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環境破壊がいけない理由

serpent-owlの回答

回答No.26

 補足をありがとうございます。とてもお話しがしやすいです。  まず、No.10へお寄せいただいた「補足」の、触れなかった点について。一言申し上げておくべきでした。特に私の方から再考を促したり、さらに言葉を付け加えたりする必要を感じなかったので言及しませんでした。つまり、gattoさんのご見解に賛同、ということです。  とりわけ、生物たちとの間の「物理的な行為の相互性」という観点。これは直接的には自然科学の「生態学 ecology」の対象でしょうが、gattoさんが他の方への補足で述べておられるように(No.15)、「自然の複雑さ」ゆえにそれが果たして人知の及ぶものであるかどうか、人間として謙虚に考える必要があるように思います。開発に際しての「アセスメント(評価)」でGoサインが出たとしても、予想がつかない形で自然の「復讐」が起こることもありますから。  そして、私がとる立場としての「人間中心主義」についてです。これについては、お返事も待たずに突っ走って書いたNo.18で軽く触れております。まずは御一読を。  そこでも述べたように、「人間中心主義 humanizm」という言葉はかなり包括的な言い方です。が、とりわけ環境問題・環境倫理学の文脈で批判の対象として取り上げられる人間中心主義というのは、    自然と人間とを二元論的図式で切り分け、人間を優位のものとし(中心化し)、    人間による自然の支配・搾取を肯定する考え方 とでもまとめておけばよいと思います。自然を人間の恣意的な欲望に委ねてよいという意味での「人間のエゴ」を肯定するものです。  事実これが批判され乗り越えられなければならない考え方であることは、巷間に溢れる言説が饒舌に物語っていますので多言を要しないでしょう。その考え方は人類の生存基盤そのものを脅かす「親殺し」という結果を生み、未来世代の生存可能性を奪う「子孫殺し」にも結び付こうとしています。  私が自分の立場として考えようとしている人間中心主義は、もちろんこれと同じではありません。言葉が同じだとどうしてもややこしいことになるのですが、何かどうも、適当な呼び名が見つかりません。仮にここでは、空前絶後の究極的超絶傑作ワープロソフト「松 Ver.6」にちなんで、仮の符牒を「松主義」としておきましょう。ダサイのですが、入力が楽ですので。  松主義は、「人間の欲望のために自然に対して何をしてもよい」という人間のエゴは否定します。そういう種類の人間中心主義とは区別されます。しかして、そうではない別の形、別の内容の人間のエゴを徹底します。それはつまり、「人類の存続を最優先に考える」というエゴです。「存続」に力点を置きますので、先に取り上げた「世代間倫理」をもしっくりと取り込むことができます。「未来世代の生存可能性を確保する」という目標設定が明確になります。  この目標設定から、その他の基本的方針が演繹されてくるでしょう。無軌道な開発の制限・抑止、人口増加の抑制、謙虚さを伴った生態系への関わり、など。  ただ、正直に言うと課題や難点もあるのです。  例えば、いま「人口増加の抑制」と書きましたが、これ一つ見ても、まず一つに「人口爆発」が予想される地域にはその地域の経済的・政治的事情があるということ、もう一つに、カトリックなど妊娠中絶に否定的な宗教や文化とどう折り合いをつけるかという問題、があります。前者は後者と関わる面もあり、そういう意味では政治レベルの課題でも思想レベルの問題でもあるという複雑さがあります。利害の調整という政治レベルで解決しなければならない面もあり、地域事情や宗教・文化の独自性を尊重しつつ折り合いをつけるという面では、思想的レベルでも時間と労力をかけた対話が必要になるでしょう。  もう一つには「反・人間中心主義」からの批判がありえます。「人間を中心に据えたままでは、結局中途半端で不徹底なことしかできず、人類の存続という枢要な目標すら実現できなくなるのではないか」…とか。  「それはありうる」と認めざるをえません。人間のエゴのある部分を肯定する限り、やはり「人間の欲望」に対して妥協的な部分を残すからです。これについては、松主義の内部努力を通じて「そうならないようにする」という以上の反論は、今のところ思いついていません。     *  ではちょっと唐突ですが、リクエストしていただいた「ディープ・エコロジー」の話に移ります。なぜ唐突に移るかと申しますと、さきほどの「松主義」も、この「ディープ・エコロジー」も、地球環境の悪化の度合いをどの程度「急を要する」ものと判断するかにより、現実への応用が変わってくるという点で共通のものがあるからです。  「ディープ・エコロジー」に関しては過去に質問があります。なんと、先にご紹介した「環境破壊って本当にいけないの?」のすぐ一コ下です(下記参考URL参照)。すでにご覧になっているかもしれませんね。  ディープ・エコロジーについて、私が述べたいことはすでにその質問のところで大体言及されています。まず、この立場は「人間もまた生態系全体の中で一定の地位を持つ《種》の一つにすぎず、何ら特権的なものではない」とする点において反・人間中心主義的と言えます。  ただ、前回も述べたように、実は一時期、私自身この立場には傾倒していました。今でも全面否定はしていません。さきほど説明した「松主義」の対抗原理として、必要なものであるとすら思っています。  では概略を紹介します。  1973年に、ノルウェイの思想家アルネ・ネスが最初に提唱しました。「ディープ・エコロジー」=「深いエコロジー」というのは、「浅いエコロジー」すなわち「資源枯渇や汚染に反対する」、つまりは「松主義」にわりと近い考え方への対義語です。もっと根本的に人間と自然との関係のあり方を問い直し、「人間が自然を一方的に利用することができる」という価値観自体を刷新せねばならないと考えるものです。その意味では「生命平等主義」を含む主張です。  ただ、ここで言う生命平等主義というのは、前回紹介した「アニマルライト」の考え方とは著しく異なっています。この違いを鮮明に示すために、一つ具体例を挙げましょう。  ガラパゴス諸島って、ありますよね。ダーウィンが進化論のヒントを得たところとして有名です。現在、観光客を受け容れていますが、大小を問わず外来生物の持ち込みを今では禁止しています。現地生態系の攪乱を避けるためです。  が、現地の自然保護監察官の主要な仕事はというと…実は大量殺戮だったりします。言葉は悪いですが。  山羊です。今から百年ほども前にガラパゴスに赴いた宣教師が、食糧用に持ち込んだわずか数頭の山羊が、今では数十万頭にまで繁殖し、現地の在来生態系を圧迫しているのです。それでやむなく、自然保護監察官たちは毎日のように猟銃を持って山野を駆け巡り、山羊を射殺しまくっているのです。  アニマルライトの立場だったら、このような挙に賛同することはありえません。なぜなら、生物の「個体」レベルで生きる権利を認めようとするからです。「苦痛を感じる能力をもつ」というのは個体レベルでのことです。だから一頭一頭の「個体」に、生きる権利を認めなければならなない。いくら生態系を攪乱するからといって、射殺するなどもってのほか。  これに対して、ディープ・エコロジーでは「生態系全体のバランス」が最優先に重視されます。ある生物種が過剰増殖してそれを脅かそうとしている。しかも、その影響の排除が急を要するとしたら、ある程度強硬な手段もやむをえない。そういう発想になります。したがって、ディープ・エコロジーの立場からすれば、山羊の大量殺戮は肯定されることになります。  ディープ・エコロジーが現実にアプライされた場合の危険さは、ここに由来します。「人間すらも種の一つにすぎない」わけです。それが「生態系全体のバランス」を崩すならば、「間引く」ことが肯定されます。少なくとも原理的には。  「人口増加の抑制」は、ディープ・エコロジーの主要な主張の一つです。が、具体的にどのような手段をもってそうするかに関しては、先に述べた「松主義」と同様の困難を抱えています。漸進的に、緩やかに、のんびり進めてよいのか、それとも緊急に、苛烈に、容赦なく進めるべき危急の際にあるのか。その現状評価の違いによって、具体的な方法は「緩やかな産児制限」にもなりえますし、「即時大量殺戮」にもなりえます。ウィリアム・エイケンの極端な考え方などは、後者に結び付きかねません。また、No.22に書いたような、「人が傷ついてもかまわない」と考えるような環境保全運動の方向にも結び付くでしょう。むろん、質問No.26886での発言にも見られるように、いちおう彼らは「平和的・民主的」方向で行こうとはしています。が、これは「あくまでも人間は種の一つにすぎない」という大前提からすれば、「人々に抵抗なく受け容れてもらうための方便」でしかありません。理論的な枠組みというか、「核(コア)」とは関係のない、いわば外付けのアダプターみたいな要素でしかありません。原理そのものはあくまでも「反・人間中心主義」です。  ゆえに、私は「ディープ・エコロジー」ははっきり「危険」と考えています。  とは言っても、たぶんこれ、今の時点での「主流」なんだと思います。立場的にアニマルライトに近そうなJAVA(動物実験に反対する会)の関係者までもが、「ディープ・エコロジーを支持する」と言ってるの聞いたことありますし。たしかに、いい部分もあるんです。二元論的分離を超えて、関係主義的ホーリズムに到達できるかもしれない。しかし矛盾点もあるのです。  「松主義」に対する対抗原理として作動してくれる分にはいいな、と思います。「自然の立場を代表して人間中心主義を掣肘しつづけ、その健全性を保たせる批判的言説」として作用してくれれば。ただ…人間でありながら、あるいは人知の及びかねる部分もありうる「自然」を代弁することが可能かどうか…そのへんに矛盾がありそうなんですが。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=26886
gatto
質問者

お礼

何度もおつきあいいただきありがとうございます。 お返事が遅くなり申し訳ありません。 ディープエコロジーに関してですが、 過去(No.10)に、 -->『生物の保護はなぜ必要か』ウォルター・リード&ケントン・ミラー著 をあげて -->生態系にとって「正義」と呼べるものがあるとすれば、それは「多様性」である と述べられている、と紹介いただきました。 多様性が正義であると仮定すれば、ディープエコロジーの思想 、つまり「生態系全体のバランス」を重視すべきとする思想は 肯定できるところもあります。 少なくとも現状では生物の多様性は自然を安定させる力において 人間の科学技術に勝っていることは明白ですから。 ただ、この思想で「自然」をどう考えているのかがちょっと疑問です。 推論するに、人間も自然の1つと考え、人間が生存・繁栄等のために 環境を変化・あるいは保護することも「自然」の活動の一環、つまり 種としての人間の活動であると、こういうことでしょうか。 もしそうなら、人間が自然を破壊し尽くす結果となっても、やはり 種としての人間の活動なのであるとも言うことができます。 するとこの問題は結局人間に投げ返されざるを得ない。 つまり人間中心主義の見方に戻ってくる。 ということは「ディープエコロジー」は人間中心主義の立場でしか 成り立たないのでは?というのが(以前少し出しましたが)現在の私の考えです。 (※人間中心主義というものが私の考えているとおりのものならば、ですが。) 上下関係で言えば、「ディープエコロジー」的な「実践」は 「人間」社会の倫理・道徳の後にくる、ということになるのかな? (→つまり私はこれによって、人間社会の倫理・道徳を超越した「自然の倫理」を  となえるのは無理があるのではないか、という一応の結論に達したわけです。) また、多様性の維持とのことですが、現状では人間が強者の位置にあることは 明白です。その状態で、多様性の維持を志向する。ということは 強者としての立場を固定したいという意識もあるのではないか、と勘ぐってしまいます。 あるいは無意識に志向している。 それは、果たして「自然」だろうかと思うのです。 +++ さて議論が長くなりすぎた観があります。私の処理速度が遅くなってきた ことも、長引かせる原因になってきています。 今回も結論をまとめようと試みたのですが、とてもまとまらず、 安易な結論を出すよりは、宿題としてもう少し考えようと思います。 という訳なので、今後、回答・補足要求などは大歓迎なのですが、 お返事が遅くなるかもしれません。 多くのことをご教授いただき大変感謝しております。

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