物質的豊かさと精神的充足の関係について

このQ&Aのポイント
  • 物質的豊かさと精神的充足は、身体と心の違いから二分されています。
  • しかし、身体と心は同じことではなく、モノの便利さや豊かさを享受して満ち足りた生活を送る境地には、物質的豊かさと精神的充足の両方が必要です。
  • 経済的な豊かさによっても心の充足を得ることは可能ですが、生きる目的を二分して捉える考え方はどこから来るのか疑問です。
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《物質的豊かさ》と《精神的充足》に何故分けるのか

 1. 身と心とは 言葉が違っているだけで 同じことではないのか?  2. 身と心の――ただし変動をきたし得る―― 一体としての《わたし》が モノの便利さや豊かさを享受して満ち足りた生活を送る。その境地について何故 《物質的豊かさ》と《精神的充足》とに分けて捉えるのか?  3. あるいはこの境地ということで捉えれば 経済的にゆたかであってもなくても その状態に応じて身も心も満ち足りた生活を送るというのが 生きることではないのか?   4. この二分法は いったいどこから来ているのか? 《生きる目的》がこれらに二分されると見るのは いったいどういう料簡から来るのか?  以上について おしえてください。

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  • hakobulu
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回答No.11

#10です。 「≪物質的豊かさ》と《精神的充足》に何故分けるのか」 という場合、誰がどのような局面で分けているのか、がわからないと難しいと思ったのですが、 先のご質問の、  ★ 生きる目的が、物質的豊かさであるなら  ☆ と条件づけられたひとつの場合にあてはまると受け取られたのは どうしてかです。 というところから来ているわけでしょうか。 愛の問題について問うておられるのでしょうか。 ただ、あれこれ参照するのは面倒なので、今回のご質問タイトルだけに沿って答えさせていただきます。 必要な場合は個々の答えに対応した形で補足していただければと思います。 そこで、≪物質的豊かさ》と《精神的充足》について。 ≪物質的豊かさ》というのは、厳密に言うと、 ≪物質的豊かさを通して得られる精神的充足》ということでしょう。 精神的充足の伴なわない豊かさというものはおそらくないでしょうから。 ですから、仮に誰かが分けているように見えても、実際は分けているわけではない、と私は思います。 どうも、ブラジュさんの論点がよくわからないので、ここから論を進めていただけるとありがたいと思います。 一体に、充足という現象自体が精神的なものだと思います。 物質的豊かさだけで何かの尺度になることはないでしょう。 物質的豊かさによって得られる精神的充足、と敷衍して初めて意味を持ちます。 つまり、【本質的には】分けようにも分けようがないのではないでしょうか。 仮に分けるとすれば、単に思考の過程としてでしょう。 意識と無意識は実質上分けられませんが、両者を裏表の関係として認識する際に、このように両者を分けて表現することができるのと同じだろうと思います。    ブラジュさんのご質問意図に合致していないのかもしれませんが、こんなところです。       

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさんとの対話は この件にかんしては これ以上やっても時間がもったいないだけになったと思います。  共通の理解に立てたと思います。  まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 仮に分けるとすれば、単に思考の過程としてでしょう。  ☆ それを 《生きる目的》として二者択一にしているので 怒れて来ました。  はこぶるさん ここまで引っ張って申し訳なかった感じを持ちます。  ただもしせっかくの問い求めの場だとしますと お気が向いたらでいいんですが この質問の回答No.4のその文章を よろしかったら解読してもらえませんか?  わたしも再考した結果を補足欄に書いていますが なにぶんこの質疑応答の場では《議論》はしてはいけないという考えの持ち主でいらっしゃって 補足要求もままならない状態です。  ただし――短い文章ですから―― いちど読んで解読するにあたらないと判断されたのでしたら もう打っ棄ってください。  ちょっと押しの強いお願いですが。

その他の回答 (11)

  • hakobulu
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回答No.12

#11です。 ブラジュさんが読解できない(のだとすれば、それを私が)できるわけがないでしょう。^^; まあ、物質至上主義的な現代社会への批判だとは思いますが。 現代人の誤った認識、あるいは勘違いに対する苦言と見えます。       

bragelonne
質問者

お礼

 すみません。お手数をおかけしました。  ● 日常的感覚  ☆ を例の量子論による世界認識によって超えるといった含みがあるかにも推し測るのですが なにぶんそれに明るくありませんで お手上げです。  ★ 現代人の誤った認識、あるいは勘違いに対する苦言と見えます。  ☆ おそらくこの筋でしょうね。  ★ まあ、物質至上主義的な現代社会への批判だとは思いますが。  ☆ これは その先の具体的な論旨が分からないことには 何とも進めません。といった状態です。  それほど悩むこともないはずです。この件につきましては 成るように成るとかまえています。  ありがとうございました。  ○ 理象化(?)  ☆ などという質問もあらたに挙げました。この質問は 明日あたりに閉めようと思います。  あらためて みなさんともども ありがとうございました。

  • hakobulu
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回答No.10

#9です。 > 悟りを得てもいなくても バランスが身についていようといまいと 人間存在の社会行為論は 自由意志による個人としての行為であるというのは 大前提です。 : それはわかりますが、しかし、それを大前提にしたところで、何が導かれるのでしょうか。 つまり、自由であろうとして自由になれない人間と、自由であると勘違いしているだけの人間と、ほぼこの2種類ではないか、という気がするんですけどね。 それを前提にして仮になんらかの結論が得られたとして、それを適用して幸せになれる人間というものが果たしてどれほどいるのか疑問に思う気持ちを払拭できません。 ですから、 >  その内実が 破られていても 大前提でありつづけているのであって だからわたしはやっぱりココロ派を宣言して みなにココロにおける自由意志による選択という行為の基本を知ってもらいたい などというのは 素人です。こどもです。 : と反論されるような内容のことを述べているわけではないのです。 たとえば、人は外見ではない内面だ、などと言われますが、これは外見を否定するわけではなく、外見で判断しがちである人間の判断基準の特性が前提になっているわけでしょう。 なぜ、内面を重視しようとするのか、と言われても、実際に当初は重視されづらいから重視しようとする動きが強調されるだけです。 安易に こころこころ と唱える安売りの風潮を嘆いておられるのであれば、さもありなん、と同意いたしますが、そういうことでもないですよね。 わたし自身、ブラジュさんのご質問の真意をどこまで理解できているかわからないのですが、 むしろ、では、なぜ2分法だとよろしくないのか、そのへんを例にあげていただくとわかりやすくなるような気もしますが。 >つまり 二者択一を言っているあいだは―― 無理だと考えられるからです。《わたし》を分割し分裂させようとしているからです。 : う~む。 そんなことを言うのは松岡修三ぐらいじゃないですかね、よくは知りませんが。 そんな極端な精神主義者が現世にいるものでしょうか。 やはり、具体例がないと非常にわかりづらい、という気がします。 > もうひとつに。《わたし》の分割からもたらされることとしてですが けっきょく身ないしモノを排除するその精神は まったくにおいてゆがんだ状態にあるからです。 : いや、これは全くおっしゃるとおりでしょう。 「けっきょく身ないしモノを排除するその精神」というのが、言葉としては理解できますが、なぜそれが持ち出されてるのかよくわかりません。 つまり、「精神がそれほど偉いのか」と、どういった場面でそう思われたのか、それがわからないと難しいです。 > そのとき モノや身を排除しているなら その精神は完全にゆがんでいます。 : そのとおりと思います。 誰かが排除しているのでしょうか。 もしそうであれば、その歪みこそが問題になるはずで、そこに論点を移行せざるを得ないように思われるのですが。 > なのに 《もっぱら精神を顕揚する》というのは 精神の病いに侵されているとしか考えられません。 : 精神だけを、とは言っていません。 肉体だけで事足りるのであれば、ある意味で幸せですが、いわゆる本能の壊れてしまった存在としての人間としては精神に目をつぶるわけにもいかないでしょう、ということにすぎません。 >前提となる事柄において わたしから見れば錯誤がおかされている。こう見ざるを得ません。 : その怖れはありますね。 あえて否定はしません。 わたしの理解力の限界なのだと諦めます。 >という場合であれば たとえば般若心経を 羅針盤のひとつにしようとおっしゃったのではありませんか? それは《精神的充足》をすら超えたところに見出されるさとりなのではないですか。 : 般若心経からは単に文言を拝借しただけです。 仏教的(を含め宗教的)素養は皆無と言っていいです。 ついでと言ってはなんですが、さらに拝借してみれば、おっしゃるところの「《精神的充足》をすら超えたところ」が色即是空ということなのかもしれません。 しかし、これにしても 色 と 空 という2分があってはじめて成立している概念でしょう。 この意味で、精神至上主義とでもいう右翼的思想に対してでもなければ、精神がそれほど偉いのか、と噛み付く意味もないように思えてしまうわけです。 そんなことを言わんとしているわけではないですよね。 また、理解できるようになったら改めて参加させていただくかもしれません。        

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさん どうしたのですか?  ちゃんと この質問のきっかけとなった文章は これだと説明しているぢゃないですか。  ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~  §1 まづは おことわりです。    まづこの質問では 趣旨説明が その前提をきちんと伝えていなかったことを おわびして おことわりしなければなりません。  すなわち  ☆☆(趣旨説明欄) 4. この二分法は いったいどこから来ているのか? 《生きる目的》がこれらに二分されると見るのは いったいどういう料簡から来るのか?  ☆ この事項を最初に持って来るべきでしたし なかんづく問題は《生きる目的》として議論しているのだということでした。  そしてそのような一つの見解というのは 実際に質問者が受けた回答にあったものです。  【Q:愛とは 愛させることである。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6917852.html  その回答は 一件のみですから 分かります。こういう事情は明らかにしてもよいと考えます。  ~~~~~~~~~~~~  それから 次の一件について明らかにすれば 今回の応答は足りると思います。  ★ ~~~~  ついでと言ってはなんですが、さらに拝借してみれば、おっしゃるところの「《精神的充足》をすら超えたところ」が色即是空ということなのかもしれません。  しかし、これにしても 色 と 空 という2分があってはじめて成立している概念でしょう。  ~~~~~~~  ☆ 申し訳ないが ちがいます。二分法のほうがです。  ○ 色・受・想・行・識のそれぞれについて それらは経験的な事象ですから それとして現象しています。ですが その現象のすべて(諸法)は 無我だと言っています。人間の存在に何か不変的な核となるようなアートマン(我)があるわけではないと。あるいは 《無》だと言い切るよりも 空として見るのだと捉えたほうがよいのでしょうか。  ですから  ★ 色 と 空 という2分があって  ☆ ということではないと捉えます。色などなどは 経験的に現象しているそれぞれのモノ・コトです。空は空観として それらの現象(諸法)を空と見ると言っています。言いかえると 無我だと。  色即是空とは そのように《無我として見られる存在ながら その〈わたし〉》が 諸法なる現象を空と見ることを示しています。空即是色とは そのように空観において動態している《わたし》が 生身のからだとして社会においてあるとき それとして色でもあり 受であり想であり行であり識でもある現象をおこない得ていると見ることだと考えます。  色は 身ないしモノに対応しており 空は空観するわがココロであると見なせば たしかに身と心あるいはモノとココロに二分されていると見えるかも知れませんが  ココロも《意》などとして 《無》である・ないし空と見るということですから 心身二元論でないのは当たり前であるばかりでなく ココロと身またモノとが 対立する二項であると見ているというのとも 違うと思います。  もし無明(煩悩)を持ち出すのならば ココロはその無明から抜け出ているが 身ないし感情は 無明のままであるなどという見方に立つものではないはずです。  無明と言えば 心も身も渇愛の状態にある。さとりを得れば 身も心も 明知のもとに《わたし》として動態する。  何で精神がえらいのですか?  もし精神の充足を生きる目的として生きるならば 物質的な豊かさも貧しさもどちらも上手に切り抜けて行けるその意味でのさとりを得ているというのでなければ おかしいでしょう。あるいは 身つまりその感情や欲望をともかくも切り盛りして行けるというのでなければ おかしいです。  つまり そうであれば そのときわざわざ《物質的ゆたかさ》を排除するなどという考えが いったいどこから出て来るのかと思われます。おかしい。  ですから ひょっとしたら 裕福な様子を見るとやっかみが出てしょうがない。そういう感情に悩まされているというホンネのことを 《精神的充足を重んじる》というタテマエの常とう句に託したのかなとでも考えないと やはりおかしい。でしょ?  ご回答をありがとうございます。たぶん 軌道修正をしたご回答を寄せてくださるでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 ★ ~~~~~  たとえば、人は外見ではない内面だ、などと言われますが、これは外見を否定するわけではなく、外見で判断しがちである人間の判断基準の特性が前提になっているわけでしょう。  なぜ、内面を重視しようとするのか、と言われても、実際に当初は重視されづらいから重視しようとする動きが強調されるだけです。  ~~~~~~~  ☆ このように 人間やその社会についての価値判断をするときの基準がどうか という話でしたら かろうじて二分法について認めたとしても それを――つまり見た目という分かりやすい判断基準によりは けっきょく総合的な判断ができるようにするためには ちょっと目では分かりにくい内面のことをしっかりと捉えなくてはならないというひとつの価値観を―― ところが 生きる目的とする。これは どういうことでしょう? おかしいでしょう?  ★ なぜ、内面を重視しようとするのか、と言われても、実際に当初は重視されづらいから重視しようとする動きが強調されるだけです。  ☆ もしこの発想で捉えるとすれば ともかく《まづは モノよりもココロですよ。ココロを重んじましょう》というひとつの出発のあり方を言っているだけということになりましょうか。  果たしてそうでしょうか。  もしそうだとして そうだとしたら その出発の結果についても きちんと明らかにしていなければならないと思われますが どうでしょう?  つまり ココロ派を宣言するのは あくまで《当初の動きであり その際の注意点である》ことです。そのあと 結果としてはどうなるのか。これをしっかりと明らかにしていないことには 価値観あるいは世界観にはならないでしょう。  つまりは けっきょくにおいて 総合的な判断を得るために設けたひとつの手段でしかなかったものです。人間や社会についてその全体観 これを明らかにする際には では どういうことになるのか? そのときにも依然として 《物質的豊かさ》をしりぞけて《精神的充足》を目的にして生きている こういうことでしょうか?  もし億歩ゆづってその見方に乗って考えるなら 《おれは モノは 必要最小限においてしか 要らない》と言っているだけのことです。けれども社会的な生活基盤(インフラ)の中でそれを利用して生活しているはずですが このインフラも モノです。あるいはたとえば 上下水道やらインタネットやらの便利さについては それは モノだから モノの利用から来るココロの満足は おれは持たない。それを感じたらその感覚を捨てることにしている。といった生活の主義主張をおこなっていることになるでしょう。  くだらない。何の意味もありません。二分法のあとに 二者択一をするからです。しかも生きる目的として立てることにまで成っているからです。  精神的充足をもっぱら重んじるという主義主張は けっきょく 言わばそういうかたちの――つまり身やモノとしての骸(むくろ)のかたちではなく 反対に《精神》だけの骸というかたちの――ゾンビであるというところではないでしょうか? 現代人は そういうシンドロームをかかえていましょうか。《理性》が着物を着てそこらを歩いており どこからか声を出して精神のみがとうとい 心のみが人間の宝と唱えているようなものです。

  • hakobulu
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回答No.9

#7の続きです。 > つまり 生きる目的うんぬんを言うのであれば ココロは一人ひとりの自由意志の中核であるから重要だということは ひとつの命題として提出するようなことではなく むしろ必ず一般に措定されている大前提であるはずなのです。人間であるならば。 : それはそうでしょうが、ただ、その大前提すら犯されるほどの出来事が世の中には(おそらく目に見えないものも含めて頻繁に)生起している、と見なしてよいはずです。 > 少なくとも 存在論がこの大前提をないがしろにすることなどは あり得ません。 : かもしれませんが、論ではなく、現実として存在する可能性は大いにあるような気がします。 その現実によって、たとえば、 >《精神的充足》を生きる目的とするなどという主張  : を敢えて叫ばざるを得ない場合も生じてくるのでしょう。 わたしは基本的にブラジュさんの言っていることはわかるような気がします。 しかし、現実的な方便として、そういった主張があるのも至極当然の昨今の世の中ではないでしょうか。 つまり、 >わざわざ出て来るのか? お  か  し  い。 : という視点には立ちません。 お か し くさせている何かがあるのではないでしょうか。 そして、それはおそらくおかしくされている個人(本人)のキャパシティを超えた、自分ではどうしようもない領域に踏み迷っている、おそらく、また、ある意味で、(その本人にとって)過酷な航路の表象なのでしょう。   

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。  三件のご投稿をまとめて こちらでお応えしてまいりたいと思います。  §1 まづは おことわりです。    まづこの質問では 趣旨説明が その前提をきちんと伝えていなかったことを おわびして おことわりしなければなりません。  すなわち  ☆☆(趣旨説明欄) 4. この二分法は いったいどこから来ているのか? 《生きる目的》がこれらに二分されると見るのは いったいどういう料簡から来るのか?  ☆ この事項を最初に持って来るべきでしたし なかんづく問題は《生きる目的》として議論しているのだということでした。  そしてそのような一つの見解というのは 実際に質問者が受けた回答にあったものです。  【Q:愛とは 愛させることである。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6917852.html  その回答は 一件のみですから 分かります。こういう事情は明らかにしてもよいと考えます。  §2 自由意志の問題が 中核となると考えます。  すなわち今回はこぶるさんは わたくしの次の反応については触れておられません。いえ その大前提であることについては 触れて それに反論されています。  ★(回答No.9) ~~~  それはそうでしょうが、ただ、その大前提すら犯されるほどの出来事が世の中には(おそらく目に見えないものも含めて頻繁に)生起している、と見なしてよいはずです。   > 少なくとも 存在論がこの大前提をないがしろにすることなどは あり得ません。  :  かもしれませんが、論ではなく、現実として存在する可能性は大いにあるような気がします。  ~~~~~~~~  ☆ ですが 《大前提すら犯されるほどの出来事》が起こる場合についても すでに質問者は触れています。  ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~  〔 ★ いわゆる悟りの境地に達したりすると、このバランスが自然と身につくのかな、という気も少しはしますが。   ☆ 悟りを得てもいなくても バランスが身についていようといまいと 人間存在の社会行為論は 自由意志による個人としての行為であるというのは 大前提です。〕   その内実が 破られていても 大前提でありつづけているのであって だからわたしはやっぱりココロ派を宣言して みなにココロにおける自由意志による選択という行為の基本を知ってもらいたい などというのは 素人です。こどもです。  それが証拠に 成人については 何かの犯罪行為をめぐって問われることがあった場合 この大前提を知っていたか知らなかったかは 問題になりません。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 善意(知っていた)か悪意(知らなかった)かは問題にならず 自由意志ないしそれとしてのココロの重要性は いわば無条件に前提されています。心神喪失で責任が問われないのは 例外だと思われます。  ★ ~~~~~  その現実によって、たとえば、   >《精神的充足》を生きる目的とするなどという主張   :  を敢えて叫ばざるを得ない場合も生じてくるのでしょう。  わたしは基本的にブラジュさんの言っていることはわかるような気がします。  しかし、現実的な方便として、そういった主張があるのも至極当然の昨今の世の中ではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ この立論に真っ向から反対です。理由はふたつです。  ひとつに。自由ないし自由意志の重要性と そしてその自覚のために《生きる目的として 物質的ゆたかさを取り除き精神的充足を立てる》こととは 無関係です。  身もモノもココロもすべて単位体としての存在である《わたし》が統括するという体制にしないかぎりは――つまり 二者択一を言っているあいだは―― 無理だと考えられるからです。《わたし》を分割し分裂させようとしているからです。  もうひとつに。《わたし》の分割からもたらされることとしてですが けっきょく身ないしモノを排除するその精神は まったくにおいてゆがんだ状態にあるからです。  さとりを得たというのなら すべては――身も心もモノも何もかも―― 空観において見られ扱われましょう。何が《精神的充足》を生きる目的とする ですか。ちゃんちゃらおかしい ぢゃありませんか。諸行無常。諸法無我。精神的充足をとうとびよろこぶアートマン(我)は こどもです。  そのとき モノや身を排除しているなら その精神は完全にゆがんでいます。《わたし》がすべてを統括しつつ しかもその《わたし》は アートマンとしては 無である。あるいは空として見られる。  般若心経を引いて  ★★(回答No.3) 無x(眼+耳+鼻+舌+身+意)  ☆ とすでに明らかに宣言されているぢゃありませんか。  なのに 《もっぱら精神を顕揚する》というのは 精神の病いに侵されているとしか考えられません。  かなり激していますし ほかの論点について触れ残していますが これでお応えし得ていると考えます。前提となる事柄において わたしから見れば錯誤がおかされている。こう見ざるを得ません。  ★ ~~~~  そして、それはおそらくおかしくされている個人(本人)のキャパシティを超えた、自分ではどうしようもない領域に踏み迷っている、おそらく、また、ある意味で、(その本人にとって)過酷な航路の表象なのでしょう。  ~~~~~  ☆ という場合であれば たとえば般若心経を 羅針盤のひとつにしようとおっしゃったのではありませんか? それは《精神的充足》をすら超えたところに見出されるさとりなのではないですか。  なのに それなのに はこぶるさんまで おかしい。

  • hakobulu
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回答No.8

#7です。 気が付いたら、いただいたお礼の中途までに関してだけよりコメントしていませんでした。 残余は、暫時投稿させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.9のお礼欄にて まとめてお応えしております。

  • hakobulu
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回答No.7

#6です。 > ○ 身やモノに対して心を重んじるということは分かった。だが 心を重んじるからというので 何で感性やモノの豊かさを軽んじなければならないのか? : 「心を重んじる」ことは必要でしょうが、それは陥穽やモノの豊かさを軽んじることと同義ではありません。 また、そのようなことを言ったつもりもありません。 私の述べた骨子としては、どちらか一方に偏ることなくバランスを取るべく人は作られているのではないか、ということです。 ここで、 >. この二分法は いったいどこから来ているのか? : ということから、 >心を重んじるからというので 何で感性やモノの豊かさを軽んじなければならないのか? : という論点に移行したと捉えます。 まず、端的に(私流に)言わせていただくと、これは極めて(今のところ)明快な理屈でして、感性なり「モノ」という存在は、人の本能に働きかけているからです。 しかし、本能だけで生きることを許されなかった存在が人間であるとするならば、また、そうだろうと私は思っているのですが(わたしは神より進化論を信じているのでブラジュさんとはこの点で根本的に見解を異にするのかもしれませんが、この認識に間違いがないようでしたら、その旨お知らせください。むだな論議はしたくありませんので。お互いのため)、二分法というよりも、むしろ+一分法として必須の論法であるわけです。 ただ、 > 3. あるいはこの境地ということで捉えれば 経済的にゆたかであってもなくても その状態に応じて身も心も満ち足りた生活を送るというのが 生きることではないのか?  : この論説には賛同できます。 しかし、これはあくまで当事者の目線に立った場合ですね。 私流に言わせていただくと、何ゆえ他者と同じ世界を生きようと悩むのか?!ということになります。 (多少ニュアンスは異なるのかもしれませんが) ブラジュさんは頭が良すぎるので、なるべく簡明なる解説を希望いたします。 今回のお礼欄は割合理解しやすかったとは思いますが、その調子でよろしくどうぞ。 わたしのような素人が幾人かは見物してくださっていることでしょうから。   

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.9のお礼欄にて まとめてお応えしております。

  • hakobulu
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回答No.6

#3です。 >いえ だから 身ないしモノにまつわる感覚およびその認識と そしてココロにかかわる認識(知解)および意志とは まづ区分してもよいでしょうし 区別してふつうにも扱うはずです。(A) : この点(A)をまず確認させていただきたかったわけです。 > 問題は その区別に応じて 生きる目的をも分けるということ ここにあります。 : そこから、このようになるわけですが、なぜ、これが疑問なのかよくわかりません。 A の意味は、「わかりやすいことは信じやすい」ということでしょう。 人の特性としてそうである、ということだと思います。 それが >何故分けるのか : に対する答えでしょう。 わける のではなく、わかれている わかれざるを得ない ということになると思います。 であればこそ、わかりやすいことだけに流されて(信じて)しまっては見失うものが出てくる場合も多い、ということで精神的充足を指向する形態も人は備えている。 ということのように思います。    >なんでわけなきゃなりませんか? : 先ほどの繰り返しになってしまいますが、基本的にはですが、安きに流されやすいという自然の法則があるからでしょう。 腹が減っているときに店先にならんでいるりんごを失敬して食べてしまい、「お腹がいっぱでああ満足」というだけに終わらないのが人間と熊との違いでしょう。 この場合、舌なり腹なりの感覚は満足しているわけですし、そのことを認識するのは容易です。 しかし、熊にはない「意」によって、別の感覚なり認識なりが台頭してくる。 ふたつをわけるのではなく、元々無かったものが増えたと考えると良いのかもしれません。 そして、人はこれらのバランスを取ろうとする。 いわゆる悟りの境地に達したりすると、このバランスが自然と身につくのかな、という気も少しはしますが。 何か具体的な例でもあげていただくと、私のような素人にも、もう少し楽しく考えられるかもしれません。   

bragelonne
質問者

お礼

 分かったようなまだ分からないような――はこぶるさん ご回答をありがとうございます――ですが どうなんですかねぇ。  ずばり論点に入りますが  ★ 基本的にはですが、〔* 感性にかかわることがらは人には 知覚として直接的に難なく分かることなのでそれに重きを置くと 何かと〕安きに流されやすいという自然の法則があるから〔* 動物にはない心のことを 感覚事態とは分けて取り上げて重んじるということ〕でしょう。  ☆ もしこうでしたら 次のような反論が必然的に出るでしょう。  ○ 身やモノに対して心を重んじるということは分かった。だが 心を重んじるからというので 何で感性やモノの豊かさを軽んじなければならないのか?  ☆ つまり 身も心もモノもそれぞれ必要でありとうとい。ただし人は一般に人であることの証しのようなこととして 特には心にかかわる事柄を重んじるのだ と言えば済むことです。何で 二者択一になるのですか? しかも《生きる目的》としてそのようなもっぱらのココロ派であることが 人にとってふさわしいというのは 言い過ぎではないでしょうか?  なぜなら ふたつの反証となる事例を挙げます。世の中は色と金と言うからです。そのような感情や欲望――これらが 感覚として分かりやすい――に流れてしまうのは そうは言うものの じつは・実際には あくまでそのように感覚に流されてもよいという決断を下すからなのです。ココロを特別に重んじるというも いやエピクロス派のように感性を大事にするのだと言うのも いづれも紛れも無く 自由意志なのです。ココロなのです。  ココロによって みづからの意志のもとに そうとすれば感情のまにまに欲望を達しようと図るのであり 突き進むのです。  感性のみによって動いたということは まづありません。衝動的に体が動いたという場合があったとしても 人間の場合には 必ず事後的にそれでも自分の自由意志があってそのもとに行動したということになります。答責性ないし責任問題のことであり 一般に大人であれば 意図していなかった行動についてもこれを 事後において 自分の行動であったと認め 基本的にその結果を引き受けます。  満員電車でほかの人びとから押されて ついうしろの人にぶつかってしまった。という場合にも 意図せざる行為について責任〔の一端〕を負います。行為や人のかかわる現象についてその結果を互いに引き受け合います。    つまり ことはこのように身とココロとモノとは互いにつながっています。何でココロ派に特化しなければならないのか? お  か  し  い。  つまり 生きる目的うんぬんを言うのであれば ココロは一人ひとりの自由意志の中核であるから重要だということは ひとつの命題として提出するようなことではなく むしろ必ず一般に措定されている大前提であるはずなのです。人間であるならば。  少なくとも 存在論がこの大前提をないがしろにすることなどは あり得ません。  何で 《精神的充足》を生きる目的とするなどという主張が わざわざ出て来るのか? お  か  し  い。  ★ ~~~    ふたつをわけるのではなく、元々無かったものが増えたと考えると良いのかもしれません。  そして、人はこれらのバランスを取ろうとする。  ~~~~~   ☆ つまりこのことが すでに初めに大前提であるはずなのです。  ★ いわゆる悟りの境地に達したりすると、このバランスが自然と身につくのかな、という気も少しはしますが。  ☆ 悟りを得てもいなくても バランスが身についていようといまいと 人間存在の社会行為論は 自由意志による個人としての行為であるというのは 大前提です。その内実が 破られていても 大前提でありつづけているのであって だからわたしはやっぱりココロ派を宣言して みなにココロにおける自由意志による選択という行為の基本を知ってもらいたい などというのは 素人です。こどもです。それが証拠に 成人については 何かの犯罪行為をめぐって問われることがあった場合 この大前提を知っていたか知らなかったかは 問題になりません。  どうも おかしい。ぢゃありませんか。どうでしょう?

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.5

1・身とは物質で構成された実体を表す言葉。 一方、心とは物質ではなく脳機能によって生じる現象を表す言葉です。 あえて言えば、コンピューターのハードとソフト、と言えば分かりやすいでしょうか。とはいえ、心とはソフトウェアそのものではなく、ソフトがハード内で稼働し、それによって生じる機能の一部を現わすのですが。 むろん、心を生じさせる機構は脳や各種神経系などの物質です。ですが、あくまで体ではなく、体の機能によって生じた現象を表す言葉ですので、同じとは言い難いのではないかと思います。 例えば、計算、という言葉でノートに書かれた具体的な計算式そのものは表しませんよね。計算という言葉は数字や数学的な概念を用いてモノを一定の入力から出力を導き出す行為や概念を表します。 すなわち、「計算式が書かれたノート=身」、「計算という行為=心」、と考えれば分かりやすいでしょうか。 ノートに書かれた式が間違っていれば計算は狂うし、ノートが汚れたり破れたりすれば計算は上手くいきませんが、それでも、ノート≠計算、ですね。 2・《物質的豊かさ》と《精神的充足》を分ける理由は簡単です。これも1の私の答えを見ればわかるかと思います。 物質的豊かさは文字通り、物質が揃っている状態を表し、精神的充足とは精神状態が良好であることを表すだけのことです。 すなわち、《物質的豊かさ》は具体的な物資の量と質によって示されるのに対し、《精神的充足》は現象の状態を表すのです。 ようするに、両者を区分しない、というのは長さの単位と重さの単位を一緒くたにするようなものですね。 別に区分しないといけないわけではないですし、しないならそれはそれでいいですが、区分したほうが分かりやすいし便利というだけのことです。 別に高尚な理由なんてありませんよ。実利的な意味で分けられてるだけです。 3・生きる、ということに生存する以外の概念が必要でしょうか? 身も心もゆたかであればそれにこしたことはないと思いますし、どういう人生を送り、それに自分が納得するかどうかは個人の自由です。 あと、屁理屈ですが、経済的にゆたかでない、という状態ですが、衣食住も満足に供給できないレベルであれば身も心も豊かに生きることは難しいかと。栄養失調状態で身も心もゆたかさを保つにはどうすればいいのか、難しいことです。 4・>>《生きる目的》がこれらに二分される 逆です。これらがないと生きることが難しいのです。物質がなければ肉体は維持できませんし、精神状態が良くなければ脳に、そして各種臓器に異常を生じます。 《物質的豊かさ》と《精神的充足》が目的なのではないのです。これらの概念はあくまで尺度、すなわち道具にすぎません。 あとは、ごく単純に本能と脳の仕組みによって行動理念が生じるというだけのことです。 人間もまた生化学的な機能によって動いている分子機械ですから。

bragelonne
質問者

お礼

 らいでんさん――というひびきを聞くと ヤマ! カワ!と応じるように 雷電為右衛門とついて出て来ます(いまのように腐った力士が多い情況の中で ガチンコ力士だったそうです。そしてそのことで人のことを思って悩んだそうです)―― ご回答をありがとうございます。  そうですね。質問の趣旨説明に まづ最初にこう述べるべきでした。  ○ 《生きる目的》を《物質的豊かさ》に置くかそれとも《精神的充足》に置くか このように二分して考える考え方があります。この二分法に疑問があります。生きる目的としてなら どちらかひとつをえらぶなどということは あり得ない。のではないか?  ☆ じっさいにそういう文章に出会ったものですから 質問に挙げたものです。  ですから もしこのような趣旨においてあらためて回答を起こしていただくなら らいでんさんのお考えにも・そのニュアンスに 違いが出て来るものと思われます。どうでしょう?  すなわち それでも敢えて反論のような趣旨説明を述べてまいりますが たとえば次のご説明にやはり《生きる目的として二者択一する》という前提があるのでした。  ★ ~~~~~  すなわち、「計算式が書かれたノート=身」、「計算という行為=心」、と考えれば分かりやすいでしょうか。  ノートに書かれた式が間違っていれば計算は狂うし、ノートが汚れたり破れたりすれば計算は上手くいきませんが、それでも、ノート≠計算、ですね。  ~~~~~~~  ☆ ノート≠計算 なのですが わざわざどちらか一つをえらぶという問題から出発しているという事情にあります。だったら それらを分けることにほとんど意味はないということではないでしょうか?  ★ 物質的豊かさは文字通り、物質が揃っている状態を表し、精神的充足とは精神状態が良好であることを表すだけのことです。  ☆ ですから このように区分したあとに問題があるのでした。  ですが ここでは らいでんさんのお考えにも 食い下がってみましょうか。こうです。  ○ 《物質が揃っている状態》というのは あくまでそのことによってその人が じつは・じつに《精神的満足》を得ることなのだと考えられませんか?  ☆ すなわち 少々くどいように確認しますが:  ☆☆(趣旨説明) ~~~  2. 身と心の――ただし変動をきたし得る―― 一体としての《わたし》が モノの便利さや豊かさを享受して満ち足りた生活を送る。その境地について何故 《物質的豊かさ》と《精神的充足》とに分けて捉えるのか?  ~~~~~~~~  ですから  ★ ~~~~~  あと、屁理屈ですが、経済的にゆたかでない、という状態ですが、衣食住も満足に供給できないレベルであれば身も心も豊かに生きることは難しいかと。栄養失調状態で身も心もゆたかさを保つにはどうすればいいのか、難しいことです。  ~~~~~~~   ☆ というとき この質問が対象としている考え方によれば モノとココロを二分してどちらかに決めてえらぶということのようです。  《栄養失調状態》から抜け出ているのなら 或る程度において――まったく平俗に考えるなら――モノを豊かに持つ行き方を取るよりは ココロをゆたかにする生き方をえらぶという思想はありえます。ありえますが それにしても そのココロ派の場合にしても たとえばおそらく本というモノを必要としているはずです。  そして仮りにモノ派の場合にしても 書籍というモノを集める趣味ないし行き方をしているとすれば それによって精神的充足を得ようとしているのだと考えられます。  もしこのような行き方の違い――格差?――があるから ココロ派なのだと言うとしたら それは 自分は読書家なのだという自己満足を言いふらしているに過ぎないとさえ考えられて来ます。(本をその所蔵のためにのみ集めているという場合でも 人生のほかのところで 仕事に趣味に仲間とのつき合いになどなどにおいてじゅうぶんものを考え世界のことについて行動をしているということはあり得ますから)。  いづれにしましても まだ趣旨説明の内容は持ちこたえることができる。こう考えますが いかがでしょう?

回答No.4

「即物的」という言葉がある。 その場合、「心と体は不可分である、とは考えられず、物質が先入的で心は二次的に生じる、という日常的感覚が敷衍される。 つまりその考え自体が短絡的な即物性に由来している。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ そくぶつてき【即物的】 (三省堂「大辞林 第二版」より) ~~~  http://jisyo.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search_tab?ct=3&q=%C2%A8%CA%AA%C5%AA  (形動)  (1) 物に即して考えるさま。主観を交えないで、事物そのものの本質を見きわめようとする態度。ザッハリッヒ。  「―描写」  (2) 物質的なものや金銭・利害などを重視するさま。  「―な人」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらふたつの意味のどちらを言っておられましょうか? どちらにも当てはまりにくいように思うのですが?  ★ 「心と体は不可分である、とは考えられず、物質が先入的で心は二次的に生じる、という日常的感覚が敷衍される。  ☆ かぎ括弧は 「・・・不可分である」で閉じられますか? それとも「・・・二次的に生じる」で閉じても 意味は通じるようにも思われます。そして それほど差し障りはないように思います。  そこで この命題を理解しようとするのですが むつかしい。  ★ 「心と体は不可分である、とは考えられず、  ☆ なら このあとどういう判断が来るのかを別としてこれだけを捉えるならば むしろ《物質的豊かさ》と《精神的充足》とを分けている しかも 基本的に分かれているのだからしっかりとはっきりと分けているという場合だと考えられますが 違いますか?  もしそういう場合でしたら この分離が《基本的に》だというその根拠が知りたいと考えます。つまり何故分けるのかの疑問に答えてくれるものと考えます。  すなわち 仮りにこの《即物的》という場合を例にとってそのまま上に捉えた見方に関係づけるなら 次のように展開すると思われませんか?  ★ 物質が先入的で心は二次的に生じる、という日常的感覚が敷衍される。  ☆ 《先入的》という言葉が分かりにくいのですが あとの《二次的》という言葉と対比させるなら 《一次的な・直接の感性としての受容》のことだといまは受け取ります。  そうしますと 全体としてまづはこの文じたいの意味としては こうなりましょうか。  ○ モノは一般に 《わたし》の身に直接に第一次的に感覚として受容され この感覚が 次に第二次的にココロにおいて認識され意識されるようになる。  ○ ココロは ココロ独自の観念の世界をも持つに到るが いづれにしても 世界との接し方として間接的であり第二次的だというあり方をしている。  ☆ もしこうだとしますと これを《即物的》と言うかどうかをいまはあとに回すとして考えれば どうでしょう?  ○ 時間差あるいは温度差と言うのでしょうか つまり第一次の知覚と第二次の認識とに違いこそあれ 《体と心は不可分である》と捉えられているのではありませんか?  ☆ あるいは仮りに ココロが独自に観念の世界もしくはいわゆる作り話の世界に入って行ったとしても 身ないし体は もしその想像の世界が どうしようもなく現実的ではないということであれば そのことを しばしば わたしにおしえる。こう考えられませんか? つまりそのときにも 《心と身とは 基本的に 一体である》と見られます。  ★ 「心と体は不可分である、とは考えられず  ☆ という場合が 基本的に成り立つというのは ないのではありませんか?  ということは もしそうだとしますと さらに別のご回答内容がありましょうか。すなわち  ★ ~~~~  (* 勝手な解釈によりますと):  「心と体は不可分である、と考えて、物質が先入的で心は二次的に生じる、という日常的感覚が敷衍される。  つまりその考え自体が短絡的な即物性に由来している。  ~~~~~  ☆ こういったご主張になりましょうか。すなわちこれまで述べて来たような一次・二次の捉え方《という日常的感覚が敷衍される。 / つまりその考え自体が短絡的な即物性に由来している。》という命題なのだと。  だとしますと  ★ 日常的感覚  ☆ ではマチガイになるということを 明らかにしていただくとよいかと考えます。  その結果 心と体は不可分ではないという命題も おそらく みちびかれて来て 結論としては《物質的豊かさと精神的充足とは互いに基本的に分かれており どちらかひとつを 生きる目的にえらぶということも起こり得る》と証明されるという道筋になるかと考えます。  いまわたくしにその推論が成功するという見通しは立っておらず その作業は唱導者である回答者さんにゆだねなければならない。こう考えます。どうでしょう。  

bragelonne
質問者

補足

 次のくだりで 第二考を得ましたので 継ぎます。  ☆☆(お礼欄) ~~~~  一次・二次の捉え方《という日常的感覚が敷衍される。 / つまりその考え自体が短絡的な即物性に由来している。》という命題なのだと。  だとしますと  ★ 日常的感覚  ☆ ではマチガイになるということを 明らかにしていただくとよいかと考えます。  ~~~~~~~~~~~   ☆ この《日常的感覚》のマチガイというのは どうも知覚と認識とが第一次と第二次とに分けられるとき 一次は二次よりもとうとい・あるいは価値があるといった評価が ついて来る場合がある。この通念に批判的な見解を寄せておくべきだ。――こういうご投稿でしたでしょうか?  まさかと思いますが ひとこと触れておきます。  質問者じしんは 取るに足りないと考えております。一次と二次とどっちが価値が高いなどといった発想にも与しません。そもそも二分法じたいを認めていないのですから。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

無眼耳鼻舌身意 という文言があるようですが、 眼耳鼻舌身 は認識しやすく 意 は認識しづらい、 からではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。  むつかしいことをおっしゃる。  ★ ~~~~  眼耳鼻舌身 は認識しやすく  意 は認識しづらい、  ~~~~~~~  ☆ 《意》は ココロのことぢゃないでしょうか。  《眼耳鼻舌身》は 大きく《身》として知覚を言うと思います。  次のご回答が いまから述べることに触れているようですが 知覚は第一次の(直接的な)感覚でありしかも〔第二次的にでしょうか〕これを認識しまた意識します。つまり第二次の認識は ココロでおこないます。  そうしてココロでは 身の感性から離れたかたちでも その想像力にものを言わせて 言葉を用いて概念をあやつりそのいわゆる観念の世界をかたちづくることもします。  ★ 意 は認識しづらい  ☆ ううーん。というよりは その認識した事柄が 観念の世界にあるので それだけを独立させて――特にひとに対するかたちにおいて――表現し その表現したままに放っておくことは 控えなければならない。意志疎通ないし伝達が 曖昧になりがちだから。  いえ だから 身ないしモノにまつわる感覚およびその認識と そしてココロにかかわる認識(知解)および意志とは まづ区分してもよいでしょうし 区別してふつうにも扱うはずです。  問題は その区別に応じて 生きる目的をも分けるということ ここにあります。  ★ ~~~~  眼耳鼻舌身 は認識しやすく  意 は認識しづらい、  からではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ 《認識しづらい》ほうを 生きる目的にえらぶ場合があるのだということでしょうか?  けれども そうだとしても そのとき《身やモノにまつわる知覚も認識も》 だからと言って捨てられているわけではないでしょう。必要最小限のモノは ココロに生きるためにも 必要とし利用していましょうし 身に到っては つねにココロも同行させています。  なんでわけなきゃなりませんか?  あるいはなんで精神はそんなにえらいのですか?  いづれにしましても ありがとうございました。

回答No.2

1.「身」も「心」もあなたの構成要素ではありますが、同じではありません。 身=いわゆる「からだ」は物質ですよね。しかし「こころ」は物質ではありません。目に見えるものではありません。 ですので、同じことではありません。同じことなら言葉を分ける必要もありません。 2.質問者さまが一緒に捉えているのであればなにも問題はありません。しかしながら、世の中には、経済的・物質的に潤っていても、幸せを感じていない人たちがいるので、そういう捉え方が出てきたのでしょう。 3.「わたしは経済的に豊かでないと幸せではないんだ!」という考え方の方には通用しません。価値判断の部類は個別具体的になるので、一概に言えないと思います。 4.誰がいつからはじめたかは知りませんが、「心」と「体」が「精神」と「物質」という分け方をされたきた以上、「こころが満たされる」、「体が満たされる」、という観点になっていったのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ますぢょーぢさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  考え方や価値観は 人それぞれである。ゆえに モノとココロを互いに隔絶したものとして分けるのもどうかと思われるが 同じものとして扱えという議論も 一概にはいただけるものではない。――こういったご趣旨でしょうか?  質問者の疑念は――それを明らかにしたほうが 話が早いと思われますから言いますが そしてすでにNo.1でのやり取りでだいたい言っていますが―― こうです。  (あ) 精神は そんなにえらいか?  (い) 《生きる目的》をモノとココロのどちらかひとつに判然として分けるというのは いったいどういう魂胆であるか?    さて こまかく見てまいります。  ★ ~~~~~~  1.「身」も「心」もあなたの構成要素ではありますが、同じではありません。  身=いわゆる「からだ」は物質ですよね。しかし「こころ」は物質ではありません。目に見えるものではありません。  ですので、同じことではありません。同じことなら言葉を分ける必要もありません。  ~~~~~  ☆ ココロは 身の神経組織においてはたらきます。これは その基体がモノだということになります。つまり ココロは モノです。  ただし モノであるだけではないのでしょう。おそらく その物質以上に 何がしかの《伸び あるいは 明け》とでも呼ぶべき動きが捉えられるのではないでしょうか?  これが ココロであり 心の伸びまたは心の明けです。志向性です。意志につながります。    ですが この身と心とは 身に基礎を置きそこに心の動きをはたらかせる《〔人間としての〕わたし》と一体であり ちょっと勇み足で言うとすれば わたしの統括のもとにあると思われます。  心ないし精神は この身やあるいはもろもろのモノとのつながりだけによって成り立つというのでもないようで それ独自の――たとえば想像力をもって――いわゆる観念の世界へ旅立ち そこにさらにおのれ独自のとも言うべき観念の城や体系をかたちづくるくせがあります。  だからと言って この観念の世界が 独立しているとは誰も見ないでしょう。  このような拡大された心を 身やモノと分けて捉えることは むろん出来ますが ところが上の(い)のごとく 《生きる目的》としてえらぼうというわけで わざわざ二分割し その内の心ないし精神のほうのみをえらぶという。こんな話が ありえましょうか?  ★ 4.誰がいつからはじめたかは知りませんが、「心」と「体」が「精神」と「物質」という分け方をされたきた以上、「こころが満たされる」、「体が満たされる」、という観点になっていったのでしょう。  ☆ このご指摘の――あえて――分裂は おかしかありませんか?  ★ 2.質問者さまが一緒に捉えているのであればなにも問題はありません。しかしながら、世の中には、経済的・物質的に潤っていても、幸せを感じていない人たちがいるので、そういう捉え方が出てきたのでしょう。  ☆ でしたら あたかもマリアナ海溝によって隔たったかのごとくに モノとココロとを分けて捉えるのは 間違いではないかと言って 互いにみんなで考え合っていけばいいぢゃないですか。  ★ 3.「わたしは経済的に豊かでないと幸せではないんだ!」という考え方の方には通用しません。価値判断の部類は個別具体的になるので、一概に言えないと思います。  ☆ その考え方をする場合にも 《経済的にめぐまれていないと わが身と心とは満ち足りることがない》と言っていませんか? 何なら《モノがゆたかにあることで わたしは精神的充足が得られるのです》と言っているとも取れるぢゃありませんか。  ★ 〔* モノとココロとのどちらかひとつにこそ幸せがあると判断することが出来るとは〕一概に言えないと思います。  ☆ よ。  みなさん どうかなさっていませんか? 常識の落とし穴!?

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