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村上春樹現象は 異常ではないでしょうか?

 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。  けれども かれの小説をもし大事に読むとすれば それは 哲学の観点から言って 異常ではないでしょうか?  ここで哲学の観点というのは 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》を至上命題とするという意味です。  ○ 村上春樹の文学作品には 人間が出て来ません。  ○ 死の状態で面白可笑しく生きる。死んだようにして さまよいつつ生きる。大いなるもやもやの中に いつも いたい。――といった情況を描いているのみである。  小説を材料とすると 主題が拡散しますから 今年にかれがおこなった例の《〈エルサレム賞〉受賞演説》を例にとります。  ▲ (村上春樹) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php  ・・・私の心の壁に刻まれているものなのです。   「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、   私は常に卵側に立つ」ということです。  そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?    この暗喩が何を意味するのでしょうか? いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。    しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。  そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。    私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。  私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちここで  ○ 卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を なぜ 見なくてよいのか。  ○ そうだけれど 変えて行くと言いたいのなら そういう趣旨で 表現しなければいけない。  ○ われわれは 卵であるのだから ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。  より一層妥当性のある評価を問い求めます。ご見解を明らかにしておしえてください。

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noname#96295
noname#96295
回答No.28

うん、ホフマンもそうですが、1830年以降に多く描かれだしたディスコミュニケーションや個の世界、室内の系譜ですね。 人間の生活様式にそれらが生じる以前は、情報網や生産消費形態によってモザイク状に「繋がる」群衆というのはありませんでしたし、 それにともなう特有のコミュニケーションの分裂もなく、 個という人間も捏造されず、室内という意識によって独特に醸される宇宙もないのですね。 この系譜では、ご質問の要点にある「人間を描く」という視点そのものが手段を変えたというところでしょうね。 繋がっており、断絶している群衆の存在、こんにちでは人間一般の存在、というべきでしょうが、 これを書かずには人間を描くことにならないという感性が延べ180年にわたり培われ、 これを自己の問題と受け止める読者の感性も同様に培われたということです。

bragelonne
質問者

補足

 amaguappa さん ご回答をありがとうございます。ありがたいですね。かゆいところに手が届く式で 講義を受けることが出来るわけです。みなさんに感謝!!  いろいろしゃれたお応えが出来ないものかと 或る程度考えましたが 今回は ありがたく啓蒙をしていただいたとお受け取りするのみです。  ★ うん、ホフマンもそうですが、1830年以降に多く描かれだしたディスコミュニケーションや個の世界、室内の系譜ですね。  ☆ 思えば 最近【Q:オタクは 他者性を避けているか】を問いましたし いまも【Q:日本人は 死んだのでしょうか】を問うています。  オタクという社会現象もおそらく この新しい――と言ってももう二世紀近くですか――思潮の系譜にあるということでしょうか。あるいは 後者の質問にて もうあからさまに言いますが どうしても理解し得ず応答の仕方について見当がつかない内容の投稿をもらっています。  その以前にも一例あったのですが 一般化してそれは相対主義であるように感じました。(独我論がからむかどうか)。今回は 相対主義につけ加えるところの礼儀と道理の尊重 でしょうか。礼節はできるだけ重んじ実際にそう努める。けれどもひとの思いや考えは いっさい相対性のもとにあるから 世の中のことについて分かったようなことは決して言うな。でしょうか。  ★ 繋がっており、断絶している群衆の存在  ☆ 自由につながり 自由に断絶しているのなら 自由に話し合っていけるとも思えますが うまく行かない部分も出てくるというところでしょうか。  ★ 室内という意識によって独特に醸される宇宙  ☆ が居心地のよいと言う人びとも 類型を成して現われた(?)。  ★ 個という人間〔が〕捏造され  ☆ 自由を自由に使えないと言いますか 自由に使い過ぎているというのでしょうか。  ★ ディスコミュニケーション   ☆ わたしが憶測するには だとすると 話がずれていても 自由につなげることを知っており 話がまともに返って来た場合にも 自由に断絶させるすべを知っている。自由電子は動きまわっているが 相手との間で 結合することもなく分子とはならない。  ★ これを自己の問題と受け止める読者の感性も同様に培われたということです。  ☆ もう出来あがっているのですね。  ふうむ。こちらは浦島太郎状態ですか。  でも いまのわたしをつらぬくしかないでしょうね。つらぬくなら 変わるべきところは変わることができるでしょう。  村上作品に違和感をおぼえるひとが ここで二人いらっしゃったのですから。  ですから  ★ この系譜では、ご質問の要点にある「人間を描く」という視点そのものが手段を変えたというところでしょうね。  ☆ の変わった手段によって 浦島太郎次郎・・・たちと同じ視点同じ中身が描かれ伝えられたと了解し得ればよしということになるでしょうか。(中身は 完全に変わり得ないということでもないでしょうけれど)。  ふうむ。  ★ 1830年以降  ☆ ですか。追い追いすすみます。ありがとうございました。

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その他の回答 (27)

  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.17

tapparaです。 認識が物事を決定つけるなら読者がそれぞれ好き勝手いい本だ悪い本だといってるうちはいいでしょうけど、マスコミなんかがこの本はいい本だという一定の方向性を確定しそれに皆流される。だから今一度きちんと評論すべきでは。なるほどですが・・・ 評論するのもいいかもしれませんが今度はこの小説はこういうものだって評論に引っ張られてその評論に付随う読者は多く存在しそうですけど・・・ この小説はおもしろいって論評=おもしろいはずだ。おもしろく感じなければイケない?おもしろい。なんて感じで。 この小説はこういう命題を掲げている=そんなこと小説から読取れなかったけどなぁ・・・でもなんかかっこいいこと言ってるしそれ使おうっと。=それが自分の感想。 流行や流行で読む人が振り子を大きく揺らされることはないんじゃないですかね。表面的におもしろいかどうかで終始するだけでしょう。 一方深く読み込む人であれば自分なりに考えるでしょうから暗愚に盲従するようなこともないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 tappara さん ご回答をありがとうございます。  今回は やや堂々めぐりになってきていませんか?  ★ 流行や流行で読む人が振り子を大きく揺らされることはないんじゃないですかね。表面的におもしろいかどうかで終始するだけでしょう。  ○ 少々の脱税――自分たちは 節税と言っていますが――は 市役所や税務署じたいがしているのだから 《流行》である。  ○ この流行に合った行動を取っても 大した問題ではない。  ☆ といったところでしょうか? もしこの論理にすり寄るならば こうなります。   ○ 原則は 市民として法律を守りましょう。しかし慣習としてまた流行として 世間の成り行きというものもある。その程度の法律違反は する場合が多い。ただし ばれたら だめだし それは むろん自分の責任である。  ☆ ということになりましょうか? でしたら――でしたら―― 村上春樹についても そのようなところまでは評価を 一般的に しておくのがよいでしょう。  ○ 人間性の問題としては くだらない内容である。しかし 喜んで読む人びともいる。それは 自由だ。  ☆ この程度の《うわさ》を持っていても いいのではないですか?  ★ 一方深く読み込む人であれば自分なりに考えるでしょうから暗愚に盲従するようなこともないでしょう。  ☆ 《暗愚に盲従した》から 年金事情がここまでのようになったのでしょう? 《深く読みこむ》かどうかの個人の問題におさまらない場合があると言っているぢゃないですか。  小泉なんとかという人に盲従する人びとに 暗愚でなくとも 盲従せざるを得なかったのではないですか?  ノーベル賞でも取ってごらんなさい。佐藤栄作が取ったって だいじょうぶでしたが そういう批判の目も筆も 今度はだいじょうぶでしょうかという懸念です。  ★ 表面的に  ☆ でも その風潮に合わさなければならなくなる部分がおおきくなります。わづらわしい限りでしょう。

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.16

質問者様がおっしゃっているのは《卵》というものがあるにしても、《卵》を御旗にして、すべてを《卵》として触れることを拒絶する姿勢が敷衍することが問題だとおっしゃっているのでしょうか? そして、村上春樹の小説が”すべてを《卵》として”しまうくらい、あまりにもあいまいであるが故に、そして、(文学として)肯定的に受け入れられているがゆえに、あたかも”すべてを《卵》”とする姿勢を肯定するがごとき雰囲気が蔓延することが、とっても問題だ、とおっしゃっているのでしょうか? で、質問者様が懸念されるような事態(上記のように私が推定したこと)をお前はどう思うのだ、というのであれば、それは問題がある、と答えます。(それが成功しているかどうかは別として)は、”すべてを《卵》として”というのとは違うというのが私の印象です。 彼のスタンスは、質問者様のようなすばらしい方が、世の中の仕組みが上手くいくように、あるいは、人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います(と思うところが、熱狂的ではないけれどファンである証!?)。 以下、与太話ですが、彼の作品群について、 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『羊をめぐる冒険』までは大好きでした。気持ちとしては問題提起された状態でした。なので、それに続く作品で彼なりの答えが出てくるかと期待した(私は弱いのです)ものの、結局、いまのところ、そうではない作品ばかりのように感じている、というのが正直なところです。『ノルウェイの森 』が出たときは、悲しかったのを覚えています。それ以降はなんというのかレコードの針が飛んで、同じ旋律がくるくる回っている感じです。

bragelonne
質問者

補足

 moumougoo さん たいへん関心を惹くお話を――ご回答をありがとうございます――おしえてくださって感謝いたします。はじめにうまいぶどう酒を出して 酔いがまわったころには より少なくうまいのを出してもよいのがふつうなのに あとから取って置きを出してくるのですね。  二点ですね。  おおいなる《与太話》をうけたまわりました。もしほんとうは moumougoo さんと同じくこのように 後期の諸作品ではがっかりしたという感想を持つ人びとが なのに世間の《空気》でそのことを言い出しにくいとしたなら それは それも 問題です。  どうでしょう? 村上春樹という人間は 人間問題について初めはほんとうに真剣に考えていたでしょうか? これも文学および哲学の課題であると考えます。つまり 村上というひとの正体 ですね。どういう経過で こういう作品を書くようになったか。経過は何もないから そうなのか? 世の中をいったいどう思っているのか?  そこで二つ目のお話ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  彼のスタンスは、質問者様のようなすばらしい方が、世の中の仕組みが上手くいくように、あるいは、人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います(と思うところが、熱狂的ではないけれどファンである証!?)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 人間存在を高めるような通念を世の中にもたらしたとしても、やはり、押しつぶされる《卵》があって  ☆ という視点を どのようにかれが持ったか。あるいは かれ自身が その《卵》のひとりであったか? あるいは わたしの述べる《人間存在を高めるような通念》のすばらしさだけでは なぜ足りないのか? (へへっ)。かれ自身が そういう境遇にあったのか?  だけれどもですね。だけれども 遠山の金さんに惚れないのはわるだけですが この bragelonne さまにはわるも惚れますよ。たいていのわるは。いちいち議論を聞かなくてもですよ。話はしたあとです。  最初は反発もありますし 途中でも反抗期になって反発を受けます。けれども 嫌いだ反対だ全否定するという反応で 惚れている場合もありますから。――だって わたしの述べることは みんなその相手のいいところを明らかにする作業なんですから。批判という行為は そういう作業だと思いますよ。  ★  ”すべてを《卵》として”というのとは違うというのが私の印象です。・・・〔すべてではなく〕やはり、押しつぶされる《卵》があって、それを文学という手段ですくい取りたいといっているのだと思います。  ☆ これは――つまり あらためてですが――  ○ 九十九匹よりも一匹を気に掛ける。  ☆ という命題です。つまり哲学の問題です。その村上春樹版ないし文学作品形式版ですね。  二つの反応を持ちます。一方で 何も出来なくとも その人のそばにいる。とにかくそばにいてやる。というおこないについて 必要だと考えます。他方で それでは 甘やかしすぎだという見解です。子ども扱いになりかねない。  ○ 世間から片隅に追いやられ押しつぶされる《卵》を文学という手段ですくい取れるか。  ☆ ですから わたしの答えは 村上文学では現状維持作戦だと見るというものです。よしもとばなな文学は だいじょうぶだからあなたは消えなさいという声であり政策だと見るものです。  《迷える一匹》については 家族・身内・友だちの問題だと一たんは言うべき側面と 広く社会政策の問題だという側面とがあると考えます。よしもとばななは この一匹に直接に声をかけています。村上春樹は 家族らを介して声をかけるというかたちになるのではないかと考えます。  舌足らずの箇所が わざと あります。

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.15

質問者様の願うように、盛り上がってきていますか? 私が言っているのは、哲学なら、彼の書く失われたもの(喪失感?)を、ちゃんと記述できるのか?ということです。 それができなければ、問題定義ができないので、実践として事態の解決はできないと思います。 記述できないのであれば、あなたのいう哲学こそ、かれの戦おうとしていることに対して無力なのではないしょうか? 記述できるというのであれば、なぜ文学があるのか、もう一度よく考えてみてください。 というかんじですがどうですか?

bragelonne
質問者

お礼

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。いわば日本のためですので ご投稿を必要なかぎりで よろしくお願いいたします。  ★ 《失われたもの(喪失感?)》という問題の定義  ☆ これは 《我れに還る》というときの《我れ》つまり《わたし》だと思いますよ。  ○ 存在論です。  ○ 《わたしがわたしである》 あるいは 《わたしがわたしする》という現実の命題。  ○ もしくは これを・つまり《存在》を 関係性において捉えた場合です。  ○ したがって たとえば 信頼関係などです。  いえ ですから そのような問題ないし命題を 村上もその作品の中に 取り上げていると思いますよ。そういう方向性はあるのぢゃないですか。  ▲ 風 ないし 風の歌。あるいは 象が平原に還る日。  ☆ などと言ったくらいですから。そしてその主題を すべて どうしたことか 雲霧の中に放り込んでしまう。  しかも この作品とその読者が 一部の範囲にとどまっているのなら 問題はちいさい。あるいは 範囲というより 社会現象になるかどうかですね。なれば 広く評価の対象になるでしょうし 批判の矢面に立たされるのも 必然です。  ところが 外国で評価されたとなると 日本人は もうその評価に従わなくてはならないと思いこんでしまう傾向があるのではないですか? とうぜん この評価については 吟味し検証しなければいけない。そういう問題です。  ★ なぜ文学があるのか、もう一度よく考えてみてください。  ☆ 哲学による評価とは別に この作品を文学として賞味する人びとがいることは 何ら扱っていませんよ。干渉するものではありません。そうではなく 社会現象として問題にしています。  * 《喪失感》そのものを 哲学が記述できるか? という問いでしたら たしかにその記述は 文学としての表現のほうが 現実感をもって描くことができると思います。哲学は 一般論としての分析になります。  文学は 現実の人間に即したそのときそのときの一回きりの思いや行動をあつかうわけですから きわめて現実性を醸し出せます。――ただし その方向性を見失っている状態や情況だけを描き出した場合には どうなんでしょう? 微妙に そこでは おもしろいかどうかで 見解が分かれるのではないでしょうか? 哲学からいけば それではだめだと見るでしょうね。

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  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.14

tapparaです。 哲学ということでしたので個人的な小説に関する自己評論は意味を成さないとの思いで概念的な事柄に焦点を当てているつもりです。回答を見ていると文学レスのようなきも・・・ 正直、質問者さんの言う哲学の意味がいまいち把握できてません。 中身はないが多くの人を引きつける村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険ってそんなニュアンスでしょうか? >言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。 これは書き手側です。しかし、その固定認識を読み手が同じように受け取ることはありません。 >世の中は 《固定的な認識を生む》のが必然であり不可避であるとすれば――つまり いまそのように成りつつありますね 僕は不可避であるとは思えないのです。不可避どころか書き手の固定認識を読み手がそのまま受入れること自体不可能と考えます。言葉は変換機であり書き手の体験を読み手の体験とするものではありません。 (痛いと伝えた時、読み手が感じる痛さは書き手の痛さではなく読み手自身が経験した痛さをそこにあてはめているだけです) すなわち、読み手の数だけ解釈がありそれ故に大まかなベクトルが揃うことはあっても完全に統一されることはない。それすらも容認できないのであれば表現自体が危険なものであり全ての人間は殻の中で自己表現をしなければ。 >より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか これは宗教ではないでしょうか?経典に解釈ってところでしょうか。 それだったら確かに怖いですね。 読み手はもっと自由ですよ。エロ本からでも人生を読取る人だっています。(//▽//)

bragelonne
質問者

補足

 tappara さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち、読み手の数だけ解釈がありそれ故に大まかなベクトルが揃うことはあっても完全に統一されることはない。それすらも容認できないのであれば表現自体が危険なものであり全ての人間は殻の中で自己表現をしなければ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。読者の自由にまかせておけといったところでしょうか? ですから 一番の問題は この《読者》の範囲が 潜在性において 広がったと社会が見なした場合でしょう。  ★ エロ本からでも人生を読取る人だっています。(//▽//)  ☆ というように 社会の一角をになう文学という世界のそのまた一部の層を読者とする作家であり作品である場合には おそらく問題はないでしょう。エロ本がそのように一部であるか もしくはひとりの人間にとって生活のごく一部であるかであるならば 問題がないように。  たとえば北野武の映画は 外国で賞を取って評価されても 日本では鳴かず飛ばずです。変な事例かも知れませんが これなら《一部》の事柄と範囲におさまっています。そうではなく社会現象にまでなれば 評論をしてもよいしする必要があるのではないでしょうか? そしてそのような批判も  ★ 読み手はもっと自由ですよ。  ☆ の《自由》に属するはづなのです。  ★ 書き手の固定認識  ☆ かどうかを超えて 社会現象としての一定の認識があり これが《固定》するという場合が考えられます。それに対して 今から言論活動を始めておくことは 必要だと考えたわけです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  中身はないが多くの人を引きつける村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険ってそんなニュアンスでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 微妙にちがう点もあるので 細かく述べます。  ○ 《中身はない》《多くの人を引きつける》こと自体は どうでもよいです。  ○ 中身がないのに 社会現象となって話題に取り上げられると メディアなどの力は放っておけなくなる。これが 問題です。北野武に もし定評がつくと ことは大ごとでしょう。それと同じです。  ○ 《村上春樹の小説は大勢を麻痺させ、一定のベクトルへと読み手を誘うから危険》 これは おまけとして文学論をつけ加えたのみです。でもそういう根拠をも示す必要があるのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか  これは宗教ではないでしょうか?経典に解釈ってところでしょうか。  それだったら確かに怖いですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま これは 次につづく文章を合わせて見てもらわなければ たしかに語弊があります。  ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ところが そのように一方の極から他方の極へと――ちょうど 起き上がりこぼしとは 逆のかたちで――振り切ったり振り返ったりするのを放っておくこと自体が 問題なのではありませんか? その問題に対するささやかな抵抗としての努力を 一介のどこの馬の骨とも分からぬばかがおこなったら そんなファシスムのような言論活動はやめておけとおっしゃる。   つねにそのように ファッショの振り子がはたらく社会のあり方こそが 問題なのではないですか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * 変わった問い方をすれば こうです。tappara さんなら エルサレム賞の選考委員やらそのほかの外国の村上読者に対して 作品の評価を どのように説明するか。堂々と いい作品ですよと言えるかです。これなら単純で分かりやすいのでは?

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noname#155689
noname#155689
回答No.13

> もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの > 正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが なぜ村上春樹がここまで評価されるのかを疑問に思う私としても 期待していたのですが・・・ 哲学カテゴリーでは集まらないのかも知れませんね。 > 新しい作品が 異常な売れ行きだそうです。 発売前に増刷が決まったことが噂を呼んだと思います。 しかし一方で、発売前には本書の内容は秘密にされていました。 つまり、話題先行で売れているのであって 本当の内容評価はこれからだと思っています。 (私はまだ読んでません。様子見です?) とりあえずAmazonのカスタマーレビューでは凡庸な感じです。 天邪鬼な視点かも知れませんが エルサレムのスピーチは、日本では派遣社員問題とシンクロして 反貧困支持の文脈で評価されていると(少なくとも私は)感じました。 > それにしても世界が注目し出したのですよ。 セカイ系という文脈では、アニメやゲームは欧米で成功していると 言われるモノが多い。 海外ではある種の目新しさがあるのかも知れない。 (この辺りに詳しい方からの回答を期待していたのですが・・・) あとは流通力の問題ではないかと。 > 赤ん坊ぢゃあるまいに > なんでこんな当たり前のことを言われなければならないのですか? > それぢゃ 文学ですらないのではないですか? 私は、村上春樹からは「ファッション」小説以上のモノを感じとれません。 しかも、センスはあまりよいとは思えない。 村上龍はどうですか?と言ったのは冗談で こちらのQ&A(ANo.3)をお覚えではないから?というフリだったのですが http://okwave.jp/qa4731792.html > 私が龍さん本人は好きなのに、作品は読めない、その理由はこれですね。 > そして「何故読めないのか。。。」と自責の念に駆られるわけも判りました。 > どうにも己の「弱さ」を突き付けられるようで情けなくなるのです。 村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは このような感性を共感させることなのかなと思いました。 私はどうしても共感できないのですが それは例えば > 私が小説を書く目的はただ一つです。 > 個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。 綿谷昇をあのように扱っておいて、よく「個々」の精神が持つ威厳さ などと言うもんだなと、どうしても反感を覚えてしまいます。

bragelonne
質問者

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 CUE009 さん ご回答をありがとうございます。  どうもわたしは 健忘症が CUE009 さんに集中して出てくるようです。最初の出会いのことを 二回目に忘れていましたし マーケティング関係なのに 建築方面だと言ってしまったり(これはあとで気がついたのです) 今回は yuk・・・さんの質問でのご回答をもはやすっかり失念していました。そこでは《叙事詩》だというので わたしは出しゃばってその種の投稿をしていますね。そして 龍と春樹。いや   ▲ 己の「弱さ」を突き付けられるよう  ◆ (No.3) 自分たちの弱さを許容すること  ☆ このこと自体は むしろ誰もが体験すると言ってもいいわけで しかももし  ★ 村上春樹の「私は常に卵側に立つ」というのは / このような感性を共感させることなのかなと思いました。  ☆ のごとくに 抒情的文学現象が伝染するなら ちょっと待てよとなるのでしょうね。当たり前ですからね。  これも健忘症の口だったのですが  ★ 綿谷昇:(ヰキぺ)〔主人公の妻である〕久美子の兄。東京大学卒、イェール大学大学院に留学などの後に東大大学院を出て学者となる。離婚歴のある独身。  ☆ なる《邪悪な存在》でさえ 自分としての卵の側に立つのですから 話が幼稚すぎるということになります。  『ねじまき鳥』のほうは あまり覚書きを取らなかったのです。きょうこの名前を聞いたとき思い出せなかったのですから。  ■ (或るブログ:グーグルの最初に出ていた)~~~~~~~~~~~~ http://homepage2.nifty.com/sober_reality/bookreview/nejimakidori_chronicle.html  (α) 主人公の対となる邪悪なもの、欲望や死や権力と云ったもの象徴として綿谷昇という人物が登場します。・・・つまり、癒しや生命を象徴する善なるものと、死・欲望・権力といった邪悪なものの戦い・・・なんですね。  ・・・  もちろん、最後は主人公が勝利します。  夢の世界にある、クミコ(主人公の妻)がとらわれた、闇に支配された部屋で、主人公は綿谷昇を倒します。現実の世界の綿谷昇は、そのとき公演中に脳溢血で植物人間になります。  そして、クミコは彼の息の根を止める。  (β) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  作品を読めば、綿谷昇が邪悪な存在であることは書いています。  でも、彼はどのように邪悪なのか、具体的には分からないのです。  邪悪な力で、加納クレタを汚し、クミコの姉を汚し、クミコを汚した。  でも、どんな風に汚したの?  それが、描かれていないもどかしさを感じます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (α)が  ★ 綿谷昇をあのように扱っておいて、よく「個々」の精神が持つ威厳さ / などと言うもんだなと、どうしても反感を覚えてしまいます。  ☆ の一端にかかわっているのですね。そして(β)を読んで わたしは これなら忘却しなくてもよかったのにと思いましたが 失念していました。  そしてわたしの場合 これの第三部で クミコが主人公に文章で連絡を入れるところがあったと思うのですが その箇所が 何ともいただけない。つながりも脈絡もないと思いました。人間性に立つ(つまり哲学にも基づく)文学を完全に放棄したと受け取りました。その後は 読んでいないのですが 『カフカの海辺』で何も新しいことはないと一度確認しました。  あとは 世界がどうなのかですね。短絡的に言えば 日本人読者化しているのか。よほど見逃していた長所があってそれを見出したという可能性は ちょっと考えられませんが なにはともあれ 謙虚になって 批判・擁護いづれの側も 自由に発言していければよいと考えます。  つまりけっきょく 変だよ・おかしいぢゃないかという声が ふつうは 一部に聞かれるものですよね。それがあればよいという物言いでもあるのですが どうでしょうかねぇ。

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  • moumougoo
  • ベストアンサー率38% (35/90)
回答No.12

>もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが どうなったのでしょうか。これからどうなりましょうか。 では、といっても、熱心な読者ではないので、弱々ですが。 国語の問題風にいえば、 【問1】 ”卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実”が述べられています。本文中の文章を用いて、その理由を述べなさい。 【解答欄】 「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。」から、すなわち、私たちのすべてが卵ではなく、 「「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。」から、壁でもあることを作者は問題視している。 だと思います。つまり、個々の中の部分の話を彼はしているのではないですか? 「卵である自分の側に立つ」のではなく、私たちの中の卵の部分に立つといっているのだと思いますよ。 彼は、その相克を書くのではなく、二つの存在として書いているがゆえに、卵の部分が例えば《僕》のすべてのように見えているだけではないですか? 《システム》が「私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ」ないためには、卵の側にたつこと自体が最低限必要なことではないでしょうか? 彼は告発します「「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し」ていると。彼は《システム》をただ取り除けばよいといっているのではありません。しかし、文学的な表現だと思いますが「自己増殖」という言葉を用いて、私たちがコントロールできない《システム》のもつ影の部分の脅威を表しているように思われます。 まあたとえば、”お金が人を変える”といった場合に、その人が死んでしまうわけでなく、その人の中の何かが変わってしまったということだと思いますが、彼は、その変わってしまった何かの側に立つといっているのではないでしょうか?質問者様は、それに対してお金を使っているのだからおかしい、とか、金融システムを変える答えを提示していないからおかしい、といっているように思われます。彼は「変わってしまった何か」をわれわれは明示的に認識(表現)することができす、穴ぼこ的な失ったものとして、表現しているのだと思います。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa39578.html という感じです。それを穴ぼこの表現としてではなく、《僕》の一部ではなく全てとして捉えて、彼が、人間存在の在り様として表現していると捉えるのは、奇異に感じます。 といったところでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 moumougoo さん ご回答をありがとうございます。  ○ ひとがお金ならお金によって 変わってしまったというとき そこで失ったものを《何らかのしるし》によって表わし 物語を編む。  ○ つまり変わる前の自分を 《わたし》なり《自然本性》なりと規定せずに あいまいに《穴ぼこ的な失ったもの》として――その物語の中で――表現していると見なしたとします。  ☆ と どうなるのですか?  ★ それを穴ぼこの表現としてではなく、《僕》の一部ではなく全てとして捉えて、彼が、人間存在の在り様として表現していると捉えるのは、奇異に感じます。  ☆ というほうが 奇異に感じられるのではないですか? どうでしょう? 《わたしとその自然本性 つまりは 精神と身体 特には自由意志》 これは   ★ 人間存在の在り様として表現  ☆ すべきなのではないですか? どうなのでしょう?    それゆえ 多くの場合 個人にとっては《壁》として迫ってくる《社会システム》も あからさまな皮肉交じりですが 《定額給付金》を支給するということもおこなうわけでしょう? 失った人間性を せめてこのささやかな相互援助によって 取り戻していただきたいというのでしょう。  人間にとって 存在の全体 人格の全体であるものを いまは《穴ぼこ》であるから 腫れものに触るべからずのごとく そおっとしておいて その代わりに 膨大な物語を編みましょう。その曖昧模糊とした世界に みなさん 浸ってください。ということになるでしょうか?   文学としてなら 勝手にやってくれたまえです。哲学としてなら 何を寝ぼけたことを言ってんだいとなります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まあたとえば、”お金が人を変える”といった場合に、その人が死んでしまうわけでなく、その人の中の何かが変わってしまったということだと思いますが、彼は、その変わってしまった何かの側に立つといっているのではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 当たり前です。しかも あいまいにぼかす必要は何もない。しっかりと――哲学としてなら―― 語らねばならない。しかも  ○ 《わたし》とは 何か。  ☆ これを誰もが ほんとうには 知っています。欺かれたなら そこで 我れに還ります。あやまつなら そこで 我れに還ります。その《わたし》をわたしは それまで愛して来なかったわけではないことは じゅうぶん 分かるものです。  なぜ これをわざわざ もやもやの雲の中に放り込まねばならないのですか? 哲学が それはけったいなことだよと ひとこと口をはさんでもいいだろうし ここは はさむべきところなのです。  ☆☆ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (α) 自分たちの弱さを許容すること  ☆ と(β) 《か弱い卵であるわたしたちがつくった〈壁〉を その〈わたしの内包するもの〉から取り除いて いわば自分に縮こまること》とは 別だと申し上げているはづです。どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《システム》が「私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ」ないためには、卵の側にたつこと自体が最低限必要なことではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 赤ん坊ぢゃあるまいに なんでこんな当たり前のことを言われなければならないのですか? それぢゃ 文学ですらないのではないですか?

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noname#155689
noname#155689
回答No.11

昨今「セカイ系」と呼ばれるカテゴリーがあるのをご存知でしょうか? ご存知という前提で話をすすめさせて頂ければ > 卵であるわれわれ一人ひとりが壁をつくり支えているという現実を なぜ見なくてよいのか。 > そうだけれど変えて行くと言いたいのならそういう趣旨で表現しなければいけない。 > われわれは卵であるのだからただ卵である自分の側に立つというだけではおもしろいはづがあろうか。 上記は私には完全に「セカイ系」批判に見えるのですが違うでしょうか? (すでにあちこちで言われていることですが)私は 私小説というのは多かれ少なかれ昔からセカイ系だと思っています。 そして、セカイ系の需要は、常に一定量(相当量)あると睨んでいます。 昨今、セカイ系需要に応えているのは マンガ、アニメ、ラノベだと思いますが 村上春樹は数少ない、文学でセカイ系需要に応える作家であり 「文学」というスパイスが、ある種のセカイ系愛好層には 非常に魅力的に映るのだと思います。 簡単にいえば > 卵であるわれわれ一人ひとりが壁をつくり支えているという現実をなぜ見なくてよいのか。 セカイ系の流儀だからです。 > 変えて行くと言いたいのならそういう趣旨で表現しなければいけない。 そういう方には村上龍はいかがでしょう? > ただ 卵である自分の側に立つというだけでは おもしろいはづがあろうか。 あるんだと思います(私には面白くありませんが)。 哲学ということでとりあえずこんな回答をしてみます。 (少々一般論的でしょうか?) 文学?として村上春樹を読むと 何か「隠し事」をされているような嫌な気分になります。

bragelonne
質問者

補足

 CUE009 さん □好。好久没見阿。感謝□的答応。(□:ni = あなた)  ★ ただ卵である自分の側に立つというだけでは・・・(私には面白くありませんが)。  ☆ そうだったんですか。(一般論としてです)。何も村上ファンだと思っていたわけではありませんが 一般にあまり あるいは ほとんど批判の声は聞こえて来なかったのです。次のブログのコメント欄で讃嘆の声の多さには驚きます。  ● http://d.hatena.ne.jp/nakamu1973/20090217/1234789406  ★ 文学?として村上春樹を読むと / 何か「隠し事」をされているような嫌な気分になります。  ☆ そうだったんですね。わたしは ひょんなことから 見究めようという特殊な目的をもって読んだんですが はじめは この  ★ 何か「隠し事」をされているような  ☆ について それは なぞがあると受け留めて 読み継いでいったのです。人間について語ることがあるであろうという可能性のことです。『ねじまき鳥クロニクル』の第二部まで 期待と希望を持ち続けました。第三部で 崩れ落ちました。むろん それまでの作品における可能性としての良さも 崩壊しました。  ★ セカイ系  ☆ と聞いて ヰキぺで知り なるほど 《卵と壁》の演説が みごとにこれに当てはまる〔→次の(α)の定義〕と思ったものですが 小説については 分かりませんでした。  ▲ (ヰキぺ:セカイ系) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB  (α) セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり  (β) セカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。  (γ) セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群のことであり  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (γ)でも 後者の《意志の喪失》が小説の主人公らに当てはまり 前者の《世界をコントロールしようという意志》は ですから ないでしょうね。(β)の《自意識過剰》もないように思えます。  ★ 村上春樹は数少ない、文学でセカイ系需要に応える作家であり / 「文学」というスパイスが、ある種のセカイ系愛好層には / 非常に魅力的に映るのだと思います。  ☆ もう少し 《わたしが生き わたしたちが共に生きる》命題にかかわろうとした痕跡くらいは 認めてやりたいと 逆に思いましたが 言葉の綾にすぎないかも分かりません。  ★ 私小説  ☆ のすべてが――つまり《わたし》と名乗って語り継ぐ物語のすべてが―― 狭い世界と狭い視野におさまるとは思いませんが  ★ セカイ系の需要は、常に一定量(相当量)あると睨んでいます。  ☆ たぶん確かに いくら人気作家だと言っても そのように一部の世界におさまっていたなら それだけのことだと考えます。社会現象になれば 別だということだと思うのです。  ★ ラノベ =ライトノベル  ▲ ヰキぺ:出版社がつけていた名称としては「ジュヴナイル」「ヤングアダルト」または「ジュニア小説」などがある。  ★ 村上龍  ☆ については解説を読んで反応するわけには行かず あしからずご了承ください。情報としては 政治経済についても発言し始めたように思っています。その意味でなのですね。  もっともっとファンからの非難の投稿と熱心な読者からの正面からの反批判が集まるかと思っていたのですが どうなったのでしょうか。これからどうなりましょうか。  それにしても 世界が注目し出したのですよ。どうなりましょうか。

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  • tappara
  • ベストアンサー率37% (260/694)
回答No.10

No1です。村上春樹現象が読者側のものだってことは前に書きました。 僕が言いたかったのは、結局のところ小説なんてものは読者の受け取り方が全てであり、究極のところ書き手の小説とはこうあるべき論なんてものは必要ないということです。自身が読取った感想こそが読み手側の全てじゃないでしょうな。 必要ないとは語弊を呼びそうですが・・・読み手にとっての全ては書き手がいかに崇高な目的を持って書いているかではなくあくまで読手側として受取ったものですよね。(この受取ったってのも実際は書き手からうけた読み手のインスピレーションなんでしょうけどね) 書き手さんには敬意を表しつつも「表現しなければいけない」「おもしろいはづがあろうか。 」といった断定的な物言いに少し違和感がありました。 小学生に相対性理論の論文がいかに優れているか(それ自体がとてもすばらしいものであっても)を説いた所で意味はありません。まったく理解できない以上その人にとってはその書物は何の価値もない。 だったら絵本のシンデレラのほうが価値のある本でしょうね。そのシンデレラで受け取る読み手の教訓として玉の輿を狙うであろうが、効果的な見返し方であろうが得るものがあるでしょうね。 質問者さんの回答者への補足の中でも、村上春樹の小説に対する解釈があらねばならぬといった断定的な書き方で書かれています。 小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたらそんな窮屈なものはないでしょうね。 質問は書き手主体なのかもしれませんが、であればなおさら書き手ごとに小説への思いは変るのでは? 言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。こういった作業を信念をこめて行うには一人の人間が行える幅はかなり限られるでしょうね。一般論ではダメなわけでしょうから。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ こういった作業を信念をこめて行うには一人の人間が行える幅はかなり限られるでしょうね。一般論ではダメなわけでしょうから。  ☆ わたしたちは ほんの少し――ほんの少しです 決して大きな壁ではなく どこかからささやく小さな声を聞いたように思い その声について行って そのほんの少しの隙において―― 目隠しをされている。のではないでしょうか?  目隠しが取れると ひとりの人間が行なえる範囲は そうとう広がるようですよ。原子力というぢゃないですか。もしその一人人間からの井戸端会議が手をつなげば 孫悟空に如意棒ですよ。  はっきり言えば ムラカミハルキは 現代人にとっての阿片です。癒やしが与えられ 現状維持には持って来いです。  作家も読者も 何らわるいことをしているわけではありません。しかも たぶん 眼つぶしの粉を振りかけられていて その粉の空からの散布をやり過ごそうとするための秘策なのでしょう。たぶん 将来にとって・社会にとって それは 悪に変わるでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 tappara さん ご回答をありがとうございます。  煮詰まってまいりました。tappara さんの・作品に対する評価じたいの問題ではないですが 評価のあり方をめぐる問題としてです。すなわち  ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全体としてまづは 文学と哲学とをきちんと分けて ここでの質問をおこなうべしというご見解を――つまりは 従って 前提としての問題を――明らかにしておられると受け取りました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ です。今回その焦点は 次にあるでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  質問者さんの回答者への補足の中でも、村上春樹の小説に対する解釈があらねばならぬといった断定的な書き方で書かれています。  小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたらそんな窮屈なものはないでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは このご指摘をめぐって  ○ 文学と哲学との区別の問題  ☆ だと考えますし その内の哲学の見方に徹して 質問を掲げています。つまりは  ★ 小説が義務感や責任感一定の解釈論の中で読むものだとしたら  ☆ を 一方で文学としてその自由の幅いっぱいに楽しむという姿勢があるでしょうし 他方で広く文章表現について・その限りで思想(生活態度)について 哲学として どう捉えるかという姿勢も あるはづです。両方があるはづです。そして 文学の問題はここでは扱っていないのです。(間接的に触れているとは思いますが 焦点はむろん 哲学の問題です)。  ★ 相対性理論の論文がいかに優れているか(それ自体がとてもすばらしいものであっても)  ☆ という科学の問題があります。それ自体として何の制約も受けずに自由な研究が奨励されますし 援助されるところです。他方で この自然科学の成果が 社会一般にどう受け取られるか あるいは その成果としての知識がどのように応用されるか これは ひとり科学の問題ではなくなります。  それと同じように 文学としてどのように創作されようが またそれらを楽しもうが 自由です。それは 文学の問題です。しかもその問題と領域を超えた世界つまり社会にとっての問題も あるのではないですか?  たぶんわたしの評論が かなり妥当な内容を伝えているので 面喰っておられるのではないかと考えますが わたしは何も わたしの評価一色で世の中を塗りつぶそうとは思っていません。一石を投じるだけです。  おそらく tappara さんならとうぜん そんなことはお分かりである。知りきっておられる。ですから 《哲学の視点から自由に批判を加えることに何ら問題はない》ということまでなら 何のうれいもなく合意なさるはづです。  ところが bragelonnne の言うことは その原則論から一歩踏み出して 評価じたいを明確すぎるほどに述べている。ここまで作品を裸にするような評論が世に出れば・またそれによって世の中の受けとめ方が 今度は別の極へと振り子のように振りきってしまうならば それは おおごとだと見ておられる。ということではないのですか?    さて  ★ 言葉を紡ぎだすことはそこに固定的な認識を生むことになるかと思います。  ☆ こうして もし世の中は 《固定的な認識を生む》のが必然であり不可避であるとすれば――つまり いまそのように成りつつありますね 村上の評価において―― より妥当な内容をもった評価で 極端に振り切ったほうが ましではないですか?  ところが そのように一方の極から他方の極へと――ちょうど 起き上がりこぼしとは 逆のかたちで――振り切ったり振り返ったりするのを放っておくこと自体が 問題なのではありませんか? その問題に対するささやかな抵抗としての努力を 一介のどこの馬の骨とも分からぬばかがおこなったら そんなファシスムのような言論活動はやめておけとおっしゃる。   つねにそのように ファッショの振り子がはたらく社会のあり方こそが 問題なのではないですか?   つまり そういう社会であるからこそ 村上のような《ぬえ》の世界に むしろ勤勉な人びとは そのうれいと悲しみの吐けどころを見出す仕組みになっている。それは 自分たちの怠慢を そのまま映し出しているのではないですか? それが いまの日本――そしてあるいは近い将来の世界――であるのでは?

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

追伸まで ☆ わたしの場合 《死を受け容れよ。その死の観念をも包みこんだ大いなるもやもやの中で生きよ》というふうに受けとめたのですが 重なっていますでしょうか? ● 重なっていますね。私の感覚では死も生の一部であることを認めてはいるが完全には受け入れていないのでもやもやとしていると考えているのです。 生と死に境界はないのですが、死の明確な意義やビジョンが描かれていないので生と死の狭間文学といいたいのですね。 例えば、芥川の「くもの糸」はあの世の世界の話ですがこの世のことのようにリアルに描かれていますね。そのようなリアルさがないもやもやの世界ですね。つまり、単にドアの外がその世界で現実のようなそうでないようなもやもやですよね。 挨拶も無く死後の世界に踏みこんでいることは確かですが、例えば、三途の川を渡らない状態でいまだ死を完全に受け入れてはいないなと感じるのですね。それがもやもやの理由かなと思うのですね。 まあ、あの世の世界を真摯に描いてしまうと本は売れないですから作家の知恵としてあえてもやもやなのかもしれませんが。 しかし、こんなもやもや本が売れるのですからまっとうな作家は気落ちしてしまいそうですね。

bragelonne
質問者

お礼

 主人公は――ユミヨシさんを介して―― 妻・有紀子とともに 一たん新しい人となっている。従って この新たな出発点に立っては 現在や将来のことだけでなく 過去のことも 回想の中にではあるが 自らの経験現実として――主観真実の限りで―― 再形成されていくのである。取り返しのつかない不信の関係がその過去に見出されたとしても 語り手はは もはや無力感のもとにでも 自らの物語(歴史)を再形成していく。これが 風の歌の問題である。  なおも執拗に発現する欠落感とその欲望は すでにここでは風の歌を聞いているかに思われる自らの新しい経験現実の中の一部分である。  風の歌は じっさい 一個人の主観真実の域を出ない。それは大きく虚構をとおしてしか 表現されえない。あるいは まぼろしである。よくも悪くも そういうものである。  有紀子(主人公の妻)は 島本さん事件のあと 主人公にこう問いかけている。    《そしてあなたは何も尋ねようとしないのよ。》    ・・・       有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。《私は思うんだけれど》   と彼女は言った。《あなたは私に向かってまだ何も尋ねていない。》     (『国境の南、太陽の西』 pp.289&291)  風の歌の問題は もしシンライ関係にかかわるのならば それは 関係であって その過程なのだと思われる。話し合い 尋ねあわなければいけないというわけである。上の問いかけを承けて    《明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど 君   はそれについてどう思う?》と僕は尋ねた。    《それがいいと思う》と有紀子はそっと微笑んで言った。         (同上・承前)  ユミヨシさんと生活を共にしていくといった経験現実の過程が 類型的に同じ形態として 島本さん事件を経つつ ここで有紀子との家庭生活となって 落ち着きを取り戻すと言ってよい。そのような再形成が描かれる。ただ《現実だ。ここにとどまる》と宣言するだけの踏み出しでいいわけである。風の主題は 全く単純である。  物語は最後ではなおも不安が 顔をのぞかせている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば、芥川の「くもの糸」はあの世の世界の話ですがこの世のことのようにリアルに描かれていますね。そのようなリアルさがないもやもやの世界ですね。つまり、単にドアの外がその世界で現実のようなそうでないようなもやもやですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうもこのあたりの事情が 絡んでいるようですね。この《リアルさ》を村上ないしその読者は かたくなに嫌っているのでしょうか。――それで 思想(生活態度)がはっきりとしたものになればいいのですが。  ちょっと質問者が出しゃばりますが 《現実感》のある作品がひとつありますので 紹介しておきます。反論を待ちたいと思う意味でも。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  『国境の南 太陽の西』。わたしは この作品で作者は 主人公なる語り手をして ほとんど作者自身が現実に語るのと同じように 語らしめるようになったとまづ思った。  《現実に語る》というのは たとえば作者が 対談者を前にして会談で自らの考えを述べる如くという意味あいである。ただし 《作者》といっても 人間としての村上春樹と作家としてのかれとが考えられるから ここではなお 後者なのだとは思われる。  いづれにしても 初めからの主人公の系譜は続いている。この作品では 主人公の《わたし探し》の巡礼の旅が ある種の仕方で 落ち着きを見出した。すでに以前の作品でも部分的には シンライ原則という現実に立とうとするかに思われたが この《国境の南 太陽の西》なる霊場(?)(どこだ?)に来て その姿は ほとんど一つの作品の全体にわたって 拡がりをも持ちつつ 安定した様子を見せた。  そんなシンライ関係の具体的な相手は やはりとりわけ妻の有紀子である。  もしそうではなく 単純に 風の歌をめぐる旅に出て シンライ原則の問題で発展途上にありつづけたという見方に限定しつづけるなら この作品では 一つの到着点に大きく近づいたのだという段階である。けれども 出発点が 時間過程にあって常なる動態であるなら 主人公は 自らの出発点に立ったと言ってよいと思う。  既に結婚して仕事をこなし家庭を持っている主人公にとって 幼馴染みの島本さんに出会うことは 確かになお これまでの旅にかかわる精神分析のことがらにからんだ問題が 残っていたことを物語る。この島本さんとのかかわりで 自己に重大な欠落感が残っていたとするなら それは 相手のほうではなく むしろ全く逆に自らのほうにである。  ただし この島本さんと主人公との関係で 一方的に主人公のほうに欠落感があり これに促され 促されるままに ついにその実際上の関係に走った とは思わない。それは 二人の間の問題だと言ったほうが よい。  だが 作者はここで主人公を すでに基本的に 動態としてのシンライ関係を妻との間にきづいて来ている情況に置いている。その夫婦としても家族や身内としても 《幸せである》と繰り返し語っている。ということは 主人公じしんの《欠落感》やあるいは一般に人間そのもののたとえば《無意識》や《井戸=イド》などという問題が どこまでもわれわれの生についてまわるという現実の一環であることを 示唆しているように思われてくる。  いや ひょっとすると 作者は そのように無意識問題の重要さを主張したいと思っているのかもしれない。実際にそのような主題を追究しているのだとは推し測られる。そのためにも 少年時代に遡って 島本さん以外の女性との関係も 筋の展開にとっては克明にもと言えるほどに 報告したりしている。  まさにシンライ関係を結果的には明らかに裏切ったことになるその相手であるイズミにかんしては 決して脇役とは思えないほどの位置が与えられているようである。このイズミ問題のほうが むしろ主人公やその夫婦にとって ついに埋めることの難しい深い《井戸》となっているとさえ考えられてくる。  主人公は このような経験現実に立ち会っているのであり そこに《風》の問題が展開されている。だから 逆にいえば ここでは 段階と情況とが かなり新しい確かな基盤の上に立っていると言ってもいい。それは 『ダンス・ダンス・ダンス』の結末で ユミヨシさんと現実の共同生活を始めようとするに到ったことが 基礎となっているであろう。そしてそうとすれば 詰まるところ この作品ではやはり主人公の人間関係における出発点は 妻・有紀子とのシンライカンケイ〔の動態〕にあると見てよいであろう。もしくは そう見なければならないであろう。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

参考程度の回答です。 私も良くはわからないんですが、村上さんの小説、実際は映画を観たのですが、その感じでいえば、「生と死の狭間」に逃げ込んだ人の心を描いてるように思いますね。 「生と死の狭間」といえば比較的に「現在と未来の間」というハンナアレントの哲学本もありますが、まったく違うものですよね。 「生と死の狭間」ということですが、生にこだわれば現代社会のシステム(市民社会)に囚われ、死に囚われれば死後の闇(これも壁ですね)に恐怖する。 そこで、生から逃げ死から逃げると生と死の狭間で生きることになりますね。 この生き方が卵じゃないですかね。 現実から逃げたいが、さりとて死にたくない。ことを含めて題材にすると「生と死の狭間」文学が出来上がりますね。 似て非なるものに宮崎アニメ(文学といってもいいですね。)がありますね。宮崎アニメは西洋的にいえばゴブリン(いたずら好きのあかるい妖怪)の世界ですね。これは妖怪の世界と人間の世界は明らかに区別されていますが、人気ありますね。同じように暗い妖怪の世界を描いた漫画も人気がありますね。 妖怪と人間ではなく卵の人間が「生と死の狭間」を生きるということかなと思います。 ヨーロッパでは、黒魔術の流れがありますから、魔女や魔術師の世界は好かれるのですね。イギリスではウイッチ本は大人気ですね。かれらも現実と魔女の世界を行き来するのですね。 日本も漫画やアニメを基礎として生と死を行き来するなんとも不可思議な世界がもてはやされるようになったのかなと思う次第ですね。 こういう考えや思想は、現実のシステムに入り込んで努力しよう、良くしようという前向きな思想ではないですね。 それ故、卵を割って現実のシステムに立ち向かうという実践哲学とは相容れないもののように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 心理情況や日常の事態が落ち着いたところで その経験事態を超えるようにして 死の主題が 実感され腑に落ちることになったようなのである。けれども もっと単純に次のようにわたしなら表現したい。    死と生とは別だ。    死は死で 生が生だ。    生は死に何のかかわりもない。    死は死で死にかんする風が吹く。・・・  これは 両者が《対極存在》であるかどうかの観点とはちがう。対極存在の捉え方は 経験思考と論理の問題であり 《風》はここにおさまらない。この理性におさまらない。たとえ風――つまり《息・息吹き》として 《聖霊》である――の想定をしなくとも 互いに対極であるかどうかは その論理思考を超えては わからない謎があるという意味である。従って その捉え方で決めつける必要がない。  いま・ここなる経験現実にあって ユミヨシさんとの朝が朝であり それはやがて夕べとなりまた次の朝を迎える。こういった時間過程に足をつけるのだと言ったとき 生が生となり 死はもはやその生とは関係のない死となったのだと捉えたい。そのときには 《空気のかたまり》は 削ぎ落としている。  すべて 非現実(非思考・非対象)のことは 風に任せた。このとき 生は 確かに考えてみれば 有限なる時間過程なのであるから その生の限界としての死は 起こり来ると思われる。けれども そうだとしても またそうであるからには そのような死は死で 言うとすれば 死のほうでの風が吹くことになる。  同じ風であるはずだが 同じであるなら余計に われわれは――つまりここでユミヨシさんと主人公とはそれぞれ―― その風のもとに 生きている。生きていることを見出している。死は 別の話だとなる。  《生は風の一部である。そしてもしお望みなら 死のことも風の一部である》とならなければおかしい。お望みでなければ 死は われわれにとって どうでもよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  ○ 卵は割らなきゃオムレツは出来ない。  ☆ と言ったりしますが これぢゃ効きませんね。  ★ それ故、卵を割って現実のシステムに立ち向かうという実践哲学とは相容れないもののように思います。  ☆ という結論をお聞きして まづは どうしたものかと思いました。    ★ 映画を観たのですが  ☆ これは 昔の知識のままで言えば 『風の歌を聴け』の映画版でしたか? これを見たのですが なんとも捉えどころのない内容だったのを覚えています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・生にこだわれば現代社会のシステム(市民社会)に囚われ、死に囚われれば死後の闇(これも壁ですね)に恐怖する。 そこで、生から逃げ死から逃げると生と死の狭間で生きることになりますね。  この生き方が卵じゃないですかね。  現実から逃げたいが、さりとて死にたくない。ことを含めて題材にすると「生と死の狭間」文学が出来上がりますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合 《死を受け容れよ。その死の観念をも包みこんだ大いなるもやもやの中で生きよ》というふうに受けとめたのですが 重なっていますでしょうか?  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  死にかんしては 初めの『風の歌を聴け』から出ているが たとえば『ノルウェイの森』では わざわざ目立つかたちで こう書かれていた。    死は生の対極としてではなく その一部として存在している。          言葉にしてしまうと平凡だが そのときの僕はそれを言葉にしてでは   なく ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。      (『ノルウェイの森』〈上〉=文庫版 p.48)  この死にかんする命題は 西欧では歴史的な伝統の一つで よく知られていると 解説にも触れられている。 ただし 《汝自身を知れ》や《メメント・モリ》にしても それらは人間存在が有限な時間過程にあるという重要な内容を指し示すと思われるけれど 一般論であることを免れない部分を有しているのであろう。ここでは 引用をつづける。    ・・・文鎮の中にも ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボー   ルの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみ   たいに肺の中に吸いこみながら生きていたのだ。    そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在   として捉えていた。つまり 《死はいつか確実に我々をその手に捉える。   しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで 我々は死に捉えられる   ことはないのだ》と。それは僕には至極まともで論理的な考え方である   ように思えた。生はこちら側にあり 死は向う側にある。僕はこちら側   にいて向う側にはいない。    しかしキズキの死んだ夜を境にして 僕にはもうそんな風に単純に死   を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極   存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれてい   るのだし その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるもので   はないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は そのとき同   時に僕を捉えてもいたからだ。    僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っ   ていた。       (『ノルウェイの森〈上〉』承前 )  親友の《キズキを捉えた死は そのとき同時に僕を捉えてもいた》というのは その歳でのわれわれにとって 何の嘘でもなければ誇張でもないと思われる。しかも 《風》の物語としてなら――つまり《風の歌を聴け》と言うのなら―― この表現のままでは まづいとわたしには思われる。  それは まづはかんたんに言って ただの心理情況を言い表わしたにすぎないからだ。そしてそれ以上の内容と重みがあるというときにも いまの限り 人事(人為)としての経験事実の領域にすべておさまる問題のはづだからだ。経験事象の観察と実感としてなら 《死は生の一部である》と言っても いいわけである。しかも それだけのことだと言えると思う。  これに対していささか図式的な理解を持ち出すとすれば それは 《ユミヨシさんとの朝》で およそ初めて主人公が《現実だ》と思った情況でこそ そして《羊男》にもかかわってこそ 死の主題が 自らの経験現実の中に捉えられるようになったということに まず もとづくと見なければならないようである。

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    ここ二年で300冊ぐらいの小説を読みました。 伊坂幸太郎が好きなのですが、少しもの足りません。 好きな点は、出だしから興味を惹き付けられるミステリー的な要素と、 問いかけるような人生観、哲学が明確に描かれているところ。 しかしテンポ良すぎて、少し深みが足りません。 もっとしっかり描いてほしいと感じます。 「オーデュボンの祈り」「モダンタイムス」「ゴールデン・スランバー」が好きです。 一方、村上春樹はいけすかないけど、実力は認めざるを得ない、感じです。 「1Q84」の緊迫感のある感じや、悪夢にうなされるぐらいの暗喩。 伊坂幸太郎には暗喩がないですね。 しかし村上春樹の嫌いのは引用です。 古典作品の引用が多すぎて、イヤミな少年を連想します。 この二人の間の作家、作品ってないものでしょうか? 両方とも読んだことのある人に回答をお願いします。 実は私自身、小説を書いていて、自分はこの2人の間のポジションかな、と考えているのですが、 近い作家がいるのならぜひ読みたいと思って質問しました。

  • 村上春樹の読み方は?

    最近、村上春樹氏の本をはじめて読みました。 「海辺のカフカ」です。 今、「ハードボイルド」を読んでいます。 村上氏にはまっている方・好まない方 それぞれの意見が聞けたらな~と思います。 例えば、村上氏の個性が出ている作品が何か また、理由もお聞かせ頂ければ嬉しいです。 (ネタバレは全く気にしません。) ちなみに私は、少ししか読んでないんですが 結構好きな感触です。 いずれ全部読むつもりでいます。 「自分流 村上春樹の読み方」なども、もしあったら あわせてアドバイス頂ければと思います。

  • 村上春樹の凄さ

    村上春樹の凄さは どの辺りにあるんでしょうか? 私は「1Q84」「ノルウェーの森」「多崎つくる」 「海辺のカフカ」を読みましたが 「海辺のカフカ」を読んでみて 伏線や謎が未回収で終わってしまったので それ以後、村上作品は読まなくなりました。 あまり私は小説を読むタイプではないんですが、 辻村深月さんの小説を7冊くらい読んだことがあったんですが、 辻村作品の方が伏線や謎をきちんと回収して終わるし、 その意味では完成度やレベルが高いんじゃないかなと思いました。

  • 村上春樹さんの小説はどちらでしょうか?

    「文学小説」と「小説」の違いは何でしょうか? 区別して話す方の「文学」の定義を教えてほしいです。 また村上春樹さんの小説は「文学」ですか? 「風の歌を聴け」のみを僕は読んだことがあります。 この小説で「文学」な部分を教えてほしいです。 他の村上春樹さんの作品で文学小説があればおすすめしてほしいです。

  • 村上春樹さんの評価をお聞かせください。

    村上春樹さんの評価をお聞かせください。 先刻発売された「1Q84」は初版が50万部、既に20万部の増刷も決まっているそうです。平成の作家でこれほどの売上と人気を誇る作家さんは稀でありますが、はたしてそういった結果に相応しいお方なのでしょうか?ノーベル文学賞にも名前が挙がったと噂で聞きましたが村上春樹さんの作品はそれ程に高い評価を受けるものだと思いますか? 日本の文学と言えば私は夏目漱石や太宰治、谷崎潤一郎などが浮かびます。日本の昔の小説は使われる漢字も難しく文章の質感も硬い印象を受けますのであまり日本の現代人には手に取るのに抵抗があるのではないかと思います。代わって村上春樹さんの小説は一見した小難しさはなく、また文章雰囲気や文調としても、すぅーっと話に入れる、海外小説に似た印象を受けます。村上春樹さんが人気なのは表現力や思想の面の他に、日本独自の文学にある堅苦しさや小難しさの無さにもあるのだろうと思います。読み易い。 現代人にとって村上春樹さんの作品は手に取りやすいものであるかとは思います。それもこの人気の要因だとは思うのですが、ここまでの人気を誇る程の作品だと皆さんは思われますか?何がこれほど読者の心を掴んでいるのでしょうか。どういった点が文学として作品として優れていると思いますか?お聞かせください。 また、村上春樹さんと肩を並べる、またはそれ以上の力量のある近年の作家をお聞かせください。 回答お待ちしています。

  • 村上春樹の小説

    私は村上春樹の小説が大好きです。 村上春樹の小説を何冊か読んだことのある方に質問したいのですが、あなたの好きな作品はどれですか? 長編でも短編でも構いません。 私は、ノルウェイの森・羊をめぐる冒険・世界の終わりとハードボイルドワンダーランドが好きです。

  • 村上春樹さんのよさはどこでしょう?

    村上春樹さんのノルウェイの森を読みました。 村上春樹さんは非常に有名で、このカテゴリーでもファンの方は多いようですが、 彼の小説のどのようなところが好きなのでしょうか? 非難するつもりではなく、単純にその魅力を具体的な言葉で知りたいのです。 ノルウェイの森しか読んでませんが、 私の感想では、、。 まず、主人公の人格ですが、あまり魅力が無いように思います。 実際にいても、友達が出来ず、人望も無いのでは? と思ってしまうほどに感じます。 また、相手の女性方も、全員とは言いませんが、魅力に欠けます。 無くてもいいのでは?と思えるようなエピソードもたくさん出てきます。 冒頭の、多少苦しみながらの回想シーン、 これは小説の終わりに、冒頭の部分につながるはっきりとした何かが来るのかなと思えば、何もありません。 冒頭の部分がなぜ必要なのかもわかりません。 最後、年上の女性と肉体関係を持ってしまうのも いったいこの本で何を表現したいのかと思ってしまいます。 他の作品もたくさん読んでみたいとも思うのですが、 迷っています。 村上春樹さんの作品を好きな方の魅了されている点を具体的に教えて頂けないでしょうか?

  • 村上春樹著『青が消える』について

    村上春樹著『青が消える』について 学校の授業で村上春樹の『青が消える』という小説が出てきました。 5~6回読み直してみたのですが、私にはさっぱりで作品の本質がはっきりしません。 教師にも何を意味しているのかなどを聞いてみたのですがよく分かりません。 ・何故筆者は『青』を消えるものにしたのか。 ・筆者は読者に何を語りかけているのか。 回答者様の一考察で宜しいので、どうか回答おねがいしますm(_ _)m

  • 村上春樹の作品について

    こんばんは。僕は今19歳の大学生です。 村上春樹の作品を初めて読んだのは去年の夏でした。そのとき読んだのは『海辺のカフカ』です。すごい衝撃を受けました。おもしろ過ぎて。でも難解すぎて言いたいことがうまく掴めませんでした・・・(自分の中で作者の言いたいことをつかんで自分なりに解釈できなければ、その本を読んだということにならないのかもしれませんが・・・)それから村上春樹の『ノルウェイの森』『中国行きのスロウボート』『風の歌を聴け』を順に読みました。でもやはり言いたいことがうまく掴めません(><) そこで皆さんは村上春樹の作品についてどう思われますか?作品の根底には何が流れていると思いますか?また、村上春樹の作品を読むに当たっての心構えなどありますか?本は自分で読み解かなければ意味が無いというのは重々わかっているのですが、参考にさせてください。よろしくお願いします。