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イエスが なぜキリストか。&宗教の解体について。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

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  • kagakusuki
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回答No.11

>★ 質問者様・・・の考えに立つのであれば、「水」とは霊の事であるという事になり、 >  ☆ 何を言ってんだか。:  何を言ってんだかとはこちらの台詞です。  何にも読んでいないし 何にも考えていないぢゃんとは貴方の事です。  一方では >「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 > 内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 > ☆ というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 と水を飲む事で「渇いている人」の罪を贖わせるものが「水」だと主張していながら、その一方で >人間という存在そのものにかんする問題としては―― もう罪はありません。 と「贖うべき罪」が存在していないと主張し、ここへきて更に、 > ☆ この《水》は 霊のことだと言われます。 として、「渇いている人」の罪を贖わせるものが「水」だとした自らの主張とは食い違う事を言い出しているのですから、支離滅裂というより他はありません。  既に >支離滅裂な主張には正解などありませんので、これは質問者様の説明不足により、回答が存在しないという事になります。 と申し上げておりますし、 >「『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事には触れずに、『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事を説明しろ」 >と要求している訳ですが、その事に関する説明も全くありません。 とも申し上げているのに、質問者様は相も変わらず支離滅裂な事を述べ続けているだけで、こちらの確認事項を無視し続けています。  これは即ち質問者様御自身が、御自身が発した問いを意味の無いもののままにしているという事です。  従って、回答No.6で既に述べた通り、 > 問いが意味を成さないものなのですから、答えなども存在しないという事です。 >  これで本件は解決しました。 という事になります。  勘違いしない様に申し上げておきますが、これは質問者様御自身が自分の疑問を明らかにしないせいであって、私やクリスチャンには何の落ち度も御座いませので、 >エレミヤ書のあたらしい契約の預言については 分からんということですね。 といった類のとんでもない的外れな事を言い出してはなりせんよ。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。  質問は 趣旨が支離滅裂でした。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.10

>▲ (イザヤ書 58:11) >  主は常にあなたを導き >  焼けつく地であなたの渇きをいやし >  骨に力を与えてくださる。 >  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。 > ☆ この《水》は 霊のことだと言われます。 >ヨハネ福音一章の《真理を指し示し めぐみの上にめぐみをあたえた》の一つ目の《めぐみ》は 《水の涸れない泉となる》こと(そういう霊の人となること)であり これも イザヤ書やエレミヤ書の預言とその成就のことである。  質問者様の主張が更にまた支離滅裂になりました。  その考えに立つのであれば、「水」とは霊の事であるという事になり、 >  わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の > 内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 > ☆ というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 という話は出鱈目という事になりますね。  一体、どちらだと言いたいのでしょうか?  支離滅裂な主張には正解などありませんので、これは質問者様の説明不足により、回答が存在しないという事になります。  ついでに申し上げておきますが、イザヤ書のその箇所には「メシア」等とは書かれておらず、 >主は と書かれているのですから、その預言は「父なる神」の事に関するものであって、「メシア」や「イエス」の事などではない事は明らかです。  その点では、エレミヤ書の預言も同様である事を忘れてはいけません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 質問者様・・・の考えに立つのであれば、「水」とは霊の事であるという事になり、  ☆ 何を言ってんだか。:  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 何にも読んでいないし 何にも考えていないぢゃん。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イザヤ書のその箇所には「メシア」等とは書かれておらず、   >主は  と書かれているのですから、その預言は「父なる神」の事に関するものであって、「メシア」や「イエス」の事などではない事は明らかです。  その点では、エレミヤ書の預言も同様である事を忘れてはいけません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だから 預言の成就をつうじて 人間イエスが 神〔の子でありみづからも神〕であるキリスト(=マッシーアハ)であるのではないかという命題を問い求めているのです。  《主》が 父なる神だとすれば 子なる神キリストとまったく同じひとつの神なのですから。  ご回答をありがとうございます。  いろはのいから始めなくてはならないようですね。

  • kagakusuki
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回答No.9

>これだけていねいに説明しているその内容にいっさい触れないで 自分の〔陣営の〕解釈がただしいのだとどこまでも言い張り続ける。こういうことのようです  いいえ、完全なる質問者様の説明不足が原因です。  私が幾度か >貴方は一体何をしたいのですか? >他人に質問をするのであれば、まず御自身の考えを纏めて、自分の疑問は何なのかという事を明確にしてからにして下さい。 と申し上げているにもかかわらず、質問者様は相も変わらず支離滅裂な事を述べ続けているだけで、自身の問いを纏めようとはしていません。  貴方は、 「『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事には触れずに、『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事を説明しろ」 と要求している訳ですが、その事に関する説明も全くありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《水》は 霊のことだと言われます。ですから――いまは別様に説明を繰り返すのですが―― このイザヤ書の預言も イエスの登場によって成就した。  それは エレミヤ書のあたらしい契約の預言と同じである。  また ヨハネ福音一章の《真理を指し示し めぐみの上にめぐみをあたえた》の一つ目の《めぐみ》は 《水の涸れない泉となる》こと(そういう霊の人となること)であり これも イザヤ書やエレミヤ書の預言とその成就のことである。  ほかにエレミヤ書では オシへが要らなくなるといった預言がありますが それをいま別にしても このようなイエスの成就した預言という主題について 問うています。  何度も繰り返し言っています。  これに答えられないというのが クリスチャンであろうと推測していたのですが そのとおりであった。  いまの段階と状態は このようです。  ご回答をありがとうございます。  クリスチャンがどんな考えを持っているかというよりも エレミヤ預言について知らない(知っていても きちんとした見解を持てない)でいるという予測はあったわけです。いまのところ そのとおりでした。

  • kagakusuki
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回答No.8

>要するに エレミヤ書のあたらしい契約の預言については 分からんということですね。  全然違います。  質問者様の御質問は >エレミヤ書のあたらしい契約の預言 とは関係の無いものだという事です。

bragelonne
質問者

お礼

 どう  ★ 関係の無いもの  ☆ であるかは 言えない・説明できない。ということのようです。  これだけていねいに説明しているその内容にいっさい触れないで 自分の〔陣営の〕解釈がただしいのだとどこまでも言い張り続ける。こういうことのようです。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~   ★ 内から湧き出る信仰という「生きた水」を他者に飲ませる事は重んじていますよ。   ☆ 引用するにとどめましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この発言は ゆゆしきことです。だから かさねて衆目にさらしましょう。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.7

>聖書について 一個人の解釈し考えるところを提出して その成否を問うている。  解からん人ですね。  それはあくまで単なる一個人の解釈に過ぎず、クリスチャンを始めとする他者の考えはそれとは異なっているという事実を説明したではありませんか。  貴方はその事実を認めずに、その単なる一個人の解釈だけが唯一無二の正しい解釈であるという前提で問いを発している訳ですから、問いの前提自体が誤っているという事です。  前提が誤っている以上、正しい答えなどある筈がありませんから、その問いには意味が無いと言っているのです。  投稿された質問内容は >一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? という、クリスチャンの考えに関する質問内容であるのにもかかわらず、こちらが幾らクリスチャンやキリスト教の考え方を説明しても、貴方は >《一個人である質問者様がどう考えているか》 その内容について成否を問うているって言ってんぢゃん。 と言って、クリスチャンやキリスト教の考え方を無視する様に要求するばかりです。  つまり貴方は、 「『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事には触れずに、『クリスチャンがどの様な考えを持っているのか』という事を説明しろ」 と要求している訳です。  そんなものに答えなどある訳が無いでしょう。  貴方が問いだと思っている事には答えなど存在しないのですから、それは命題でも何でもないと申し上げているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 要するに エレミヤ書のあたらしい契約の預言については 分からんということですね。  それならそうとはっきり言えばいいでしょう。  ご回答をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.6

>☆ 《一個人である質問者様がどう考えているか》 その内容について成否を問うているって言ってんぢゃん。  それなら、本件はクリスチャンについての事ではないという事になりますから、 >○ 人の内から生きた水が湧き出る >に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? という問い自体が意味を成さないという事になります。  問いが意味を成さないものなのですから、答えなども存在しないという事です。  これで本件は解決しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  聖書について 一個人の解釈し考えるところを提出して その成否を問うている。  その考えの中には 帰着する結論として シュウキョウ組織の自己解体という提案が入っている。  いづれにしても こういう問題についてとうぜん考えていると思われるはずのクリスチャンたちにおいて ほとんどこれと言った見解は 持たれていず出されていない。それは おかしいし 何故か?  イエスによる罪のあがないについては どうやらみとめたようだ。  エレミヤ書の預言については まったく知らなかったか 知っていてもほっぽり出していたらしい。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~   ★ 内から湧き出る信仰という「生きた水」を他者に飲ませる事は重んじていますよ。   ☆ 引用するにとどめましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この発言は ゆゆしきことです。だから かさねて衆目にさらしましょう。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.5

>☆☆ その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 >☆ もしこうでなければ イエスが出たということが――つまりは エレミヤ書の預言したあたらしい契約の内容が――何もなかったということになります。  そのような事には全くなりません。質問者様が何故そのような主張をするのか全くもって不可解です。 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 ではないとしたところで、イエスがこの世に現れた事が(史実であるかどうかは別として少なくとも宗教的には)事実である事に何ら変わりはないのですから、 >イエスが出たということが >何もなかったということ になる事などあり得る筈がありませんし、既に回答No.3で述べましたように、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という話はエレミヤ書で預言されていた事などではないのですから、質問者様のそのお考えは誤りであるとしか申せません。 >イエスの磔の死によって にんげんの罪はあがなわれたのですか そうではないのですか?  何故その事をここで確認せねばならないのですか?  貴方の御質問内容は、 >○ 人の内から生きた水が湧き出る >このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。 というものであって、 >イエスの磔の死によって にんげんの罪はあがなわれたのですか ではない上に、その事は >○ 人の内から生きた水が湧き出る という話よりも後に起きた出来事なのですから、本件とは関係の無い話の筈です。  前回の回答で > 貴方は一体何をしたいのですか? > 他人に質問をするのであれば、まず御自身の考えを纏めて、自分の疑問は何なのかという事を明確にしてからにして下さい。 と申し上げた筈ですが、それは無視ですか?  疑問点が何なのかという事を、質問者様御自身が理解していないのでは、答など存在する筈も無いのですから、回答のしようがありませんよ。 >わたしは もともと そのような原罪は 物語として――つまりは 人間の自由意志の問題として――語られているだけであって 初めから無いと思っています。  その事が本件と何のかかわりがあるのでしょうか?  それは単に質問者様がその様に思っているというだけの話に過ぎず、別にクリスチャンの考え方などではないではありませんか。  貴方の御質問内容は、 >○ 人の内から生きた水が湧き出る >このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。 というものなのですから、一般的なクリスチャンや教会がどう考えているのかが問題なのであって、一個人である質問者様がどう考えているのかという事など本件とは何のかかわりも無い話ではありませんか。  少なくともキリスト教においては、 >原罪は 物語として――つまりは 人間の自由意志の問題として――語られているだけであって 初めから無い などとは考えられておりません。 >イエスの登場の問題は 真理を示しめぐみ(恵みの上に恵み)をあたえるその真理である普遍神のことをつたえたということだと捉えていますから  イエスの登場以前から神の存在は人々に知られていました。  従って、イエスの登場の問題は >普遍神のことをつたえたということ ではない事は明らかです。 >物語の問題としては 原罪があがなわれたのです。  いいえ、その考えは誤りです。  「生きた水」を飲んでいない人は渇いたままなのですから、 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という状態の事を >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 と見做す事が正しいのか否かには関係なく、「渇いている人」が存在している以上は、罪が贖われていない人は、「生きた水」の話の場面以降も存在していた事になります。 >なおまだ《渇いていいる人》がいるのは 人間が朽ちるべき性質の存在であるからというだけのことです。  「人間が朽ちるべき性質の存在」となったのは、アダムとイブが原罪を犯したためにエデンの園を追放されて、永遠に生きる術を失ったが故にです。  従って、 >人間が朽ちるべき性質の存在である と見做している限り、原罪が贖われたと見做す事は出来ません。 >内から生きた水が湧き出ます。灯心そのものを あたかも溶鉱炉の火入れのごとく ともしたわけです。これをクリスチャンはおもんじていない。  それは「生きた水」の例え話を重んじていないというだけの話であって、内から湧き出る信仰という「生きた水」を他者に飲ませる事は重んじていますよ。  「生きた水」の例え話が特別に重要な話とされていないのは、「古い革袋と新しい葡萄酒」の例え話の様に具体的にどうすれば良いのかを示すものでもなければ、ロバに乗った話しの様に預言を成就させた場面の話でもないからではないか思います。 >律法にからませる罪は もう問題になりません。  その考えがもしも成り立つのであれば、尚の事 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 などではないという事ですね。  何故なら、「内から生きた水が川となって流れ出る」ようになる以前に、そもそも贖うべき罪が存在しないのですから、「渇いている人」が「生きた水」を飲んだとしても《罪のあがなわれたあと》になる訳ではないという事になるのですから。  因みに、「生きた水」の例え話をイエスが口にした後の時代になっても、「死」や「女の産みの苦しみ」等々、原罪を犯した事による罰は存在し続けていますから、キリスト教で言われている「罪の許し」や「罪が贖い」という場合の「罪」とは原罪の事であるとは考えられません。 >信じる・信じないにかからわず じんるいの原罪があがなわれ〔またそれまでにおかした現象としての罪がゆるされた〕と こちらは言っています。  それは質問者が個人的にそう主張しているというだけの話に過ぎません。  その様な個人的な考えと同じ考え方を、クリスチャンや私を始めとする他人がしていないからと言って >めちゃくちゃです などと非難し、自分の考えを押し付け様とする事こそ滅茶苦茶というものです。  キリスト教の考え方は貴方の個人的な考えなどとは違うのですよ。  キリスト教の考え方では、 >じんるいの原罪があがなわれ〔またそれまでにおかした現象としての罪がゆるされた〕 のは、イエスが十字架に付けられて亡くなられた時とされており、「生きた水」の例え話が語られたには、未だその様な事は行われていませんから、罪は存在していたと考えられています。  それとも貴方は「自分の考えは、キリスト教の教えよりも正しい」などと主張するつもりなのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という話はエレミヤ書で預言されていた事などではないのですから、質問者様のそのお考えは誤りであるとしか申せません。  ☆ 《あたらしい契約》について あなたは何ら検討していません。  その内容と  ☆☆ イエスの磔の死によって にんげんの罪はあがなわれたのかどうか  ☆ とを合わせて検討ください。  《にんげんの罪(とくにいわゆる原罪)があがなわれた》のなら 人びとは 生きた水・つまり要するに聖霊のチカラが〔もともとあたえられていたものが〕 内にあってはたらくようになる。  この解釈について何ら検討していません。  また このわたしの命題の成否を問うのが 趣旨です。あわせて オシへが要らなくなるなら 組織宗教が解体することになるという命題をも問うています。  (このことは 初めから明らかにしていますから 何度もたずねるのがおかしい)。  ★ 一般的なクリスチャンや教会がどう考えているのかが問題なのであって、一個人である質問者様がどう考えているのかという事など本件とは何のかかわりも無い話ではありませんか。  ☆ 《一個人である質問者様がどう考えているか》 その内容について成否を問うているって言ってんぢゃん。  世話の焼ける御仁ぢゃわい。  ★  「生きた水」を飲んでいない人は渇いたままなのですから、  ☆ だから イエスが――物語としては 神の子でありみづからも神であるキリストとして――歴史に登場したことをもって 原罪〔および律法にかかわって罪とされたもの〕にかんする限りすべてあがなわれ ゆるされた。ということ。このことを あなたは 無視しているようですね。  《渇いている》のは もう原罪の問題ではなくなっているのです。あとは経験思想として言えば 自分の良心にかんがみて やましいという心の声を聞いているなら その日々のおこないにおいて現象としてウソ・イツハリを侵したという〔別種の〕罪があるということ。これを意味しますし それだけのことです。  だから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。  という状態の事を   >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》  と見做す事が正しいのか否かには関係なく  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ではなく そうではなく きちんと判断しなければなりません。  ★ 「渇いている人」が存在している以上は、罪が贖われていない人は、「生きた水」の話の場面以降も存在していた事になります。  ☆ では どういう中身としての《渇いている人》ですか? まさかイエスが去って行ったことによっても その罪があがなわれなかった人たちがいる。と言おうとしているのではないでしょうね?  むろん 《「生きた水」の話の場面以降》か以前かの問題ではありません。十字架じょうの姿から去って行ったあと(物語としては 《復活》をも含めたあと)のじんるいのあり方の問題です。(こんなことまで説明しなきゃならないのかなぁ)。  ★ 「人間が朽ちるべき性質の存在」となったのは、アダムとイブが原罪を犯したためにエデンの園を追放されて、永遠に生きる術を失ったが故にです。  ☆ 微妙ですが マチガイです。  (あ) アダムらが良心にさからってやましいことをおこなうという自由意志の〔あやまった〕行使については そうなることは初めから分かっていたことです。  (い) だから ある種の仕方で この自由意志の最初のあやまちを重く見て 原罪という考え方が出て来たのです。  (う) いづれにしても イエスの登場〔の果たされたこと〕によって その言わば過度に原罪を重く見る捉え方は 消え去った。  (え) したがって イエスの登場のあとの人間は ふつうに自由意志の曲げとしてのヤマシサを感じるということの現象的な罪のみを治めます。  (お) 《永遠に生きる術を失った》という話に合わせて説明するなら それは イエスが《めぐみの上にめぐみ》をあたえる(たしかヨハネ福音の一章ですね)と言って 《生身の復活》を知らせて締めくくったところです。  (か) 一つ目の《めぐみ》が 《原罪があがなわれた。⇒生きた水が内に湧き出る》でしょう。  というところを あなたは 次のように捉えているのですね。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  従って、   >人間が朽ちるべき性質の存在である  と見做している限り、原罪が贖われたと見做す事は出来ません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 朽ちるべき存在であっても すでに《この上なくとうとい・きよらかなおそれのもとに わたしがわたしであるかたちで おのが生を生きることができるようになっている》のです。  生きた水の湧き出る話について 聖書記者ヨハネが言うには:  ▲ 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ☆ ハリツケの場から去って行ったとき 成就しました。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 成就したのです。旧約のしかるべき預言はみな成就しました。  ★ 内から湧き出る信仰という「生きた水」を他者に飲ませる事は重んじていますよ。  ☆ 引用するにとどめましょう。  あとは 〔故意の〕誤読です。

  • kagakusuki
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回答No.4

>★ もし「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》だとしますと、「人間は『その罪が贖われた』だけで(メシアと同様に)『他人の罪』をも贖えるようになる」という事になってしまいます。 > ☆ いつ誰がそんなことを付け加えましたか? 冗談ぢゃない。だから乗り気ぢゃなかったんです。 > わたしが言っていないだけではなく どこでイエスが言いましたか?  イエスがそんな事は仰ったなどと誰が言ったというのですか?  イエスが言ったなどという事を、いつ誰が付け加えましたか?  質問者様がここで初めて言い出した事に過ぎないではありませんか。  私は、 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 などとはイエスは仰っておられないと言っているだけです。  イエスは >渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 と仰ってから、 >わたしを信じる者は、 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 と仰いました。  これはつまり彼の >渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 という御言葉を信じて、彼の持つ「生きた水」を飲む者は >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 と仰っておられる訳です。  そして「その人の内から川となって流れ出るようになる生きた水」とは、元々イエスが与えた「生きた水」が流れ出したものなのですから、その水を飲む者もまた >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という事なのです。  それ故、「生きた水」を飲む事によって得られる >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という状態の事を >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 と見做してしまう事は、イエスが与える「生きた水」を飲んだ者もまた、罪のある人間を >具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 に変えるという事、即ち、「イエス以外の人間が他人の罪を贖う事が出来る様になる」と見做しているも同然なのです。  だからこそ >もし「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》だとしますと、「人間は『その罪が贖われた』だけで(メシアと同様に)『他人の罪』をも贖えるようになる」という事になってしまいます。 >罪を許されただけで主でもメシアでもない人間が、主を差し置いて他人の罪を許すなど果たして許される事なのか疑問に思います。 と申し上げている訳で、その様なおかしな話になっているのは、 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という状態の事を >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 と見做してしまっている事が原因なのですから、 >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という状態の事を >というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》 などという意味で、イエスは仰った訳ではないと言っているのです。 > エレミヤ書の預言を読んでください。わたしの理解では 次の二点が イエスによって成就するようになる事柄です。 >○ 人びとの罪はゆるされた。イエスの磔の死をとおして。 >○ オシへは要らないと成った。イエスが 真理たる普遍神を指し示した。  仰っておられる事が支離滅裂です。  それなら、エレミヤ書の預言はその二点で成就された訳であり、 >○ 人の内から生きた水が湧き出る という事は預言の成就ではないと質問者様は仰っている訳ですから、 >○ 人の内から生きた水が湧き出る という事に関する話は >イエスが なぜキリストか という問題に関しては直接には関係していない話という事になりますので、 >このことに一般にクリスチャンは注目していない のは当たり前の話という事になるではありませんか。  その当たり前の事を何故問うているのですか?  貴方は一体何をしたいのですか?  他人に質問をするのであれば、まず御自身の考えを纏めて、自分の疑問は何なのかという事を明確にしてからにして下さい。 >罪がゆるされている状態というのは すでにアダムとエワのいわゆる原罪を犯す以前の状態なのです。 >それでも限りある知性の移ろいゆかざるを得ない身と心から成る存在としては ウソをつきイツハリを侵す。という意味でのもろもろの罪があるのみです。  これまた仰る事が支離滅裂です。  質問者様が引用したエレミア書の預言には >わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。 と書かれていて、質問者様は >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 という事が、その預言の事を表していると主張しておきながら、今になって罪が無くなる事は無いと仰っておられます。  何を言いたいのか御自身でも解っておられないのではないでしょうか? >すでに人間の生まれつきの自然本性にあっては 潜在的な可能性としてでも《生きた水が湧き出る》のです。もし湧き出ていないのなら それでも潜在的には湧き出る状態にあるのです。  これまた仰る事が支離滅裂です。  質問者様は >イエスが なぜキリストか という問題に関して >○ 人の内から生きた水が湧き出る >に焦点を当てます。 と主張しておきながら、今になって >すでに人間の生まれつきの自然本性にあっては 潜在的な可能性としてでも《生きた水が湧き出る》のです。 と言い出して、「生きた水」が人の内から湧き出るのはイエスによるものではないという事を主張しています。  その考え方に従った場合には、「生きた水」が人の内から湧き出るのは、イエスが御降臨されるよりもずっと以前から当たり前に起きていた事であり、イエスがメシアである事とは関係の無い話という事になりますから、 >このことに一般にクリスチャンは注目していない のは当たり前の話という事になるではありませんか。  その当たり前の事を何故問うているのですか?  貴方は一体何をしたいのですか? >原罪と存在に現象的にともなわれ勝ちな罪とを分けて考えなさい。  メシアによって許される罪には、律法を守らない事による罪も含まれていて、 >限りある知性の移ろいゆかざるを得ない身と心から成る存在としては 犯してしまう >もろもろの罪 の中には、律法を守らない事による罪と共通するものもあるのですから、分けて考える必要はありません。 >(1) 新約聖書と呼ぶのは このエレミヤ書の預言にもとづいているのでは? >(2) つまり へブル書できちんと取り上げて確認している。 >  ☆ と言ったことをも無視していますね。  それは質問者様の勘違いというものです。  既に回答No.3において、「生きた水」の話は >それでは全ての人の罪を許した事にはなりません。 >預言が成就された場面とは言えない事になります。 と申し上げております。 >自分が負けるのが いかにもいやなんでしょうか。  それは正に質問者様御自身の事でしょう。  兎に角、質問者様は話が進むに従って仰る事が矛盾だらけの支離滅裂になって行き、何をしたいのかがどんどんと不明確になっております。  自分が負けるのが嫌で脊髄反射で反論する様な事は止めて、もっと頭で良く考えてから投稿する様にして下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》  ☆ もしこうでなければ イエスが出たということが――つまりは エレミヤ書の預言したあたらしい契約の内容が――何もなかったということになります。  イエスの磔の死によって にんげんの罪はあがなわれたのですか そうではないのですか?  (わたしは もともと そのような原罪は 物語として――つまりは 人間の自由意志の問題として――語られているだけであって 初めから無いと思っています。  イエスの登場の問題は 真理を示しめぐみ(恵みの上に恵み)をあたえるその真理である普遍神のことをつたえたということだと捉えていますから)。    物語の問題としては 原罪があがなわれたのです。そのあと どうしてふたたび  ★ 「人間は『その罪が贖われた』だけで(メシアと同様に)『他人の罪』をも贖えるようになる」という事になってしまいます。  ☆ と考えなければならないのか。冗談ではありません。  なおまだ《渇いていいる人》がいるのは 人間が朽ちるべき性質の存在であるからというだけのことです。  その存在からは つまりはその自由意志にさからうところの自由度をも持ち得ていますから ウソ・イツハリあるいはむさぼりが起きます。その意味での現象としての罪も出て来ます。それだけのことです。  つまり それでも内から生きた水が湧き出るのです。  人間の思いやりによって心はその時その場で明るくあたたかくされ得ます。あるいは 科学の成果によってさらにその明るさや受けるあたたかさが増します。  つまり 人間のチカラでそこまでのことが出来ます。  けれども 心があかるくなることは 人間のチカラによるだけでは その成果がうつろいゆくものであらざるを得ない。だから そうではなく 心の灯心をともすということ・イエスがこれを伝えみづからも聖霊としてそのチカラをあたえているということ これが成ったのです。  内から生きた水が湧き出ます。灯心そのものを あたかも溶鉱炉の火入れのごとく ともしたわけです。これをクリスチャンはおもんじていない。  それが 実際にはまだともされたとは感じないというのは 人間は時間的に生きるからというだけのことです。  先の者とあとの者とがいるだけのことです。  これが イエスはキリストであるという神学です。  哲学としては そういう想定としての神論です。    哲学としては 自然本性としてその《心の灯心をともす霊のチカラがやどる》と別様に言っているだけです。  潜在的な可能性が イエス以前からあったわけです。  イエスは その霊のチカラとしての普遍神を指し示しました。神学としては イエスがキリストであるとして みづからの存在のことです。  ☆☆ 原罪と存在に現象的にともなわれ勝ちな罪とを分けて考えなさい。  ☆ この後者の罪は いったんゆるされたあと また侵す場合の・現象としての罪です。律法にからませる罪は もう問題になりません。(むしろ 人間が自分たちで取り決めた法律あるいはふつうの倫理の問題に移行しています。律法は 罪が罪であることをおしえるだけのものです)。  ★★(ANo.3) ~~~~~~~~~~~~~~~   つまり、「イエスを信じた者しか『内から生きた水が川となって流れ出る状態』にはならない」という事です。  それでは全ての人の罪を許した事にはなりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《イエスを信じた者》に限っているのは あなたです。  信じる・信じないにかからわず じんるいの原罪があがなわれ〔またそれまでにおかした現象としての罪がゆるされた〕と こちらは言っています。めちゃくちゃです。

  • kagakusuki
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回答No.3

>わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 > ☆ というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》なのではないか?  《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》がもし「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という事だとしてしまいますと、少し話がおかしなことになる様な気がします。  イエスは >渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 と仰って、御自身が持っている「生きた水」を飲む様に勧めておられます。  そしてその直後に >わたしを信じる者は >その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 と仰っておられるのですから、もし「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》だとしますと、「人間は『その罪が贖われた』だけで(メシアと同様に)『他人の罪』をも贖えるようになる」という事になってしまいます。  罪を許されただけで主でもメシアでもない人間が、主を差し置いて他人の罪を許すなど果たして許される事なのか疑問に思います。  それに、それではイエスがメシアなのか、それともイエスの他に真のメシアが存在していて、イエスもまたメシアから「生きた水」を分け与えられただけなのか、分からなくなってしまいます。 >渇いている人 という表現が使われている事から、「生きた水」とは「渇いている人」の「渇き」を癒すものであり、この場合の「渇き」とは、おそらく「人は罪や死に向かって進み続けるしかない」という虚無感や絶望感の類ではないかと私は思います。  「生きた水」とは、そういった虚無感や絶望感に"囚われた状態"から人を救い出す「教え」の類の事であり、「罪を背負っていながらなお前向きに進み続ける」という事もあり得るのですから、「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が「罪が贖われた」状態の事を指しているとは限らないと思います。 【参考URL】  聖書講解ノート えりにか > ヨハネによる福音 > 生きた水の奔流/文書   http://erinika.life.coocan.jp/data040/john30.pdf  加えて、この時のイエスの御言葉には、 >わたしを信じる者は とあります。  つまり、「イエスを信じた者しか『内から生きた水が川となって流れ出る状態』にはならない」という事です。  それでは全ての人の罪を許した事にはなりません。  又、この時のイエスの御言葉には、 >ようになる とあります。  つまり、「『自分を信じた後でならば』渇く事は無くなる」と仰っているだけであり、この時点では、まだ人々を「内から生きた水が川となって流れ出る」状態にはしていないという事なのですから、もし仮にその状態が「罪が贖われた状態」を意味したとした場合においても、その時点では人々の罪が贖われる前の状態、即ち、人々の罪が贖われていない状態という事になるのですから、預言が成就された場面とは言えない事になります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ もし「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》だとしますと、「人間は『その罪が贖われた』だけで(メシアと同様に)『他人の罪』をも贖えるようになる」という事になってしまいます。  ☆ いつ誰がそんなことを付け加えましたか? 冗談ぢゃない。だから乗り気ぢゃなかったんです。    わたしが言っていないだけではなく どこでイエスが言いましたか?  開いた口が塞がりません。  (まぁ ただし イエスは すでに弟子を超えて友となったからには わたし(=イエス)よりも大きなわざを おまえたちも成すようになるとまで言ってはいますが。  つまり このことは そのような大きなわざを成せることも けっきょくは キリスト・イエスの――つまりは聖霊のと言っても同じですが――チカラによる。ということですから やはり 上のようなイエスの真似をするようなとは 言っていませんし いったいどこから引っ張り出して来たのか。理解に苦しみます)。    ★ 「生きた水」とは、そういった虚無感や絶望感に"囚われた状態"から人を救い出す「教え」の類の事であり、「罪を背負っていながらなお前向きに進み続ける」という事もあり得るのですから、「内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という状態が「罪が贖われた」状態の事を指しているとは限らないと思います。  ☆ めちゃくちゃです。  エレミヤ書の預言を読んでください。わたしの理解では 次の二点が イエスによって成就するようになる事柄です。   ○ 人びとの罪はゆるされた。イエスの磔の死をとおして。   ○ オシへは要らないと成った。イエスが 真理たる普遍神を指し示した。  (モーセの律法による生活共同なる社会のあり方から 一人ひとりが信仰によって生きるというアブラハムの方式に立ち戻った)。  つまり 罪がゆるされている状態というのは すでにアダムとエワのいわゆる原罪を犯す以前の状態なのです。あなたの信仰は めちゃくちゃです。  ★ 「罪を背負っていながらなお前向きに進み続ける」という事もあり得る  ☆ 基本としては――人間という存在そのものにかんする問題としては―― もう罪はありません。  そうではなく それでも限りある知性の移ろいゆかざるを得ない身と心から成る存在としては ウソをつきイツハリを侵す。という意味でのもろもろの罪があるのみです。存在の生きるあいだにおける現象としての罪です。  だから それでも《内から生きた水が湧き出る》ようになると言われているのであって いったい全体あなたは 何を読んでいるのですか。  ★ つまり、「イエスを信じた者しか『内から生きた水が川となって流れ出る状態』にはならない」という事です。  ☆ バカか。すでに人間の生まれつきの自然本性にあっては 潜在的な可能性としてでも《生きた水が湧き出る》のです。もし湧き出ていないのなら それでも潜在的には湧き出る状態にあるのです。なぜ このことを言わないのか? どこかの回し者か。  原罪と存在に現象的にともなわれ勝ちな罪とを分けて考えなさい。  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 釈然としませんね。  (1) 新約聖書と呼ぶのは このエレミヤ書の預言にもとづいているのでは?  (2) つまり へブル書できちんと取り上げて確認している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言ったことをも無視していますね。  自分が負けるのが いかにもいやなんでしょうか。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.2

>新約聖書でもこのように取り上げられているからには このエレミヤ書の預言がないがしろにされてよい道理はないでしょう。  イエスが結んだ契約が、もし仮にエレミヤ書の預言で触れられている「新しい契約」とは異なる点があったとしても、それはエレミヤ書の預言を蔑にしている事にはなりません。  何故なら質問者様御自身が述べておられる様に、 >このあたらしい契約を成就するのは 必ずしもイエスだと明らかにされたわけではありません のですし、エレミア書のその箇所の記述は、主との契約も新たなものに変わって行く事があり得るという事を示すものなのですから、エレミヤ書の預言で触れられている「新しい契約」がなされた後でイエスが別の契約を結んでも構わない訳ですし、イエスの契約の後で更にエレミヤ書の預言で触れられている「新しい契約」がなされても構わない訳です。  それにそもそもイエスが結んだ「新約」の契約が、エレミヤ書の預言で触れられている「新しい契約」とは別の契約であるとする理由は無いと思います。  イエスは律法を完全なものにし、全ての人々の罪を許すために御降臨されたのですから、エレミヤ書の預言をイエスが成就させたと考える事も出来ます。 【参考URL】  マタイによる福音書(口語訳) - Wikisource > 5.17 5:17   https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#5:17  世田谷の桜キリスト教会 > イエス・キリストからあなたへのメッセージ   http://www.jj.em-net.ne.jp/~peaceingod/goodnews.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  それにそもそもイエスが結んだ「新約」の契約が、エレミヤ書の預言で触れられている「新しい契約」とは別の契約であるとする理由は無いと思います。  イエスは律法を完全なものにし、全ての人々の罪を許すために御降臨されたのですから、エレミヤ書の預言をイエスが成就させたと考える事も出来ます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 釈然としませんね。  (1) 新約聖書と呼ぶのは このエレミヤ書の預言にもとづいているのでは?  (2) つまり へブル書できちんと取り上げて確認している。   だとすれば・すなわち  ★ 律法を完全なものにし、全ての人々の罪を許すために御降臨された  ☆ ということは  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~~~   わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の  内から生きた水が川となって流れ出るようになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのが 具体的で実質的な《罪のあがなわれたあとの人間のすがた》なのではないか?  これが 問いです。  ☆☆ (α) 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  ☆ 《生きた水が湧き出る》と同じ意味のことだと見ます。

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     1. 信仰は 絶対性とわれとのカカハリを言う。  2. 類型として 梵我一如というかたちに表わされる。  3. ブラフマン(梵)が 一般絶対性であり アートマン(霊我)が 個別絶対性 である。両者の――霊としての―― 一体が 想定じょう 信仰である。  4. たとえば:  (信仰)・・・:一般絶対性・・・・・・個別絶対性  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・アートマン  ゴータマ・ブッダ:無梵・・・アン‐アートマン(無我):《無い神》派  ブディズム:アミターバ・ブッダ・・・・ブッダター:《有る神》派  随神の道 :オホモノヌシ・・・・・もののあはれ〔を知るわれ〕  クリスチアニズム :テオス(神)・・・・・われ(神の宮)  5. 絶対性は じつはこのほかに 特殊絶対性があると仮説される。  6. 信仰は 《われ》ごとに個別に実践があることによる。  7. 神道には――単純化しますが―― ミソギがあって それによってオホモノヌシの神との一体性を取り戻す。  8. 信仰の具体的な実践を 個人でやれば 個別絶対性にとどまる。おれは神を見たぞとか 神なんているはずがないといったそれぞれ特殊な絶対性としても現われるが 個別絶対性の内にとどまる。  9. そこからさらに この実践(修行?)のひとつの形態を 人びとが共有するようになると 個別の特殊な神観が多くの主観において 共同化される。つまり 何らかのオシヘ(不文でも)を共有するに到れば 宗教というウゴキに発展する。  10. 一般および個別の絶対性なる理論が 実際じょうわれなる主観の具体的な実践として そこに特殊な絶対性を成り立たせるかに見える。これが 貿易の場に出て来る。輸出・輸入がおこなわれるわけである。  11. アン‐アートマン(無‐霊我)なる個別絶対性は 現実にロウソクの炎が消え去 るかのようなニルワーナの状態になることを目指し ヨ―ガなどで実践する。《無い神》派というごとく じっさいに呼吸を止めるほどにまでなるという。六道輪廻からの解脱なのだという。  12. ここまでは 主観におけるその神観としての特殊絶対性である。そして このニルワーナなる理想(?)の状態が 共同主観となったときには――オシヘのごとく受け留められ―― 人びとのあいだの宗教となる。  13. アミターバ・ブッダが 称名念仏なる実践としての主観を呼び起こし この特殊絶対性が共同化されたなら その修行をしましょうというオシヘつまり宗教となる。  (ただし親鸞は 念仏を修行ではなく善行でもないと言った。つまり 個人としての信仰にとどまる)。  14. 加持(アディシュターナ)祈祷という実践がある。マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)の側が《加》であり 人間の側が《持》と成り 両者の――霊としてのという雲をつかむようなのであるが―― 一体を言うらしい。  15. これも 個別絶対性としての或るひとりの主観にとって おのれが実践するだけの特殊絶対性であったものが 共同化されて 宗教となっている。  16. イエス・キリストは 特殊絶対性の部分にかんして こう言ったという。:  ▲  (マルコ福音 14:22-24 からその趣旨のみ) パンを採って これはわたしのからだだ。杯(ワイン?)を採って これはわたしの血だ。〔と〕。    17. つまり 出エジプト記( 24:3-8 )でモーセも 生け贄から採った血を 契約の血とする特殊絶対性の実践をおこなっている。儀式が共有されれば 宗教である。   18. これらの例にみられる《特殊絶対性》は そのひとりの人間の主観の内にとどまるなら 一般および個別なる絶対性理論――つまり信仰なる動態――の範囲にあり そのまま 《生きた主観 生きた蝉》である。  19. ところが 特殊絶対性は 或る主観を一歩外に出かけるなら 信仰としての絶対性は 消える。なのに その貿易は 自由だと思われて来た。  20. オシヘないし儀式などの・言葉による表現をふくめた《かたちあるもの》を すでに主観と主観とが共有することになるから 信仰は消える。自由貿易は じつは 思想としてのみの話になる。  21. 《梵我一如(あるいは 無梵無我一如;仏仏一如;霊霊一如)》において 絶対性とわれなる主観が 一体となるのが 信仰(非思考の庭)である。ところが 特殊絶対性は これもまだ主観の内にあってそれとして信仰にとどまるが そうではなくほかの主観と共有されたとすれば それは 《梵我一如》なる類型つまりその概念が 共有されたに過ぎない。  22. 神を共有することは 無理である。交換もされ得ない。もし―― 一般絶対性は じつは普遍神であるので ひょっとしたら――共有なる状態が 現実であったとした場合 それでも そのことをわれわれ人間は 認識し得ない。ヒラメキにおいて その可能性を予感するのみであろう。  23. 宗教は 儀式をふくめたオシヘとその実践を――特には《観念としての神》を―― 共有するわけで そこにとどまるなら まだ趣味の同好会であり得る。社会福祉をも伴なったとしても サークル活動だ。  24. しかももしこのオシヘを神(絶対性)の代わりとし これを同好の士のあいだにおいてであろうと 従うべき規範や守るべき規則とするなら そこでは信仰は消える。信仰の神を オシヘの神に取り換えたのだから 当然である。  25. よって 宗教は 信仰たる生きた蝉の遺したその抜け殻である。  ☆ 検証をどうぞ。

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • 【宗教】「イエスキリストはなぜ神に最後は見捨てられ

    【宗教】「イエスキリストはなぜ神に最後は見捨てられたと思いますか?」

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • イエス・キリストは何教徒?

    キリスト教がイエスさんを信仰してるのはわかるのですが、イエスさん自身は在命時なにを信仰して人々を導いていたのですか?「ベン・ハー」を見ていてふと思いました。 教えてください。お願いします。 ※宗教等疎いため、失礼な表現であったらスイマセン。