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吾妻鏡
こんにちは。 いよいよ本日、『鎌倉殿の13人』が最終回を迎えますね。 源頼家は、『吾妻鏡』に沿った三谷幸喜氏の脚本により、他人の妾を奪ったり、蹴鞠ばかりしていた暗君として描かれていましたが、政治もきちんとしていた人物と思います。 僧侶、慈円の書いた『愚菅抄』には、弓の腕前は、父の源頼朝に勝るとも劣らない優れたものであったとの記述があります。 その北条一族を褒め称えた歴史書『吾妻鏡』には、源頼家の事を伊豆、修善寺で亡くなられた、としかありませんが、『愚菅抄』には、その凄惨な最期が記されています。 北条義時、政子寄りの『吾妻鏡』より、『愚菅抄』の方が信憑性は高いのでしょうか。
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お礼
ありがとうございます。 そうですよね、吾妻鏡には、源頼朝の亡くなり方も、抜け落ちているのですよね、実際、落馬で亡くなったなんて、にわかに信じられないです。頼朝さんは義経に酷い仕打ちをしましたので、あまり好きではないので、3代で途絶えても自業自得な気が致します。 頼家さんは、近習も何処かへ流され、出家させられ、幽閉…これでもか、というくらいに翼をもがれて。 そんな寂しい毎日に風呂は、唯一の楽しみではなかったのかと思うのですね、何も暗殺しなくとも、と思うのですが…情けは禁物なのですかね、頼朝の例もありますし。 西の京都、東の坂東、坂東とは茨城の辺りでしたか?利根川を堺に、でしょうか。 愚菅とは、ご自身をへりくだった表現なのですね。 博識ですね!勉強になりました。(^^) 回答ありがとうございました!
補足
詳しくありがとうございます。 お礼は、夜になります。 すみません!