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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

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回答No.9

たしかにキリスト教など日本には必要ない。どこぞの国の宗教か知らないが、遠い日本には関係ない。またキリスト教に見られるような、山のようにある人々の願いを契約と言う形で受け取るあの宗教の形体には非常に違和感を覚える。神がわれわれに何をしてくれるというのだろう。神を信じようとも地震は起こり、人々は惨殺され残されたものたちは泣き叫んでいるではないか。キリスト教など嘘の塊だ。人間が滅びようとも神の与えるものを拒否しつづけることのほうがよっぽど人間の尊厳が保たれるようにさえ思える。日本人はかつて「武士とは他人のために死ぬことと見つけたり」という教育があった。人のために死を選ぶこともあった。そこに神がいてもいなくても全く関係ない。仲間のため家族のために死を選んだのであって神のためでもなければ自分自身のためでもない。これは神の介在する余地のない経験の哲学だと思う。この世界を前にしてどれほどキリスト教に説得力があると言うのか。契約すれば自分自身の欲望を聞いてくれるなどという下品なキリスト教など全く必要ないと思う。

bragelonne
質問者

お礼

 ぺるせうすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まさに メドゥーサの退治といったところでしょうか。  まづ言っておきますが キリスト教に限らず 世界のすべての組織宗教の自己解体を質問者は 望み見ています。  その上で 《イエスが なぜキリストか》 そしてそうであるなら キリスト・イエスは 宗教という宗教の揚棄と そして同時に 個人の――良心・信教の自由のもとに――信仰のさらに自由な確立を指し示した。この命題を問うています。  ぺるせうすさんのおっしゃるには  ○ キリスト教のもったいぶった全面的な神の押し出しには 〔質問者と同じように〕意味を見い出さず 反対である。けれども 同時に 個人にとっての神と言っても それすらも要らない。そういう生の哲学もあるのだ。キリストなどというのは まったくお呼びではないのだ。  といったところでしょうか。  さて ひとつには 日本人の伝えて来ている神々も キリストの神に包み容れられているというのが 質問趣旨です。  あるいは  ★ 神の介在する余地のない経験の哲学  ☆ これは 《無い神》をいだく無神論としての信仰であり その《無い神》も キリストの神に包まれていると見るものです。  まだ根拠を示しませんが  ★ 人間が滅びようとも神の与えるものを拒否しつづけることのほうがよっぽど人間の尊厳が保たれるようにさえ思える。  ☆ たぶん おっしゃるとおりでしょう。  ヨブという男が そうでした。家族は奪われ財産も失くし みづからも体がぼろぼろになり 友だちからは それは 神に対してあやまちを侵したのだろうから 悔い改めよと言われた。それでも そのように神からあたえられた助言をもこばみ続けました。(友だちの意見が ただしいという意味ではなく 間違った見解でも自分に与えられるというのは すべて神が――試練として――あたえるものだからです)。  ですから この場合は 道徳規範は神ではなく それは愚の骨頂だという意味に取りますが そういう場合としてでも すでにみづからは滅びる寸前にあっても 助言をこばみ続けました。というふうなかたちで 人間の尊厳を保つふるまいであると見ます。  つまりは 神は 主観の内にこそあるということ。たしかにその内にあるものも 《かみ》という言葉で人びとと共有されていますが その言葉だけで人はほんとうには動かされるものではない。内実は・と言いますか 実際の動態は そのひと個人の問題である。つまりやはり 主観である。こうでないと 話は始まりません。ということだと考えます。  言いかえると 非思考ないし無根拠なるものこそが 共有されている。ゆえに その共有ないし言葉として《神の共通性》 これによっては人は 突き動かされるものではない。つまり 宗教は ただのまぼろしである。とつねに人は 思っているし 内心において言い続けている。  つまり こういうことをイエスは 言ったのだと。  おそらく イエスが言うまでもなく 誰が言っても・あるいは誰も言わなくても 《神の介在する余地のない生の哲学》は すでに人びとのあいだに生きている。ということなのでしょう。  しいて言うならば 《ゆづり》の思想であると見ます。死ななくてもよいわけでしょうから 《ゆづり》です。  そうして ではどうしてキリスト・イエスを 打ち出して来るのか? どうしてキリストを言わなくてはならないのか?  普及しているからです。  世界にありとあらゆる宗教について批判するには このキリストを誤解して宗教としたキリスト教を批判すれば おおむね済むと思われるからです。それには 反措定を出し続けるのではなく 総合の立ち場で キリスト・イエスの真骨頂を明らかにしなければなりません。  そのためです。    ただし しかも そのチカラを質問者にあたえたのは キリストの神である。こうは思っております。主観の問題です。  おそらく 切り取ったゴルゴーンの首のその奥に ほんとうのキリストのかみがいて あなたにほほえんでいましょう。  そうでないと まだまだ 世界に通用しない日本だけの哲学に終わってしまいましょう。  契約しなければよいと言うのか?  それは あなたの哲学において けっきょく欲望の問題であるのではないか? なぜなら 死ぬことと見つけたりと言いつつ 生き長らえている人間がうぢゅうぢゃいるではないか? それが欲望でなくして 何だと言うのか?  といったふうに反批判されておしまいとなりましょうから。

  • pantomana
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回答No.8

先ほど述べたように贖い(罪の赦し)は現在生きている者にしか効力はありません。 そして、贖い代を支払って人類を買い取ったイエスは「私は、道であり、真理であり、命です」また「門」「入り口」であると言われていますから、イエス・キリスト以外に救い(第1の復活)に至る入り口⇒道、は無いのではありませんか?。 ユダの手紙19.には、嘲る者たちについて「この人たちは聖霊を持たない、分裂を起こす生まれつきのままの人間です」(新改訳) 「霊を持たない生得的な人々です」岩波書店。 と記されている通り、キリスト教を奉じていても聖霊が注がれているとは言えませんので、永遠の生命の水を飲む者は限定されたものと思います。 但し、キリストの名を語って業をなしているなら、キリストの見方であるとイエスは言われていますから、囲いの他の羊と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてです。ご回答をありがとうございます。  ★ 先ほど述べたように贖い(罪の赦し)は現在生きている者にしか効力はありません。  ☆ どういうことでしょう? エレミヤ書のくだりは イエスの登場(その死と高挙と復活)で成就したのではないのでしょうか?  ▲ (エレミヤ書31:34) ~~~  ・・・  小さな者から大きな者に至るまで  彼らはすべて、わたしを知るようになり、  わたしは、彼らの不義を赦し、  もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」  ~~~~~~~  ☆ この《赦し》は 普遍的なものでしょう。じんるいのすべてに対して言われていませんか?  すなわち  ★ 贖い代を支払って人類を買い取ったイエス  ☆ ゆえにです。  ★ 贖い代を支払って人類を買い取ったイエスは「私は、道であり、真理であり、命です」また「門」「入り口」であると言われていますから、イエス・キリスト以外に救い(第1の復活)に至る入り口⇒道、は無いのではありませんか?。  ☆ ですから このイエス・キリストが ほかの名のすべてのそれとしての神をつつむということを言っています。どんな名の神であっても キリストの神につつまれるということですが。  ★ ~~~~  ユダの手紙19.には、嘲る者たちについて「この人たちは聖霊を持たない、分裂を起こす生まれつきのままの人間です」(新改訳)  「霊を持たない生得的な人々です」岩波書店。  と記されている通り、キリスト教を奉じていても聖霊が注がれているとは言えませんので、永遠の生命の水を飲む者は限定されたものと思います。  ~~~~~~  ☆ これは 《終わりのとき》のことですよね?  ▲ (ユダの手紙 新共同訳) ~~~~  17: 愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。  18: 彼らはあなたがたにこう言いました。    「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な    欲望のままにふるまう。」  19: この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です。  20: しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ それとも この《終わりのとき》とは このいま・ここなる現在時のことをおっしゃっていましょうか?  もしそれならそれで 読みはさだまります。つまり 永遠の現在なるそのつどの今において《さばき》がくだされたというわけですが しかも かなしいかな・いかんせん われわれ人間には それが 誰のことであって・どういうふうにして裁かれたのか これは ついぞ分かり得ません。無理です。  つまり言いかえるなら あらゆる人が 聖霊をすでにやどし さらになおめぐみの上にめぐみをあたえられるかたちにおいて聖霊を注がれ得る存在だと想定していなくてはなりません。われわれに予断はゆるされません。  神にあって  ★ 永遠の生命の水を飲む者は限定されたものと思います。  ☆ であるとしても です。どうしても です。  ★ 味方  ☆ の問題は それとしてはっきりしていると思いますので そのままとします。ただし  ★ 囲いの外の羊  ☆ だとしましても それがそのあとどう成るかは やはりわれわれには分かり得ません。変わる可能性は いつでも・誰にでもあります。  よって なお質問趣旨を変えることなくその内容は 持ちこたえ得ると考えます。

  • pantomana
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回答No.7

こんにちは、ご返答ありがとうございます。*全ての人々に聖霊が注がれているとしたら囲いの羊とか、キリストの花嫁とか、第2の死の無い第1の復活とか、旧約の選民イスラエルとか全く無意味な事柄になると思います。 私は、キリストの千年王国でのキリスト(小羊)との結婚に相応しい聖なる者たちに心に霊の割礼が施され花嫁としての手付金として聖霊、水を飲むのだと思います。 1つの理由は、囲いの羊で無いほかの羊は、キリストの千年王国の終わりに、もう一度サタンの試みに合う事になりますし、千年が終わってから復活する「他の死人」も生命の復活と裁きの復活へと出てくる訳ですから、神が現在行われている業は、キリストの花嫁である天のエルサレムを構成する14万4千人の限られた、しかも残りの者たちであると思います。 確かに万人は肉の生命の霊は付与されていますが、聖霊はエリヤに与えられ後にエリシャに移った2つの霊と同じものだと思います。聖書に記されている通り死んだ者は罪から解かれていますので、キリストの贖い(十字架)は人類全てに聖霊を注ぐ事ではなく、キリストの花嫁(蛇との間に敵意を置く女)に限られたものと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。こう言っては何ですが おもしろくなってまいりました。  ぱんとまなさん あらためましてお早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  全体としてずばり 次のパウロを出します。  ▲ (コリント前書9:19) わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。  これが 現在時における――しかもそれは 永遠の現在としてのいま・ここにおける――姿勢だと考えます。  言いかえると 未来のことは そう言ってよければどうでもよいと考えます。天国もかまうものではありません。《さばき》はすべて神にゆだねています。  でも 考えてみるなら 永遠の現在時であるのならば すでに――わたしたちには分かりませんし知り得ませんがすでに――《さばき》はなされているとも考えられます。  でしたら 隣り人は 人類すべてのことであるとなる。こうではありませんか?   だって 水による洗礼を かつての割礼と同じようにどうでもよいとしたのですから。  仲間としての《兄弟姉妹》も それは 神が決めることでしょうし すでに決められているのではないでしょうか。しかも われわれにはついぞ分かりません。  信仰において確信をもって行動しますが それについての・人間に分かるような・説得できるような説明はわれわれには出来ません。  これらのことは  ★ キリストの贖い(十字架)は人類全てに聖霊を注ぐ事ではなく、キリストの花嫁(蛇との間に敵意を置く女)に限られたものと思います。  ☆ としてもです。  ★ 神が現在行われている業は、キリストの花嫁である天のエルサレムを構成する14万4千人の限られた、しかも残りの者たちであると思います。  ☆ としてもです。  それとも わたしたち人間が 神に代わってこの選別をしようということでしょうか?  ★ 千年王国  ☆ は いま・ここなる現在ではないでしょうか? すでに・つねに《わが主観ないしわが心》としての信仰の動態であるとしか考えられません。あとは 神のわざです。  ううーん。でもやはりキリスト・イエスは すでに真理とめぐみをあたえ 神を指し示したというのは 誰れ彼れを問わず 万人に対してでしょう。  ★ 天のエルサレムを構成する14万4千人  ☆ は 神にとって言わばこのキリストの《自分のところ》であるあたらしい地とは別の問題ではないでしょうか?   《水がその人の内に湧き出る》という聖霊のめぐみが えらばれる者たちのためだけのものなどという けちなことになっているとは考えられません。(それをこばむというその人の自由意志があるというのは また別の問題ですから)。

  • pantomana
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回答No.6

bragelonneさん、こんばんは。《神を知れと言って人々に教える事は無くなる/人々の罪はもう覚えていないと神が言う》の点ですが、エレミヤ書、ヘブル書に加え、 第1ヨハネ2:27. 第1テサロニケ4:1.~9. ヨハネ6:45. などが同様の事柄を述べていると思います。確かに現在のキリスト教世界が教えているような教義や礼拝の方式は全く必要は無いと思いますが、キリストが聖霊によって告げた言葉聖書と第2テサロニケ4:9.の兄弟愛を示すべき人達は必要ではないでしょうか?、 何故かと言うとマタイ18:18.19.に「あなたたちが地上で結ぶところのものは、天上でも結ばれたものとなるでしょう。またあなたたちが地上で解くところのものは、天上でも解かれたものとなるでしょう19.あなたたちのうち2人が自分たちの願い求める事について地上で一致するなら、それが何であれ、天におられる私の父が実現させて下さるでしょう」。との約束がなされているからです。 聖書記述者の使徒たちが生きているうちに背教が始まり、誰も業を行えない夜が来る事が預言されていて、実際闇のキリスト教の中で渇く事の無い水を飲む人々には同じ結び同じ願いを持つ2人か3人の兄弟が必要なのではないでしょうか?。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱんとまなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    まづ  ★ 《神を知れと言って人々に教える事は無くなる/人々の罪はもう覚えていないと神が言う》の点ですが、エレミヤ書、ヘブル書に加え、・・・  ☆ というところの聖句を確認してまいります。  ▲(ヨハネの第一の手紙2:27) ~~~  しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ くどいように確認しておくとしますと:  《神を知れと言って人々に教える事は無くなる》ということの内実が  ▲ 御子から注がれた油――聖霊――によって万事についておしえられる  ☆ ということ。  ▲(テサロニケの信徒への第一の手紙4:9) 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。  ☆ 同じく 《神からおしえられている》ということ。次も 《神によっておしえられる / 父〔なる神〕から聞いてまなぶ》とあります。  ▲(ヨハネによる福音書6:45) 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。  そこで あらたなご見解です。  ★ 確かに現在のキリスト教世界が教えているような教義や礼拝の方式は全く必要は無いと思いますが、キリストが聖霊によって告げた言葉聖書と第1テサロニケ4:9.の兄弟愛を示すべき人達は必要ではないでしょうか?  ☆ その根拠として マタイ18:18-19がしめされています。それにさらに分かりやすいように つづく一節も引いておきます。  ▲(マタイによる福音書18:19-20 新共同訳) ~~~  19: また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。  20: 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし(イエス)もその中にいるのである。」  ~~~~~~~~~~  そうですね。ここは 質問者も情報交換としてしゃしゃり出るとするならですが:  ★ キリストが聖霊によって告げた言葉聖書と第1テサロニケ4:9.の兄弟愛を示すべき人達は必要ではないでしょうか  ☆ まづ  ★ キリストが聖霊によって告げた言葉聖書  ☆ これは 《神からおしえられている》というその内面における信仰の動態であり それとしてのヒラメキであろうかと思います。  次は どうでしょう。  ★ 第1テサロニケ4:9.の兄弟愛を示すべき人達  ☆ つまりまた《二人または三人のあつまりの中にイエスもいる》というその仲間。すなわち  ★ ~~~  聖書記述者の使徒たちが生きているうちに背教が始まり、誰も業を行えない夜が来る事が預言されていて、実際闇のキリスト教の中で渇く事の無い水を飲む人々には同じ結び同じ願いを持つ2人か3人の兄弟が必要なのではないでしょうか?。  ~~~~~  ☆ 細かくなりますが いちおう《水を飲む》ことと《水がその人の内に湧き出る》こととのふたつがあると見たいと思います。  さらにその後者の事柄を確認します。例のサマリアの女とイエスが井戸のそばで話をする場面で出て来ます。  ▲ (ヨハネによる福音書4:13-14) ~~~  13: イエスは答えて言われた。     「この〔井戸の〕水を飲む者はだれでもまた渇く。  14: しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。     わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に     至る水がわき出る。」  ~~~~~~~~~~~~~~~  ひとつの結論ですが:  心の燈心をともされ心の内に尽きない水の湧き出る人にとっては すでに人びととの聖霊による結びつきが与えられていると思われることが ひとつ。  そうして 具体的に二人か三人のあつまりとして同じ願いを持つということが 実際に起きる。そのような事態が必要になることが起きる。ということが 過程される。  しかもこの仲間というのは すでに理論的には・可能性としては 万人のことだと思われます。誰でもそうなのだと思われます。無神論の人でも まったく変わらないのだと見ます。  《無い神という名で 神を受け容れている》無神論の人でも 何ら変わりないのだと。つまりはその神の名が ヤフヱㇷでもアッラーㇷでもアミターユスでもワ゛イロ―チャナでも同じだと見ます。  名が いわしのあたまでも かまいません。すでに聖霊なるあぶらが注がれています。  そうでなければ 十字架上のイエスは意味がなかった。  と思っております。

  • pantomana
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回答No.5

イエスが昇天した後、イエスに替わって地上に遣わされたのが聖霊です。 イエスが地上で教え切れなかった真理の詳細な点を聖霊によって案内され、弟子達が書き記した手紙が新約聖書です、ですから、聖霊の導き無しでは新約聖書の真の理解は不可能になります。 イエスの与える生命の水の泉の水も、人の内から湧き出る水も、唯一の本物の神とその神が遣わされた独り子の神キリスト・イエスに対する正確な知識で常に満たされ、喜び溢れている事だと思います。 イエスがキリストであるとは、ユダヤ人が認めなかった、ユダヤ人の神YHWH(キリスト)(救世主)が、イエスであると言う事を認めるだけで良いのではないでしょうか。 モーセに現れたアブラハム、イサク、ヤコブの神は、神の創造の第7日目の安息日の主で安息を取られた父なる至高者から全権を委ねられ、全能の神として、新しい天と新しい地(神の王国)を創造している安息日の主なのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱんとまなさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。ひとつ細かいところを取り出しますと:  ★ イエスの与える生命の水の泉の水も、人の内から湧き出る水も、唯一の本物の神とその神が遣わされた独り子の神キリスト・イエスに対する正確な知識で常に満たされ、喜び溢れている事だと思います。  ☆ この中の  ★ 正確な知識で満たされ  ☆ ですが たぶん《知識》というように人間が表象しえて認識しうることがらは 二次的なものなのではないか? こう質問者としては思っております。  言いかえると ごくふつうに こうです。  ○ われわれの身と心に宿る神の聖霊 これが 神よりあたえられた信仰にもとづきわたしたちが受け容れ信じることをとおして実際にはたらく。  これです。つまり 水が湧き出て尽きない。そしてこれは おのおの自分の主観としての内面におけることがらです。    細かいところはそれだけにして おおむねご見解を受け容れるとしますと お尋ねしたいと思われることは やはりエレミヤ書の《あたらしい契約》について どう捉えておられるか。これです。  つまりじつは ぱんとまなさんには すでに次の質問においてそれは間接的に触れてもらっているとも言えます。  【Q:水による洗礼は 何故なくならないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7442265.html  ただし ここでは焦点が少し違いますのであらためて問いたいと思います。次のくだりの中の《神を知れと言って人びとにおしえる必要はなくなる。 / 人びとの罪はもう覚えていないと神が言う》のところです。  みなさんのためにも引用します。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりこれは 新約聖書の《ヘブル書》において 旧約聖書のエレミヤ書の一節が引用されているところです。  イエスの登場が このあたらしい契約にあたるのなら (α)《イエスがキリストである》であり あとは (β)いちいち教義をおしえる宗教が要らなくなる。こう考えられるところです。  確認していただけるとさいわいです。もしくは 違ったご見解を明らかにしていただければと思います。

  • kurinal
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回答No.4

bragelonneさん、ありがとうございます。 「事実として」なのか「語られた《原型》」なのかは知りませんが、 《苦難のしもべ》というのは、・・・あったのですね? では、《苦難のしもべ》には、どういう評価が下されるのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづイザヤ書のそのくだりを掲げます。  【Q:イザヤ書53:1-7】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6278753.html    その趣旨説明欄にあります。  そうして   ★ では、《苦難のしもべ》には、どういう評価が下されるのでしょうか?  ☆ ということでは 次のように訳した内容で評価をも表わせるのではないかと考えます。これも 趣旨説明欄に載せています。  ◆ (イザヤ書53:1-7 私訳) ~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ~~~~~~~~~~~      *    あと 次のような歴史物語を添えます。イエスが 勝手に歴史に登場したのではないということを言います。  ○ (アブラハムからイエスまでの歴史) ~~~~~~~  その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに    《その父祖の土地を離れ去って 行け》  という声(お告げ?)を聞いたそうです。ぢゃあ どこへかとも定まらずに これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。――旧約聖書・『創世記』  次に この《神がかり》が昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰデとしますが ダヰデは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには    《きょう わたしは おまえを生んだ》  というのだそうです。そのダヰデは自分が 《神もしくは〈なぞの何ものか〉によって その日 生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。――旧約聖書・『詩編』  目覚めたというようなことでしょうか。(目覚めた=ブッダ)。これらの自己表現は 《存在》にかかわっているようです。  さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるもの(ヤフヱㇷ)の霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 世の社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。    これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで     貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げるためである。     (『旧約聖書・イザヤ書』61:1-3)  さらに時は飛んで――ここから『新約聖書』に入ります―― イエスという人の話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰデの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い   てある箇所が目に留まった。     《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      存在せしめる者がわたしを遣わしたのは       貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      告げ知らせるためである。》     (=つまり『イザヤ書』61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人   びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに      実現した。   と話し始めた。      (新約聖書・『ルカによる福音書』4:17-21)  ~~~~~~~~~~~  ☆ このような《存在》をめぐる歴史物語が語られています。アブラハムからイエスまでは 二千年ほどです。  イエスにおいて ひとつに アブラハムからつづく個人にとっての信仰が成就したということでしょうし ひとつに モーセによって倫理規範として著わされた民族にとっての宗教が幕を閉じるということだと見ます。  イザヤ書をとおしての評価としても そのように見るわけです。    つまり イエスは 神はひとつだよと言ったと思います。どういう名前であろうと 関係ないと。(これは エレミヤ書31:31以降のくだりをも参照してください)。  だから 良心・信教の自由にもとづき 誰もが自分で自由に信じればよいと。集団としての宗教は要らないと。いちいち群れることはないのだと。  わたしが日本人だから そういうふうに解釈すると言われるかも知れませんが その解釈や捉え方が 日本人から見てだけではなく世界のどこの誰からも迎え入れられる普遍的な見方ではないかと思います。どうでしょう?  ゆえに 日本人の出番なのだと。そうなれば 世界は うーんと風通しがよくなりましょう。  とおい道のりかも分かりませんが でももう理論的には結論が出ており そのかぎりで成就は保証されていましょう。欧米人は 目を白黒させて困惑することでしょう。

  • kurinal
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回答No.3

・・・その「原型」・・・いわゆる「型」が、数百年前にはあったのではないか?、という問いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ・・・その「原型」・・・いわゆる「型」が、数百年前にはあったのではないか?、という問いです。  ☆ ええっと これは 趣旨説明欄にも引用しましたイザヤ書のことを言っていますか?  つまりは 事実としてではなく 語られた《原型》のことですね? 《苦難のしもべ》としての。  それでしたら 《ええ。ありました》というお答えになりますが それでどういうことになるのか・・・。

  • kurinal
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回答No.2

んー、ごめんなさい、 「「イエス」が、理不尽のうちに殺された」とは、二千年以上の、前のことを想定しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「「イエス」が、理不尽のうちに殺された」とは、二千年以上の、前のことを想定しています。  ☆ 《殺された》のは 《二千年以上前》ではなく 二千年弱(1980年ほど)前だと思いますが 昔のことであるというのは そのとおりですよ。

  • kurinal
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回答No.1

bragelonneさん、たびたびすみません ・・・イエスは、 おそらくは「理不尽」のうちに殺されたのでしょうし、 キリスト教は、その「後知恵」として成った、のでは、ありませんかね。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  なんか お気を遣っていただいたようで。  ★ キリスト教は、その「後知恵」として成った、のでは、ありませんかね。  ☆ おっしゃるとおりでしょうね。ローマ教会を初めとしてそのような集団としての・組織立っての宗教は そうでしょうね。  そして この質問は   ○ 宗教としてのクリスチアニズムにはいっさい関係ありません。  と言いますか キリスト・イエスが言ったこととして  ○ 組織宗教はすべて要らないということであって 理論において宗教を揚棄した。  と考えます。《理論において》というのは 《神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》というように それぞれ個人にとっての神であり信仰であると 基本として変わることのない原則として明らかにしたという内容です。  このように《宗教を――あらゆる宗教を――そのよきところは摂り入れてあとは棄てるという仕事》は われわれ日本人にとってお手の物ではないでしょうか? お家芸でしょう。その意味で 日本人の出番でしょう。  ★ おそらくは「理不尽」のうちに殺されたのでしょうし、  ☆ ええ 人間イエスは 大声で泣きました。そして 神の子であり神であるキリストとしては もともと望むところでした。去って行かなければ 趣旨説明欄にも触れたところの《水となって湧き出るその聖霊》をおくることが成らないということでした。  人間イエスとしてだけの発言や行動であったのなら それは ただ人一倍立派だったなぁでおしまいです。  神の子であり神であるキリストとしてだけ存在したというのなら 十字架上から《もし神の子であるなら 降りて来い》と人びとに言われて 仮りに下りて行ったなら それはただ神であるから奇跡として出来たことだ われわれ人間には到底出来っこない そういう雲をつかむようなことをヤツは言ってらあと評されておしまいだったでしょう。  イエスというふつうの人間であると同時に神の子でありみづからも神であるキリストでもあった。そういう存在として 磔の刑に遭うというような《理不尽》な盃を・そしてしかもあらかじめそのようにむしろ神としては仕組んでおいた盃を 飲むことになった。  こういうお話です。  ゆえに もう宗教は要らない。一人ひとりその内面における信仰だけでよい。こういう世界を用意したのではないでしょうか? 二千年 まづは その準備期間として かかったようです。

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    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?