meido369のプロフィール

@meido369 meido369
ありがとう数9
質問数1
回答数1
ベストアンサー数
0
ベストアンサー率
0%
お礼率
100%

  • 登録日2011/06/03
  • 父親の死、今後の自分。

    「父親の死」と検索かけて304件がHitしました。すべての同じ境遇の方の父、またご家族の方へご冥福をお祈りして書かせていただきます。 先日、74歳の父がこの世を去りました。私は実家を約8年間離れてました。今年に入り父が体調が悪く入院しているのは母親から聞いてました。実家に戻ろうかと何度も考えましたが、飛び出ていった感じだったので戻るには何かちゃんとしたきっかけがほしくて、ただ日々が過ぎて行きました。 一人暮らしも本当やっとの生活でなにかあるとすぐお金に困る生活だったのです。  ある日、私は事件を起こし逮捕されました。18日間留置所で反省し検察庁で罰金を受けました。 警察には「父親は今すごく体調を壊してるから父親の耳にはいれないでくれ」とお願いしましたが、地方新聞に載り、父親は事件のすこし後に事実を知ったそうです。 簡式裁判が終わり罰金を告げられたとき、歩けないはずの父親が検察庁に母親と一緒にヨタヨタと来てくれました。 8年ぶりの再会でした。思わず涙が出て「親父!」って・・・・親父の手をぐっと握り締めました。 親父は「おう!」と、受付の人に「罰金いくらでしたっけ?」って持ってきたセカンドバッグから大金を支払ってくれました。帰りの車の中でもこの事件の事についてはなにも触れず、「やってしまった事はなにも言わない」「これからどうするか考えるんだぞ」とまた自分のお金を渡し、清算できるものはして実家に戻るように言われました。 引越しが終わり、実家のほうでも大体片付き、新たな以後とを探しつつ親父と生活がはじまりました。 親父は昔から酒としょっぱいものや肉類が大好物で、「おい、○○くいて~な、買ってきてくれるか?」とか体調悪いのにも関わらず食べてはイケないものばかり注文してきました。 悪いと知っておきながらも、父親がよろこぶならと近くのスーパーへ買い物にいってはやきとり、焼肉、さしみなどを与えてた。でも「これうめ~な」、とよろこぶ親父の顔はすごく優しそうで本当においしそうだった。 仕事で料理経験もあった私は食べたい物を聞いては作って上げたりもしました。 時には一緒に酒を飲み、政治家の悪口を言ったり、今の社会情勢を語ったり。すごく話しを聞いててためになった。もしかしたら初めてかもしれないこんな話し合うのって感じでした。 実家に戻り一ヶ月が過ぎ、父親の病状は一時退院はしていたものの、あまりいい傾向は見られず時には痛くて部屋から「イテテテ!!」と悲鳴が聞こえてくる様態でした。 7月に入り病院の主治医からいますぐ救急車むかわせるから入院してくれと電話が掛かってきました。 父親は入院したくないものだったので、「息子が仕事から帰ってきたらそっちに連れてってもらうから待ってくれ」とお願いしてました。 少し前に受けた検査結果が相当悪いみたいでした。 その時実際は、目の前にいた私でしたが、父親からそう聞くと「行こうよ。俺連れて行くよ」って嫌な顔する父を入院する準備をして連れて行きました。 ま、しばらく入院すればまた戻ってこれるだろうとしか思ってなかった自分でしたが入院してから10日目、親父が院内感染で肺炎に掛かってしまった事を母親から聞きました。相当、暴れ窮地に立ったそうです。 そこからがすごく早かったです・・・。 肺炎になってからおおよそ1週間後、見舞いに行きました。父親は「おう、○○か。今日は仕事だったのか?」など普通に話しはしていましたが、鼻には管が通っていて入院したときの父親とはまったく違ってたこと。すごく悲しくなって涙をこらえながら「親父肺炎になっちゃったんだって? まーちょっと運が悪かったなぁ。 少しの我慢しなくちゃね。」励ましたつもりだったけど父親はどう感じたんでしょう、「そうだなぁ」としか言ってませんでした。 いつものように、政治家の悪口の話をしたり。今後の日本の話をしたり・・・。いつもと同じ父親だったのはまだ覚えてます。 次の日、母親が見舞いに行った時、医者から今後の経緯とかこの病気の説明をされ、要するに助かる可能性の低さを説明されたそうです。 その次の日、父親がまた苦しさにもがき暴れたそうでベッドに縛られたそうです。生気を失ったような顔で母親は、「お父さんもうだめかも」って半分泣きそうな顔で仕事から戻り家で夕飯の支度をしていた私に言ってきました。私は、実感がわかないというか父親が死ぬということが理解できない。 母親の言うことには耳を向けませんでした。 それでも心配な私は父親に手紙を書いた。人生で初めての手紙でした。毎日病院へ行っている母親に手紙を託し私は仕事へ行きました。家に戻って母親からは「手紙渡しておいたよ」とかそういうことは何も言われなかったですが、読んでくれただろうって思いながら自分も「手紙渡してくれた?」とは聞きませんでした。 次の休みの日父親の病院へ行く予定でした。でも、父親に会いに行ってすぐ体調が悪化した前回で、今回行ったらもっと悪くなるんじゃないか。また手紙読んでくれたのか読んでないのか、それもすごく気に掛かっててでも「親父、手紙読んでくれた?」とは聞きたくなかったのです。 色々考えてるうちに休みは終わって、来週いくって母親にはメールで伝えました。 入院してから、一度も見舞いに行ってない弟がいて、すごく腹が立ったり。母親が日に日に葬式の準備に取り掛かって。 家族全員がすごくむかついて、でも自分が父親に会いにいくことは何かの都合を付けて会いに行かなかったりして。 今になって自分の愚かさをすごく身に染みてます。 そして次の休みの日の前にその時はきました。 たまたま仕事が早く終わり家に帰るとめずらしく母親がいました。「弟がいま病院いってるよ」と聞いて、そのまま仕事荷物を置いて私も病院へ行きました。 部屋のノブをガチャッとあけると、顔色の悪い父親が酸素マスクをしながらパッチリと目を明けて、うなずきました。弟は扇子で父親に風を当てて上げてて、何も言ってきませんでした。私は「親父、どうだい?調子。苦しいかい?」と・・・・もうこの時点で涙が出てきそうでした。父親は「・・・・まいった・・・まいった・・・」とすごくかすかだけど声に出てない声だったけど間違いなくそう言っていました。すごく苦しそうで、お腹から一杯呼吸してて、色々な機器も付けられてて、「エアコン付けようか?」といえばコクリとうなずける位。 体内の酸素量を見る機械の説明を看護婦さんに教えてもらいながらその日はずっと父親に付き添いました。次の日も仕事を休み早朝に自宅へ戻り母親と交代で看病をしてました。 お昼過ぎにまた病院に戻り、色々な身内が来てたり遠くはなれた姉貴も来て、それを向かえ行ったり子供たちもいたのでご飯につれってって行ったり。 父親を一人に数時間させてしまいました。 もちろん「親父、ちょっと俺たちみんなでご飯行ってくるからね。がんばってるんだよ!」と耳元で言って行きましたけど、今思えばなんて馬鹿な事したんだろうってこれも後悔しています。 少しぐったりしていた父親はその前の晩苦しくてずっと寝てないせいだと思ってて、看護婦さんも「すこし寝てるのかな?」 と、言ってたので自分も寝てると思ってました。 母親が一番疲れており、私と弟も明日は一度会社に顔出そうって事でその日の夜は自宅へ戻り全員帰りました。 その次の日、出勤後ラジオ体操が終わってさて仕事を始めるかと思ったとき携帯電話が鳴りました。 病院からでした。「お父さんの様態が悪いのですぐ来てください」と、様態が悪い?・・・・嘘だ・・・父親が死亡したことは悟りました。 早退してなきながら病院へ向かい、部屋に付いて真っ白い顔した父親が寝てました。酸素マスクに付いていた半透明のビニール袋が動いていない(呼吸していない)足がガクガクして、でも力いっぱい立ちながら泣きました。 現在数日後が立ちました。葬儀も終わりこれからお墓などを用意する段階です。いまだに父親の死が納得で来ていない。写真を見るとただただ涙が出るだけ、だからあまり見ない。近くのどこへ行っても 「○○さんの訃報新聞で見ましたよ。ご愁傷様です」と言われた。それだけで涙が出てきそうで堪えながら「ありがとうございます。」とお礼を言います。 検察から私を救い、1ヶ月一緒にいて永遠に会えなくなってしまった父親に親孝行もできずに後悔や無念の思いしか沸いてきません。 切なくて、苦しくて仕方ありません。 この先自分はどうして行けばよいのでしょうか。 ダメ息子で親の顔を汚すことしかしてこなかった自分が変わって父親を蘇らせて上げたいです。  この先自分は何を信じて生きて行けばいいのでしょうか?