徳川綱教と徳川光友の側室の違い

このQ&Aのポイント
  • 徳川綱教は、5代将軍・徳川綱吉の長女を正室に迎えたため、側室を持たず、子供がいないままで終わった。
  • 一方、徳川光友は3代将軍・徳川家光の娘を正室に迎える一方で、多くの側室を持った。
  • この違いは、徳川綱教が5代将軍に憚って側室を迎えなかった一方、徳川光友は徳川家光に憚らずに側室を迎えたためだと思われる。
回答を見る
  • ベストアンサー

綱教と光友は将軍の娘を正室に迎えたのに、側室の数は

紀州藩の第3代藩主・徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、側室を持つことはできず、子供がいないままで終わりましたが、 何故、尾張藩2代藩主・徳川 光友(とくがわ みつとも)は、3代将軍・徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)を正室に迎えたのに、たくさんの側室を持つことができたのでしょうか? 紀州藩の第3代藩主・徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、5代将軍・徳川綱吉に憚って、側室を持たなかったのだと思います。 そして、その結果、子供はいないままで終わりました。 もし、側室を迎えていれば、子供が生まれていたと思います。世継ぎとなる男子も生まれていたと思います。 しかし、徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、5代将軍・徳川綱吉に憚って、側室を持ちませんでした。 しかし、一方、尾張藩2代藩主の徳川 光友(とくがわ みつとも)は、3代将軍・徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)を正室に迎えたのに、たくさの側室を(wikipediaによれば、11人の側室)を持ちました。 徳川 光友(とくがわ みつとも)は、徳川家光の娘を正室に迎えたのに、徳川家光に憚らなかったのでしょうか? この違いは、何故なのでしょうか? この違いは、何故だと考えられるかを教えてください。 【徳川 綱教(とくがわ つなのり)】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E6%95%99 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E6%95%99 妻は、“正室:徳川綱吉の長女・鶴姫” のみ 【徳川 光友(とくがわ みつとも)】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%8F%8B https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%8F%8B 妻は、 正室:徳川家光の娘・霊仙院(千代姫) 側室:丹羽光重の娘、樋口氏、村尾氏、飯尾氏など11人

noname#245971
noname#245971
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (952/1524)
回答No.2

Wikipediaによれば、徳川綱教は鶴姫と婚姻したことにより、次期将軍の有力候補になっていたそうです。徳松が死んで将軍綱吉の実子は鶴姫ただ一人になっており、綱吉は鶴姫を異常なくらい溺愛していて、庶民に鶴の字や紋の使用を禁じる「鶴字法度」を出していたとのこと。そんな状況では、側室をとるのをはばかるのも無理ありません。鶴姫との間に男子が生まれたら、綱吉は喜んで綱教を次期将軍に指名したでしょうから。 尾張藩2代藩主の徳川光友と将軍家光の娘千代姫との結婚には、そのような特殊な事情は存在しません。この時代、側室を迎えるのはごく普通のことですから、秀忠の娘珠姫と結婚した前田利常、初姫と結婚した京極忠高など、将軍の娘を正室に迎えた大名で側室をもった人は珍しくありません。

noname#245971
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 直接そのことを論じたものを読んだ記憶はありませんが、立場などを考慮するに、 (1)まだ、将軍家と尾張家の格差が小さかった。  水戸は紀州の「お控え様(父母ともに同じ、実弟)」で、「御三家とは、将軍家、尾張家、紀州家をいった」という話もあるくらいです。  それが、いつのまにか格差が開き「将軍家」は別格となって、水戸も含めた3家が「御三家」と呼ばれるようになったのだ、と。  それで、将軍家の娘と言ってもさほど遠慮する必要はなかったのだろうと思います。 (2)家光は長らく女に興味をみせず、したがって跡継ぎ男子がどうなるか(無事育つかどうか)大問題として取り扱われていた可能性が高いと思われます。  となると、尾張からお世継ぎ様を引っ張ってこなければならない事態になっていたわけです。なら、将軍を出しても尾張家を継ぐ子供がどうしても欲しいということになります。従って「男子はたくさんいたほうがいい」という意向が、尾張はもちろん暗黙の内に幕府内でも認められていた、のではないかと思います。

noname#245971
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#245971
質問者

補足

徳川綱教には、弟が2人いましたが、 徳川光友には男兄弟がいなかったことは関係しているのでしょうか?

関連するQ&A

  • 綱吉の娘の鶴姫は、懐妊ぐらいは一度でもしたのか?

    鶴姫 (徳川綱吉長女) は、懐妊ぐらいは一度でもしたのでしょうか? 徳川綱吉は息子の徳松が亡くなった後、男子が生まれなかったので、また、甥の綱豊に将軍職を譲りたくなかったので、 娘の鶴姫(つるひめ)を 紀州藩の第3代藩主の徳川 綱教(とくがわ つなのり)の正室にしました。 そして、紀州藩の第3代藩主の徳川 綱教(とくがわ つなのり)に将軍職を譲ろうとしました。 また、綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)を正室に迎えたがために、綱教(つなのり)は側室を迎えることができなくなりました。 質問があります。 綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は綱教(つなのり)との間に、男子どころか、女子も産まれませんでしたが、 鶴姫(つるひめ)は懐妊ぐらいはしたのでしょうか? 綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は、紀州藩の第3代藩主・綱教(つなのり)に嫁いだ後も、大奥に入り浸っていたそうですが、 懐妊ぐらいは一度でもしたのでしょうか? 紀州藩の第3代藩主・綱教(つなのり)の正室の、綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は、一度でも懐妊ぐらいはしたのかどうかを教えてください。

  • 鶴姫の嫁ぎ先の徳川綱教について教えてください。

    5代将軍・徳川綱吉が長女の鶴姫(つるひめ)を嫁がせて、次の将軍位を譲ろうとしたという説のある、鶴姫(つるひめ)の嫁ぎ先の“徳川 綱教(とくがわ つなのり)”というのは、徳川家康の正当な完全な男系子孫なのでしょうか? 第5代将軍・徳川綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目された“徳川 綱教(とくがわ つなのり)”というのは、徳川家康の正当な完全な男系子孫で、 徳川家康が定めた将軍位を継げる正当な完全な男系子孫なのでしょうか? また、そうであるならば、系図と家康との関係を教えてください。

  • 徳川秀忠の側室と徳川家光の正室について

    徳川秀忠の子、保科正之の母の静ですがウイキペディアの徳川秀忠 のページでは側室としてかかれていますが、ウイキペディアの大奥の ページの将軍の側室一覧では側室として記載されていません。 どちらが正しいのでしょうか? 個人的には静が保科正之が誕生前から誕生後も江戸城内に住んでいませんでしたし、 正之が徳川又は松平を名乗っていませんので正之は隠し子 (正室の江与には知れていたが諸大名には内密)であったため、側室 扱いではなかったと思います。 もう一つ質問ですが、 徳川家光の正室である鷹司孝子と家光の仲が険悪であったと言う記録が あり(様々な書物)事実と思われますが、険悪な理由はなんだったのでしょうか?

  • 徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

    徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。 つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。 5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。 なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか? 血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。 徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

  • 水戸徳川家の第5代藩主について

    水戸徳川家の第5代藩主には、 徳川 宗尭(とくがわ むねたか)と 側室 の間に生まれた長男ではなく、 徳川 宗尭(とくがわ むねたか)と 美代姫 (徳川宗堯正室) の間に生まれた次男の 徳川 宗翰(とくがわ むねもと)が継いだのでしょうか? 徳川将軍家は、4代将軍から14代将軍までは、基本は、いる限りは、(紀州家からでも御両典からでも御三卿からでも)側室との間に生まれた一番年上の男子が継いでいます。 何故、水戸徳川家では、 水戸徳川家の第5代藩主には、 徳川 宗尭(とくがわ むねたか)と 側室 の間に生まれた長男ではなく、 徳川 宗尭(とくがわ むねたか)と 美代姫 (徳川宗堯正室) の間に生まれた次男の 徳川 宗翰(とくがわ むねもと)が継いだのでしょうか? 考えられ得る理由を教えてください。 徳川 宗尭(とくがわ むねたか) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%A0%AF 徳川 宗翰(とくがわ むねもと) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0 松平 頼順(まつだいら よりゆき) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E9%A0%86

  • 将軍家は完全な男系以外は意味がないのか?

    将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまでも正当な完全な男系のみに着目されるのでしょうか? 将軍家というのは、同時代の一般家庭とは違って、正当な男系のみ重視なのでしょうか? (家光の娘が生母であっても女系にはなりませんが。 「家光→家光の娘」は男系ですので。) 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘で、『家康→義直→光友→綱誠』と家康のひ孫でありました。 しかし、尾張藩主の徳川綱誠が、(徳川綱誠と同じく正当な男系では)家康のひ孫の紀州藩主の徳川綱教よりも、将軍候補として優位であったという話は聞いたことがありません。 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘でありましたが、紀州藩主の徳川綱教は生母は徳川家とは全く関係ありませんでした。 正統な男系では、どちらとも、家康のひ孫です。 将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまで正当な男系のみに着目されるのでしょうか? これは、源頼朝~徳川慶喜までの征夷大将軍が、形式上は八幡太郎義家の男系子孫であるから、完全な男系以外は、例え生物学的に子孫であっても、将軍候補としては、意味がない。関係がない。 という事でしょうか? 教えてください。

  • 松平清武は、本当に8代将軍の候補に入っていたのか?

    本当に、8代将軍を決める時に、松平 清武(まつだいら きよたけ)は候補に入っていたのでしょうか? (⇩)下記の URL の松平 清武(まつだいら きよたけ)の wikipedia のページの『2 8代将軍になれなかった理由』の所によると、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E6%AD%A6#8代将軍になれなかった理由 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E6%AD%A6#8代将軍になれなかった理由 7代将軍徳川家継が危篤状態に陥った時、家宣の正室だった天英院は8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は、将軍には相応しくないとされる理由が主に2つあった。 家臣の越智喜清に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて大名になったのが宝永4年(1707年)、44歳の時であり、経歴上問題があった。 既に54歳と高齢であった。 また、清武自身にも将軍職に対する野心は特になかったといわれる。これらの理由から天英院は清武を将軍にすることを諦め、紀州藩主徳川吉宗を推し、吉宗が8代将軍に就任した。 (⇧)となっています。 しかし、 松平 清武(まつだいら きよたけ)は、将軍候補を決める際にも、姓が「徳川」ではなくて「松平」のままであり、また、将軍の偏諱も受けられていません。 姓が「松平」でも、福井藩主や松江藩主などは、将軍の偏諱を受けられていました。 綱吉や綱豊も将軍(4代将軍・家綱)の偏諱を受けられていました。 8代将軍の他の候補も、 尾張藩:徳川 継友 紀州藩:徳川 吉宗 水戸藩:徳川 綱條 は、全員、将軍の偏諱を受けられています。 松平 清武(まつだいら きよたけ)は、将軍の偏諱を受けられる家格ではなくて、言ってみれば、将軍の偏諱を受けている福井藩や松江藩などよりも格下です。 この様に家格の低い松平 清武(まつだいら きよたけ)が本当に、8代将軍を決める時に、候補に入っていたのでしょうか?

  • 何故、徳川家基は綱吉の霊廟に合祀されているのか?

    何故、「幻の第11代将軍」と言われた徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F (↑)この上記のページによれば、常憲院霊廟は、 被葬者 常憲院(5代将軍、徳川綱吉) 以下の将軍等が合祀されている。 有徳院(8代将軍、徳川吉宗) 温恭院(13代将軍、徳川家定)、天璋院(家定正室、篤姫) 孝恭院(徳川家基) となっています。 そこで疑問があります。 将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折し、「幻の第11代将軍」とも言われた徳川家基は、 何故、その父の10代将軍・徳川家治と同じ、徳川家綱の厳有院霊廟ではなくて、 徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 「徳川家基が突然亡くなった時、父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだという。」そうですから、 徳川家治は『徳川家基を自分と同じ所に合祀したい。』と思ったはずだと思うのですが。。。 しかし、実際は、 徳川家治は、徳川家綱の厳有院霊廟に合祀されているのに、 その子の徳川家基は、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されています。 因みに、実際の11代将軍・徳川家斉は、家治と同じ家綱の厳有院霊廟に合祀されています。 だから、交互の順だという理屈は成り立ちません。 何故、徳川家基は、家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されているのでしょうか? 徳川家基が、徳川家治とは別の、徳川綱吉の常憲院霊廟に合祀されている、考えられる理由を教えてください。 <参考> 徳川家基 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%9F%BA 常憲院霊廟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%86%B2%E9%99%A2%E9%9C%8A%E5%BB%9F

  • 家斉の側室は落飾しなかった?

    将軍家の正室・側室たちは、将軍が没すると落飾しますよね。 中には尼屋敷に移る者もいたりして。 これは自分から「私はここに移ります」という意志によってのことなのか、それとも半強制的なものだったのでしょうか? また、将軍・家斉の側室たちは家斉死後に上臈御年寄上座などに任じられていて、落飾した気配がありません。 これはなぜなのでしょうか? 来月までに徳川将軍家のレポートを提出しなければならなくて・・・ だれか意見をください!

  • 種姫は本当に徳川家基の正室になる予定だったのか?

    徳川宗武の娘で、松平定信の同母妹である種姫は、本当に11代将軍になるはずだった徳川家基の正室にする事を意図されていたのでしょうか? 徳川宗武の家系 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6#.E5.AE.B6.E7.B3.BB 種姫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%A7%AB 本当に種姫は徳川家基の正室になる予定だったのでしょうか? またその場合、もし家基が亡くならずに11代将軍になっていたとしたら、家基と種姫の間にできた男子が、長男でなかったとしても12代将軍になっていたでしょうか? 德川将軍家は代々、正室の皇室や公家の血が次の将軍に入らないようにしてきましたが、もし種姫が正室であれば、正室の子に皇室や公家の血が入ることはありません。 その場合は、種姫の産んだ男子が、長男でなくても12代将軍になっていたでしょうか?