イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

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 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

その他の回答 (72)

回答No.23
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《領土》問題について このスレででしたか わたしは触れてしまっていますが じつは 外交問題ないし国際関係論は 明るくありません。  この質疑応答の場で 少し質問をしたこともあります。勉強していこうと思っております。  竹島をめぐる韓国との関係。  そうですね。《観念》に振り回されないようにという趣旨で触れたことから いまただちにさらに展開するのは むつかしいところです。  話し合いの場に出て来ないというのが いちばんの問題であるように思います。  つまり こじれてしまっているようです。  これも どうしましょう? となりますが。

回答No.22

鯨の処理に象徴化される振る舞いと違いまして、 日本人は繊細…。 http://okwave.jp/qa/q7659496.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (【Q:ドット抜けについて教えてください】回答No.3) ~~~~  それどころかまずドット抜けの「液晶テレビ」が自宅に届くことはありません  さすが日本企業といったところですが素人向けですから粗相があってはいけないのもあります  なので知識のない人はドット抜けは単純に故障としか思っていません  それに対してパソコン関係の「液晶モニタ」の分野や、それを作っている「海外メーカー」から言わせれば  極小のドット抜けがいくつかあったところで映像を見るのも仕事をするにも何も問題無いだろ?  という理屈で多少のドット抜けでは初期不良として扱ってもらえません  文化の違いなんですかね  ~~~~~~~~~~  ちなみに あまりにも繊細で細かいところも行き届いている製品なのに 普及品に押されて売れないというような現象が いま新興国などで起きているのぢゃないですか?  こまったものですね。どうしましょう?

回答No.21

http://okwave.jp/qa/q7655378.html 関係性を見出だせますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ん?  ▼ ~~~~~~~  質問:会ってみたい歴史上の人物は誰?  例)  クレオパトラです!ほんとうに、一体どのくらい美人だったのかをこの目で確かめたいです。  様々な回答、お待ちしております!  ~~~~~~~~~  ☆ どういう  ★ 関係性を見出だせますでしょうか?  ☆ でしょうか。  中には イエス・キリストという回答もありましたが。  広く一般に《今は亡き人に会ってみたい。話を聞いてみたい》ということと 思想やあるいはこの質問のように《信じる》を主題にした場合のその同じこととは 違うようにも感じます。  会っても会わなくても それほど実践については違って来ないように思います。  ただしもともと 別の人の思想やその伝えようとしたことを受け留め受け容れたと言っても もとのかたちがそっくり伝わったかどうかは 分からないかも知れません。  というより その肝が分かればよいのでしょうし しかもその肝の要素も 経験的なかたちとしては 絶えずさらに変わりゆくことがある。こうも考えられるからです。(でも同じ系譜は 同じ系譜であると知ることが出来るはずとも考えています)。

回答No.20
bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  たしかに  ★ 自然観の齟齬が、…。  ☆ 感じられるようです。  ▲(ヰキぺ:鯨の爆発) ~~~~  鯨の爆発については、これまで顕著な事例について2件が記録されている。このほか知名度の低いものも何件か存在する。  最も有名な爆発は、米国オレゴン州フローレンスで1970年に起きた。死んだコククジラの腐敗した死体を廃棄しようとしたオレゴン高速道路局によって発破されたものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ もっともこれらの事例は すでに死んでいる場合ではあるようですが。   浜に打ち上げられた死んだ鯨は 日本ではどうするんでしたかね。腐っていて食べられないでしょうし。

回答No.19

基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 基督帝への表敬  ☆ これはですね。つまり要するに 儀式のことを言うのですよね?  だとすれば けっこう深い意味合いを持った成り立ちも ひとつの側面として 考えられるように分析されてもいます。  そのひとつの側面に ふたつの場合があると思われます。  ひとつは キリスト・イエスをはりつけにしたとの思いから これを悔いて そうする場合です。  ユダヤの高等法院の連中や一般の民衆やあるいはユダヤ駐在のローマの総督らといっしょに〔後世の〕自分も 磔の刑に処したということ 加害者であったということ こう受け留めてこれを悔いる。  この場合ややもすると その気持ちがどこかで自信を持って来ます。自信を持って来ると そこで キリストを言わばまつりあげる。たたりのないようにと 丁重にあつかう。ようになる。    そこでもうひとつは そのような《悔いるこころ》を通り越えて 開き直った場合です。  心の中で次のような展開を経て最後に開き直りによって キリストをたたえるまつりをおこなうようになった。  悔いる心からたしかに葛藤を持ちつつも やがて何でしょうね 自敬というよりは自尊でしょうか その自尊心からの開き直りを経て――いつまでも卑下してばかりもいられないと考えた結果―― キリストをうやまい奉ればよいのだと《さとる》場合です。  《たたり》をおそれての行動になるのかも知れませんが 言ってみれば性質(たち)の悪いものです。  自分たちは このように盛大な儀式をおこなって キリストにわびつつキリストをたたえ そのキリストのゆたかな心からのめぐみをあたえてもいただくのだと語って 人びとをその《まつりあげなる儀式》に連ならせ この〔あまり使いたくない言葉ですが〕ザンゲを基礎とした和解を 社会にも築こうとする。  人間関係ならびに社会の成り立ちや仕組みが つねに後ろ向きになると同時に そのザンゲなる祭りをつかさどる務め人を中心として築かれて行く。  もし仮りにキリスト・イエスがじんるいの罪をみづからに背負ってみづからの命をもって〔神に〕支払いを済ませたのだとすれば この罪なる債務の返済という行為をあたかも真似てわざわざ重ねて演じている。というのが まつりあげなる儀式である。  言いかえると このいわゆる教会における《基督帝への表敬サービス》につらなるとすれば その人は まだなおキリストのめぐみを受けていないことを意味します。  もし世間と和解し得てまたみづからとも和解し得ているのならば わが原罪よさようなら イエスよありがとうと言って キリストなる神に きよらかなおそれをいだいている。そのようにして生活する。これだけでよいはずである。  わざわざ儀式をおこない これを制度としてつくりあげこれを主宰する。人びとはそこにつらなる。のならば キリストの威を借りて 自分たちの身分を高めその地位を保全しようとしている。と勘繰られてもおかしくない。そうしないほかの人びとを 野蛮だとか彷徨える霊(迷える子羊)だとかと言って見下すのならば すでに精神錯乱である。国家ともなれば 戦争をして人殺しをする。キリストに反する。  臨月のマリアが夫にともなわれて例の馬小屋でイエスを産むというとき――物語によれば―― 近くの野にいた羊飼いの青年たちにそのことを天使がやって来て知らせた。  イエスの誕生を祝ったのは そのように名も無い人びとであった。  はりつけのあと キリストの誕生を祝うのも われわれ一人ひとりその主観のうちで しづかにはげしくしっかりとそうすればよいはずだ。  いやしくも聖職者を自認するのならば 世界を・人びとをそのような方向にうながそうとしてもよいはずだ。何がクリスマスだ。何がまだなお 人びとよ悔い改めよだ。  そんなことでは 人びとを イエス・キリスト以前の時代に戻しそこに閉じ込めようとしているに過ぎない。ではないか。    ★ 基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?  ☆ 《短絡的》と言いますか ひとつには もうその必要もないことを自覚しなければならないのに わざわざそれでもなお何故か《悔いる》ことをおこないつづけているという引っ込み思案で恥づかしがり屋のはにかみ屋・・・。  もうひとつには 《わが身とわが身分の保証》を追い求めこの世での地位の安泰を《短絡的に》図った教会野郎ども。キリスト・イエスをたたえまつりあげておけば その司祭たるおれたちに人びとはついて来るだろうと。誰もが脛に傷を持つのならば・持つのだからと。  * この文章の内容についての責任は ひとえに このわたし・ぶらじゅろんぬにあります。

回答No.18

有り難う御座います。 身分制への評価を考えますと、『謙譲の使役による自敬』には問題が御座いますが、 『時制の一致』とは違う言語的な技術の解析には価値が御座います。 http://www.youtube.com/watch?v=9-MRUxOgnGo&feature=related

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  大鏡を読んでみました。  ▼ (大鏡 道長と伊周の競射) ~~~~~  ( a ) 帥殿(そちどの=伊周)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、  ( b ) この殿(=道長)わたらせ給(たま)へれば、  ( c ) 思(おも)ひがけずあやしと、中(なかの)関白(くわんばく)殿思(おぼ)し驚きて、   いみじう饗応(きやうよう)しまうさせ給(たま)うて、  ( d ) 〔道長は〕下藤(げらふ)に御座(おは)しませど、前にたて奉(たてまつ)りて、まづ射(い)させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、  ( e ) 帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)り給(たま)ひぬ。    http://www.j-texts.com/chusei/rek/fokgmall.html   ▲ (現代語訳) ~~~~~~~   a 藤原伊周公が(父藤原道隆公の二条邸内の)南院で、人々を集めて弓の競射をなさったときに、   b 藤原道長公がふらりと御出席なさいましたら、   c 思いもよらず不思議なことだと、関白道隆公はお思いになり驚かれて、たいそうご馳走をなさって、   d 道長公は伊周公より官位が低くいらっしゃったけれど、順番を(伊周公の)前になさって、まず先に道長公を射させ申し上げなさったところ、   e 伊周公の命中した矢の数は道長公より二つほど劣られなさった。    http://classfriend.rakurakuhp.net/i_735871.htm  ~~~~~~~~~~~~~~  敬語表現を整理すれば:(敬語法の助動詞等を ≫・・・≪でかこむ。)  ○ 《帥殿(そちどの=藤原伊周)》が主格:   1. あそば≫し≪し   2. 劣(おと)り≫給(たま)ひ≪ぬ  ○ 《この殿(=道長)》が主格:   3. わたら≫せ≪≫給(たま)へ≪れば:二重敬語   4. ≫御座(おは)し≪≫ませ≪ど  ○ 《中(なかの)関白殿(=伊周の父・道隆)》が主格:   5. ≫思(おぼ)し≪驚きて   6. 饗応(きやうよう)し≫まうさ≪≫せ≪≫給(たま)う≪て:二重敬語   7. 立て≫奉(たてまつ)り≪て   8. 射(い)させ≫奉(たてまつ)ら≪≫せ≪≫給(たま)ひ≪けるに:二重敬語  この短い段落で見てみるかぎりでですが 若き日の道長とそのとき関白の道隆とについて それぞれ二重敬語が使われていると思います。  伊周は そうでないので 道長によりも〔作者の〕敬意の表し方が少ない。  このかぎりで それほど敬語法という技術が 何かを表現するときに決定的な役目を果たすとも思えない部分もあるように感じます。  つまりたとえば三重敬語は ないのでしょうか? そこまではしないと言うべきなのでしょうか? つまりもしそうだとしたら 敬語法をどこまでも追求しようとしているとも思えません。妥協のある表現方法であるかも知れません。  一般には 述語動詞の主格に立つ語(つまり 一般に人)が誰であるかをそれだけで分かるようにするのが 動詞に添える敬語表現だということでしょうか? つまりそういう特徴のことを言っておられますか?

回答No.17

特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられていますので、 其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、 連文節の意味の読解が可能になっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8F%A1 http://okwave.jp/qa/q4208897.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてですが 直前のやり取りでは わたしは 身分関係にからむ敬語表現にはきわめて懐疑的であることを いくらか説明しようとしました。  ★ 特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられています  ☆ このような敬語表現が表わされる社会の人間関係について きわめて不自由さを嗅ぎ取っています。  しかも 日本社会では そういう一時期があったのだということのようです。  ★ ~~~~~  其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、  連文節の意味の読解が可能になっています。  ~~~~~~~  ☆ そうなんですか。そうなんでしょうね。  でもこの大鏡にしても 翁の語る視点というのは あんがい権力者のその飽くなき権力欲に対しては皮肉もうかがわれるということだそうですね。(ヰキぺ)。  そのような《自敬‐謙譲》の固くむすばれた連関制は やはり特殊な閉じた――人間どうしがヨコにではなくタテに連なった――ムラ世界だと思われます。お気に召されないかも知れませんが そう考えます。

回答No.16

謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。 http://okwave.jp/qa/q7656624.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。  ☆ そうかも知れません。そして ぎゃくに 《特殊な文法》としての敬語表現は ただただいわゆる身分関係の社会的なそして歴史的な定着につれて〔ただただ〕複雑にそして不必要なまでにソフィスティケートしたかたちとなった。  身分関係と言っても 特には 社会が二階建て構造になったところでの一階の平民より見たお二階さんとのカカワリから来るその自己表現のむつかしさ・わづらわしさ このような要因がはたらいているように思っています。  敬語にかんしては ていねい語以外には わたしはきわめて懐疑的であります。  【Q:敬語は ほんとうに 尊敬を表わす語法でしょうか】   http://okwave.jp/qa/q4977918.html  ○ 敬語の起源  ~~~~~~   1. 《うやまひ》説:相手を互いに同等・対等な人間と見ることによる。     ・ その自由対等を確認する意味で たとえば《言う》を《言われる》とわざわざする。     ・ レル・ラレルは 自然生成の相。それゆえ 親愛称をつくる相。     ・ それゆえ 言わレルのウヤマヒ表現は 互いの自由の確認を親しみを込めておこなおうとしている。   2. 《敬遠》説:相手は どこの馬の骨だか分からないといううたがいを持つところから出る。     ・ ただし (1)のウヤマヒを欠かさない。ゆえに 敬してとおざける。     ・ あまりひとのふところ深くへは 踏み込まないでいようとする心つもりを表わそうとした。     ・ 付かず離れずの関係を保つためにウヤマヒつつ(自然な人間関係をよそおいつつ)それ以上は深入りしないでおこうという。   3. 《身分関係》説:上下関係をことばによる表現にも表わそうとする何かのきっかけがあったとする。言いかえると 身分の世襲を前提としていると思われる。     ・ 《まなざしを 上からそそぐ側と下にいてそそがれる側との関係》を表わそうとした。     ・ そそがれる側つまり一般に命令を受ける側は そのささやかな地位を守るためにだけとしても その身分関係を損なうことは出来なくなる。これを 言葉による表現に表わす。     ・ エライ人がものを《言う》場合は 《のり(告り=掟・法)たまふ→ のたまふ》となる。     ・ あるいは 《おほせ(負ほせ=負はせ=背負わせる。課し命じる)‐ある→ おっしゃる》。     ・ 韓語の《マルスム(おことば)》を借用してこれを動詞にした。すなわち《まをす=まうす=もうす》。     ・ 申すは 必ずしも謙譲語ではなかった。荘重語と言われもする。   4. 《身分関係語》からの特殊な複雑な進展:尊敬語から二重尊敬語が現われたごとく。     ・ 身分の高いひとは 自己尊敬の表現を用いるようになった。自敬表現。     ・ それに合わせて 下の者は 自己を低める謙譲表現で答えた。     ・ これは 身分制社会の華であるか? あだ花であるか?   5. その後の展開やいかに?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~  起源についての一考。  ○ めし(召し・飯 ← 見し)  ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》  ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》  ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~  めし:《見る》の尊敬語  1.ご覧になる  2.お治めになる  3.お呼び寄せになる  4.結婚の相手となさる  5.お取り寄せになる  6.お取りあげになる  7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語  8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。  見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。  ここで 別の解釈をします。  シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。  すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。  ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。  おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。  高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。  メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。  第二次の用法は 《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。  第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。  レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。  これは 自然生成の相。  《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。  能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?  《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。  ~~~~~~~~~~~~~~

回答No.15

別の方からの質問( http://okwave.jp/qa/q7656410.html?rel=innerHtml&p=complete&l=1 )へも、福音の呼び水を導いてあげて下さいませ。 http://okwave.jp/qa/q1473771.html

bragelonne
質問者

お礼

 ただいま回答を寄せて来ました。  ○ 自敬語  ☆ はわたしの高校までの学校では習わなかったと思います。  ○ 尊大語  ☆ これについても あやふやなままでした。今回わかりました。古代と現代とのあいだは 歴史も言語も 隙間だらけです。

回答No.14

点数化され得る記録の競い合いは一定の評価基準によって支援されていますが、 武道等の対決の場合には、お互いの体調不良を成績に反映させ得ず、…。

bragelonne
質問者

お礼

 そういう場合は くやしいーーーっと思えばよいのだと思います。    今に見ていろと。

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     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。&宗教の解体について。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエス・キリストは神?

    聖書をちょっとだけかじった僕には”神の子”と聖書に書かれていたので、神ではなく神の子だと理解していたのですが、キリスト教の方々ってイエスを神だと思っているのはどのような理由なのでしょうか?またキリストを神としているのはキリスト教のほとんどなのでしょうか? ダヴィンチコードのニケイヤ公会議(でしたっけ?)でイエスが神となったのであれば…、神の子であるとイエスがいったことは無視ってことでしょうか? 三位一体とユニテリアンについて気になったので質問させていただきました。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • イエスキリストのいう永遠の命とは輪廻転生のこと?

    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?