• ベストアンサー

江戸時代の大名

江戸時代の大名 江戸時代の大名で、老中とか若年寄とか寺社奉行とかいった幕府の役職に就いていた人は、 その役職に有るときには自分の藩の統治にはタッチしていなかったのでしょうか? 両方を同時にこなすといったら大変そうですが。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数18

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1408)
回答No.2

 幕府の公職に就いて江戸で勤務している者は「定府」と言う言葉がある様に、基本的に江戸に常に居ますから、自分の領地経営は基本的に出来ないのでは?  (飢饉が起きたとか一揆が起きたとかの非常時なら、職を辞してから対応に当たると思いますし…。)    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BA%9C  あと、譜代大名で家を継ぐ前は、江戸で人質。家を継いだら直ぐ役職に就いた者や交代寄合(大名の様に参勤交代を実施)でない旗本とかは、自分の領地に行った事が無いなんて事も…。  あと、老中や奉行とかって一応、複数人いて月ごとに交代(月番制)で仕事してましたが、自分の担当でない月でも書類整理とかで結構忙しかったみたいです。

その他の回答 (1)

  • suzukiyo
  • ベストアンサー率26% (11/42)
回答No.1

重大な問題でもない限りタッチしません。 よく時代劇などで「城代家老」という言葉を耳にしませんか? 城代家老が大名の代役をして国本の政治を行います。

関連するQ&A

  • 大名

    若年寄は実際にはどの様な職務だったのでしょうか? 老中というと、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代を経て就任するイメージで、若年寄は三万石以下の譜代の小大名が就く職というイメージがあります。 若年寄は、五万石以上の譜代大名にとってはいわゆる出世コースのポストではなかったのでしょうか?

  • 江戸時代。大名同士の付き合い。

    幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。 制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 この法を監視する役職は何ですか。 違反して咎められた大名家はありましたか。 江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。 しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 それをどこまで管理できたのかという疑問です。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の大名お取り潰し

    江戸時代に100をこえる大名がお取り潰しになったそうですが、その中で幕府に抵抗して戦って滅びた大名はどれくらいいたのでしょうか? 知ってる方教えてください。おねがいします。

  • 江戸時代の町人,百姓の支配について

    町人の支配は江戸などの町では町奉行,百姓の支配は幕領であれば郡代や代官だと理解しています。そこで町人・百姓の支配について2点質問があります。 (1)幕領以外の諸藩に住んでいる町人や百姓はの支配体制はどのようになっているのでしょうか?藩独自に江戸幕府に習った役職などを設置していたのでしょうか? (2)藩内の百姓から集められた年貢は領主である大名に納めるだけで,その後さらに幕府へ納めるということはなかったのでしょうか?

  • 長崎奉行を任命する上司は?

    江戸幕府の職制のなかで、「長崎奉行」を任命する際は若年寄から本人に伝えられるのでしょうか。または遠国奉行は老中支配なので老中から本人に伝えられると考えていいのでしょうか。どなたか教えて下さいませんか。

  • 江戸時代の「大名改易」

    「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。 6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。 そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。 幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。 家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代に大名の数が増えたのはどうしてですか?

    江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、 元禄には243、幕末には266に増えています。 家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、 どうして増えたのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 江戸幕府の仕組みについて教えて下さい

    江戸時代のことについてふと気になったので教えてください。 幕府は大名から税金を取ることができなかったと聞いたのですが、ほんとうでしょうか? さらに、大名はなぜ幕府に忠誠を誓ったのでしょう。江戸幕府の軍事力が他の藩に比べると圧倒的だったとも聞きますが、それならその財源はどこにあったのでしょう? 考えれば考えるほどわからなくなります。 ご存じのかたよろしくお願いします。

  • 江戸時代の給料は?

    ・江戸時代、幕府や藩は給料をどうやって払っていたのでしょうか?現金で払う事はあったのでしょうか? ・それとも、土地を与えてそこで税収を任せるという形だったのでしょうか? ・郷士という立場の人は、藩から給料をもらっていたのでしょうか? ・藩に仕えている人と、幕府に直接仕えている人では違いがあるのでしょうか?

  • 江戸時代の大名家の家名の名乗りかた

    趣味で江戸時代の大名家のもろもろを調べている者ですが、困っ ており、また不思議に思っていることがひとつあります。それは、 個々の家(家系)としての大名家を何と呼ぶか、特に、同姓の分家 や別家などをどう識別して個々の「家」を表現していたかという ことです。 現在では、一般的には「加賀藩前田家」のような「地名や藩名+ ○○家」で表現されているようですが、例えば松平家をはじめ、 本多家、酒井家などの譜代大名の場合、同姓の分家別家が多い上 に頻繁に転封もあり、同姓の他家が別の時期に同じ藩を領有する ようなこともあり、個々の大名家の識別をする場合に、単純に 「藩名+○○家」だけでは上手くゆきません。 また、当時は「酒井雅楽頭」のような、「姓名+官名?」での表 現も広く行われ、それが半ば家名として定着しているような例も あるにはあります。しかし、制度としては同姓での同官名は禁止 するなど、類似家名による混乱回避をしていた程度だったようで、 必ずしも「家」の「名乗り」を幕府が承認し、それを代々継承す る制度という訳でも無かったようです。 という訳で、個々の家(家系)としての大名家を何と呼んで識別す るかは、家の「格」が世襲であった江戸の当時こそ、大きな問題 であったはずだと私は思うのですが‥ どうもそれらしきものが 見当たりません。まさか、藩主一代ごとに格付を決めて、家格の 概念が無かったというような筈もないし‥ (ちなみに、明治以後は爵位での区別が付けられます。宗家は○ ○伯爵家、分家は○○子爵家とか。本人たちがそう名乗ったかど うかは別にして) 皆さん、どう思われますか。