イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

その他の回答 (72)

回答No.43
bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ 教祖無しの組織管理は…?  ☆ ムラムラ(市町村)に祭りは 或る種の仕方で 人びとの信仰共同体です。強いて言えば 神道です。  そこに《教祖》はありません。  ただし ムラムラの神社は その昔 国家が出来たときから ヒエラルキアの中に組み込まれその位置づけが出来ています。その最高位の司祭は 天皇であるのでしょうか。  と考え始めましたが これは 実際の事態を知らないで述べてもつまらないことになりますから やめます。理論の問題ではないと思いますから。  現在の神社組織がどうなっているのか。という課題になりましょうか。  イスラームも 《教祖無し》ですよね。  ムハンマドは 預言者でしかないのですから。

回答No.42

日本語の連文節が中心の流動化を…。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ 日本語の連文節が中心の流動化を…。  ☆ うながす ですか?  たぶんそれは 大勢に影響はないと考えます。  主題が提示されるということは 《中心主題》が明確に示されるということです。  その中心主題 つまりあくまでひとつの中心主題に いかに多くの連文節がついても 同じことでしょうから。

回答No.41

動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。 目の付け所が◎ャ~プでしょう。 http://okwave.jp/qa/q7665290.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。  ☆ 的な敬意表現 でしょうか?  基本的に言えば 文を別に添えればよいと考えます。  その《相手達》について 自分はどう思っているかを 別文にて説明すればよいと考えます。  同じ文の中で 体言なら別のかたちで表わすとか用言ならそこに敬語法の補充をおこなうとか そういう形態は おそらく上層ないし表層における敬意表現に過ぎない。こう考えるという意味です。  わざわざシガラミを 鋼鉄の鳥かごに代え補強するようなものです。

回答No.40
bragelonne
質問者

お礼

 ▲ 命が2つあった場合、その価値は大きく変化しますか?  ☆ これもわたしには どこから切り込んで行けばよいのか。分かりづらいところを どう尋ね返せばよいのか。が分からないでいます。   この主題は それほど関心を引きませんというのも ほんとうですが。

回答No.39
bragelonne
質問者

お礼

 ▲ 自信のない自分  ☆ 《和風》かどうか?  いづれにしましても その趣旨説明がいまひとつよく飲み込めません。  一方では なんら心配することなく問題などないと見られますし 他方では それでもどこか愚図っているところがあるのかなとも思われます。  そこを尋ねる場合もありますが いまなかなか はっきりしません わたしには。様子見です。(どうするかも分かりませんが)。

回答No.38

古代日本の庶民は為政者陣営に降参したのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづおことわりしなければならないことは 文献のない時代のことで 歴史学もお手上げだということです。  記紀(古事記・日本書紀)等々の――単なる神話でしかない文章をふくむ――資料をもとに自分の歴史物語をえがくというかたちになります。  基本は 《くにゆづり》をした これです。  ふたつの説明を用意します。      *  縄文人から弥生人へそして古墳時代人へと推移する日本人の《心性ないし知性》を次のように捉えます。  -1 :原始心性= 《ヨリ(憑り)》:世界への寄り憑き           (アニミスム&シャ​ーマニスム)   0 :歴史知性= 《イリ(入り)》:世界への入り  +1 :超歴史知性= 《ヨセ(寄せ)》:世界を寄せる。《ヨリ》を束ね       依らしめ​ 《イリ》をも社会力学上(政治的に)寄せる。  原始心性は 非情のごとく言えば 歴史知性以前です。イリは ふつうの社会人です。  ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では な​ぜ 最後にヨセが出て来たのか。ここでは これ(ヨセなるスーパー歴史知性)は 要ら​ぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と​言ったりします)。これはまた 宗教の始まりです。  言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる​原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えている​でしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでし​ょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科​学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っ​ています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだこと​でしょう。  さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》​なる人間類型が出ました。  単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性​は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(​村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神と​の共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物を​して 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り​・祭り)》です。どんちゃん騒ぎもおこないます。  ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの​イリ歴史知性を超えたと言わんばかりの精神において) 《まつり​ごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは​ 個人の信仰を束ねる集団としての宗教であり政治です。  古事記には こうあります。    その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナ​ガタラシヒメのミ   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき​。     西暦四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州​のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来​ます。  これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせ​ます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史​知性なる有限で時間的な存在としての自覚を持ったあとだというこ​とです。かくて 《ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性》で​ 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ​子かも知れません。  つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びと(​アニミストの)と同じ地平に立っていたところがあります​が このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったよ​うです。  嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづから上​がって行ったのか それとも人びとが その新型シャーマ​ンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会​の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも​推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が ​二階建てになりました。アマアガリが完成しました)。  要するにここに 神の代理が 出現しました。ムラムラにおける見えな​い神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との​共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。       *  西欧近代における社会契約説にあっては  ○ 人は人に対して狼である( Homo homini lupus. ) / 万人の万人に対する戦い( bellum omni contra omnes )  という命題がかかげられました。土地を囲っておれのものだと宣言したら その所有が決まる。けれども あとは・そのあとでも 奪い取ればよいというような考え方だと思います。  これを《主戦論》の思想として規定し それに対してわが国では そもそもの二階建て構造の国家が打ち建てられるときには そうではなく《非戦論》としての《くにゆづり》をとおしてであったと仮説しています。これをめぐって歴史が問い求められています。  ちなみに主戦論も非戦論も どちらも人びとの自由を社会的に実現するためには 人は弱いものであるというその人間の能力の限界がからんでいるであろうと見ています。どちらも同じ人間の弱さから来る思想であれば 人殺しをしなくて済む非戦論を取ろうという考え方が その昔の日本人にはあったのではないか。この問題です。  二階建て構造が《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関から成るという仮説も 公民・市民の規定は ふつうの経験科学のものだという反面で アマテラス・スサノヲは明らかに神話にのっとっており 歴史事実であるかどうかも分からない事柄ではあります。  そしてその神話に関する限りで 両者は 実の姉と弟であり それぞれのクニ(市民社会)のあいだに主導権の争いが起こったのも そのとおりであるようです。そこでスサノヲ共同体は 非戦論により国ゆづりをおこなったとも書かれています。  国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば 次のように全権大使もしくは軍隊が何回かに分けてやって来ました:     ~~~  タカマノハラ(=アマテラス国)に神(かむ)留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市に八百万の神たちを神集(つど)へ集へたまひ 神議(はか)り議りたまひて     我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ   ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ(統治せ    よ)  と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に     誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘   (かむはら)へ攘(はら)ひ平(む)けむ  と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量(はか)り申さく    〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕    アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ  と申しき。  ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。    〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕  次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。    〔* 第三の使い:アメノワカヒコ〕  また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。    〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕  ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。   かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱(みやばしら)太(ふと)敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐(ま)す皇神(すめがみ)たちは    荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして   タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷(うつ)り出でまして    吾が地と領(うしは)き(おさめること)ませ  と たてまつる・・・    (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞(のりと)》)       ~~~  ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。  スサノヲ側は すでにオホクニヌシの代になっていて オホクニヌシは ふたりの息子と相談すると答えたあと ひとりはじつは主戦論をとなえ たたかい諏訪にまで逃げてそこで滅ぼされました。  もうひとりは 腕相撲をしたとも ゆづったとも書いてあります。  《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないかも知れません。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。   ただし《国ゆづり》とは はっきりと書いてあります。  そうして豊葦原の瑞穂のくに(スサノヲの国)にやってきた《皇御孫(すめみま=天孫)のミコト》は じつは アマテラスとスサノヲとのあいだの子の子どもであったらしい。ホノ二ニギのミコト。

回答No.37

参考になるかも知れない質問を見付けました。 http://okwave.jp/qa/q3543763.html http://okwave.jp/qa/q7663749.html

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ▲(大野晋・古語辞典) ~~~~~  ○ たまふ(賜ふ・給ふ)   [語義の解説] 目下の者の求める心と 目上の者の与えよういう心とが合って 目上の者が目下の者へ物を与える意が原義。   転じて 目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表わす。   [仮説としての解説] タマ(魂)アフ(合ふ)の約か。    〔求める〕心と〔与えたいと思う〕心とが合う意で それが行為として具体的に実現する意。    古語では 《恨み》《憎み》《思ひ》など情意に関する語は 心の内に思う意味が発展して それを外に具体的に行動として現わす意味を持つ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  もしこうだしたら すでに初めに《眼差しをそそぐ者とそそがれる者との目上・目下の関係》が成ったあとの社会における言語表現になるかと思います。  《まなざし》が互いに自由で対等であるか? の問題だと。  上から目線や あるいはときには下から目線といったマナザシのそそぎ方であるなら その表敬表現は 起源なる状態からの二次的な派生であると考えられませんか?  二次的で派生した情況こそが すでに押しても引いてもどうすることも出来ない現実であったとしても 哲学の理論としては 《大道》を思うこともおこなうと思います。  自由なあいだがらにおいて よこせ――くれてやる といったやり取りが出来ることを目指します。

回答No.36

閑話休題 http://thinkit.co.jp/story/2011/08/18/2233 http://ascii.jp/elem/000/000/465/465458/ 表敬は直接的にのみぞ為されむや?

bragelonne
質問者

お礼

 《間接的な表敬》 ですか?  それは たぶん いづれあとで直接に会うときの表敬表現が問題になるのだと思います。  直前のやり取りを参照していただきたい。

回答No.35

オリンピックでも見られました通りに、 西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、 日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。 http://twitter.com/XF5/status/201264619719901184 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/16630100/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E http://ameblo.jp/daisan110/entry-11277878846.html

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ことは 敬語表現には限られないということですよね。  まづ 長く引用します。  ▲ ( ameblo の記事です) ~~~~~~  テーマ:武士道! 「アメリカにおいては、贈り物をするとき、  贈る側は受け取る人にその品物を褒めそやす。  しかし、日本ではこれを軽んじたり、悪く言ったりする。」  この文章は新渡戸稲造の「武士道」(第六章)に出てくる文章です  この違いはアメリカ人は「素晴らしい貴方には、  素晴らしい品物以外を贈るのは無礼です」と考える  そして日本人は「素晴らしい貴方には、  どんな品物もふさわしくないこの品物を、物そのものの価値ではなく、  私の好意のしるしとして受け取ってください」と考えるのです  アメリカ人は物の面からいい、日本人は気持ちの面から言う  表現は違えど同じ考え…  しかし、アメリカ人が好意を「主張」するのに対し  日本人は好意を「謙譲」するのです  さらに新渡戸稲造はこの考えが、「謙譲」は仁とともに  「礼」という徳をつくると言ってます  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《贈り物》ないし《贈与》論は けっこうやっかいな議論があると思います。それは 受けた側における《負い目〔を感じること〕》の問題です。いづれ返さなければならない《債務》とさえ感じる場合もあります。  それはひとまづ措いておいて 贈り物をするとき贈る側は どういう表現をするか? この主題です。  1. ここでもわたしは 《贈り物》の起源を問います。  2. 敬語表現で《ウヤマヒ》起源説を取りましたが 一般に《贈与》の起源は 《ウヤマヒ不在》説を取ります。  3. 自由で対等なカカワリないしマジワリ そしてそのシルシとしてのウヤマヒ これがまだ築かれていないときに この互いのウヤマヒを求めておこなうのが 贈与であると。お近づきのシルシとするそのかたちであると。  4. ならば・もしそうならば 贈るモノを持ち上げようとけなそうと その基本の意図としては変わりない。のではないか?  5. そのモノがすばらしい相手にふさわしいと言いたいゆえその品物はやはりすばらしいのですよと自分もモノをも高めて渡す場合にしろ 相手に対して自分は贈り物をするにはあたいしない者ではありますがどうぞ受け取ってくださいという意味合いで つまらないものですがとわざわざ自分もモノをも低めて渡そうとする場合にしろ 《お近づきのシルシ》であることに変わりはない。  6. 何かすでに事が起こっていて その結果に対してたとえば感謝の気持ちを表わそうとして贈る場合など すでに因縁がある場合は たぶん別だと見ます。カカワリやマジワリがすでに始まっている場合だからです。  7. と考えるとすれば 敬語表現は起源としてウヤマヒの既成ゆえにでしょうし 贈与という表現はやはり起源としてウヤマヒの不在ゆえにであるとなります。どちらも ウヤマヒゆえにです。その実態は 自由で対等な人間関係です。  8. 相手や品物を高めるかあるいは自分や品物を低めるか この違いは それほど大きな要因になりましょうか?  9. もし《仁》や《徳》を問題にするのならば 《お近づき》に際して そのかたちあるシルシとしては 何も用いない。これが 人格の核であり境地のゆとりなのではないでしょうか? もともと自由で対等なのです われわれ人間は。    10. そうでないとすれば あなたも提起しておられたように 《大道すたれて仁義あり》となろうかと思われて来ます。贈り物をするときの表敬――尊敬であれ謙譲であれ――の表現は まさにその《仁義》のかたちであろうかと思われて来ます。  11. 新渡戸稲造は 浅い。と言ったわけです。  12. 《スポーツの試合などにおける自己の勝利》について どう表現するか? どうでしょう? どうなんでしょう? 高橋尚子と福士加代子の場合は それぞれどうか?  13. ★ ~~~~~~~~~  西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、  日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ どちらも 《仁義》としてのかたちだとしたら どうか? あなたは 絶対無をかかげておられましょう? そのことと仁義というかたちとは どう調和しましょうか? どうでしょう?

回答No.34

動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、 西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』とは全く共通点が御座いません。 つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 表現形態論としての敬語論になってまいりました。ご回答をありがとうございます。  一般的な議論をおさらいしてみます。(一部の説明文や例示を省略しています)。  ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~  1. 尊敬語 : 話題中の動作や状態の主体が話者よりも上位である場合に使われる。  1-1 語彙自体を変える - 例:いる・行く→いらっしゃる、食べる→召し上がる、見る→ご覧になる、する→なさる  1-2 お / ご~になる - 例:待つ→お待ちになる、掛ける→お掛けになる  1-3 れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる  2. 謙譲語 : 話題中の動作の客体(間接的である場合もある)が話題中の動作の主体よりも上位である場合に使われる。     そのため謙譲語は話題中に2人以上の人物が登場しなければならない。     動作の主体を謙(へりくだ)す言い方であり、主体=話し手の場合には自分が謙ることになる(卑しめるという意味ではない)。  2-1 語彙自体を変える - 行く→伺う、見る→拝見する、する→致す  2-2 お / ご~する - 待つ→お待ちする、掛ける→お掛けする、相談する→ご相談する  2-3 お / ご~頂く・申し上げる - 買ってもらう→お買い頂く、辞退する→ご辞退申し上げる  3. 丁重語 : 聞き手が、話し手よりも上位であることを表す動詞の語彙をいう。  3-1 山田と言う。→山田と言います。→山田と申します。  4. 丁寧語 : 聞き手が話し手よりも上位である場合に使われる語をいう。           広義として聞き手に対する配慮を表すもろもろの語を含める場合があるが、文法的に語末に使われる現代語の「です」「ます」「ございます」、古語の「はべり」「候ふ」などを指す。  4-1 です:(名詞+繋辞) - 学生だ→学生です(現在)、学生だった→学生でした(過去)、学生ではない→学生ではありません(否定)、学生だろう→学生でしょう(推測)  4-2 ます:(動詞) - 見る→見ます(意志)、見た→見ました(過去)、見ない→見ません(否定)、見よう→見ましょう(勧誘)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ (あ) この説明によれば 敬語表現は いづれの場合にも 人と人のあいだに社会的な位置や身分から来る上下の関係があることによって または あると見立てることによって 生じると見ている。  (い) 果たしてそれは ほんとうか? 自由・対等な立ち場にあっても 相手にウヤマヒを持ってそのことを言語表現にもあらわす場合があるのではないか?  (う) それは ヰキぺでは尊敬語に入れられている(1-3)の《れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる》であろうと 見られないか?  →No.16お礼欄の《敬語の起源》  また ヰキぺの中での(4)丁寧語の《です・ます》 これも 対等なあいだがらにおけるウヤマヒ表現だと捉えられまいか?  (3)の丁重語も 上下関係を抜きにして見れば デス・マスと同じような表現形態だと受け取られるように思います。  (え) というように起源としての《ウヤマヒ》理論を基礎として捉え得たとすれば そのあと《身分関係》から来る敬語表現なる形態が来ると思われます。  (お) たしかに社会関係は 世襲という要因がからむならば シガラミとまで言うほどの上下関係が出来て来ます。これを よくもわるくも 言葉の上でもあらわそうとする。単純にそういうウゴキだと見られます。  (か) 言いかえると敬語表現は 単純にふたつの形態に分かれる。     相手〔の側〕を立てるか(すなわち 上に置くか) 話し手〔の側〕を下げるか(つまり へりくだるか)。      《側》と言ったのは その本人ひとりだけではなくその周りの人びとをも含む場合を言います。     すなわち 尊敬表現か謙譲表現かです。  (き) もしこのように整理し分類した《謙譲表現》のことを   ★ 動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、  ☆ と言うのだとすれば おそらく違うとおっしゃるでしょう。《こちら側から相手側に届ける表敬の表現形》と言えば おそらく(う)のウヤマヒ表現のことを言うのではないでしょうか?    (く) つまりはヘリクダリと言うよりはむしろ互いに対等であるゆえにその対等であることを――いくらかは こちら側が下に立ったような感じで―― 言葉のかたちにもあらわそうとする。そのことではないのでしょうか?  (け) わたしは このウヤマヒ形が  ★ 西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』  ☆ の起源でもあると考えています。同じ発想から来ているのだと。その後の言わば第二次の変化形については それぞれの発展があったのでしょう。    (こ) でもどうでしょう? 現代のイギリス国民が 国王やその家族に対して敬意を表するその言語表現は 市民どうしで対等な関係におけるウヤマヒとして表現するかたちと そして心とも 同じであるということではないでしょうか?  (さ) もし日本人においても アマテラシテ象徴やアマテラス公民に対する敬意の表明が 市民どうしのあいだで交わされるウヤマヒ表現とその基礎において同じであると言うのならば――言えるのならば―― あなたのおっしゃる『謙譲』は たしかにそれとして活きている。こう考えられます。どうでしょう?  (し) ★ つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。  ☆ いえ 《自虐》の要素はあり得ないと考えます ウヤマヒ表現にあっては。自由で対等な場に 似つかわしくありません。  まだ我田引水していましょうか?

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    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?