわたしから見れば 偽経であるかどうかはどうでもよいことです。中身で勝負です。  つまり《空観》は ふつうに普遍的な見方考え方であるとわたしは考えます。  そうして話を端折りますが 人参も心も けっきょくわたしは身と心とが一体であると思いますから いちいちふたつに分けて二者択一をする問題ではないとも考えます。    つまるところとしては どうなりましょうか。  《精神の充足は 量か?》と問えば おそらく《量》であるという側面がつよいし 重い。  そのことが《馬の鼻先の人参であるのではないか?》については そのとおりである。なぜなら 心の満たされることよりも 《多くのニンジンを食べることが必要なの》だからと。  これでよろしいでしょうか。  

関連するQ&A

  • 精神の充足は 量なのか?

     (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか?  (β) 仮りに心が満たされることは モノにかかわる感覚としての充足から切り離されると見たばあい その精神の充足というのは 果たして量であるのか?  (γ) われわれ人間にとっての《食べ物》は 口に運ぶモノ一般を代表させて言うときの《パン》だけを言うのだろうか?    (δ) 仮りに別のパンがあるとして そのようなたましいの糧は けれども 何であるか? それが充足されるとは どういうことを言うのか?  (ε) 果たしてわれわれは いったい何を問い求め 得ようとしているのか?  (ζ) それは 民族によって違うものなのか? 日本人とほかの国の人たちとで それぞれ欲するものに違いがあるか?  (η) 国際関係においてそれぞれの国の人びとにとって たましいの糧とは 何があるか? あるいは 無いか? われわれは その人たちをも含めた自分たち自身に対して どんな食べ物を用意できるか?  よろしくどうぞ。  質問者からのたたき台が無くてすみません。  精神の充足が 感覚の満足から切り離されてあり それは量だというのは いったいどういう料簡なのか? という怒りを持っており これを添えます。

  • 精神の充足というより 存在の自覚的確立ではないか

     《精神の充足》というとき たしかに あのときの試練を乗り越えたその充足の度合いのほうが大きかったというように 比べることが出来るかも知れない。ゆえにそれは 量であるという見方が出されうる。  けれども それでは 単なる程度問題であると言われても仕方がない。  問題は 存在の自覚的確立にあるのではないか?  《わたしがわたしである》ことである。  《わたしがわたしであるわたしが わたしすること》である。  わたしは あやまちうる人間であって あやまつなら わたしに立ち帰ること である。  わたしが 一なら わが人生の実存は:   1 = 1 であり あやまつとき   ( -1 )  x ( -1 )= 1  としてのように われに還る。かくしてこの自己還帰を繰り返しつつ   ( 1 = 1 ) x 1 x 1 x ・・・ x 1= 1^n = 1  という姿を採るのが わたしの存在の動態である。のではないか。  さらに ここからは 根拠のない理論です。文学的な表現で表わすのみの主題(命題)です。  けっきょくわが存在の実存過程は その内なる領域においてユラギとして成っているらしい外なるこの身と心との存在 この存在が 社会や地球や宇宙のウゴキと一体となった状態になること ここに人生のおもしろさ・たのしさがあるのではないか?  人びとのよろこびとともに この世のいやというほどの悲惨な出来事をも このわが存在の内におさめている姿 おさめつつ一緒に――克服して――生きていく姿。これではないか?

  • 知るは楽しいは 馬の鼻先の人参か?

     どうでしょう?  知るのは 楽しみにみちびかれているなら 利己志向の自己満足としてある。か?  

  • 命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。

    命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。 この世の存在を認識できるものは、命(=精神や心)だけだとしたら、 その命がなければ世界(=物質社会)の存在が危ぶまれると思うのですが・・・。 そうなると、宇宙の誕生と、命の誕生は、どちらが先なのか、どんな関係なのか不思議でなりません。 どなたか、命と物質世界の関係について答えを持っている方いませんか。

  • 存在しない性主義をどう思いますか?

    Yuniko99さんの「存在性主義」に対抗して、新しい思想を思いつきました。 「存在しない性主義」です。 存在しない性主義は何よりも存在しないこと、「無」を大事にして追及する思想です。 存在しないこと、「無」が価値というものです。 人間は弱肉強食、自然淘汰で、せめぎ合っていますが、強い者が生き残ることを保証する人権で、これまで発展してきました。 ヨーロッパは、キリスト教の弱者による強者に対する「憎悪・ルサンチマン」によって、せっかくの明るい健康な人間をダメにしたと言って、ニーチェはそのキリスト教に代わって、強者による強者のための政治、「超人・スーパーマン」を目指すべきだと言いました。 存在しない性主義は、今のイスラム国も存在しない、無であると考えます。 そうすれば、世界は平和です。 また、存在しなければ、人間が死ぬこともありません。 死ぬことがなければ、一切の宗教も必要でなくなります。 一切の宗教がなくなれば、宗教対立もなくなり、世界は平和になります。 江戸時代の禅僧・盤珪は、「不生禅」を唱えました。 人間が生まれない、存在しない、と考えれば、すべての問題は解決すると言いました。 生まれたと思うから死の苦しみもあるのであり、生まれたと思わなければ、死の苦しみはない、と。 仏教がいうように、何事も、心次第です。 心次第で、存在するものも存在しないと考えることができます。 存在性思想では、悲劇が絶えませんが、存在しない性思想ならば、すべては存在しないと考えればいいので、天下泰平、悲劇もなくなります。 このように人類は、存在性思想を目指すべきではなく、存在しない性思想を目指すべきです。 存在することが価値ではなく、存在しないことが価値です。 どう思いますか?

  • 『存在と時間』、“世界=内=存在”について。

     ちくま学芸文庫版、『存在と時間』上巻、142pについて質問があります。  『現存在自身において、現存在自身にとって、この存在構成はつもすでにある仕方で知られている。ところがそれを認識しようとすると、あたかもこのような課題のなかで表立ってくる認識が、自分自身をー世界についての認識としてー「心」の世界への関係の範例にすることになる。それゆえに、世界の認識や、あるいは「世界」を呼び「世界」について語る言説が、世界=内=存在の原義的な様態としての役割をひきうけるようになり、世界=内=存在そのものは理解されなくなる。』  とありますが、「心」の、世界への関係の範例となってしまう認識とは具体的にはどのようなものでしょうか?また、そのような“認識”は「世界=内=存在」といった認識とどのように違うのでしょうか?  ご回答お待ちしております。    

  • 《認識の無への還元》は 認識行為ではないのか

     (あ) 《物理学は、対象を分析しているようで、実は同時に認識手段も分析している事でもある》と いま認識しているのではないか?  (い) 《そして、対象は「超弦=量子定常波」、認識は「感受表面での量子相互作用」として、量子性に還元される》とやはりいま認識しているではないか?  (う) 《その量子が、仮説的時空への無の射影=認識の無への還元として得られる時、もはや「なぜ認識はあるのか?」という問いは意味を持たない》という認識が いまおこなわれている。その認識を無へと還元するのは このいまの人間の〔認識だけのではあるが〕意志行為である。  (え) 《全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる》という認識を いまおこなっている認識および意志の行為になぜ《先入化》してしまうのか?  (お) 《この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば(プランク定数hの収束の時系列化=物体の収縮=宇宙の膨張)、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ》というのは いまここでおこなっている認識行為ではないのか? その認識をおこなってしまえば もう人間の認識行為は消えてなくなるのか?  (か) なぜ《無への還元》なる認識をいまの認識に先入化するのか?  (き) なぜいまここなる時を止めてしまうのか?  (く) 認識を無に還元したから 自分は透明人間になるというのだろうか。  (け) なぜいま・ここにはいないかのような思考と振る舞いをするのか?  (こ) 《無への還元》は 単なる観念ではないのか? それとも量子相互作用をいま知覚しているというのだろうか。  (さ) 《認識は無に還元される》という命題の前にその認識とは何であるかを明確にしなければならない。生きているなら 《〈認識は無に還元される〉と認識しているわたしがいる》ということを明らかにしていなければならない。

  • 精神と身体は別物?

    デカルトを読まれた方ならお分かりだと思いますが、いかがでしょうか? デカルトの世界観 彼は形而上学において精神が身体(物体)とは独立な存在であることを強く主張する。 身体の存在を疑っても疑うところの「われ」はあるのだから、疑うところの「われ」は身体とは独立でなくてはならない。 「私は考える、故に私はある」というとおり、「われ」のあり方は、物体とはまったく違う。

  • 「無」への回帰を目指す宗教

    キリスト教が千年王国の建設を目指し、ユダヤ教が世界滅亡後のユダヤ人だけの新世界を目指す様に、現世の争いやしがらみを一切断ち、平和な「無」への回帰、を目指す宗教(もしくは政治主義・団体)は存在するのでしょうか。仏教的な「心の無」ではなく、宇宙誕生以前のような、善も無いが悪も一切無い、完全な「無」です。 架空の存在としては、新世紀エヴァンゲリオンに出てくる「ゼーレ」があります。この組織は、人々の欠けた心を補完する為、すべての人間をLCLという液体に還元し、「個人」の枠を取り払い、心をひとつにすることを目指しました。 ちなみに私自信がこのような破滅願望を持っているのではなく、ただ好奇心から質問させて頂きました。長文失礼しました。回答よろしくお願いします。

  • 精神化してしまう

    普通に生活していますが、精神的には長らく引きこもり状態です。 現実世界に対して興味関心が薄く、無感情、無表情です。 子供の頃からそうで、何時間でも椅子に座り続けて 一人で思索に耽り、何もしないでいることが平気です。 現実の世界に生きていないような感覚があります。 周りの人からよく、「入っている」と言われます。 「今、入ってたよね?」と肩を叩かれて、ハッとすることが度々あります。 例えて言うなら、こっちの世界に住んでいないといったところでしょうか。 心はいつも精神世界を彷徨っていて、それこそが自分の世界であり、 現実には抜け殻のような自分が物体として存在しているように感じます。 時々、外部からのコンタクトがあって、やれやれと思いながら外へ出て行き、 作業が終わるとまた精神世界に帰って行くというイメージです。 時折妙に現実的になることもあるのですが、 その時はやけに多弁になり、何でもできるような気がして、 後に精神化した時に、一人で後悔しています。 過去に精神科へ通っていましたが、薬を処方されるだけで効果はなく、 カウンセリングも話に共感されるだけで効果がなく、 性格なのかなと諦めていますが、他人との関わりで問題を起こしやすいです。 現実の世界に心を固定する方法はないでしょうか。