イエスがなぜキリストか。

このQ&Aのポイント
  • イエスがキリストであるということは宗教が揚棄されることであり、キリストのキの字も言わないで済むようになることである。
  • イエスが渇いた者に水を飲ませるだけではなく、その人の内から水が湧き出るようにさせることを示している。
  • この結果起こる世界のすべての宗教の解体については、日本人がもっともよく成し得ることではないか。
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イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

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回答No.13

たとえ自分の顔を恵んであげましても、 アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、 其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。 でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、 我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、 それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。 http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。  ★ それを疑わずに受け入れていけば  ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。  うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。  ★ 受け容れる  ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。  神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。  すこしくそまじめに行きます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。    前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?    うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

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回答No.12

深刻な慢性疲労等から我々を救済してくれ得る気力の引き当ては、 其の水に依存しているのでしょうか? http://www.findai.com/yogo/0246.htm

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうです。そうだと思います。  人力の及ばないところで湧き出て来ましょう。  ちょっと休めということも指示するでしょうね。

回答No.11

『メンガーのスポンジ( http://www3.ocn.ne.jp/~fukiyo/math-osy/menger.htm )』の中の世界には、 何らかの意外なエネルギーが隠されているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  これは どうなんでしょう。  エネルギーがある・隠されているということでしたら このメンガーのスポンジに限らず どこでも・何であっても そうなのではないでしょうか?  それとも メンガーのスポンジの場合には《意外な》エネルギーがということなのでしょうか?    いえ 分かりません。そこに電磁波や光を閉じ込めるということも分かりません。

回答No.10

水の流れを感じ取れれば象徴的な他者の存在証明の必要性が無くなるのですね。 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060822/246123/ 因みに、情けない事に、作者は自覚なさっていない様ですが、 アンパンマンの自己犠牲は、ジャムおじさんによる修復の可能性への甘えに起因しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 水の流れを感じ取れれば象徴的な他者の存在証明の必要性が無くなるのですね。  ☆ そうですね。ここは げんみつに表現しようとしてみます。  ★ 水の流れを感じ取れれば  ☆ 《わたし》そのものが《水の涸れない泉となれば》でしょうか。そうしてその実際のチカラが発揮されたと思ったとき その泉のことに気がつくのでしょうし 水の湧き出ること・水の流れることを感じ取っている。のだと思います。揚げ足取りでごめんなさい。  ★ 象徴的な他者  ☆ この表現で分かるひともいるかと思いますが 一般的ではないように思います。  《神》のことですよね?  《絶対としての他者 / 大文字の他者 L'Autrui 》ということですよね?  ★ 象徴的な他者の存在証明  ☆ 《神の存在証明》のことだとしますと じつはこれは どうでもよいことです。つまり もともと《必要性が無い》はずです。  なぜならば 非経験の場として想定される神は 無根拠のナゾです。根拠なしに想定されます。(つまりあるいは 神ということばがすでに持たれていて使われているそのことを取り上げることから出発したものです)。  《神とは何であるか・存在するかしないか これについて人間は 分かるか分からないかが分からない》として想定されるかたちです。  よって 存在証明にはもともとなじみません。  仮りに存在証明をしたとします。出来たとします。けれども そうだとしたら その証明された神は 《思考の中におさめられた存在》ということになります。そういう概念なのでしょう。  したがって 《非経験の場》として想定される神は その思考によっておさめられた神の概念を ひとつの説明とすることはあっても その概念ないし観念に取って代わられることはない。あり得ない。となると思います。  ○ みづからの存在(身と心)が 水の涸れない泉となる  ならば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒です。そうなるほうが先決であるかも知れません。存在証明よりもです。  ★ ~~~~  因みに、情けない事に、作者は自覚なさっていない様ですが、  アンパンマンの自己犠牲は、ジャムおじさんによる修復の可能性への甘えに起因しています。  ~~~~~~  ☆ ようつべで《アンパンマンとバイキン花火》という作品を見ました。  アンパンマンがジャムおじさんに頼っているという問題よりも どうしてこれほど単純なのかとおどろきました。  能天気の上にバカ丸出しのわたしが言うのですから その単純さは ひどすぎます。  あるいは バイキンマンによるワルサやイジメを もっともっとして欲しいというドMではないかとも思われます。  一つの作品のみを見て象を捉えたと思っている単純マンよりでした。

回答No.9

基督公の自己犠牲は予定調和を思考していなかったのですね。 http://itpro.nikkeibp.co.jp/prembk/NCC/NETPOINT/20050117/154824/zu1.html?ST=network

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 基督公の自己犠牲  ☆ これは ありません。  むろん たとえば磔の刑を受けることによって じんるいの始祖のいわゆる原罪をあがなったと 正式に言われます。    これについては もともと《原罪》――ないし人間の自由意志が   善(生きること・ともに生きること)に反して発揮されるクセが    人の心にこびりついているそのありさま――を《へび ないし 悪   魔》にかかわらせて物語られたこと自体が 理論的な内容にもと   づくのではなく 世間のナラワシに合わせて取り上げられている   だけだという事情があります。    ですから この見方にもとづくなら イエスがこの原罪をその   いのちに代えてあがなったという話は 付け足しでしかない。こ   うわたしは 考えています。  この贖罪という主題が 正式のもので理論(神学)としても欠かせないことだとしますと もしそうだとしますと そうだとしても 次のようになると見ます。  すなわち    ○ キリスト・イエスは 自分でいのちを捨てることも出来ると言っていますが いまの主題である《十字架上におけるいのちと引き換えによる原罪のあがない》つまりは要するに《自己犠牲》を 自分で勝手に好き好んでえらんだだけだ。  こうなると見ます。ですから  ★ 基督公の自己犠牲  ☆ これは ありません。人びとに対して わざわざ恩着せがましいようなことはしません。そういう姿勢ではありません。    ★ 予定調和  ☆ という考え方は あつかうのに厄介です。  それこそ《人間万事塞翁が馬》でありまして 何が調和で何が不調和か これなどは 決めがたいところがあります。あるいは 決めてもいいのですが 同時に別の違った見方も出来るはずなのです。  自分の馬が 野生の馬を引き連れて来たなら いいのでしょうけれど どこかの誰かの馬を誘って来たとなれば 結構なことではありません。  ちょっと例示がはづれたかも知れませんが 一定の時間や期間を区切って ひとつの固定した見方に立って 調和である・調和でないと判断するしかありません。  つまり早い話が 予定調和というその調和の状態は それが然りか否かが決まっているというのは 神から見ての話になる。こうではないでしょうか?  そして その神の視点は 人間には分かりません。  ですから  ★ 基督公の自己犠牲は予定調和を思考していなかったのですね。  ☆ という命題については  (1) 《自己犠牲》は 基本的に ない。そう見えるだけ。見えるだけのところで 聖書記者も キリスト・イエスを誇りとしてのように 堂々とその《贖罪》論をぶっている。〔のみ〕。  (2) 《予定調和》は それが一体全体 じっさいにどうであるかを判定するのは 人間には無理。  仮りに キリストつまり神が 《予定調和を思考していなかった》かどうかを問うとすれば これも――神の視点においては ありうるコトかも知れませんが―― 人間には 答えるすべがない。となります。  といった難題がついてまわっている。こう考えます。答えは出ない。となります。

回答No.8

アンパンマンは『僕を食べなよ。』と頻繁に言っていますが、 此の質問文の水とは関わっていなかったのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてですね。  ★ アンパンマンは『僕を食べなよ。』と頻繁に言っていますが  ☆ これは 失礼しました。何も知りません。  自己犠牲なのでしょうか?  それはありません。自己の自由を追究するときに 結果としてほかの人のために犠牲になったということは起こるかも知れませんが そういう精神ではありません。  ★ 此の質問文の水とは関わっていなかったのですね。  ☆ ええ。重ねておわびします。

回答No.7

自分の体から湧き出る水を他者達へと分け与える、 という態度は、『自分の頭を食べさせる餡パンman』と同じで、 酷く馬鹿げていませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  微妙に読み違いを――わたしの舌足らずを棚に上げて言いますが―― なさっていましょうね。  ★ 自分の体から湧き出る水  ☆ これは 一人ひとりその内面において起こる出来事です。主観の専管事項です。  それでは   ★ 他者達  ☆ はどうするのか?  それは それぞれの自分のやはり専管事項ですが 強いて言えば 《無根拠のナゾ》との関係が その人において問われています。  人が人に対して カカワリまたはマジワリを持つのは 最大限に見積もって言えば その主観内の《うれしい洪水事件》の起きることに きっかけとなることはある。こういうことだと思います。  そして 要らぬことをつけ添えればですが    先の者は後に成り 後の者は先になる。  という方程式も世の中ではざらに見られる。こう思いますが いかがでしょう?  ですから  ★ 『自分の頭を食べさせる餡パンman』  ☆ という事態にはなりません。成ったら アンパンマンが泣きます。

  • pantomana
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回答No.6

No.3のお礼への返答です。 モーセはアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神が全能の神であり、同じ神がモーセにYHWH(エホバ)(救い主)(キリスト)である事を明らかにしました。 ですから、イエスがキリストであると言う事は、多くのキリスト教が説いている旧約のアブラハムの神がキリスト・イエスであったり同じく天の父でもあったりするのではなく、人間の造り主の全能の神(エル・シャダイ)が人間の救出者キリストであると言う事です。イエス(全能の神)の造り主は至高の神(エル・エルヨン)で、アブラハムとは別系統のメルキゼデクの系統の神です。 そして、至高の神は我が子、人間の神であるイエスを死から救ったのです。 更に言うと、全能の神イエスは、生命として最初に生まれ、万物を生み出す者となったように、死からの復活と永遠の生命を初めて獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ者となったのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱんとまなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  えっとですね。前提として 旧約時代において《キリスト=マッシーアハ(メシア)》がどう受け取られていたか? これが わたしにはっきりしません。  エレミヤ書31:31以下に示された《あたらしい契約》に呼応すると見られるイエスの登場からは この《キリスト=メシア》は 《神の子でありみづからも神である》(ヨハネ福音冒頭)イエスにあてはめられた。けれども それ以前では むしろサウル ダヰデ・・・とつづく王が士師サムエルによって《膏をそそがれ》たというその人物を《メシア=キリスト》と呼んでいたのではないでしょうか?  すなわち  ★ モーセはアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神が全能の神であり、同じ神がモーセにYHWH(エホバ)(救い主)(キリスト)である事を明らかにしました。  ☆ このようにおっしゃるとき モーセにとってアブラハム以来の神が むろん同じ神でありつつ《キリスト》とも同じだと見なされるのは 新約での位置づけからさかのぼってあてはめている。という事情ではないか。こういま 思っているという意味です。  ★ ~~~~~~~~  更に言うと、全能の神イエスは、生命として最初に生まれ、万物を生み出す者となったように、死からの復活と永遠の生命を初めて獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ者となったのです。  ~~~~~~~~~~  ☆ このご見解については 次のように受け取っているというのが わたしのホンネです。  ○ ~~~~~~  更に言うと、イエスという男はふつうの人間であるが同時に神の子でありみづからも神であるという――つまりキリストであるという――その存在 この存在としての神は、モーセよりもアブラハムよりも前から存在していた。  しかもアブラハムの信仰ないしモーセの律法の時代から時を経て 《とき》が満ちたとき イザヤやエレミヤが語っていた人として イエスが出た。  このイエスが 神でありつつ同時に人間であり 人間として死を死につつ しかも死からの復活と永遠の生命を〔初めて〕獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ〔神すなわち 子なる神と一体である父なる神を指し示す〕者となったのです。  ~~~~~~~~~  ★ ~~~~~  ですから、イエスがキリストであると言う事は、多くのキリスト教が説いている旧約のアブラハムの神がキリスト・イエスであったり同じく天の父でもあったりするのではなく、人間の造り主の全能の神(エル・シャダイ)が人間の救出者キリストであると言う事です。イエス(全能の神)の造り主は至高の神(エル・エルヨン)で、アブラハムとは別系統のメルキゼデクの系統の神です。  ~~~~~~~  ☆ この系統論議は たとえばエデンの園でのヘビが揚棄されたように・そしていわゆる原罪がちゃらにされたように もうイエス・キリストのあとでは どうでもよいとされた。と認識します。  永遠の生命だけが 主題であり課題である。(つまり趣旨説明欄の(α)です)。こういう認識であり そのことを問うています。  ですから いわゆる宗教は いっさい要らないとイエスが言った。(つまり(β)です)。こうなると考えます。  なぜなら エレミヤ書31:31以降では 《もう主は 人びとの罪を覚えず 人びとに主を知れと言う必要は無くなる》(趣旨を要約)と言っているからです。これが イエスによって成就された。  どうでしょう?

回答No.5

当時の為政者達が支配の為に定めたProtocolの1種なのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/ECHONET

回答No.4
bragelonne
質問者

お礼

 回答No.2から この投稿へ移るのに 何もなかったことにするその考え方には 同調し得ません。

  • pantomana
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.3

イエスがキリスト(旧約の全能の神のYHWH)でないと言う者は反キリスト以外何者でもありません。 とは言っても、三位一体でもエホバ教のエホバ天の父説ではありません。 >イエスが何故キリストか?。 モーセがモーセに現れた神、全能の神でモーセに初めて知らせたYHWHと言う呼び名の神について、モーセはこの神がキリストである事を認識して、「キリストゆえの侮辱をエジプトの宝よりも大いなる富だと考えたのです」。ヘブライ11:24.~26.。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱんとまなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ご回答内容について何となく分かる。ということは よくは分かっていない。のだとまづ思います。  そのまえに参照箇所をかかげます。  ▼ (ヘブライ人への手紙11:23-27) ~~~~~  23:  信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。  24: 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、  25: はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、  26: キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。  27: 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは おこないによってではなく信仰によって神に受け容れられるというような主題を歴史的な事例に即して述べているところだと思います。  《信仰によって》であるなら 言ってみれば神もしくはキリストの問題であり なにごとも《キリストのゆえに》となると考えられます。  子の父と 父の子とですから――と新約からさかのぼって捉えるなら――   ★ モーセはこの神がキリストである事を認識して、「キリストゆえの侮辱をエジプトの宝よりも大いなる富だと考えたのです」。ヘブライ11:24.~26.。  ☆ ということになるとたしかに思われます。  思われるのですが そこから ではなぜ  ○ イエスが何故キリストか?  ☆ の答えになるのか。このつながりを 分かりかねています。  どうしたもんでしょう?

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     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には   ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。ぎゃくに言うと このことに一般にクリスチャンは注目していないと思われるのですが それはなぜか? と問います。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~~~~~~~~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。      *(註) 《聖書に書いてあるとおり》 について次のようであるようです。:   ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。   ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~   わたしは乾いている地に水を注ぎ   乾いた土地に流れを与える。   あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ   あなたの末にわたしの祝福を与える。   ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~   主は常にあなたを導き   焼けつく地であなたの渇きをいやし   骨に力を与えてくださる。   あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるというだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての研究やその成果 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じ普遍神であるということ。そのときには 信仰として《非思考の庭》なるかたちがわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  (γ) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  ・普遍神とわれとの関係なる信仰の類型としては:    梵我一如ないし霊霊一如(これが 非思考の庭)すなわち     梵:ブラフマン神(神の霊):マクロコスモス     我:アートマン(霊我):ミクロコスモス  ・宗教の揚棄・解体については:        神道方式すなわち     ブラフマンやヤハヱ―やアッラーフや     アミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ(大日如来)や      また《無い神》や何やかやの名にいっさいこだわらない。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?  問い求めます。ご教授ください。

  • イエスの哲学は 《存在》論である。宗教を卒業しよう

     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。

    イエスキリストについて教えてください。よろしくお願いします。 よく「神様」とか「神様仏様」と言う人がいますが、それは「イエスキリスト=神様」という意味なのでしょうか?ポストに入ってたチラシ表紙に「神が~~(略)」と書いてありました。 イエスキリストは、実在したのですか?実在したとしたら明確な証拠はありますか? イエスキリストがしたことで、最もすごいことはなんですか? イエスキリストと神様がイコールでないとしたら、神様とイエスキリストではどちらが偉いのですか?またはどちらがすごいのですか? 神って、なんですか?人?神?神って? 私は夫が神様だと決めてます。神様とか宗教に全く興味がなかったのに、よくわからないけど神様って本当にいるんだと夫と知り合って初めて思った、それくらい夫を尊敬してるという意味です。崇拝まではいかないかもしれませんが。 で、そんな、私にとっての神様である夫が、イエスキリストは居たと言っています。キリストはすごいというような事をたまに言います。それから、神様は居ると思うと言います。霊感など全くないですが心霊現象の存在は信じるようです。勿論遭遇したことはないです。私は宗教も心霊現象も全く信じないです。 夫も、無宗教で、むしろ宗教には絶対に頼らないという考え方の人です。 私はずっと前から夫を神様だと思ってますが、上記の、キリストが居たと思ってることを初めて夫が口にした時に、夫を神様だと思ってきたことを話しました。 夫は幼い時からそう思っいるそうです。知り合ってかなり長いですがお互い、宗教に興味がないことはわかってるので、話題にすらならなかったのです。 そういえばクリスマスって、他人の誕生日なだけなのに、なんでお祭り騒ぎなんだろうね、とか、そんな何気ない会話から夫のそのことを知りました。 クリスマスは毎年必ずパーティーやプレゼントしてます。私が、しないとふて腐れるのを知ってるから夫は一緒にクリスマス気分に付き合ってくれます。私がしたくないと言えばクリスマスイベントはしません。 二人とも普通の家庭で育ち今も普通の暮らし、夫の人柄も普通で優しく、友達も多く仕事も普通にしてます。 ただ夫が、幼い頃にたまたまごく近所の教会に、スタンプとお菓子をもらえるのを楽しみに友達と通ったことがあることは、はじめから度々聞いていました。でもキリスト教徒(=クリスチャン?)ではないそうで、それも聞いてました。仮にクリスチャンだとしてもかまいませんが。 教会では紙芝居のような、ノアの箱舟など、子供には楽しかったそうです。聖書は読んだことないそうですが賛美歌はその時少し覚えたそうです。 夫がキリストの存在や神様を信じるのはそれが関係してるのでしょうか。 夫がノアの箱舟やキリスト関係を、信仰?しないまでも存在したのは信じてると知り、ものすごい衝撃うけました。 神様(夫)が信じる神様とは、神様がすごいと思う神様って、どんだけすごい人で何した人か、夫よりすごい人がいるのかと無性に知りたくネットやポストチラシも見てみましたが、頭よろしくないドシロウトの私には意味わからない用語ばかりでした。 かといって教会に行ったら即勧誘されそうなので行きたくないです。 夫にも質問ぜめし、とてもわかりやすく夫なりの解釈で説明してくれましたが、それでも夫以外のかたからも聞いてみたいので、なんでもいいので教えてください。 いつのこと、とか、基本中の基本を、超ビギナー向け子供向けでいいのでお願いします。 夫は、一見キリスト教関係するとは想像つかないようなアニメや映画でも沢山キリスト教関連のストーリーがでてきたりするとも言ってます。 近く私はその(夫が読んだことがある)漫画本を読むつもりです。 まとまりない文章になりすみません。お読みいただきありがとうございます。

  • イエス・キリストは神?

    聖書をちょっとだけかじった僕には”神の子”と聖書に書かれていたので、神ではなく神の子だと理解していたのですが、キリスト教の方々ってイエスを神だと思っているのはどのような理由なのでしょうか?またキリストを神としているのはキリスト教のほとんどなのでしょうか? ダヴィンチコードのニケイヤ公会議(でしたっけ?)でイエスが神となったのであれば…、神の子であるとイエスがいったことは無視ってことでしょうか? 三位一体とユニテリアンについて気になったので質問させていただきました。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • イエスキリストのいう永遠の命とは輪廻転生のこと?

    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

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    【宗教】【イエスキリストのトンチ】イエスキリストは「神の子なら石をパンに変えよ」という民衆からのトンチをどのように解決したのでしょう?