• ベストアンサー

鶴姫の嫁ぎ先の徳川綱教について教えてください。

5代将軍・徳川綱吉が長女の鶴姫(つるひめ)を嫁がせて、次の将軍位を譲ろうとしたという説のある、鶴姫(つるひめ)の嫁ぎ先の“徳川 綱教(とくがわ つなのり)”というのは、徳川家康の正当な完全な男系子孫なのでしょうか? 第5代将軍・徳川綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目された“徳川 綱教(とくがわ つなのり)”というのは、徳川家康の正当な完全な男系子孫で、 徳川家康が定めた将軍位を継げる正当な完全な男系子孫なのでしょうか? また、そうであるならば、系図と家康との関係を教えてください。

noname#247149
noname#247149
  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4847/10260)
回答No.1

綱教は、「家康が将軍本家(秀忠→家光→)が途絶えたときに、跡継ぎを出す御三家のNO2である紀伊徳川家」の三代目(家康の男系ひ孫)です。 後に弟の吉宗が本家を継いて八代将軍になりましたね。 家康→頼宣→光貞→綱教&吉宗

noname#247149
質問者

お礼

徳川 綱教(とくがわ つなのり) 徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、紀州藩の第3代藩主。 生涯 寛文5年(1665年)8月26日、第2代藩主・徳川光貞の長男として生まれる。幼名は長光丸。寛文10年(1670年)1月7日、幼名を長福丸と改める。

関連するQ&A

  • 綱教と光友は将軍の娘を正室に迎えたのに、側室の数は

    紀州藩の第3代藩主・徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、側室を持つことはできず、子供がいないままで終わりましたが、 何故、尾張藩2代藩主・徳川 光友(とくがわ みつとも)は、3代将軍・徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)を正室に迎えたのに、たくさんの側室を持つことができたのでしょうか? 紀州藩の第3代藩主・徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、5代将軍・徳川綱吉に憚って、側室を持たなかったのだと思います。 そして、その結果、子供はいないままで終わりました。 もし、側室を迎えていれば、子供が生まれていたと思います。世継ぎとなる男子も生まれていたと思います。 しかし、徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を正室に迎えたため、5代将軍・徳川綱吉に憚って、側室を持ちませんでした。 しかし、一方、尾張藩2代藩主の徳川 光友(とくがわ みつとも)は、3代将軍・徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)を正室に迎えたのに、たくさの側室を(wikipediaによれば、11人の側室)を持ちました。 徳川 光友(とくがわ みつとも)は、徳川家光の娘を正室に迎えたのに、徳川家光に憚らなかったのでしょうか? この違いは、何故なのでしょうか? この違いは、何故だと考えられるかを教えてください。 【徳川 綱教(とくがわ つなのり)】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E6%95%99 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E6%95%99 妻は、“正室:徳川綱吉の長女・鶴姫” のみ 【徳川 光友(とくがわ みつとも)】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%8F%8B https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%8F%8B 妻は、 正室:徳川家光の娘・霊仙院(千代姫) 側室:丹羽光重の娘、樋口氏、村尾氏、飯尾氏など11人

  • 綱吉の娘の鶴姫は、懐妊ぐらいは一度でもしたのか?

    鶴姫 (徳川綱吉長女) は、懐妊ぐらいは一度でもしたのでしょうか? 徳川綱吉は息子の徳松が亡くなった後、男子が生まれなかったので、また、甥の綱豊に将軍職を譲りたくなかったので、 娘の鶴姫(つるひめ)を 紀州藩の第3代藩主の徳川 綱教(とくがわ つなのり)の正室にしました。 そして、紀州藩の第3代藩主の徳川 綱教(とくがわ つなのり)に将軍職を譲ろうとしました。 また、綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)を正室に迎えたがために、綱教(つなのり)は側室を迎えることができなくなりました。 質問があります。 綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は綱教(つなのり)との間に、男子どころか、女子も産まれませんでしたが、 鶴姫(つるひめ)は懐妊ぐらいはしたのでしょうか? 綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は、紀州藩の第3代藩主・綱教(つなのり)に嫁いだ後も、大奥に入り浸っていたそうですが、 懐妊ぐらいは一度でもしたのでしょうか? 紀州藩の第3代藩主・綱教(つなのり)の正室の、綱吉の娘の鶴姫(つるひめ)は、一度でも懐妊ぐらいはしたのかどうかを教えてください。

  • 徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

    徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。 つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。 5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。 なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか? 血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。 徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

  • 徳川家達は、徳川治済との関係は、何に当たるのか?

    徳川宗家第16代当主の 徳川 家達(とくがわ いえさと)は、11代将軍・徳川家斉の実父である、一橋徳川家の第2代当主・徳川 治済(とくがわ はるさだ)の男系子孫なのでしょうか? また、もしそうなのだとしたら、 徳川宗家第16代当主の 徳川 家達(とくがわ いえさと)は、11代将軍・徳川家斉の実父である、一橋徳川家の第2代当主・徳川 治済(とくがわ はるさだ)との関係は、何に当たるのでしょうか? (↓)下記の2つの質問について教えてください。 (1) 徳川宗家第16代当主の徳川 家達(とくがわ いえさと)は、11代将軍・徳川家斉の実父である、一橋徳川家の第2代当主・徳川 治済(とくがわ はるさだ)の男系子孫なのかどうかを教えてください。 (2) また、もしそうなのだとしたら、 徳川宗家第16代当主の 徳川 家達(とくがわ いえさと)は、11代将軍・徳川家斉の実父である、一橋徳川家の第2代当主・徳川 治済(とくがわ はるさだ)との関係は、何に当たるのかを教えてください。 以上の2つの質問の答えを教えてください。

  • 将軍家は完全な男系以外は意味がないのか?

    将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまでも正当な完全な男系のみに着目されるのでしょうか? 将軍家というのは、同時代の一般家庭とは違って、正当な男系のみ重視なのでしょうか? (家光の娘が生母であっても女系にはなりませんが。 「家光→家光の娘」は男系ですので。) 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘で、『家康→義直→光友→綱誠』と家康のひ孫でありました。 しかし、尾張藩主の徳川綱誠が、(徳川綱誠と同じく正当な男系では)家康のひ孫の紀州藩主の徳川綱教よりも、将軍候補として優位であったという話は聞いたことがありません。 尾張藩主の徳川綱誠は生母が家光の娘でありましたが、紀州藩主の徳川綱教は生母は徳川家とは全く関係ありませんでした。 正統な男系では、どちらとも、家康のひ孫です。 将軍家というのは、一般の藩士の家とかとは違って、生母が徳川家光の娘とかであっても、将軍候補とかにはあまり影響を与えないのでしょうか? 将軍家の征夷大将軍というのは、あくまで正当な男系のみに着目されるのでしょうか? これは、源頼朝~徳川慶喜までの征夷大将軍が、形式上は八幡太郎義家の男系子孫であるから、完全な男系以外は、例え生物学的に子孫であっても、将軍候補としては、意味がない。関係がない。 という事でしょうか? 教えてください。

  • 水戸徳川家について

    水戸徳川家の当主は全員、徳川家康の男系の直系子孫なんですか? もしそうなら、何故、水戸徳川家の当主は原則的に将軍候補にならなかったのでしょうか?

  • 松平義行と徳川家康の関係について?

    松平義行は徳川家康の完全な(厳密な)男系子孫なのでしょうか? また、そうだとすれば、徳川家康の何にあたるのでしょうか? (⇩)下記のURLの「もしも徳川幕府に宮将軍が擁立されていたら」という題名のブログの中に、 https://blog.goo.ne.jp/p_lintaro2002/e/1dfea738a5357157e33a1f2f1b2fd2aa https://blog.goo.ne.jp/p_lintaro2002/e/1dfea738a5357157e33a1f2f1b2fd2aa  また、綱吉や綱豊ではなく、忠清の本命は家光の長女千代姫が尾張家に輿入れして生んだ松平義行であり、この義行が成人するまでの繋ぎとして宮将軍を立てようとした説。 という文章が出てきますが、この『松平義行』というのは、完全に(厳密に)徳川家康の男系子孫なのでしょうか? 松平義行というのは、徳川家康の完全な(厳密な)男系子孫であるのかどうかを教えてください。 また、徳川家康の何に当たるのかも教えてください。 【参考】 https://blog.goo.ne.jp/p_lintaro2002/e/1dfea738a5357157e33a1f2f1b2fd2aa また、綱吉や綱豊ではなく、忠清の本命は家光の長女千代姫が尾張家に輿入れして生んだ松平義行であり、この義行が成人するまでの繋ぎとして宮将軍を立てようとした説。

  • 15代を除く11代以降の徳川宗家は徳川治済の子孫か

    第15代将軍を除く、第11代~第14代将軍と第16代宗家当主~現在の第18代宗家当主は、全員が徳川治済の男系子孫でしょうか? 第11代将軍・徳川家斉は、徳川治済の長男ですよね。 そして、第12代~第14代将軍は全員、徳川家斉の男系子孫ですよね。 さらに、第16代宗家当主の徳川家達は徳川治済の男系子孫ですよね。 そして、現在の第18代宗家当主までは徳川家達の男系子孫が続いていますよね。 という事は、 第15代将軍を除く第11代~第14代将軍と、第16代宗家当主~現在の第18代宗家当主は、全員が徳川治済の男系子孫という事になるのでしょうか?

  • 徳川将軍家の血筋

    (↓)この徳川将軍家の系図を見て思ったのですが、 http://www.chohoji.or.jp/promenade/yoshimune02.htm 徳川家重と徳川宗尹の子孫は将軍になっているのに、どうして徳川宗武の子孫は一人も将軍になっていないのでしょうか?

  • 水戸徳川家当主と徳川頼房の関係について

    江戸時代の水戸藩主は全員が、徳川頼房の男系子孫なのでしょうか? 江戸時代の水戸藩主の全員が家康の11男・徳川頼房の男系子孫なのかどうかを教えてください。