釈尊の成道に必要なもの

このQ&Aのポイント
  • ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。その結果として、のちの佛教の隆盛があるわけです。
  • 釈尊がなぜ6年間も修行するなかで、苦行が理解できなかったのかについて教えてください。
  • 釈尊が修行中に体力の増進をはかることを選んだ理由は何でしょうか。
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釈尊の成道に必要なもの

ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。その結果として、のちの佛教の隆盛があるわけです。 私は下記文献を読んだとき、なぜ6年間も修行するなかで、そんな(一般人なら当然の)ことが理解できなかつたのか、不可解でした。理由を教へてください。 哲学カテゴリ住人の方が御回答くださる場合は文章がむづかしいので、私の頭でも理解できる程度にかみくだいてお願ひいたします。 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***  脂肪と肉と血液がすっかりなくなってしまって、骨と皮だけになった。このように体重は減ったが、人間としての深みは減らず、深みの減ることのない大洋のようであった。聖者は激しい苦行のためにいたずらに体を痛めていたが、苦しみの世に再び生まれて来るのを恐れ、真理の理解者になることを望んで、次のように考えた。 「苦行を説くこの教えは、愛欲から自由になるためにも、真理を理解するためにも、また魂の解放のためにも、何の役にも立たない。あの時私がジャンブの木の根元で得た教えこそ、確実な教光なのだ。また、あの教えは、脆弱な人が得ることのできないものである」。   そこで、体力の増進のために気をくばることになり、さらに次のように考えた。 「飢えと渇きに疲れきって憔悴した人は、疲労のため心が病んでいる。心に安らぎのない人が、心で得るべきものをどうして得ることができようか。感覚器官がいつも充実されておれば、心の安らぎが得られる。感覚器官の充足によって心の健康が得られる。健康で充足した心から、深い精神集中(三昧)が生じる。深い精神集中を伴う心に瞑想の実践が始まる。瞑想が始まることによって、正しい教理が得られる。正しい教理によって得難い寂静の境地、不老不滅のかの最高の境地が得られる。したがって、この方法は食事を前提とする」。  そこで、意志が強く叡智が無限の聖者は、食事をとろうと決心した。 『原始仏典 第10巻 ブッダチャリタ』講談社 小林信彦訳 第12章 141,142ページ http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-Texts/S2-Buddhacarita/Sanskrit-Buddhacarita-DN.pdf *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

noname#214841
noname#214841

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

 こんばんは。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。  ・・・なぜ6年間も修行するなかで、そんな(一般人なら当然の)ことが理解できなかつたのか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしには むしろ逆なことが 不思議です。  いくらめざすさとりを《達成できない》からと言って それまで耳で聞いていた修行がよいと思ってやり始めたものを ふいと何故《方向転換した》のか?  むろん《餓死寸前》であってみれば 《体力の回復を図ること》が必要なことは 分かります。と言っても そういう難行苦行であることは 初めから百も承知なはずなのです。  つまりは ちょっと休みを取って 体力の回復を図り 再び三度 修行に就く。というのなら――と言っても わたしは それが正しい道だとか とにかくそうすべきではないかとか言っているのではなく 当時の修行のありさまから行けばという意味ですが―― まだ理解できると思うのです。  けっきょく ただ嫌になって放り出した。のではないですか? そんなところでしょう。

noname#214841
質問者

お礼

bragelonneさん、こんばんは。 お名前が目に入つて、少し引きました。 ここの方方のなかでも、いちばん文章が難解ですので。 でも、私の頭の程度にあはせてくださつてゐて、安心しました。 さういふ見方もできるのですね。 俗にいふ「結果オーライ」ですか。 ご本人がいらつしやらないので、 単独インタビューとか、記者会見とか、暴露本とか、 真実を知る手段はありません。 私が引用した文献にしても、後世の創作である可能性があります。 他の人とは違ふ観点からの御指摘、ありがたく頂戴いたします。 ここの人たちのさまざまな御意見は、プラトンの対話編のやうです。 (自分の理解できる範囲で)楽しませてもらつてゐます。 ありがたうございました。

noname#214841
質問者

補足

回答番号6の「お礼」で書きましたが、bragelonneさんをベストアンサーにしました。 宗教学者も佛教徒もおそらくは疑問に感じないこと、俗物まるだしの質問でした。 正しい答の出ない質問ですので、さまざまな意見を聞きたかつたわけです。 その貴重な少数見解(しかも質問文に対するもつとも素直な回答)といふことで選びました。 哲学カテゴリでは、kurinalさんを筆頭に、ベストアンサーには無頓着な人ばかりのやうですので、他の方へのお詫びは不要かと存じます。もちろんおほいに感謝してをります。 ときをりこちらで質問をするかもしれません。よろしくお願ひいたします。

その他の回答 (15)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.16

お礼、ありがとうございました。 >この逆説的な見方は、的を射てゐるとおもひます。 >私自身は、佛典よりも、聖書のほうに魅力を感じます。 >佛典では状況説明があるだけなのに、 >聖書には対処法までしるされてゐます。 現代に生きる私たちは、聖書の方が分かりやすいことも多いかと思います。 西洋は、指摘することで明確にする手法が多用されることが多く 東洋は、読み取ることで全体像や具体的やり方を一つの事柄から 深くまで理解できる形で明示する手法が取られることが多いようです >書物は、読む人次第で価値が変る、 >といふことを改めて知りました。 少しでもプラスになったのであれば、回答した甲斐があったと言うものです(^ ^) もし、ブッタチャリダの話しが完全な創作だとしても そこから学べるものがあれば何の遜色もないと、私は思っています。 私達は幼い頃に読んだ絵本でさえ、創作であっても 何かを感じて自らを育んできたのですから。

noname#214841
質問者

お礼

kanto-iさん、ふたたびありがたうございます。 >>東洋は、読み取ることで >>全体像や具体的やり方を一つの事柄から >>深くまで理解できる形で明示する手法が >>取られることが多いようです これがまさに今回みなさんにしていただいたことです。 >>もし、ブッタチャリダの話しが完全な創作だとしても >>そこから学べるものがあれば何の遜色もないと、私は思っています。 私も読むのは好きです。 カントもヘーゲルも名前を聞いただけで敬遠して、 読んでゐないのですけれど。

回答No.15

   ★(No.13お礼欄) 文章が軽すぎるので  ☆ か それとも わたしが誤解しているとおっしゃるとおりであるか。どちらかでしょう。    いづれにしても ときを俟ちます。  もしそうだとしたら・そうだとしても これほど《軽い文章》に出会ったのは初めてですから。やおよろづ方角美人。(むろん さげすみのことばです)。

noname#214841
質問者

お礼

>>やおよろづ方角美人 おつしやるとほりです。 特にこのサイトの「相談」の場合は、 助言を求めるといふよりも、 話を聞いてほしい、 といふ(隠された)趣旨のものが多いと思ひます。 私はさういふ質問の場合には 共感できるものだけを選んで 徹底的に耳を傾けるやうにしてゐます。 http://questionbox.jp.msn.com/qa8542738.html http://questionbox.jp.msn.com/qa8543537.html http://questionbox.jp.msn.com/qa8560769.html これは「相談」にかぎらず、 私のこのサイトでの基本的な姿勢です。 (もちろん、共感できない話題には最初から参加しませんし、 成り行きで主張を通す状況もでてくるかもしれません。) 質問文に記しましたとほり、 一般人で特定の思想があるわけではなく、 たいていの人の意見は大歓迎です。 私はさういふサイトにしてゆきたいと願つてゐます。

回答No.14

こんにちは。 これは、独り言、ひとりごと、ヒトリゴト!! 現代的な考え方から、2000年以上前の考え方、その時代の人の行動、風習などなど、 これらは「まったくナンセンス」と批判することは簡単。 科学などが発達しておらず、迷信や迷妄に満ち溢れ、呪術などが社会や人々の考えを強く支配していたのだから。 しかし、 こうしたことを無視してはいけないんじゃないかな。 ちょっとフェアーじゃない気がしますね。 さらに独り言。 現代になってもなお、インドでは、苦行者や遊行者などは、聖者として、多くの人々から尊敬を受けたりしています。 そうした苦行者たちの中には、単に禁欲的であるだけでなく、自身の肉体を苛むようなことを行う者もいる。 出家して以来、一度も横になって眠らない、立ったまま寝る、ということをする人もいます。 うそか本当かは分からないけれど、 片足のままずっと立ち続ける、という苦行をしている人もいます。 あげられた足なんかは、筋肉が萎縮し、変形している。 こうした苦行を自身に課すことによって、神に近づこうとしている。 そして、よりスゴい、極端な苦行を行う人ほど、人々から《聖者》であると、より人々から深い尊敬を受ける。 インドの苦行というのは、ホント、超~スゴい、超~極端、ハンパない!! さらに独り言。 ここ日本では、様々な占いがあり、人々の間で人気ですね~。 占いの存在価値を否定するつもりはないのだけれど、 そうした人たちの中には、占いがないと生きていけないという、占いに支配されてしまっている人もいる。 血液型占い、血液型というちょっと科学的なものを占いに付け加えると、・・・。 迷信深いということでは、いまも昔も、実は大差ないのかもしれませんよ(ニコニコ)。 新興宗教の開祖サマのなかには、 ○年、厳しい苦行をなされたのち、神(から)の△△ なんてことをうたっていたりしますね(ニコニコ)。

noname#214841
質問者

お礼

NemurinekoNyaさん、こんにちは。 再度ありがたうございます。 >>ちょっとフェアーじゃない気がしますね。 それはおつしやるとほりです。 >>現代になってもなお、インドでは、 >>苦行者や遊行者などは、聖者として、 >>多くの人々から尊敬を受けたりしています。 たしかに、釈尊の方法が受けつがれてゐます。 ヒンズー教には得体のしれない領域があります。 >>ここ日本では、様々な占いがあり、人々の間で人気ですね~。 ここまでくると、ゆきすぎだと感じます。 でも、他者に迷惑にならなければよいと思ひます。 「病は気から」でほんとうに元気になればすばらしいことです。 このたびはNemurinekoNyaさんの回答が契機で ここのカテゴリにお世話になりました。 こんなに多くの回答がいただけて感謝してをります。

回答No.13

 ぷらぽたさん 気を遣っていただいているようで こんなわたしでも お応えせざるを得ないと思いました。  わたしの投稿より前のご文章には触れないとすれば  ★★(No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~    >>ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。  いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、  かういふ見解も大歓迎です。       *    企業や業界団体が「スジャーター」をとほして、  佛教への関心をひろめてくれるのは好ましいことですが、  調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように文章をものされるということは 人間の持ち得る最大限の幅において《佛教》に生きておられる。と見ました。  いわゆる懐が深いという意味とも通じるわけですが これは 筋だとか趣きが違うかも知れませんが ゴータマの流儀と同じだと見ました。  極端な言い方をすれば 皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つのたぐいです。  反対し不平を言ってくる場合や 要するに批判をしてくる場合に 相手を どこまでも飽くまでもウソでもいいから言わば《その掌の中を飛び回る孫悟空扱いをする》ということ。この手です。(単純なゴータマ・マジックとは ちょっと違っています)。  ですから 結論に飛びましょう。  ぷらぽたさんが 本心を見せるときまで わたしは沈黙します。  この《孫悟空をてなづける釈迦》というイメージが本心の一端を見せているとすれば まいりました。完敗ですと申し上げて引き下がらざるを得ない。こういうわたしの偽らざる心です。

noname#214841
質問者

お礼

bragelonneさん、ほんとうにすみません。 文章が軽すぎるので、 このQ&Aサイトの他の質問でもときどき誤解を受けます。 >>人間の持ち得る最大限の幅において《佛教》に生きておられる。と見ました。 ついさきほど、回答番号11の「お礼」に書きました。 私は佛典に関しては、成立状況、記述内容、 ともに高い評価をしてゐません。 むしろここの回答者のみなさんの意見のほうが有益です。 >>いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、 >>かういふ見解も大歓迎です。 文字どほりの意味です。 佛典の数は膨大で、相矛盾する内容はあまた存在します。 創作だらけ、ともいへます。 >>調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm このページの「検定」問題は10題ですが、 「乳粥」の件以外にも、10問すべてにクレームをつけました。 いちばんひどいのは、 救世主キリストが、『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いた飲みものとは? 答は「乳」で、解説を読むと、 「新約聖書では、救世主キリストが、乳について『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いて歩いたと書かれています。 」 こんな馬鹿げた記述を私は読んだこともありませんし、 新約聖書には5回「乳」(ギリシャ語ガラ)がでてきますが、 そんなことは書かれてゐません。 ただし、私は聖書は好きですが、 キリスト教徒の狭量に見える部分は好みません。

noname#195588
noname#195588
回答No.12

しまった。前回の回答したサンスクリット文と英文があってませんでした。 すみません。今度は番号を確認したしあっているはず。 このように私の回答はいい加減なので、お気をつけ下さい。 tvagasthiśeṣo niḥśeṣairmedaḥpiśitaśoṇitaiḥ | kṣīṇo 'pyakṣīṇagāṁbhīryaḥ samudra iva sa vyabhāt || 12.96 (12.99) 96. Having only skin and bone remaining, with his fat, flesh and blood entirely wasted, yet, though diminished, he still shone with undiminished grandeur like the ocean. tasmādāhāramūlo 'yamupāya itiniścayaḥ | asūrikaraṇe dhīraḥ kṛtvāmitamatirmatim || 12.104 (12.107) 104. Having thus resolved, ‘this means is based upon eating food,’ the wise seer of unbounded wisdom, having made up his mind to accept the continuance of life,

noname#214841
質問者

お礼

kazamidori365さんは律儀なのですね。 サンスクリットで読みたい人なら、 自分で判断できるとおもひます。 私もよく失敗しますが、 たいていは放置です。 正確さは必要ですよね、自戒です。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

私の記憶でも、釈尊の時代は苦行することで悟りが得られると信じられていたと覚えています。 食べたことがない料理の味が分からないように 自らが体験してみたことがないものを「こうだ」と決めつけることは なにも得られるものがないですよね。 体験無しに語るのは自分の枠内の考えであり、悟りに至るという 自らを超えていくことに繋がるものではないと思います。 自らで体験し、自分の感覚を使い答えを求めるのであれば 自らでの確認作業として必要なものではないかと思います。 そして、釈尊が体験したことで苦行では至らないと証明されたからこそ それが伝わり、今私たちが常識だと思っているのかもしれないと考えています。 天動説と地動説のようなものですね。 誰かが確認した事が広まれば、その説が根づいて一般常識になります。 自分の考えからのみ結論づけるのと、観察者として発見から結論づけるのは 天と地ほどの大きな違いが出る場合が、往々にしてあるのではないかと 私は考えています。 釈尊の行動によって苦行では悟れないと証明されたとして その結論だけが大切なのではなく、自らの疑問は自らが体験をもって その疑問の答えを導き出すことが大切なのだということが示されている。 そのために、そんな古い話しであろうと経緯が残されていて 今の私たちにも大いなるチャンスを手にする事ができるように 大切に引き継がれているのだと思う次第です。

noname#214841
質問者

お礼

kanto-iさん、ありがたうございました。 多数派に近いお考へのやうですね。 見解はほぼ一致してゐても、 それぞれに、心に訴へる名文があり、 ここに質問した甲斐がありました。 みなさん、簡明な説明をしてくださいますし。 >>自らの疑問は自らが体験をもって >>その疑問の答えを導き出すことが大切なのだ >>ということが示されている。 この逆説的な見方は、的を射てゐるとおもひます。 私自身は、佛典よりも、聖書のほうに魅力を感じます。 [例] 言ふだけで実行のともなはない人 『スッタニパータ』第二 小なる章 254 『新約聖書』マタイ伝23章3節 佛典では状況説明があるだけなのに、 聖書には対処法までしるされてゐます。 今回ただの物語にすぎない『ブッダチャリタ』の一節から これほど有益なお話がきけるとは、 期待してをりませんでした。 書物は、読む人次第で価値が変る、 といふことを改めて知りました。

noname#195588
noname#195588
回答No.10

ブッダ・チャリタは読んだことないです。 pdfも読めないと思いつつ眺めていたら Anandajoti, Bhikkhuの名前を見るとは思いませんでした。 http://www.dhammawiki.com/index.php?title=Anandajoti%2C_Bhikkhu たぶん、このサイトの人のはず。凄い人だと思います。 パーリ文とかサンスクリット文とか仏教のテキストがあります。 ブッダ・チャリタもありました。 Ancient Buddhist Texts http://www.ancient-buddhist-texts.net/ ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。 苦行しても体が壊れず、後遺症も残らないでその後、何十年も生きていけたのだから 苦行したとしても、その程度の苦行だったのでしょう。 それはそうと質問者さんが引用したのはこのあたりだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 96. Having only skin and bone remaining, with his fat, flesh and blood entirely wasted, yet, though diminished, he still shone with undiminished grandeur like the ocean. atha kaṣṭatapaḥspaṣṭavyarthakliṣṭatanurmuniḥ | bhavabhīrurimāṁ cakre buddhiṁ buddhatvakāṁkṣayā || 12.97 (12.100) http://www.ancient-buddhist-texts.net/Texts-and-Translations/Buddhacarita/12-Book-XII.htm 104. Having thus resolved, ‘this means is based upon eating food,’ the wise seer of unbounded wisdom, having made up his mind to accept the continuance of life, snāto nairaṁjanātīrāduttatāra śanaiḥ kṛśaḥ | bhaktyāvanataśākhāgrairdattahastastaṭadrumaiḥ || 12.105 (12.108) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この後、スジャーターが登場するのですが スジャーターの名前は、ブッダ・チャリタだとNandabalāのようですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 9.南伝『ブッダ・チャリタ』では、彼女の名をNandabalāとする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#214841
質問者

お礼

kazamidori365さん、丁寧なご回答ありがたうございました。 >>ブッダ・チャリタは読んだことないです。pdfも........ 「哲学」カテゴリの過去のQ&Aに、 文献は原文を読まなければいけない、 といふ意見があつたので、URLを記しただけのことです。 ちなみに、私は日本語訳で読んで、 重要な箇所や、訳に疑問を感じる文があつたときにのみ 原文を参照する程度です。 >>ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。 いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、 かういふ見解も大歓迎です。 佛典の成立はどれも釈尊の時代からかなり経過してゐます。 回答番号4のbragelonneさんが最古といはれる『スッタニパータ』を しばしば取り上げてをられるのは、きはめて正統な態度です。 >>苦行しても体が壊れず、 >>後遺症も残らないでその後、 >>何十年も生きていけたのだから >>苦行したとしても、その程度の苦行だったのでしょう。 もっともな推察です。 このあと50年も旅を続けながら生きたわけですから。 >>それはそうと質問者さんが引用したのはこのあたりだと思います。 ごめんなさい。 kazamidori365さんの御指摘どほり、ローマ字表記のURLを示すべきですね。 みえをはつてデーバナーガリーにしました。 (私の性格が暴露されてしまひます。) >>この後、スジャーターが登場するのですが 企業や業界団体が「スジャーター」をとほして、 佛教への関心をひろめてくれるのは好ましいことですが、 調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。 http://www.sujahta.co.jp/ http://www.sujahta.co.jp/item/sujahta/sujahta-himitsu.html ブッダが乳粥を食したとき、「おー醍醐味」と叫んだ文献など 皆無だとおもひます。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 答が「ヨーグルト」です。 可能性がないとはいへませんが、断定するのは無理でせう。 両者ともに私は文面でその旨通知したのですが、 1箇月以上経過しても返答すらありません。 *** *** *** *** *** しつこいやうですが、bragelonneさん、 私は上記のとほり、意に反することは、はつきりと申し出ます。

回答No.9

 No.6です。  ご文章を読みまして これは ゴータマ級ですね。  まいりました。これ以上は ほんとうのけんかになってしまいます。  退散します。完全に負けました。  ごきげんよう。

noname#214841
質問者

お礼

お気を悪くなさらないでください。 何を根拠にさうおつしやるのか、わからないのですが、 私は一切偽りを記してをりません。

noname#214841
質問者

補足

もしかすると、回答番号7の「お礼」のことですか。 >>>>>「哲学では「合理諭」といふ用語をもちゐるのですね。」 >>>>あれ、変換でミスしたようです。 >>絶妙のタイミングで投稿してくださつて、感謝いたします。 >>回答番号6の「お礼」で勝手に引用しました。 >>これが、佛様の慈悲なのでせうか。 これもほんとうのことです。 「合理諭」を辞書を引いても掲載がないので、 ネットで検索すると、「大陸合理諭」といふ言葉がヒットしました。 こんな言葉があるんだ、あとから詳しく調べるつもりで就寝しました。 私の哲学知識はこんなものだといふ事例を示していただいたのでありがたい、 ただそれだけの話です。

回答No.8

こんにちは。  苦行の先の精神状態について実体験として体感できたからなのではないでしょうか。はたから苦行者を見ただけではわからない現実の苦行後の精神の状態を。そして具体的に分かったそこからの推察によって苦行は意味がないという結論に至ったのではないかと思います。そうしなければあいまいな地点からのあいまいな批判しか展開できず、苦行のどこがどう具体的に悪いとまでは言い切れなかったのではないでしょうか。

noname#214841
質問者

お礼

suzumenokoxさん、おはやうございます。 基本的に、ほかの多数のかたがたと同意見と判断してよろしいでせうか。 ふだん、私の質問には回答数が少ないので、喜んでをります。 (いままでは最高で4件でした。) >>そうしなければあいまいな地点からのあいまいな批判しか展開できず、 おつしやるとほりです。 これこそ私がしばしば犯すあやまちでもあります。 ご回答ありがたうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

>「哲学では「合理諭」といふ用語をもちゐるのですね。」 あれ、変換でミスしたようです。 「合理論」ですね。→「理性論」に同じ。 「唯理論」というのも、あるんですか。 「合理主義」たって、全然「合理的」ではありません。 「理性的」≠「合理的」です。 「理」には、二つの意味があるということ、でしょう。 私の理解では、「理性的」とは、そのようにして餓死することもある、 ということです。 「理性」って、それくらいアヤシイです。 「善悪」ということですから、 必ずしも「合理的」な判断を導くものではありません。

noname#214841
質問者

お礼

>>>「哲学では「合理諭」といふ用語をもちゐるのですね。」 >>あれ、変換でミスしたようです。 絶妙のタイミングで投稿してくださつて、感謝いたします。 回答番号6の「お礼」で勝手に引用しました。 これが、佛様の慈悲なのでせうか。 >>私の理解では、「理性的」とは、 >>そのようにして餓死することもある、ということです。 すてきな表現ですね。 kurinalさんの文章を拝見すると、 「おれは、ベストアンサーはいらないぞ。」 と主張してゐるやうにおもえます。 主流(?)の意見に、簡潔な言葉で重要な補足をする、 そんな裏方に徹してゐます。 私も少しは見習いたいと存じます。

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    未だ良く分かりません。救われたく、般若心経を読みました。以下、自分なりの解釈を纏めました。ほぼ分かりません。長くなると思いますので、この質問の内容である、「つまり何が言いたいのか? これで何が救われるのか?」を分かりやすく、何方か教えて下されば幸いです。 一応、こういうことを伝えたいんじゃないか、という自分なりのものを置いときます 「例えば君が一番悩んでいる辛い苦しいとか、それらも含めて、全部何も動じなくて良いんだよ。感情も思考も、大事なのは「心の中空っぽ」にして、「此処には何にも無い」って、「何も考えない」って考えて、良いも悪いも、「楽しくも悲しくも全部反応しなければ、どうでも良いって捨て去れば、何にも無い、当然悩みだって無い」って、したら迷いなんてないって、心痛むこと、心病むことなんてないようにならないかい? だって、何も無いんだからさ。「君を脅かす物はない」。「君が何も無いって全てを絶つんです」。色んな事頑張らなくて良いんだよ。何にも感じない、何にも考えないって、ロボットって思われるかも知れないけれど、でも、何にも動揺しないし、傷つかないんだよ。無の境地、苦しいもの怖いものなんて「心が感じ無い」静かな世界って、安らぐよね。楽しさも嬉しさもないっていうと怖いかもだけど、そんなんじゃないよ。そうじゃないのさ。謂わば君を苦しめる、考えさせられる「現実」というものに拘りすぎないで。「そういったものを心の中から、全部、無くそう。物凄く遠ざけよう。滅ぼしたって構わない。苦しみは苦しくなくなるし、痛みは痛みじゃなくなるよ。全部掃除して無くなって、綺麗になったなら、何でも救われる、安心できる超然に辿り着けるよ」。魔法の言葉さ、「貴方には何も無い。貴方から何も無くなった」。覚えておいて」 以下、般若心経の解釈です。 この世には本来は何も無い。でも「何かある」と思うのは自分の妄想。本当は何も無い。「何かある」と勝手に思っているのは「自分という心」だけ。それに目鼻耳口などの感覚器官も本当は何も捉えていない。心も感覚器官も本当は何にも無い。 本当に何にも無いんです、最初から永遠に何も無いんです、この世には。何にも無いから生れることも死ぬことも当然成り立たず有り得ないし、何にも無いから汚れもしないし綺麗になることもない。当然増えも減りもしない。 心の動き、何かを感じる感覚、何かへの想い、こうやっていこうかという意志、こうだろうなという認識、それらも無いんです。感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身体、心にさえも実態はない。また、形も、音も、香りも、味も、触覚も、心に感じることさえも、そんなもの何も実態はない。眼にみえる実物世界から意識できる精神世界まで、「でも、ほら、ずっと其処にあるじゃないか」という現実、実態は何一つ無いんです。 (此処から何を伝えているのか分かりません) だから、そもそも迷いなんて無く、無いもんだから「迷いが無くなる」なんて工程も起きはしない。悟らなくたって良いんです。例えば今の「本当の事を何も知らない」でいることから脱しようと、その自分の考えから離れても良いし、それにそんなことしなくても大丈夫、どっちでも良い。「この世には何かが在るんだよ」という執着を捨てるだけ。「じゃあこれから頑張って悟りますよ」という考えにもやらなくて良い、執着してはいけない。老いることも死ぬことも別に、どうでも良い、感心が無い、何にも無いって考える必要も無くなるもんだから、老いと死がつきることもない(此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?)。「苦しみや、苦しみの原因もない。当然苦しみもないんだから、苦しみから解放される手段もなく、苦しみを制する方法も、そもそも成り立たず、存在しない」。「だから苦しまなくて良いんです。逃れようと頑張らなくても良いんです。だって原因も解決方法も、最初から無いんだもの」。「救いがないとかじゃない、問題なんて最初から無ければ、解決なんてしなくても良いでしょう?」、元々最初から「本当に何もない」のだから、知ることもなく、得ることもない。本当に、何にもなり立たないんです。何かあるとするなら、それは貴方の錯覚です。「貴方の中には、何も無い」。 真実を理解することなんてしなくて良い、涅槃に到達することもしなくていい、悟りを得るなんてしなくて良い。そもそも悟りである「何かから救われよう」と求める人は、日頃「例えば心をざわつかせるようなもの、本当は何にも無いんだよ。だから安らげるな、安らごうか」という安心できる意識の場所に至る知識や、それを実践していて、それを拠り所としているから、前述の「妄想な世界」に拘ることもないので、心にわだかまりがない。(多分、苦しさとか悲しさとかそういうネガティブなもの? 等に)捕らわれることもないし、だから恐れることもない。「全ての迷いから遠く離れているから、心は永遠に安らか」なのです。過去、現在、未来の仏様たちも、そういった安らぎに至る知恵、やり方を実践をすることで、妄想の世界の中から、謂わば本当の本当な「悟り」を得ることができたのです。 だから、その「大いなる安らぎの境地に至る知恵とやり方の実践」こそが、真実の言葉、悟りの言葉、最高の言葉で、一切の苦しみや虚しさを取り除いてくれるのです。じゃあ教えますね、この安らぎの境地に至るための、真実の言葉とは。「歩いて行こうとする人よ、生きていこうとする人よ、どうか、現実、妄想に捕らわれない、「あぁ、此処には何にも無いんだな。それこそ苦しさ悲しさというものさえも」という安らぎの境地へいきなさい。みんなそろって、いきなさい」。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 魂と心と肉体

    瞑想を通して、「魂と心と肉体」とは別々のものという理解にいたりました。 ------------------------ 魂:自分の本質。死ぬと心と肉体は消滅し、魂だけの存在になる。魂の奥にいけばいくほど深い霊的な世界とつながっており、その中心部は神とリンクしている。 心:魂と肉体を結びつけるもの。魂を汚したりを磨いたりする働きをもつもの。精神と同義。 肉体:魂の宿る器。三次元的物質世界の感覚器官。 ------------------------ 「魂の表面<->心<->肉体の脳」という構図で、心は物質的世界からの情報と霊的世界からの情報の接点であり、心の感じ方により魂や肉体に影響をあたえるものである。と感じるのです。 これが正しいかどうかはおいておいて、仮にこうして見た場合、 例えば 「キリスト教の三位一体とはこのような解釈の側面のあったりするのであるのだろうか。」と、このようなテーマを宗教的や哲学的にはどう解釈するのかと疑問に感じた次第です。 私自身は宗教も哲学の知識も持ち合わせておりません。 また瞑想等によってこのようなテーマに造形をもつかたからもご意見を頂ければと思います。

  • 釈尊から...

    釈尊を源流として 仏教はどうして大乗と上座部に分派するの? その意味を教えて? ・

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。  1. すべてを 終わり=目的から 始める。  2. では 終わりは どこにおくか。  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

  • 復活とは? 不死の境地とは?

     あえてこの主題を ふたたびですが 問います。  かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。      *  健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。   1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。   2. では 終わりは どこにおくか。   3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。   4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。  (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。       *  さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。  しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。  前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。  あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか?  みなさんの知恵を拝借となります。

  • 釈尊会とは?

    女優の若村さんが結婚したのが釈尊会の代表でした。 釈尊会とはどのような宗教なのでしょうか?まともなところなのでしょうか?

  • 釈尊か開祖か?

    釈尊は「私の像を刻んではいけない、私の説いた法を、依り所としなさい。」と言った。神格化を否定した。  しかし、御影堂、大師堂、祖師堂、御開山堂は開祖達を神格化している。 私たちは、どう受け入れるべきか?

  • 釈迦と釈尊は・・・

    すごく初歩的な質問かもしれないですけど、釈迦と釈尊は一緒の人物ですか??教えてください!!

  • 釈尊のさとりについて

    増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。 曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたるということである。』 そこで疑問なのですが、釈尊は前段で、「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」と言っていますが、後段で述べている内容、つまり、「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」ということは、一般の人に理解出来ないほど難しい内容ではないと思うのです。 と言うことは、前段で言っていることと、後段で言っていることとの関係は、どのように考えれば良いのでしょうか? 後段で言っていること以外に、何か、あるのでしょうか? あるとしたら、それは何でしょうか? どなたかお教え戴けたら幸いです。