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自由を得る経験
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- セックス観、これに関して意見ありますか?
セックスフレンドとしてお互いに理解して付き合っている関係でも、世間では女性が遊ばれていると言われるのはどうしてでしょう? あと、確かに女性は産む性であり、同等にセックスをしてもいつも妊娠というリスク(たとえちゃんと避妊を実行しているとしても、その完全性は100%ではないから)を背負っている限り仕方のないことかも知れませんが、性に関して女性の方が自由がないような感じがしていやです。 例えば男は女とセックスしたことを公言してもよしとされていて、女が自分の性体験を語るのはふしだらだとされる。 (自分のした性体験を豪語したい!と言っているわけではないのであしからず) 男も女も同じようにセックスを楽しんでも、どちらかといえば女の方が遊ばれているという風な表現をされる。でも実際女だって男が気がつかないだけで、男が女と寝て『ラッキー♪』と思っているのと同じように思っていることだってありえるはず。 娼婦とは遊んでも結婚する相手には淑女を求めるという考え方にも意義ありです。女に過去の経験があるのはそんなにいけないこと? 男の人は勝手です!っていうより、男ってこういう考え方をするもの!っていうものが嫌いです。 意見があったらください。
- 難解な文章2
飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。
- 普通自動二輪免許の進み方についての質問です。
こんにちは 現在普通自動二輪の教習を受けている29歳男です。 先日適性検査を受け初めての技能講習を受けてきたのですが、どうも技能講習のやり方に疑問を 感じざるを得なかったので質問させていただきます。 まず最初にやったことは ・バイクの引き起こし ・センタースタンドのかけかた ・教習における安全確認のルール ・エンジンのかけ方 この辺まではすごく普通だと思ったのですが次にいきなり ・ギアを入れて発進(入れ方の指導なし) ・3速で直線40km走行 ・一本橋 ・交差点の練習(自由に) と続けて行いました。 はじめの1時間目でここまでやるものなのでしょうか? いろいろやりすぎてとても疲れました。 続いて2時間目は ・外周3週(直線40km) ・1時間目の復習 ・急制動 ・スラローム 1時間バイクを降りずにひたすら乗り続けました。 講習が終わってバイクから降りるとクタクタでとても疲れました。 一応バイク経験はカブに乗っていて多少の予備知識はあったのですが大きいバイクは初めてなので今後もこんなスピードで進行していくと思うとついていけるか不安です。 車の時はもっとゆっくりした親切指導だったのですが2輪ではこれが当たり前なのでしょうか・・・・ 免許所持者の方アドバイスお願い致します。
- 某旅行会社初夢フェアー ハイナン島ツアー参加・不参加についてアドバイスを
某旅行社の初夢フェアで、ハイナン島2月末から4日間を3万円で予約しました。ホテルは4つ星ですが、キャンペーンクラスです。 2日は移動で、中日2日が自由時間です。 情報が少なく、滞在時間も短いので取りやめ様か迷ってます。大人2人です。 行かれた経験がある方や、相場を良くご存知の方のアドバイスをいただきたいのですが、価格的に見合う内容だと思われますか。 趣向としては、アジアの町の雰囲気が好きなのと、申込みしたホテルのランクで、ホテルライフを楽しむより、散策やビーチを楽しむ方が妥当だと思うのです。 シュノーケリングが趣味ですが、インターネットで調べたり、政府観光局に問合せたところ、シュノーケル向きではなさそうです。 現地に申込み旅行社の支店があるので、旅行社の担当者に情報があれば教えていただきたい旨申し出ましたが、取扱いのOPツアーの情報以外はわからない、と言う回答で参考情報が得られませんでした。 直ぐに出発1ヶ月前になりますので、どんな場所か、費用面で妥当か教えて下さい。(実は他に格安アジアのこの度の目玉と思われる商品、2件を予約したのですが、担当社員の対応の横柄さに不本意長柄キャンセルしてしまい、とても後悔してます。 簡単な手続きだけのお付き合いだからと割り切れば良かったです。) どうぞ宜しくお願いします。
- 神について何故ひとは哲学しないのか?
せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか? これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。 A. 神は 精神であるという勘違い。 ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。 ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力 にかかわっている。 これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは 信じるというおかしなことになる。 C. オシエを信じるという間違い。 ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的 な能力とその行為成果であるに過ぎない。 やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。 ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の 産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の 《人間の能力》信仰となる。 ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。 偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。 * 同じく神は 何でないか? について考えます。 1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。 2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。 3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。 4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。 5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。 6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。 この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。 これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。 7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。 8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。 非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。 9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ) ____________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ____________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。 10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。 と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。 11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。 12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。 《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。 13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。 物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。 14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。 15.エトセトラ。エトセトラ。 16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。 さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。
- 記者のマナー
最近は報道関係者の品位も落ちたものだと感じます。 JR尼崎事故の事は、暫く前に当欄でも挙がっていましたが、 私が経験した事を書かせて下さい。 小生は趣味で鉄道写真撮影をしておりますが、 3月末で地元の路線が廃止になり、 その「さよなら列車」乗務員に花束贈呈があると聞き、ホームで見守っていました。 ちゃんと絶好の場所をキープ、そしていざ花束贈呈、という時に、 後ろから、北陸中日新聞宇出津支局の記者が無言で割り込み、小生のレンズの真ん前にそいつの頭が! 思わず「どついたろか」と思いましたが、厳粛な式典ですので、何とか我慢しましたが。 ちなみに鉄道写真趣味の世界では、先に撮影している人の前のポジションに入るときには、邪魔にならないかの了解を得てから入るのが不文律になっています。 他の趣味者も、同じ記者かは知りませんが、「カメラにカバンをぶつけておいて、一言も謝罪しなかった」記者がいたと憤慨しておりました。 記者ひとりひとりは、決してひどい人ばかりでないハズですが、 マスコミ社内での倫理規定というのは存在しないのでしょうか? 「報道の自由」の御旗のもとには、何をしても許される、という傲慢さが見えて仕方ありません。 よろしくお願いします。
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- メディア・マスコミ
- okuyukiusu
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- 25歳女 大学卒後に一人暮らしがしたいのですが・・
現在6年制の国立薬学部に通う25歳大学生です。 高校卒業後、短期間働いていたので一人暮らし経験約半年あります。 私はとにかく早く自立したかったので、高校卒業後に働き始めたのですが、未熟さから人間関係で挫折してしまい退職。(今から考えるとイジメでした。) そして結局親の援助を得て浪人後、前から行きたかった大学に進学しました。 親は仕事の関係で遠方へ越してしまっているので、進学後私は祖父母の家でお世話になっています。 アルバイト代と奨学金はあるものの一人暮らしするお金もなく、祖父母や親には迷惑をかけっぱなしです。 祖父母にはとてもお世話になっているのですが、祖父は軽く介護が必要、祖母も体が年々弱くなってきており寝込むこともしばしば、私も家事はできるだけ手伝っています。 そのこともあってか、大学卒業後、私は一人暮らしをしたいと考えているのですが、祖父母にはなるべくこのまま家にいてほしいと言われます。(就職先もたくさんある便利な地域です。) 私も、祖父母のことは大好きだし、できることなら恩返しとしてこのまま手伝えればなと思うのですが、一人暮らしの快適さがどうしても忘れられません。 ちなみに、家事は手伝っていますが、料理は全然レパートリーが増えないし、(メニューが決まっているため)好きなものは作れない。気を使う。生活費のやりくりなど、同居では得られないような生活力をもっと身につけたい。 そして何より、一人で自由にスケジュールが組めるストレスフリーな生活がとてもうらやましいです。 一人暮らしをしていた時、寂しさや不便さももちろんありましたが私は毎日とても充実していました。 制約の多い今の生活にはやはりストレスを感じてしまいます。 卒業時私は27歳。できれば結婚は30までにしたいので、それまでに一人暮らしの経験がほしいです。(貯金もしっかりするつもりです。) 祖父母にこんなに親切にしてもらっているのに、とても恩知らずな考えかもしれません。 そして、この先祖父母が亡くなってしまった時、とても後悔すると思います。もっと一緒にいればよかったと。 まだ卒業もしていないのに先走った悩みですが、自分の将来像を描くためにも、卒業後すぐに出るのか、しばらく留まるのかを考えておきたいと思います。 一人暮らし経験者でなくても結構ですので、何かアドバイスをいただければと思い質問しました。 長文失礼いたしました。
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- その他(恋愛・人生相談)
- suvsurfsea
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- フリーター⇒就職
23歳女です。 20歳で一度事務をやりましたが先輩と合わず、やめました。それから今までフリーター生活です。 一応会社の保険にも入っていますし、税金も納めています。 怪我の功名というか、フリーター生活中にいい人にもめぐり合うことができました。いい友達もたくさんできました。なのでフリーターに後悔はないのですが、彼が人に「彼女さんは何してらっしゃるんですか?」と言われたときに悪いですし(いわゆるアミューズメント施設という所です)、私自身もこのままではいけないかなという感じもあり、就職活動をしようと思っています。 今の状況がかなり恵まれているだけに、踏み切るのに勇気がいりました。 今は時間が自由になるので急がしすぎる彼とも会えますが、実際問題こんなかたちで会えなくなってしまった経験のある方とかいらっしゃいますでしょうか…。 今は1月ですが、今更きっちりした会社に入れる自身もないですし、春を過ぎたぐらいの方がいいでしょうか?それとも、今のほうがいいでしょうか?あるいは、時期は関係ないでしょうか? それと、新卒ではない人間が就職活動をする場合、情報はどこから得るのがいいでしょうか? 今利用しようと思っているのは、ハローワーク、アイデム、タウンワークです。 フリーターの後に就職された方のお話を聞かせていただければ幸いです。
- イエスは 脱ナラワシ 即ち 異化作用を説いたか?
聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為を問題とします。 たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。 ▼ (マルコ福音 12:30) 『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。 ☆ そして ▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。 ☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう? 《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか? 《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめればよいのか? 世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。 ▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~ 6: キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7: かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、 人間と同じ者になられました。 人間の姿で現われ、 8: へりくだって、死に至るまで、 それも十字架の死に至るまで従順でした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても 《脱自・自己脱出》というようなことではないか? ただし 《脱自 エクスタシス 》と言うより 《実存 エクステンチア》と言ったほうがよいかも知れません。つまり その《自》は 世のナラワシに染まった自己のことでしょうか。 既存の社会にあって そこからは抜け出すことなく しかもその既成の慣習から自由になること。これか。 おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか? ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのであろうか? * そしてさらに ○ キリスト者の《脱ナラワシ》とは 異化作用である。か? 1. 《既成のナラワシから自由であること》。これは じっさいのナラワシを前にしてその中身を異化させてしまうこと これが さらに具体的な行為になるか? 2. 異化作用と言うと 何だかお笑いや芝居の演出方法みたいに受け取られるかも分かりませんが おそらく《ナラワシ――は ともかくも人間の意志行為の積み重ねとして成っているからには これ――を単純に否定する》ことにはならない。からして 目の前のナラワシの内容を ズラセてみせる。これか。 3. たとえば (あ) アマテラシテ象徴家は 万世一系と言いますが これは いま生きているわれわれ一人ひとりの誰にも当てはまります。万世一系として いま存在するのでない人はひとりもいません。 (い) ただし一般市民の場合には 男系によるそれではないようです。女系も含まれましょうし あるいは養子縁組による・つまり血筋は絶えている場合もあります。(後者の場合でも 血筋をたがえて やはり万世一系であることに変わりはありません)。 (う) つまりあるいは 男系による万世一系というのは しかしながら 側室によってその血筋がつづいているという実態があります。これは 現代では 好ましからぬ事態です。 (え) (婚姻は 互いにその連れ合いと言わば人格が一体になるほどのきづなですから どちらか一方のひとりだけの意志によっては ものごとを決めてはならないと考えられます。そういう人格関係があるなら 側室という人間関係は 人間の意志行為として成り立たない。と考えられます)。 (お) 《大政奉還》というのは アマテラス公民が 主権の存するスサノヲ市民らに対しておこなう行事でしょう。 5. というように 異化作用をおこなって ナラワシからの自由を得る。という例です。 果てさて あなたのお考えは?
- 新幹線のこと教えて!
私はパニック障害で新幹線など長く停車しない乗り物に乗れませんでした…が、この春休みに子供を旅行に連れてやりたく、思い切って乗ってみようと思います。 新大阪⇔東京です。のぞみかひかりに乗る予定です。前に新幹線に乗ったのは15年以上前で全く予備知識がありません。 ・新幹線の乗車券はどのようなシステムですか?金券ショップに売ってる新大阪⇔東京みたいなのだけでいいのですか?(自由席の場合) ・新幹線は途中下車はできますか?(閉鎖感に耐えられず電車から降りることもありえる。改札は出ない) ・ゆったりと行く場合、指定席を買った方が良いですか?混んでる時間、曜日は避けたいのですが、空いてるのはいつ?(どうしても東京から新大阪に帰りは金、土、日曜どれかになりそうですが…休日前、休日の夜は人多いですか?) ・人目につきにくい座席、広いデッキの近く、トイレに行きやすい席はどこでしょ?(何度もトイレに行ったり、苦しさで顔面蒼白になったり、うずくまってしまうことがあるため) ・座席は乗る前に飛行機のように選べるのでしょうか?選べるのならどの手段で?また、混雑状況は調べられますか? 経験のない方にはわかっていただけない病です。質問にも疑問を持たれるかもしれませんが少々のご理解を。お願いします。
- ぶらりと出かけたい。初海外。上級者頼む
えーと23歳契約社員です。 英語は喋れません。 3月末で強制契約満期で、4月からフリーになります。 以前からの夢で海外旅行に出かけたいんです。 今までの経験は、沖縄に3回。石垣、竹富、波照間島 突発で小笠原諸島にも行きました。 南大東島や、奄美諸島も気になりますが、ココに行く値段を 考えると海外に行きたいと思っています。 行き先が定まりません。 4月からの飛行機チケットを見ていたら、ヨーロッパもいいかな と思うんですが、何分初海外。今ひとつピンとこないというか・・ インドは何時か行きたいですが、今回ではないと・・・ こんな質問をすると、 旅行代理店に行けって言われるんですが違うんです。 オーロラがみたいとか、ビートルズの聖地に行きたいと言う 目的があれば、行けばいいのですが、違うんです 青い海が見てみたくて、自由になりたい。あと飛行機に一人で 乗ってみたいとの理由で沖縄に12日間旅行で得た感動は 一生忘れることが出来ません。 つまり。ぶらりと行きたいんです。 異文化にふれたいって言うか・・・ 無鉄砲に行くわけじゃないです。 行くとなったら最低限の下調べもしますし。 きっかけがほしいんです。 行った理由は後付でも良いって言うか・・・ 予算は20万円くらいで。 貴方様の貴重な時間を使っても、ココって国教えてください。
- 締切済み
- その他(海外旅行・情報)
- 3sin3sin
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- 結婚も考えていた恋人が2度目の万引き
6年付きあって同棲経験もあり、 現在は、わざわざ私と会うのに支障のない距離を選んで 一人暮らししている恋人がいます。 その恋人が、同じお店で2度目の万引きを犯し、現在拘留中です。 1度目はご好意で許してもらい 2度目で警察沙汰になったようです。 普段は温和で礼儀正しく、 例えば人を傷つけたりするような人ではありません。 私は、生活に不自由がないようにとか 休みには必ず会うようにするなど できるだけのことをしてやっていたつもりでしました。 でも、やはり満たされていなかったのだろうかとか、 甘やかしすぎたのかもしれないとか、 今考えると思い当たる節もあるのに 気づいてやれなかったことなど責任を感じています。 もともと相手の家庭環境は片親であったりとかなり複雑で、 家を飛び出してしまっている状況です。 そんなことも引き金になっているかもしれません。 現在は、仕事があまりうまくいかず、収入が少なかったこともあり 本人の性質、今までの諸々を結びつけると なんとなく万引き癖が付いてしまっている気もします。 私としては、周囲には黙っていて 一緒になれるだろうかなど色々悩みましたが、 自分の力はあまりに微力である現実、 たかが万引きと思わず、どうなっても周りの協力・理解を得て 再犯を防ぎ直してやるべきではないかと思い 自分の両親にも相談しました。 できることがあれば協力してくれることになりましたが 予想通り、別れるように諭されました。 現在は、私なりに考えて いずれ出てきたときには別れを告げ ひとまず生活を安定させるため実家に帰るように説得する。 ご家族のご協力を得て精神科に通ってみるとか、 更正させる道を考えるべきだと思っています。 しかし、あまりにも長い年月をともに過ごし 逆に支えてもらったことは多く、 突然のことで未練があります。 相手方に任せるのも不安があり、 私のせいでこうなってしまったのかとか、 見捨てられないという考えもあって、 悩んでおります。 同じような経験をされた方、 ご意見をお願いいたします。
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
- zz99
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- HSBC(香港上海銀行)口座開設についてしようと考えています
HSBC(香港上海銀行)口座開設をしようと考えています。といっても英語もほどほどで、香港まで行くわけではなく、代行業者に依頼し郵送で開設しようと考えています。 そこで疑問なのが、まず代行業者は個人でやっているようなところが多いのですが、問題なく口座開設できるのかという点です。代行費用は3~5万円程度なので、万一ダメであれば諦めがつく金額ではあるのですが、経験のある方いたら教えてください。 あと、銀行のことで気になる点を羅列しますと 振込などはインターネットで操作可能とのことなのですが、英語が高校や大学で学んだ程度でも操作できるのかどうか?(代行業者はマニュアルを整備しているようですが) 連名で口座開設が可能とのことですが、一人に何かあってももう一人が自由に入出金できるのか? 日本の郵便局で出金できるようですが、実際やっているいる人がいるのか? 現地に行かないと資金が動かせなくなるようなケースがありうるのか? 為替変動や政情不安など、ほかに考えられるリスクがあるのか? など、考えると疑問が湧き出してきます。過去の他の方の質問履歴にも似たようなものがありましたが、郵送で口座開設できるという意見とできないという意見が出ていました。 詳しい方いましたらご教授願います。
- 共産主義失敗の原因は何だったのか?
ベルリンの壁崩壊1989年から思えばもう20年も経つんだあ。いったい、共産主義って何だったんだろう。今でも共産主義者を自称する人は共産主義「失敗」の原因は何だったか?きちんと分析・評価・総括すべきだろう。その総括もせずに共産主義者を名乗るのは知的思想的怠惰以外の何物でも無い。そこで俺がなり代わってエラソーに分析することにする。以下、失敗原因と思われるものを経済・政治・思想・組織の4分野別に考える。 (1)経済原理:統制経済の失敗 かつてのソ連経済に典型的に現れたように、国家に経済を統制できる能力は無かった。アダム・スミスは依然として正しく、市場経済=見えざる手に委ねるのが経済合理性・効率性実現の唯一の道なのだ。 もっとも、社会的共通資本まで神の手に委ねるのは現実的でない。特に、食糧・エネルギー・水・環境。石油資源の枯渇や世界的貧困(食糧問題)を思うと国家乃至国家連合更には世界政府による政策的介入無しでは人類存続も危ぶまれる。 (2)政治原理:一党(プロレタリア)独裁の失敗 これは(1)より小さな原因に見える。なぜなら、ソ連は経済より政治の自由化を急いで崩壊したのに対し中国は政治の独裁体制を維持したままで経済自由化でなんとか存続しているからだ。要するに、人民にとっては政治より経済。食えてるうちは多少の独裁でも文句を言わないからだ。 封建体制が長かったり民度が低い国の近代化にあたって開発独裁はある程度必須だ。明治維新日本も言うならば天皇制開発独裁だった。そして、敗戦後「民主主義」日本もバブル崩壊までは自民党利権開発独裁に政治的合理性があったと言える。自社55年体制崩壊後の政治的混迷は開発独裁に代わる政治原理を発見できていないということかもしれない。 (3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗 我が敬愛するショスタコーヴィチの音楽まで統制、弾圧するなんてソ連はサイテーの文化国家だった。政治原理は開発独裁であっても思想言論文化は自由市場というスタイルもあり得たかもしれない(原理的には矛盾だけれど)。経済、文化は自由化、政治は国家崩壊による争乱を免れるべく多極化をソフトに排除するというのが、中国共産党が採るべき賢明な道である(その道を目指しているだろう多分、無理だろうけど)。 ちなみに、マルクスレーニン真理一元主義は西洋近代プラトニズムの必然的な行き着く先だった。最早、一元主義に未来は無い。時代は多元主義を要請している(「真理より道理、実在より現象」参照)。 (4)組織の問題:権力は必然的に腐敗する 権力に腐敗は必然。中国共産党が上記の賢明な道を歩めたとしても、汚職腐敗による権力の内部崩壊の可能性は残る。日本の開発独裁の最後の砦=官僚制、公的部門の改革が必要な理由もここにある。キャリアシステム及び天下りから手をつけよ。 以上を整理すると、ソ連共産主義の失敗は(1)~(4)の全てが原因、とりわけ(3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗が大きい。この点、実事求是、百家争鳴の経験がある中国共産党(結構、プラグマティズム、功利主義)は一見しぶとそうだが、(4)組織の問題:権力は必然的に腐敗するが弱点で、思想言論文化の自由市場をつくれなくていずれ倒壊する。 そして、日本は、公的部門改革と多元主義文化構築及び人口減少を経て世界のトップを走る中規模経済・文化大国になるだろう(と思いたい)。日本の未来は(1)反帝国主義(2)自由主義(3)多元主義(4)社会的共通資本の重視と共にあるのである。
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- 哲学・倫理・宗教学
- doyoubi777
- 回答数16
- 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。
(1) 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。 ▲ (創世記1:1) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃ ( Be-resit bara’ Elohim et-ha-samaim wa-et ha-’arec.) ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.) ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth. ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。 ○ bara' http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV (8) だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~ はじめに ことば(ロゴス)があった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?
- 飼い犬が失踪しました。帰って来るでしょうか?
庭に係留していた飼い犬が、2日前(火曜日朝)に失踪しました。朝、いつものように餌やりに行くとチェーンが切れていなくなっていました。切れそうになっていたのを見落としていたようです。夜中に庭のあちこちをうろうろした形跡は残っていました。 以前にも何回か切れたことがあるのですが、日中であったのと、庭の中でうろうろしていて外には行かなかったので事なきを得ました。 6歳のメスですが、避妊手術をしています。動物愛護法からすると虐待になるのかも知れませんが、事情があって散歩にもほとんど連れ出すことが出来ません。庭の用事でそばを通ったりすると、非常に喜んだりしていましたが、相手になってやることはありませんでした。犬自身はどう感じているか分かりませんが、第三者から見ると、全く可愛がってもらってない犬だと思います。 犬にとっては生まれて初めて得た自由です。行きたい所に行けます。鎖の束縛がありませんから。気の向くまま、足の向くままに当分はうろうろすると思うのですが、空腹になった時、いつも食べていた我が家を思い出して帰路に向かうのではないでしょうか? 江戸時代、琵琶湖の対岸で放した犬が我が家に戻ったという記録があるそうですが、犬には帰巣本能があるんでしたね?猫は野生化することは聞いていますが、犬はしないと聞いています。 それとも食べ物を求めて放浪し、一生、家には戻らないということも考えられるのでしょうか? 同じような経験をされた方、犬の習性をご存知の方、どんな些細なことでも結構ですから教えていただけませんか?
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- 犬
- 0123gokudo
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- 国語の質問(難)
飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。 問題 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 1空港における未知なる他者がどのような同一性を有しているかを探る反復的な接触は、一過性のゆえに互いの無関心に収束し、主体は自己の同一性の拘泥する必要から解放されるということ。 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 問題 時差による以上によってはじめる身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 かなりハイレベルな文章です。どなたか問題の解説お願いします
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- luut
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- 大人になるということは、大事なものを失っていくことなのでしょうか
よろしくお願いします。 大人になるということは、大切なものを失っていくことだという考えにとらわれ、人生を前向きに考えられません。 自分が大人になれば親も亡くなり、友人たちも一人ひとりと 去っていく。 若い頃には持てた根拠のない自信も、自分の能力の限界に気づき、 仕事や物事に対して臆病になる。 恋人ができ、ある程度深い仲になっても、失恋してしまえば、その経験に囚われ、二度と同じ思いはしたくないという考えから、本来ならすばらしい経験であるはずの恋に対して臆病になっていく。 もうこれ以上傷つきたくない、嫌な思いをしたくない、という思いにとらわれてしまえば、成長できない人間になってしまいます。 今、自分は成長したい、しなければいけないと感じながら、上記のような思いに囚われ、身動きができません。 大人になるということは、責任とともに金銭的自由を得ることかもしれないし、色々な人と出会え、成長できる機会を自分で作れるということかもしれない、という明るい部分を見ようとしているのですが、 どうしても、昔のような自信も持てないし、資格試験の勉強をしようにも、受からなかったら自分の能力がないからだ、後輩が持っているのに自分は試験で落ちた、自分は能力のないダメな人間だ、と思うのが嫌でなかなか勉強にも身が入りません。 (大学受験や、大学の頃は余計なことを考えずにそれこそ一生懸命勉強できたのに・・・) はっきりいって私のような根暗な人間にとって、どのように思考を変えれば、自分の成長のためにたった一度の大切な人生を使えるのでしょうか? アドバイスをください。よろしくお願いします。
- 女性や結婚に魅力を感じません
始めに軽く自己紹介をします。 ・28歳男性 ・中学、高校は男子校 ・某国立大学工学部・院卒 ・現在は田舎にある研究所で勤務 ・女性と付き合ったことなし ・読書、ドライブ、サイクリング、ジョギング、ジムなどが趣味 ・独身寮暮らし ・兄妹は妹が一人(結婚して子供もいます) 最近、両親から結婚を急かされるようになってきました。昨年に半ば無理矢理両親にお見合いを セッティングされて渋々受けましたが、相手との価値観の相違でお断りしました。 両親もこれに懲りて結婚を急かなくならないと思いきや、またお見合いをしたらどうかと言われて います。 正直、私は今の生活に満足していますし、女性や結婚に魅力を感じません。また、お見合いという システムも好きではありません。 ・カタログスペックで相手を判断している感じがする ・妥協や打算の産物ではないのか? あと、前のお見合いで失敗した時のトラウマがあります 恋愛経験の有無で人を判断する、恋愛経験がない人を否定する、そんなことを感じました。 http://okwave.jp/qa/q8865944.html ここでの回答者も恋愛経験の有無で人を判断する価値観を持つ女性が多いと見受けられます。 価値観は人それぞれなので私は否定しませんが、こういった価値観を持つ女性とは相容れない し、パートナーとは到底なりえないと思います。 また、結婚そのものにも魅力を感じません ・時間や金に自由がなくなる ・離婚率も高い、最近は女性の不倫も美化?されるような風潮が芸能界にはある ・離婚すれば自分の稼ぎや貯金を半分持って行かれる 離婚前提で結婚する人はいないと思いますが、生涯離婚しないと言い切れる夫婦なんかいない でしょう。 けれども、両親の気持ちも分からないでもないです。妹に子供ができて次は私、なのでしょう。 今まで勉強や仕事を必死こいて頑張ってきてそれなりの職と収入を得ることが出来ましたから、 次は結婚をして孫を見せてやるのも親孝行なのかなと感じています。 私は中学、高校と男子校で、大学も女性が1割もいない工学部・院でやってきましたので、 学生時代のピュアな恋愛を経験することなく20代後半まできてしまいました。 この歳になって学生時代のような恋愛を経験することは無理だと思っています。 ですが、カタログスペックで判断するお見合いのようなシステムも嫌です。 職場での出会いは田舎の研究所勤務で女性は掃除のおばちゃんくらいなので無理です。 ここを見るとサークル活動での出会いを勧めている人を見られますが、勝算は疑わしいです ・出会いという下心第一で入っても相手は見つからない ・そもそも興味がないサークルに出会い目的で入ることが不純 ・そんなサークルに入っても長続きしない ・私の趣味に関連するサークルに出会いを求めて入ったとして、失敗したら気まずくなって サークルをやめざるを得なくなると思う 質問 1,女性にも結婚にも魅力は感じない 2,両親の気持ちも分かるし、親孝行もしたい 3,お見合いのような腹黒い品定めは避けたい 4,質問文からは外れるけど、この掲示板では女性の過去については受け入れろ、それが 男の器だ、的な回答が目立ちますが、私のように勉強や仕事が忙しくて恋愛経験がない過去 は「何かあるんじゃないか」「ワケありなのではないか」「ひょっとしてホモなのではないか」と 否定的な意見が目立ちます。 女性は自分の過去はやりたい放題で、かつ相手に受け入れを強要するくせに、男性の過去は ワケありと否定するのでしょうか?かなり視野が狭くて自己中心的だと思います。 お見合いで会った女性も私のことを勘ぐっていましたので、ネットだけじゃなくて現実社会でも 女性はそのような視野が狭くて身勝手が多いのかな?と思いました。 親孝行をしてあげたいが、女性の身勝手さ、結婚のデメリット(離婚の恐れ)を考えると 結婚に二の足を踏んでしまいます。つたない文章で申し訳ありませんが、どうしたらいいでしょうか?
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- 志望動機・自己PRの添削をお願いします。
地方在住で転職活動中の20代半ば女性です。 転職活動を初めて間もないのですが、4年ぶりに書く志望動機と自己PRに自信が持てません。どうか添削をお願いいたします。 ■応募先 個人経営の税理士事務所(従業員10名以下)で税理事務員(税理士補助業務)を募集。資格は「簿記知識のある方」、また「新卒と同等の処遇」とありました。 なお、私は税理士を目指しているわけではありません。資格も簿記関係は全商簿記2級しか持っていませんが日商簿記3級に向けて勉強中です。(パソコン関係はMOSのエクセル、ワード、アクセスおよび基本情報を持っています) 何かおかしい箇所があればコメントをお願いいたします。よろしくお願いいたします。 ■志望動機 現在、広報および総務事務として勤務しておりますが事務としてのスキルアップを考え、再度簿記の勉強を始めました。勉強が進むにつれ、会社の経営に直結する簿記の重要性や数字が合ったときの達成感など簿記の面白さに改めて気づきました。また、税理士事務所に勤務している知人女性も結婚を機に、一度退職したものの現在同じ事務所で再び勤務しているという話を聞き税理事務員という職業に魅力を感じました。今後はさらに簿記の知識を深め、今までの経験で培ってきたパソコンスキルも活用しながらお客様に満足していただける仕事を行いたく応募いたしました。 ■自己PR 入社後、4年近く広報および総務事務として勤務しておりましたが、その中でも各書類作成や、お客様のフォロー、主担当者への気配りなどは今回募集されている税務事務員の仕事内容に通じるところがあると思います。そして、学生時代は個人経営の食品加工場で4年間接客販売を経験し、日々の売上管理を任されるなど雇用主から信頼を得ており、足の不自由なお客様には車まで商品を運ぶなど常にお客様の目線に立って行動して参りました。また、ビジネスマナーなど自分で疑問に思った点は自らセミナーに参加し、現在の応対で合っているか、など曖昧になっている部分を常に客観的に見て正してきました。未経験ではありますが、今までの経験を活かし、貴所に貢献できるよう全力を尽くしたいと思っております。
