イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

その他の回答 (72)

回答No.33

『無量寿光』の御蔭で、『非経験の庭』には、『ビッグデータ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF )』が収容され続け得るのですね。 http://okwave.jp/profile/u2301503.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  たぶん  ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。  と思いましたが。

回答No.32

二重敬語と逆向きの謙譲とのコンビネーションが、日本…。 http://ringonoki.net/tool/browser/srware_iron.php

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 謙譲  ☆ は 二重敬語との関連では 《謙譲語》を意味すると受け取ります。  そうしますと  ○ 言葉としての謙譲表現と一般におこないとしての《ゆづりあい》とは 別である。  と見ます。慇懃無礼ということばもあります。それとは少し筋が違うかたちでもっと悪い事例としては 言い方でいくらゆづっていても それは自分の意見を通すためにする手段でしかない場合があり得ます。  つまり物腰や態度でも下手に出ていたとしても 強固に自分の言い分についてはゆづらないという場合があり得ます。  《くにゆづり》は ぜんぶゆづったのです。スサノヲ市民は 優秀で態度も人間的であってしかも自分の言い分については一歩もあとに引かなくなった公民志向の特殊スサノヲ(のちのアマテラス公民)に対して 中にはぐずった人たちもいましたが それこそ敬して遠ざけたのかも知れないのですが 社会としての神棚(お二階さん)に住んでもらおうと ぜんぶゆづりました。  だから その後千五百年まだまだ ゆづりっぱなしです。どうぞ思う存分自由にご自分の英知と人格で国を経営してくださいとぜんぶゆづったからには おいそれともう返してくれとは言えない。言いません。(ただし 人間として マチガイをただしアヤマチについて改善をもとめて批判をすることはおこないます)。  この君臨するアマテラスお二階さんに対して 基本は《ゆづりあい》の精神です。  その基本からそれる場合があります。すり寄って行く場合と倒そうとする場合です。  後者は ほとんど無意味です。ただ首のすげ替えになるのみです。《 A - S 逆立ち連関制》という枠組みは そのままです。  前者は これが二重敬語になる場合でしょうか。あるいは《 A =自敬表現 - S =謙譲表現》という連関制でしょうか。  そういう意味での謙譲表現は ただのおもねりです。  崇神ミマキイリヒコイニヱのミコト(西暦300年頃)のとき 疫病が流行って人びとは悩まされました。  薬草の研究にもすでに熱心でしたが 神のお告げに従うこともやりました。後者としては ミマキイリヒコは お告げどおりに市民らのあいだから オホモノヌシのカミの子(或る種の仕方で 処女降誕としてのキリスト・イエスにあたる)だとされるオホタタネコを探し求めて これを得て 神をまつらしめ ようやく事なきを得たと言います。  このミマキイリヒコの社会は まだクニが平屋建てでした。お二階さんはありません。  やがて この中から アマアガリ(公民志向)・シンドロームに罹った人びとが出て来ました。  高千穂の峰に降臨したというホノ二ニギのミコトは アマテラスなる神の子孫なるぞと言うのですが アマテラスは スサノヲのじつの姉です。その子孫なるホノ二ニギの父であるマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトは アマテラスとスサノヲとのあいだの子であると見られることがあります。  すなわち万世一系は スサノヲの血筋でもあります。  スサノヲは ゆづる人です。  アマテラス公民の中には あたかも神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った者もいるということのようです。国家という家は わが家なりという思想は いかがなものか?  崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトなるご先祖さんが泣きます。ミマキイリヒコの思想に見倣うべし。  ゆづりあいの精神によるなら 謙譲表現も互いに対等なるへりくだりであるはずです。  と思います。

回答No.31

記憶を保ちながら、アンパンマンは輪廻を繰り返しているのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7660782.html

bragelonne
質問者

お礼

 アンパンマンに訊いてみますか。  というのは 冗談だとしても――まづはご回答をありがとうございます―― この場合の  ★ 輪廻  ☆ は想像上の生まれ変わりのようなものを言うのでしょうね。  つまりは  ★ 記憶を保ちながら  ☆ その記憶の中の想像を重ねつつ あたかも一ぺん二へんとすでに命を落としたかのような体験を 想像の世界の中で 繰り返しているのかも分かりません。    言いかえると 死を死にもういちど生まれ変わるというのは すべて想像世界での出来事であって――そしてその出来事をいちいち漫画やアニメではあたかもそのように実際に推移したというかのように描いている―― じっさいには最後の幕引きのあたりの出来事だけが起こった。ということかも知れません。  ひとりの人間の存在は 掛け替えが出来ないのと同じように この人生は 一度っきりであって 輪廻を思い描くなどということは 想像力のたくましさを語ることはあっても 命がふたつあるとか一度死んでもう一度生まれ変わるとかいうことは ない。むしろ そのような想像の世界のほうが そのことをおしえている。のかも知れません。

回答No.30

架空の国境線の様な枠組みを設けますと、『ルサンチマン』の様な排除…。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B2%A9%E7%A4%81

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。(続きますねぇ)。  ★ 架空の国境線の様な枠組み  ☆ もともと 隣りのムラとの境はあったわけですが 或る日或る時 ムラムラを束ねて 一方ではおそらくさらに向こうの敵になりうる人びとに対する安全保障政策のために そして他方では 人びとやムラムラを寄せて束ねるという仕事が根っから好きでその支配欲を満たすために名乗り出たお山の大将が号令をかけて その境は 何々国の国境であると言い渡した。  戦争がおこなわれたかどうかを別として そのように国境線が天から降って湧いた。  また お山の大将に対して ムラムラがどう対処したかには ふたつの場合があるようです。  ひとつには 学力優秀で品行方正なアマテラス大将に対しては あまりにもその人徳ゆえに国なる広域の経営をまかせてくれと拝み倒すものだから これに根負けしてゆづった。社会に神棚をもうけて そのような第二階に住んでもらうことにした。《くにゆづり》の場合。  あとは 力づくで決めた場合です。  でもたいていは おなじ同胞(はらから)ですから まんざらよそよそしい間柄でもない。  かくて 社会の形態は 一階に生活する市民たちスサノヲとそしてやがてお二階さんとなるアマテラス公民とに分かれて 二階建て構造となった。  この国という家の形態は あんがい居心地がよかったのか わるくても何も抵抗しえなかったほどひどかったのか まだまだ世界史において つづいています。  さて話を端折ります。  おそらく  ★ 『ルサンチマン』の様な排除  ☆ あるいは排除というよりは不信感やたしかに敵対心を持つのは――持ってもおかしくないと思われるのは―― むしろ頭がいいからと言って ふんぞり返っているアマテラス公民に対してなのではないか?  そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?  というひとつの見方を提示します。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ☆☆(その末尾の部分) ~~~  そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?  ~~~~~~~~  ☆ つまり スサノヲ市民どうしは 国境の線引きを忘れるならば 仲がよい。取り立てて敵愾心をむき出しにする謂われはない。はずです。  国境にいっしょに住めばよいはずです。  つまり 国家と国家の境ではなくなる。はずです。

回答No.29

若し特定の宗教団体からの認証が御座いましたら、 寧ろ逆に西洋近代的な誤前提による支配からの解脱が難しくなるのですね。 http://okwave.jp/qa/q7660693.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  わたし自身の立ち場からですが  ★ 宗教団体  ☆ は その組織のヒエラルキアによる権限関係から 参加する人びとの信仰上の到達度合い(つまりその深さや高さ)が判定されるという傾向があります。そのことによって 個人の信教良心の自由を――外形的にですが――侵すおそれがあります。  これは 結社の自由を無効にするほどの不法行為を誘発し得ます。  信仰の度合いを他人が決めることによって――それでもたしかに《心の内なる〈非思考の庭〉》そのものが傷つくことはないのですが―― 社会的な自由な活動を制限し左右するまでに到ります。  もしそれでも結社の自由を認めるとするならば それは 宗教組織が《信仰》にもとづいて建てられたものではないと保証することが条件となると考えます。  聖典なり修行なりについて――信仰には間接的にのみかかわって―― まなび実践するという内容に限定する必要がある。こう考えます。  そのような条件は あいまいになっていると思われるからには 《信教・良心の自由を――社会活動にかかわる外形において――侵すおそれがある》。ゆえに  ★ 宗教団体  ☆ そのものをわたしはみとめません。憲法違反ではないかと考えます。  ★ 西洋近代的な誤前提  ☆ これは ちょっとあまりにも大雑把な規定だと思います。  現象学というのが出て 分かりやすく言えば それまでの文化的学問的ないっさいの知的活動から 一たん判断中止(エポケー)して 白紙(純粋意識)に還れと言ったそうです。合気道みたいなもんです。  環境の自然やあるいは人間存在としての自然 これらに《あはっ!》と言うまでに・つまりまた感受性を研ぎ澄ましてそう言えるまでに《もののあはれを知れ》というようなかたちで その脳みそ(記憶し整理した情報)を自然本性に戻せと言ったそうです。  西欧は西欧でがんばっています。  日本は日本でしっかりと着実に一歩一歩をあゆんで行かねばなりますまい。  と考えます。

回答No.28

非経験世界の側でも、使途不明の『水』の内部留保( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%83%A8%E7%95%99%E4%BF%9D )が無根拠で繰り越されて来たのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  基本的に言えば   ○ 非経験の場なる神にあっては 《ひとり満ち足りている》。  です。  ★ 内部留保  ☆ を必要とはしていない。となります。  水が涸れる・火が消えるというようなことはないわけです。  前回 預言者が出て来ましたので その預言者にかかわって次のような話を 旧約聖書から引いて来ます。  ○ 【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】 ~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6827810.html     旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。  次に言う《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れました。戻って来た妻を迎え入れました。  これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか?   ▲ (ホセア書) ~~~~~~~~~~~~~~  1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。     「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。     この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」  1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。  1:4 主は彼に言われた。     「その子をイズレエルと名付けよ。     間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血     の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。  1:5 その日が来ると イズレエルの平野で     わたしはイスラエルの弓を折る。」  1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。     「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。     わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず     彼らを決して赦さないからだ。  1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、     わたしは彼らを救う。     弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」  1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。  1:9 主は言われた。     「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。     あなたたちはわたしの民ではなく     わたしはあなたたちの神ではないからだ。」  ・・・・  2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。   彼女は言う。     「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物     をくれるのは彼らだ。」     ・・・・  3:1 主は再び、わたしに言われた。     「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。     イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子     を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」  3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。  3:3 わたしは彼女に言った。     「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと     で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 主題は いくつかあると思われます。  (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか?  (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をも ゆるされたと見ることが出来るか?  (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り行為をゆるせなくても その当の人(その掛け替えのない存在じたい)については 受け容れることが出来るということか?  (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?  (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《用途自由の『水』の内部留保》が ホセアにはたくわえられていて その水がはたらいた。のでしょうか? (とてもわたしには まだまだ現実ではありません)。

回答No.27

預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)の過ちが、 神の裏技の妨げになり得るのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q7648144.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 預言者  ☆ は 新約聖書の立ち場からは イエスに先行した洗礼者ヨハネを最後として もう出ないとなっています。     ということです。  神秘思想としての瞑想・観想も 或る種の神学として著わされたようですが 預言者と呼ぶには遠いと思われます。  ですから  ★ 預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)  ☆ ということが何を言うのか ただちにはよく読み取れないでいますが どうでしょう?  エレミヤ書31:31以下のくだりを引きましたし その内容について触れました。  《もう主を知れと言っておしえることはないし それまでのいわゆる罪は もう神は覚えていない》という事態が キリスト・イエスの十字架上の死のあと 実現した。こう見るかたちです。  そうしますと  ★ 神の裏技  ☆ という主題ももう要らなくなっている。こうも考えます。すべて おまえたち人間どうしで 話し合い決めて行きなさいと。

回答No.26

『前提( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 )』の正当性の有無が、 ジューダスプリーストの問題にも関わっているのでしょうね。 http://okwave.jp/qa/q7659980.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★ ジューダスプリーストの問題  ☆ これが 分かりません。このバンドの曲で 少年が自殺したという事件があったそうですが――無罪判決でしたが―― これなどですか?  それとも イエスの弟子だったユダの問題ですか?  日本への核兵器の持ち込みについて まづどういう方向へ向けて話をすすめるのか。これが 決まりません。と いまはまづ 思います。すでに核配備していることの真偽を問うのか。中国や北朝鮮との外交関係を問おうとするのか。世界という視野で これからのじんるい社会についての展望を問おうとするのか。つまりは 国家の問題 国家という社会形態をどう扱って行くかを問題にする観点 これを問おうとするのか。  ★ 前提の正当性  ☆ これも 広すぎてどう応答すればよいか 思案します。  正当性がうたがわれたなら 何であれ 互いに尋ねあい互いにそれに答えるという手続きを経て行けばよいとは思います。  のですが?

回答No.25

西洋人達の自然観は勧善懲悪の筋書き( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4 )へと依存せざるを得ないのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そんなことを言ったら 水戸黄門はどうなるんですか。  と口を撞いて出ましたが 果たしてどうなんでしょう?  まづは ご回答をありがとうございます。  わたしの感触では アメリカ人を――ただし行ったことはなく 文章や映像をとおしてですが――見ていると フェアだとか decency だとか consistency などといった言葉をすでに強固な観念として持っていて(あるいは 社会の側から持たされていて) それに振り回されているかに感じられる場面があります。  言いかえると そのように言葉をとおして――つまりディベートのごとく――《公正さや 上品で高潔さや 思想の一貫性ないし言行一致》を追い求めているというように見えます。  言行一致を 言葉の上だけで追い求めている。のです。  あの五輪サッカーの優勝決定戦で米国チームに見られた《アンフェアネス》は どこへ行ったのでしょう? つまり自分たちが《ファウルを犯した》と自首するのではないかともわたしは少し思っていましたが そうはなりませんでした。  やはり ホンネとタテマエ あるいはウラとオモテとがあるということでしょうか。  欧米人は 不自然ないし反自然としての《社会性(社交性でしょうか)や文化的態度》を重んじて来ましたから ホンネとタテマエを 思想(生活態度)の一貫したかたち( ディースンシー)にととのえるのは やっかいになるかと思われます。  人間どうしの交通(カカワリやマジワリ)を 競争的にしてさらには攻撃的であらざるを得ないと思って来たでしょうから 《自然》にもどすのは――それは 万人の万人に対するたたかいであり野蛮な状態だと規定して来ているのですから――むつかしいのでしょうね。  スサノヲ人間語・自然語に対して そこから《文化の薫り高い》アマテラス普遍語(科学語および人格語)へとアマアガリ(上昇)しようとして頑張って来たのでしょうから それによる頭でっかちの状態を直すには ときが必要なのでしょうね。    日本人のあいだで 欧米型がいまでは君臨していましょうか。どうでしょうか?

回答No.24

たとえ契約を根拠に据えませんでしても、相互の謙譲は可能なのでしょうけれども、 海外の方々には理解され難いのでしょうね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7 http://sec.ipa.go.jp/std/ent03-b.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  すでに投稿したことのある文章ですが 《ゆづりあい》の問題について考えるところをしるしたものです。        *   社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏=第一階:S 圏;市民 S  公民圏=第二階:A 圏:公民 A  これら互いの力学関係:A‐S 連関制  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特殊な神棚をこしらえてやりそこに特別に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。これが くにゆづりである。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将志向型であったことだ。市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処としてやった。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の 市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A=S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A=S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (α) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり Homo homini lupus. / 万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnes. 》という市民( A=S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば 欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。 土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。非戦論も主戦論も確かに 人間の弱さから来る。  非戦論をえらびいちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ症候群の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。アマテラス公民のほうへすり寄って行くスサノヲ市民もいる。  ちなみに 別様の A-S 連関制がありうる。《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるというようなかたちである。  (β) アフリカ型:S (=じつは A )∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王( A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(じつは A なる S )は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 民衆暴君型である。日本は対話型 西欧は競争型であろう。       *  この区分が 紋切型でなければよいのですが。

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    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?