イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

その他の回答 (72)

回答No.73

たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、 思考(考慮)に関わらず、保険負債を担って下さるのですね。 http://www.shinnihon.or.jp/corporate-accounting/industries/basic/insurance/2010-11-09-03-02.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ 保険負債  ☆ は たとえではなく 実際のことを言っているのですか?  それなら ふつうにこの経験的なことがらとして 処理されて行きましょう。  たとえなら?  ★ たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、  ☆ ええ。たしかに《善行を積む》であるとか《徳の積み立て》が十分か十分でないかは 水の湧き出る泉に成ることに差し障りはありません。  わが《非思考の庭》を かのナゾの何ものかがノックして来たとき それを受け容れたなら 水が流れ出します。  どういう過去を持ちどういう人柄であるか等々にかかわらず無条件に そうなるという物語です。

回答No.72

此の様な意見を見付けました。 http://okwave.jp/qa/q7685546.html

bragelonne
質問者

お礼

 ええっと ひとのみち氏には もうすでにいまの状態からの解脱の道をおしえてあります。  また さからったようです。  うまく対処した回答もついていますが はぐらかしの名人にとっては 効かないようです。  効けばいいのですが だめなら ぶらじゅろんクンに すでにたしなめられたんぢゃないですか? と言ってやってください。

回答No.71

無謬性を押し付けられ乍ら祭り上げられたイエスにとりましても、 基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 http://www.youtube.com/watch?v=vfHaqURGjJU http://www.youtube.com/watch?v=Rw7myHKT_VE

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無謬性を押し付けられ乍ら  ☆ イエスは すでに生前にみづから自分がキリスト(メシア)であると言っています。  そしてこのキリストが もし神の子でありみづからも神であるその存在を言うのでしたら その神には真理であることのむしろハタラキとして全知や全能や慈愛や不可変性やそして無謬性があると言われることはあります。  属性としてそうであるなら 特に《押しつけられた》わけではありません。  ★ 祭り上げられた  ☆ というのは キリスト=マッシーアハの元の意味として 王であり またその当時のユダヤのローマ帝国への従属という情況としては政治的解放者という意味を持ったようですから キリストだと噂されれば そのように指導者になって欲しいという《まつりあげ》があったとも考えられます。  ただし イエスは ほとんどそのウゴキは意に介しませんでした。  ★ イエスにとりましても、基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか?  ☆ ですから この地上の国における政治的闘争家かつ解放者という意味でのキリスト称号だとすれば それを付与されて《迷惑》かどうかも 意に介さなかったものと思います。うわさはうわさで流れるでしょうから。  弟子のひとりであるユダ(カリオテの人)が 弟子でありながらそのような――イエスに 政治的指導者になって欲しいという――《夢》を自分の側で持ち追い求めていたとも言われます。  ほかの弟子たちも イエスの生前には イエスが自分はキリストだと言っていても そのことが神の子であり神であることだという意味を よくは分からなかったようです。  十字架上の死を死んだのちに イエスは復活したとまでうわさされ 《非経験の場》のチカラとしての神であるとやはりうわさされました。つまり イエスというふつうの人間でありつつ キリストという神であるという見方です。  このおとぎ話が 現実のチカラとして作用するもののようです。

回答No.70

人工的に開発された情報資源の類いさえもが、 無量寿光のヲーターサーバーから汲み出されてきたのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7681328.html

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.33お礼欄) ~~~~   ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。  ~~~~~~~~~~  そして No.60でも《無量寿光》の話が出ています。ヲータサーバについてもです。  経験世界の情報と無量寿光とは 直接のつながりはありません。あっても 人間には分かりません。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.69

こんにちで言うところのキリスト教が〈必要とされてきた意味?〉は、ルネサンスの精神性から培われています。さかのぼる14世紀、キリスト教を繋いできた精神が暗い時代の象徴を帯びているのを図像学は確認します。このとき、エジプト-ギリシャ出自による成立や、バビロニアのカルディア文化とユダヤ教にみる土地民俗と、キリスト教の精髄は、別物になったようだということにひとつの論点が浮かび上がります。 〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうことを、ブラジュロンヌさんは言っているのではないかとあえて指摘したいと思います。 太陽が沈んで夜をくぐって昇ること、雨が川となり海から雲へと昇天しまた地に降りること、厳冬を超えて春に命が蘇るということ、洪水を超えて後に繁栄があること、そうした事象が、冥府と豊穣の愛児ホルスをして死者に川を渡らせたり、また黄金の矢と鞭をもつペルシアの王イマをして不可思議な避難の囲い地を設けさせる、通過儀礼の物語を古い神話の世界に生みだしています。ゾディアックを解釈に取り入れているマードック博士は、天体十二宮のみずがめ座通過に注目しています。 ともあれ、通過儀礼のための水の象徴は、〈大地に束縛される人間〉を清める意味を持っていたと思います。ルネサンス前夜から後期のすなわち〈時代と時間に束縛される人間〉にあっても、人々にとりついた死の主題は、『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観の中に置かれ、また聖書が人類史であり地史ですから、水の清めは象徴的によく機能しています。 しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  いやぁ今回は じつにわたしは自分が《最短距離行きたがり屋》であるかを思い知らされました。  だって すべては 尺八のひと音で済むと思っているのですから。  人と会えば 《こんにちは》のひと言で宇宙は万々歳だと思っているのですから。  いえいえ そうではありません。そうではなく 歴史にまなび言わば《人間化》を 類型として整理し しかもその内実をしっかりとおのれの人間化の軌跡とともに思想としても明らかにするといった作業 この王道でしょうか これをいかに怠っているか これを思い知らされました。  ★ 『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観  ☆ 何枚かの図とともに描かれているものですよね? どこかで見たおぼえがありますが もうとんと見向きもしないで来たなと思いました。  歴史をたどる道を 気分にまかせいつも飛び越えて来ました。  ★ 〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうこと  ☆ ですか。たどればたどれるものだとは思いました。  しかも《飛躍屋》の頑固あたまは 言います。  アブラハムの個人に戻っただけではないかと。  父祖の地 ふるさとなる《大地に束縛される》ことを嫌ってか アブラムぢいさん どこへとも分からずに 去って行きました。わしにはわしの道があるのぢゃと。  ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。  ☆ のちにアブラハムと名乗り換えたぢいさんが 妻のサラ(サライ)とともに すでにその水を湧き出させ ふつうの生活を送っている。高年になっても 子にもめぐまれた。  なにが《哲学者の花園》ぞと。わが《飛躍》にこそ われらが人間の人間化の鍵があるのではないかと。  エジプトもシュメールもどこどこも たとえば何て言いましたか ティアマトだかマルドゥクだか あるいはまたそれとしての創世記の話 これらの話題をいかに聖書がパクっていたとしても どうしてどうして 聖書記者には このアブラハムの《いのちがけの跳躍》がつたわっており すでに水はながれています。とても何て言いましたかエヌマエリシュだとかの神話どころの話ではありません。そのネタ元の話は わたしにはきわめて平面的な物語に映ります。  水で話を継ぐとすれば わが日本にも ミソギがあります。あるいは滝行もあります。  きわめて安易な《飛躍》の仕方であるとともに 問題は《身と心》のすべてを一瞬のうちにあらためるといった《人間化》の原理を見ようとしているのかも知れません。《理屈抜き》というやつです。  ところが 聖書記者は この水は たとえであって 霊だと言いました。わけの分からないものだと。  つまりこれは アブラハムの問題です。《去ろうと思ったから 去った》 これだけです。記述は 神のお告げのごとくに書いていますが。  まぁ でも 西欧人もよくぞルネサンスを興したとも思いますけれど。  ★ ~~~~  しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。  かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。  ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。  ~~~~~~~  ☆ このあたりについては またくわしい歴史をたどる研究がなされているのでしょうが――つまり ルネサンスが言わば何故かまた沈んで行くというような歴史の一面があるかと思われます(あるいは 近代人の理性によって 揚げすぎたのでしょうか)―― その時代を経て  ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。  ☆ とまとめつつ 締めくくってもらいました。  でも ふと思いました。  もしこのように言うわたしが アブラハムのおこなったふつうの飛躍とは違って 特殊日本の地における環境が絡んでいるとするなら そのわたしの経験した《 salto mortale 》は みなさんにおすすめできる代物ではないかも知れない。  いえ と同時に もし特殊日本では 決して被虐趣味ではないのに屈辱と排除との論理も実際も 世界に増して暗く深く普遍的なものであったとしたら 無理なくみなさんのものだと言えるかも知れない。  吾人は 洪水になるほど 水かさを増して行かねばならないかも。  (このフリーエッセーをもって お礼のご返事に代えます)。

回答No.68

宗教の組織化は護送船団方式で展開していくのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 いや ぎゃくでしょう。  組織化した宗教は 他をけとばしてでも自分たちが前へすすもうとするでしょう。  もしそのほうが都合がよいとなれば あたかも共存共栄だと言わんばかりに 互いに手を携えるというパーフォーマンスを世界宗教者会議等々といったかたちでおこなうに到りましょう。  ほろびるべき宗派や他宗は ほろびるに任せるでしょう。護送船団方式とはぎゃくです。

回答No.67
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答を――見過ごしていましたが―― ありがとうございます。  経験から 認識を得ます。  認識を整理するとともに 普遍性を持つ概念を取り出します。抽象化の作業だと思います。  そこからさらに概念が どこかワケのわからぬ世界としてのイデアにまで発展し取り扱われるということではないでしょうか?  ぎゃくの方向で イデアが 経験の世界のもろもろのことにかかわって来て イデアのほうが・つまりは幻想のほうが 現実にはたらきかけ 現実を変えることもあるのでしょう。  でも まぼろしはまぼろしであって 消えて行きましょう。

回答No.66

絶対的な真善美は必要なのでしょうか? http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120829-00009743-engadget-sci

bragelonne
質問者

お礼

 真善美としてであろうがなかろうが 《絶対》は 非経験の場として想定されるものです。  《絶対》は ふつう 《真理》と呼ばれます。人間の主観における・経験的なものごとにかんする妥当性のある認識は 《真実》と呼んで区別されます。  《絶対》は 一般に《存在ないし 生きること》が わるいことではなく よいことだと見なされるとき 善の系列として 《至高善》と呼ばれます。この上のない善という意味です。  《絶対》は 美にかんしても かかわっていると見られます。ただしおそらく 美はすでに何らかのイメージやあるいはむしろ理念のようなものとつながっているとも見られます。つまり 美は 一般にすでにものごととしてある。こう考えられます。それでも この上ない美として 《絶対》のことを呼ぶこともあり得ると見ます。  そういう想定をするという意味です。

回答No.65

回答のお礼欄に、イエスの復活という言葉がありましたが、 イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。 最初に成立したとされる〈マルコ伝〉では、 イエスの〈復活〉の直接的な記述はありませんよね。 旧約の〈終末思想〉との関係でいえば、 イエスの復活というのは、イエスの神性に関係する極めて重要なテーマなのでしょうが、 個人的には、マルコ伝がそうであるように、イエスの復活は不必要なのではないかと思います。 いわゆるパウロの〈十字架の神学〉で事足りるんじゃないですか? いやいや、〈十字架の神学〉もいらない。イエスという存在がキリスト教最大の秘蹟であり、 イエスの十字架事件も、復活も、たいして重要ではない、と思うのですが、 この考え方は駄目ですかね。 復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、 泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。 過激過ぎますかね、この考え方は。 bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。 少しこの質問のテーマからは外れますが、 キリスト教における人間の霊魂とはいかなる存在なのでしょうか? 旧約聖書において、魂と肉体、どちらが大切かといえば、肉体の方ですよね。 霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。 しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。 この教えの飛躍は、僕にとって、深い謎なのです。 (ゾロアスター教の影響と考えれば、一番、楽なんですが、それを言ったら、さすがにキリスト教的にはまずいでしょう。直接的ではないにしろ、キリスト教がゾロアスター教の影響を色濃く受けているのは、歴史的・文献学的には明らかなのでしょうが....。 大体、地上の王を「神の子」と呼ぶのは、ペルシアの影響。 旧約聖書が書物という形態をとるのは、バビロン捕囚以降の話なので、ペルシアやバビロンの思想の影響を受けていないと考えることに無理がある。 最後の審判や死者の復活思想、世界の終末思想も源泉はペルシアの思想でしょう、間違いなく。 そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが) キリストの「わたしを信じる者、神の御心にかなう人は天国にゆく」といったような発言、これは額面通り受けとるべきなのか。 それとも、新約聖書によく見られる比喩? あるいは、イエスの、ハッタリ、プラフ?? 一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。 ローマ・カトリックの伝統教学の説くように、死後、生前の行ないに応じて、天国or地獄にひとまず行くんですかね。 それとも、例外なく、すべての霊魂は神のもとに帰り、最後の審判の直前に、再び肉体に与えられるのですかね。 あるいは、肉体の死と共に、霊魂も消滅する?そして、新たに神が新しい霊魂を吹き込む。 ちょっとした疑問です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。昨日は かなりの質と量とを書いたと思います。このご回答ひとつを先送りすることになりました。  ★ イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。  ☆ むろん 物語としてですが――《非経験の場》のチカラにかんするものですが―― まさにこの質問が注目することがらにかかわるものと考えます。すなわち  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  ・・・その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《霊》における再生についてまで 《あなた自身が 涸れない泉になる》ことは ふくむと見ます。そうなれば 《永遠の現在》なる動態を生きることになる。これです。  根拠ですか? ふつうの人間であるイエスが 非経験の場のチカラである神としてのキリストと呼ばれるようになったからです。われわれは このような羊飼いの声(笛?)について行きます。つまり 無根拠にてです。  たぶん 復活は要らないという場合もあるのかと思います。根拠? 自由意志ゆえです。         *  ★ ~~~~~  復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、  泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 復活は 触れました。  《おためごかし》ではないでしょう。なぜなら 羊飼いの笛の音について行かなければよいわけですから。  ★ 原罪の贖罪  ☆ これはですね。原罪もしくは《へび》 このことに聖書記者が触れたことから イエスの登場において このアダムらの罪をあがなったという話になった。つまりそう書かざるを得なかった。まづこのように思います。  ヘビの話は いわゆる世間の知恵なのだと思います。にんげんの自由意志によって 善と悪を知る木から採って食べたのであるにもかかわらず 聖書記者は わざわざ世間のことわざを分かりやすくするために採り入れて ヘビを登場させた。  つまり 実際は ヘビのしわざなのではなく にんげん自身の意志行為として善悪を知る木から採って食べた。そのあと 《アダムよ きみはどこにいるのか?》との声をアダムらは聞いた。そこで 《きよらかなおそれ》を抱くようになった。  それまでは 《聖なる甘え》だったわけです。甘えとすら気づいていなかった。ただし逆に見るなら そのアマエの時代にも すでに きよらかなおそれは 身と心に宿していた。  ですから ヘビは・つまり原罪は すでに初めから まぼろしであった。世間の知恵としては 何かわれわれにんげんの意志を――幸か不幸か また良いほうへかわるいほうへか――みちびくチカラのようなものがあるのではないかと考えた。これを ヘビで表わした。でもすでに初めから まぼろしであった。  そのヘビはまぼろしであるということを 創世記の記述を承けて新約聖書では わざわざ触れてイエスがチャラにしたのだという意味合いにおいて描かなければならなかった。  つまり 初めに人間の生きることの中に原罪を据えるということが もともと《子どもだまし》の話であった。  こう考えます。          *  ★ bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。  ☆ 復活は 触れました。  十字架事件については 次のように回答を寄せたことがありますが まだそこから停滞したままです。  ☆☆(【Q:キリスト教の教えについて】回答No.12) ~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6893242.html  ・・・  ○ 〔人間であると同時に神であるというのではなく ただひとえに〕神であるなら その十字架から降りて来いと言われて もし神の力によってその危機を切り抜けたとしたら 人びとはこぞって それは神であるから出来たことだ われわれ人間にはとても出来っこない そんな特殊な奇蹟を見せてもらっても何にもならない と言ったりすることでしょう。  ○ けれどももし イエスはイエスであってただふつうの人間であるしかないとすれば 多少は立派な人間だったでおしまいです。或る程度の光を見させたでおしまいです。身と心に枯れない泉が湧く気遣いはなくなります。そのような泉は イデアのごとく或る程度は希望の星として受け留められたとしてもです。  ~~~~~~~~~~~~~        *  ★ しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。  ☆ まづ《キリスト教》というのは オシエであり組織宗教です。個人にとっての非思考の庭なる信仰とは 関係ありません。  つねに湧き出る水あるいは心の燈心がともっている状態 これはすでに《霊》の問題だと思います。  この霊つまり聖霊なる神が(つまり 非経験の場なるチカラが) 人をして主体的な存在たらしめます。ということだと思います。  そのことが実現していなくても 理論として大前提であるとして たとえば自由意志の公理が持たれています。自由意志があるとしないのなら 犯罪者はその犯罪について主体的な行為としての責任は問われることはないわけです。夢遊病者のごとくたまたまその犯罪をするにおよんだ。だけであると見なされるはずです。  じっさいにそのように夢遊病者のごとくであったとしても・つまり決して主体的な意志による選択として行為したのでなかったとしても 理論上は 自由意志の主体としてその犯罪行為の責任を問われます。  イエスがキリストであると 物語られたところから 人間論や社会行為論がきづかれていると考えます。  もしそうではなく  ★ 霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。   ☆ という規定だけによるとすれば 世界はまだ 歴史知性以前の状態にあると考えられます。意志自由を知らないからです。そのおのれの意志によってこの世界に入ったという歴史を知らないからです。撞球の玉突きのごとく突き突かれてあっちへ行ったりこっちへ来たりして人生を過ごし社会に生息しているだけとなりましょう。それでも 思いやりや科学の研究はいとなまれると思いますが。      *  ★ ゾロアスター教の影響  ☆ と言えば 例の《ボディサットワ》なんかがそうであると言われます。そういう意味での・つまりいわゆる《救世主》としてのキリスト観 これは それとして影響を受けているのではないでしょうか。  それは しかもキリスト教というオシエの話としては どうでもよいことなわけです。政治的な軍事的な解放者だと見られた場合もあったかも知れません。それも どうでもよいわけです。ザラトゥシュトラが どこまで明らかにしていたか定かではありませんが 《非経験の場》とそのチカラについて述べていなければ どうでもよい思想だと考えます。  菩薩にしても王としての救世主にしても それらは 一回きりの歴史としての十字架事件ではないのですから それらが出て成功したとしてもまたあらたに別のそういうたぐいのキリストを必要とすることになります。イエスがキリストと呼ばれるその意味は そういう思想や修行や政治的解放の問題でも次元でもないと考えられます。      *  ぎゃくに一回性の歴史事件としてのあたかも世界史上に《特異点》を成すような十字架事件 つまりそれにかかわる《復活》のヒラメキが ほかの神話などから影響を受けているかいないか。これにかんしてですが  ★ ~~~~  そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが)  ~~~~~~   ☆ キリスト教のオシエにおいて何と言っているか知りませんが キリストがイエスとなって指し示した神とそのチカラは 同じ復活とい言葉を用いていても 《生命の循環思想》とは似ても似つかないと言わざるを得ないでしょう。  《わたし》は 掛け替えのないただひとりの存在だということを――その《自由意志》なる中軸の存在において――示しているからです。循環・輪廻は どうでもよいと見ます。  この人間の生という高々百年・百五十年の時空間 これっきりの思想です。そこにおいて《永遠の現在》を生きるようになるという復活なる課題です。  ★ 天の国 地獄  ★ 一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。  ☆ 等々は どうでもよいはずです。たとえとしての話です。なにしろ 永遠の現在なのですから。

回答No.64

ご無沙汰しておりました。 ☆☆☆ >○ 人の内から生きた水が湧き出る ☆「水」ですか。bragelonneさんなら、「水」ではなく、過激に「火」という言葉が出てくるのではないか、と思っていたので、 いささか拍子抜けしております(笑い)。 イエスは”恵み”をもたらす人ですので、少なくともここでは、「火」はまずいですかね。 にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。 この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。 このことばは、神としてのイエスの正当性に関わる重要なキーワードだと思うのですけれど、 bragelonneさんのお考えは? 十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。 それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。 ☆マルコ伝8:27以降に、 イエスの正体について、ペテロとのやりとりがありますよね。 そこで、イエスは『なんじはキリストなり』と答えたペテロを 『サタンよ、わが後ろへ退け。汝は神のことを思はず、かえって人のことを思ふ』 と叱りつけています。 この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。 少なくとも、マルコ伝はこの立場をとっているように僕には思えるのですけれど。 また、 ▲かれ(洗礼者ヨハネ)のべて言ふ 『我よりも力ある者、我が後(のち)に来る。我はかがみて、その鞋(くつ)の紐をとくにもたらず、我は水にて汝らにバプテスマを施せり。されど彼は聖霊にてバプテスマを施さん』 (マルコ伝1:7ー8)  洗礼者ヨハネのこの言葉の後に、イエスが登場するので、  〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、  これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。  この考え方に従えば、イエスはあくまで人間。人間イエスが、なぜか分からないけれど、神に選ばれて、聖霊を与えられた。そして、イエスは神の言葉を人間に伝えたとなる。 神とイエス、さらに聖霊まで関係してきて、難しいですねぇ~。 三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。 僕は、イエスを神にまつりあげなくても、イエスは人間でも十分、キリスト教は成立すると思うのですけれども。 イエスの正体が何であるか、この問題は、それほど重要ではないのではないか、などと 例によって、罰当たりなことを考えております。 そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。 そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし… 後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし… 〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。 イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。 ☆☆☆ この夏、すこし、仏教の仏身論(報身)を勉強したのですが、 報身(ほうじん)の他受用身というのは、 十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。 つまり、阿弥陀仏の姿を目にすることのできる菩薩は、十地の最低レベルである〈初地〉以上ということです。報身は、菩薩のための仏さまということになります。 なので、阿弥陀浄土に往生できる人は、この娑婆世界において、ある程度、菩薩行を完成させた人ということになります。 しかも、阿弥陀浄土に往生後の、菩薩の修行の階梯・レベルによって、報身の他受用身の姿・形・大きさが異なって見えるのだそうです。 もちろん阿弥陀仏に姿・形がいくつもあるはずがないので、菩薩の機根・能力によって、その見え方が異なってくるのだそうです。 実は、阿弥陀仏の住む極楽世界というのは、とんでもない高みにある世界で、この世界に住む人間がおいそれと行ける世界ではないみたいですね。 〈聖なる甘え〉は、果たして、極楽往生に通用するのだろうか? しないような気が.... 親鸞の結論もそこに達していたのではないかと.... なので、誰でもその姿を目にし、その言葉を聞くことのできる応身(おうじん)が必要になるって仕組みになる。 もっとも、歴史的にいえば、応身であるゴータマ・ブッダが先で、報身は大乗仏教になってから成立した仏身なので、順序は逆になりますが… 十地のリンク先 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%9C%B0 ☆☆☆ 例によって、脱線しました。 ○それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。 ☆ 〈キのじを言わない〉云々は賛成なのですが、 〈主観の問題〉は、どうでしょう。 〈主観〉と〈客観〉に分かれている間は、まだ《非思考の庭》に達していないような気がするのですが。 まだまだ、認識の対立構造が残っており、《思考の庭》の範疇内のような気がするのですが.... ここは、〈直観の問題〉の方が適切な気がするのですが、いかがでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 やっほー。まだ閉めなかった甲斐がありました。  こんにちは ねこさん。ご回答をありがとうございます。  まづは 引用・援用のあいまいさを確認します。(へへっ)。  ▲ (マルコ福音8:27-34) ~~~~  8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、  ・・・  29 「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。  30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。  31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、  32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、  33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。  34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。・・・  ~~~~~~~~~~  ☆ ここは ほとんど明らかなように お説とは逆でしょう。  ★ この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。  ☆ ちょうどサマリアの女との会話でも キリスト(メシア)であるとイエスみづからが言ったように ここでも 肯定していましょう。ただし 口外するなと言っているところではないですか。  ペテロの《いさめ》は イエスが 自分は殺されると言った そのことゆえではないか?  次にはですね:  ★ ~~~  十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。  それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。  ~~~~~   ☆ これは 時系列としてと言いますか 出来事としては 磔とその後の――物語としての――復活 これで《神として完成する》つまり《キリストと呼ばれるようになる》のだと思いますが?   ★ それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。  ☆ これは その物語の肉づけや味付けの問題ではないか。と思います。三位一体論の問題でしょうし 《同時に 人であり神である》ところがミソだと思います。この思想は もう破られ得ないワールドレコードでしょう。  つまりは その《イエスは キリストである》なる命題〔をもたらした出来事〕について:  ★ にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。  ☆ この《栄光》でいいんぢゃないですか?  ★ ~~~  〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、  これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。  ~~~~~  ☆ たとえば:  ▲ (マタイによる福音書 / 11章 27節 ) すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。  ▲ (ヨハネによる福音書 / 10章 38節 ) しかし、〔わたしが父の業を〕行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」  ▲ (ヨハネによる福音書 / 14章 10-11 )~~~~~  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ そうして 子の父も 父の子も 父と子とから発出する聖霊も すべてそれぞれ互いにひとしく 個は全体と 全体は個と やはりそれぞれ互いにひとしい。  ★ 三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。  ☆ これについて 補足欄にておぎないますから どうぞ。  ★ そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。  ☆ イエスにひとしいものとしては ねこさんがお認めになっていない例の《非経験の場》のことです。  ★ そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし…  ☆ サウルでしたか以下の王に油がそそがれたということですから そのとおりですよね。《神の子にして神》なるキリストという意味は あたらしく造ったことになりましょう。  ★ 後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし…  ☆ これは あたらしい意味付けを別にすれば まづないでしょう。上に引いたマタイやヨハネのくだりだけでも じゅうぶん三位格の一体を言おうとしていましょう。《ことばが 肉(=人間=つまり 身と心)になった》。  ★ 〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。  ☆ 補足欄の図示を参照くださいませ。  ★ ~~~~  報身(ほうじん)の他受用身というのは、  十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。  ~~~~~~~  ☆ たとえば:  ▲ (ハバクク書2:4) ~~~~  ○ たかめられたるわがたましいも ああ ただしからず。きよき人びとは しんじることによって生きる。  ○ (新共同訳) 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。  ○ (口語訳) 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《信仰= 非思考の庭》が稼働し始めたなら 十地も 何て言いましたかね 理即も名字即も無知即(?)も関係ありません。《非行非善》です。修行で一定の地位に行けたからどう 行けなかったからこうといった思考法も理論もありません。《ハカラヒ無き》です。  報身が見えなくったってかまいません。いまは鏡に映ったおぼろな姿を見て 信じるによって あゆみます。神直視は かなわなくてかまいません。むしろ 無理です 生身では。  ある人には 異言を言う能力が ある人には預言するチカラが ある人には・・・というような多様性の姿でいいぢゃないですか。  ★ 客観  ☆ は 実際にはありません。主観の内なる認識のあり方を言うのみです。具体的な何らかの主観が人びととのあいだに共同性を持つとき 或る程度の客観だと見なされます。  主観の内に《非思考の庭》が成ったときには たしかに  ★ 直観の問題  ☆ になると思います。ヒラメキです。直感および直観です。それは 非思考の庭に生じます。   そのあと コギト=思考の緑野あるいは密林ないし感性の田園または知性の都会・・・。  

bragelonne
質問者

補足

 《三位一体》についてです。  まづ図示です。  聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという。その見方をさらに内容として分析したものです。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つぎに いくらかの説明です。  《三位一体》とは?  1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 《絶対》として 一体となった一つの本質(存在)である。  2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。  3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながら いくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》の意味です。  4. 神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。  ・光源が 父なるペルソナの神。  ・光源からの発耀が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。  ・光源および発耀から発出する明るさ・暖かさが 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。  5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。  6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が 各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。  7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは 分割しても その各部分は やはり 無限である。こういう想定である。  8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この記憶という行為能力には あると考えられる。  9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 知解します。あたかも記憶から生まれるかのように。  10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか また その問題のために どういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 意志と呼ばれる。  11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が 父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。  12.意志は 意志行為として 社会にあって 相手がいる。相手との関係が 具体化して 交通し合うとなれば そこに 方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での愛と言う。  13. つまり 意志は 個なる独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。  14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。  15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。  16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《似像》であると思われる。  このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として 世界の構造だという理論です。どうでしょう?

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     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエス・キリストは神?

    聖書をちょっとだけかじった僕には”神の子”と聖書に書かれていたので、神ではなく神の子だと理解していたのですが、キリスト教の方々ってイエスを神だと思っているのはどのような理由なのでしょうか?またキリストを神としているのはキリスト教のほとんどなのでしょうか? ダヴィンチコードのニケイヤ公会議(でしたっけ?)でイエスが神となったのであれば…、神の子であるとイエスがいったことは無視ってことでしょうか? 三位一体とユニテリアンについて気になったので質問させていただきました。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • イエスキリストのいう永遠の命とは輪廻転生のこと?

    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?