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江戸時代に小さな村がたくさんあったのは何故
mekuriyaの回答
簡単なことです。年貢の都合です。一人の庄屋さんの目が届く範囲がそれだけだったということ。個人単位の納税じゃないのです。村単位の納税ということ。村ごとに領主と相対契約で年貢があらかじめ決められています。それを取りまとめるのが庄屋さんの責務でした。だから庄屋さんは村民の一人一人の住所、年齢、健康状態、家族構成など全部把握しています。といって地図や住所なんてあったわけではないし、電話やFAXといった通信手段があったわけでもない。規模の経済を追求する手段もないし、メリットがあったわけでもないのです。合併する意味がまったくない。大きくなりすぎると庄屋さんの処理能力を超えてしまいます。どうして庄屋さんの睨みが利くかというと、中世以来の何百年の村の歴史において、村民の誰もが庄屋さんの世話になっていて、頭が上がらない濃密な人間関係があったからです。病気になった時に世話になった。困ったことがあった時に相談に乗ってもらった。近隣の村民とトラブルが起きた時に仲裁してもらった。そういうことの積み重ねで誰もが庄屋さんに頭が上がらない。 それが明治になって合併が進んだのは何故か。地租改正によって、納税が個人単位になって村落共同体の意味がなくなり、庄屋さんの個人能力に依存する必要もなかったからです。属人的な地方行政が、法的に組織化されて地方行政を効率化する必要に迫られました。江戸時代までは、村ごとに、個別に村のしきたりが定められていて一律の法があったわけでもない。だから村八分なんてローカルな罰則があったわけで。明治になって、日本は中央集権化による近代化政策を全国的に推進し、富国強兵、殖産興業、文明開化をスローガンに突き進んだ。全国一律的な地方行政を推進するには規模の経済を追求する必要がありました。地方行政を効率化する為には、古いしがらみを全部捨てて一から再編成をやり直したほうが好都合でもあったのです。電信、鉄道、近代的郵便制度、近代的警察・裁判制度、官僚機構といった近代技術と法制度や組織化によって、庄屋さんの個人能力に依存することに起因する制約がなくなったわけです。 地方行政の効率化は、地方行政の担う課題がより大規模化・複雑化したことによる行政コストの増大という問題に対する解決策でもありました。例えば鉄道の敷設が挙げられます。多くの鉄道会社が設立され、それぞれ勝手な計画を立てて、相互に矛盾した、あるいは重複した路線を出願してきます。そういう時代には江戸時代のような庄屋さんではとても問題解決は不可能なことは、明らかでありましょう。とてもじゃないが話がまとまらない。複雑な利害対立を解決するためには、多くのコストがかかります。それは東日本大震災や福島原発事故に関する行政の対応を見てもわかるでしょう。菅元総理は、やたらなんとか本部やなんとかチームやなんとか会議を乱立させて、船頭多くして船山に登る状態を招いてしまった。 明治の初めもそうだったのです。これじゃいつまで経ってもさっぱり埒が明かない。そういうプロセスを経て現代に至っている。以上のような時代背景を考慮いただきたいと思います。
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