天使とは?――《はじめにことばがあった》

このQ&Aのポイント
  • 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
  • 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
  • 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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天使とは?――《はじめにことばがあった》。

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

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noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ヒドッチでございます。  前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。  ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。  何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?  そしてダニエル書とイザヤ書ですか。  さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。  ★ ~~~~~~~~~  【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。    【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。    ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。    「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の    果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。  【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。  それほど大きなまちがいではないように思われますね。  それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。  たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。  さらに何かありましたら お寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。  パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。  ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~  ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。  新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。   (III)  では、実際はどうであったのでしょう?   (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。  (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。  (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。  これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?  ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。  天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・  

その他の回答 (80)

noname#133759
noname#133759
回答No.10

あっ、どうも。 通りすがりの者です。 トマスによれば(もちろんキリスト教の創造説に由来する)、事物における本質はその事物の存在にとって、可能態として在るにすぎず、事物は存在を直接神から受け取ることによって現実態たらしめられる。 神は純粋現実態であって本質と存在の分離はないが、すべての被造物においては両者は実在的に分離される。 天使のような知的実体の本質は質料を含まない純粋形相であるが、それが現実存在であるためには神から存在を受け取らねばならない。 ご存じのここと思いますが、トマスはアラビア哲学(つまりアリストテレス)の影響を色濃く受けています。アリストテレスにとって、神とは純粋形相であり、{思考の思考}です。あるいは、イデアのイデアと言ってよい。ゆえに聖書の神と必ずしも一致するとは言えません。

bragelonne
質問者

お礼

 n5f7g3 さん ご回答をありがとうございます。  ううんと そうですね。トマスはもう忘れていますが そしてアリストテレスにも詳しくありませんが 次の命題については把握することができると考えます。  ★ 天使のような知的実体の本質は質料を含まない純粋形相であるが、それが現実存在であるためには神から存在を受け取らねばならない。  ☆ 形相と質料という見方からすれば 純粋形相という規定がみちびかれるということ これは よく分かります。と言いますか それとして一般的な認識になると考えます。  ですから 形相を含まない質料としての純粋質料ないし第一質料つまりは 物質が それとしても別様にみちびかれ ここから 唯物論が提出されるということ。したがって物質を第一原因と見なすその唯物論は けっきょくのところ 純粋形相ないし第一形相ないし世界精神を第一原因とする唯心論とは互いに両極を成して どちらも限りなく非思考としての信仰に近づくような形而上学であるのだと。  天使が 純粋形相であるとするのは その奥の存在だと見なされる第一原因(つまり神)に従属するということであるのだろうと。  さてそれに対して 勝手にわたくしの見方をぶつけますが おそらく経験思考から究極の純粋なるイデア(形相としてにしろ質料としてにしろ)に到るという筋道は いわゆる可能無限を扱うかたちになってしまい それは いつまでもこの経験世界にとどまるのではないか。これです。  そうではなく いっそのこと 初めに《非経験》を想定してしまう。このナゾの領域を 絶対・無限・不可変性あるいは霊として 具体的には神もしくは無い神という表現形態であり得るのだという定義の仕方です。つまりは これら有神論または無神論が それぞれ唯心論または唯物論を含むかたちになる。この規定の仕方が もっともつごうがよいと思っています。  そこで 天使です。  いちばんの問題は 天使は神のもとに従属しその限りで霊的存在であると同時に 神に逆らうことがあるというふうに自由意志の持ち主でもあることだと思います。自由意志の持ち主だということは あたかも経験的に・時間的にその意志を決める つまりは意志が時間的に変わるという性質をも持つことになる。  それなら 質料と形相とを合わせ持つこの経験世界の住人であるのではないかという疑いがかかります。  しかも 神に逆らったあと その堕落かつ天からの墜落の結果においても なお霊的存在であるかのように・そして悪魔として 人間とこの世界に介入することがあると言います。それもこれもすべて 神のゆるしがあってこそだと言いますが それなら けっきょくすべては 人間が由無しごとなる図りごとを心に思うそのことの純粋概念化であり果ては擬人化であると捉えればよいのではないか? こうも思われます。  ★ ゆえに聖書の神と必ずしも一致するとは言えません。  ☆ この問題は それでもかまわないと思います。たぶん 我田引水かも知れませんが 聖書の神学のほうが ギリシャ哲学とその系譜を――特に《非思考の庭》がわが心に成るという構えにおいては――凌駕するとわたしは見ています。  とりとめないかたちのままですが このように反応しました。どうでしょう。  

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.9

No.8です。わけが分からないまま 相当に 余計な説明をしております。ご容赦を。  論理的には 宙ぶらり的堕天使から何を得ようとしているのか によって その定義は変わってくると思います。 (1)神とその教えを論理学のように構成したい とすると 堕天使は 神によって創られたものでしょう。こうしないと 神以外に神の手で制御できないモノがあるという世界ができあがり 神の世界にとっては都合が悪い と思われます。残された古文書から多神教的要素があれば一神教解釈に直していくのです。一神教の神の定義は 森羅万象の創造主ということでしょう。神にまつわる全ての物語は 定義から演繹説明されます。されないものは 論理系ではない となります。この神と非思考の『神』が同じなのかどうか であります。非思考の『神』の出現のあと 整理する段階で 論理の『神』が現れるように思います。 (2)非思考の『神』は定義(言葉)できないものであって 堕天使も同様と捉えることも可能とおもいます。論理世界ではなく 矛盾に満ちた多神の世界であります。共同主観になり得るかどうかは不明ですが 個人の中では調和的に整理されるとは 思います。  (3)堕天使の物語は 精神史の一断面を切り取っているテキストとみて 2階建考えで整理することは出来ると思います。より完成度が高い神を2階に 堕天使を1階においていいかと思います。 堕天使は完成度の低い神となります。アマテラス/スサノオを料理したのですから 神/堕天使も料理できると思います。 (4)あとは 多少 スジが通ってないが布教のための 物語と理解する ということです。 私としては(3)で料理して欲しいところです。 以上 大変失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 いやぁ じつはこの天使論は わたしは気の進まない議論なのです。―― ok9608 さん ご回答をありがとうございます。――まったく冴えない状態でいます。  天使についてではなく 天使をめぐる議論ならかろうじて次のようにできます。  イエスは 復活について次のように言ったとされます。  ◆ (マタイによる福音22:23) 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。  ☆ これについてアウグスティヌスが言うには こうです。人はその《復活の時には・・・天使のようになる》のだが 男女の性はまだあるのだと。なぜなら 《めとることも嫁ぐこともなく》という表現が用いられているからだと言います。  ところが わたしの解釈は さらに先へ行ってしまっています。  ○ 《復活》については 復活をしたときにはその人にとって《真理がすべてにおいて すべてである》(≒コリント前書15:28)と捉えます。すなわち復活が 死後の問題だとはわたしは考えていない。  ☆ という事情にあります。ですから こうです。  ○ 《天使のようになる》というのは 神としての霊(無根拠・無限・絶対)ではなく また神に仕えるあたかも霊としての天使そのものに成るのでもなく そうではないが しかも人は復活のとき まだ男女両性に分かれる肉をもった存在でありつつ天使のように成るのだと。  ☆ 分かりづらいですよね。言いかえてみます。  ○ 復活したなら人は あくまでその肉を保ちつつ人間でありつつ しかもおのれにとって《真理なる神がすべてにおいてすべてとなる》状態であるゆえ すべてが神の聖霊によってみちびかれている。  ☆ どうでしょう? つまりこれなら 《天使》は要らないですよね?  というようなことを思っていますが 公式(?)の天使論との異同をしっかりと把握しなくてはならないとは思います。    ですから アマテラス-スサノヲ連関とは ちょっと違うようにも捉えています。  もう一例 今度は天使でも 堕天使≒悪魔(サタン)の出て来る場面です。  ◆(ヨブ記1:7-12) ~~~~  ある日、主(ヤハヱー)の前に神の使い(天使)たちが集まり、サタンも来た。  主はサタンに言われた。   「お前はどこから来た。」   「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」  とサタンは答えた。  主はサタンに言われた。   「お前はわたしの僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者は   いまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」  サタンは答えた。   「ヨブが、利益(何の得)もないのに神を敬うでしょうか。    あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。   彼の手の業(わざ)をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその   地に溢れるほどです。    ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて(損害を与えて)   ごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」  主はサタンに言われた。   「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただ   し彼には、手を出すな。」  サタンは主のもとから出て行った。 ・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ サタンは そのように実行したわけです。そうして物語が展開して行きます。  もしこうでしたら つまり《ほうぼうを歩き回っていた》のなら けっきょく世間の中には悪く思う者がいないとも限らない。義しい人ヨブをねたみそしる場合もあるかと思われます。ということは そのヨブに損害を与えてやれというのは そういう人間のあしき思いのことを言っているのだと解され得ます。  ならば 天使も悪魔も そういう人間の思いや願いや訴えようとする声やのことを擬人化して言っているに過ぎないかとも考えられます。  以上は天使や悪魔をめぐるその背景事情を捉えてみました。  補足欄にて もう少し考えてみます。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないです。  まづは 趣旨説明の( d )ないし( e )を見てください。天使をどこに位置づけるか きわめてむつかしいように考えます。  被造物かそうでないか。霊的存在であるかそうでないか。自由意志を持つのか持たないのか。  神ではないが 人間でもない。ここまでは分かっています。あとは分からない。  言いかえると 単なる・神の声とするか。それとも人間の純粋思想としての思い・もしくはふつうの思想を純粋概念化して取りだしたものか。  どちらでもあるように思われますし それでは何だか坐り心地がわるいとも考えられます。  お礼欄での背景事情に属することですが もうひとつありました。  パウロが わたしたち人間が 天使をも用いるのだと言っているところです。      ◆ (コリント人への第一の手紙6:3) わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。  ◆ (ヘブル人への手紙1:14) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ◆ (同上 2:5) 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。  ☆ 天使が霊的であることにおいて人間より優れた存在なことをくつがえすことなく このようであるということのようです。  おっしゃっているところの(1)では   ★ 残された古文書から多神教的要素があれば一神教解釈に直していくのです。  ☆ になると思います。あるいはすべてを 確かに天使たちとして置きかえることになるかと思います。  (2)もけっきょくは  ★ 論理世界ではなく 矛盾に満ちた多神の世界であります。  ☆ という状態(情況)が もし天使たちと言いかえなくても 神の謂わば分身というふうに捉えることになるかと思います。(1)と同じようなことになるかと思います。  (3)はですね。  ★ より完成度が高い神を2階に 堕天使を1階においていいかと思います。  ☆ じつは ここがすんなりとは行かないと思いますね。( d )や( e )の《神のことば・あるいは霊の世界》には 《階層》はあり得ないのです。もし階層に分けたとしたら その一つひとつの層が そのまま全体の霊の世界となります。《無限》であり《絶対》ですから。《完成度》という概念が意味を持ちません。すべてがすべてである世界です。  神の世界にあっては 部分が全体と 全体が部分と 部分は部分と それぞれみな互いに同じであるからです。  ですからまたそこでは 不完全性定理が当てはまらないというのではなく そうではなく 神の世界が不完全性定理の現実をも難なく覆い包み含むということが起こっているはずなんです。  神の世界は この経験世界をニュートリノのごとくにか 全面的・全体的に浸水したかたちにてか 貫いているとも――想定上――規定されて来ます。  わたくしの見解としましては ならば 天使などを持ち出す必要はないのではないか。これです。神の声か もしくは人間の思いの純粋概念化か。で済ますことはできないか。です。  でも あまり考えて来た結果でもありませんで 多くの人の見解を知りたい・おそわりたいとも思います。  方向感のない状態です。

  • owls_
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.8

> その結果 悪魔と呼ばれるまでに堕落したというそのありさま これについてさらに知りたいと考えます。 ◇堕落したもの=悪魔 というのは短絡的だと思うのですが。ともかく、悪魔は知りませんが、「堕落した者」であれば、下記のような「仕方のない最低の脳みそ」を生まれつき持っているからではないでしょうか。その「仕方のない脳みそ」の持ち主(仮に"h "とする)が悪魔であるかどうかは下記の文章を参考にしてみて下さい。 h:ん~~なんつうか我儘ぼっちゃんでしたか。 ◇わははw 世間知らずの坊やがよく言うよ。俺を目の前にして言ってみな、ションベンちびって何もいえなくなるような気がするなあ せいぜい顔の見えないところで女の腐ったのみたいにゴニョゴニョ言ってなwww h:親には従順なんじゃないかな、君は。 ◇今日もおかあちゃんが作ったゴハンをおとなしく食べているのかい?あるいは今日もおとなしく従順に組織を維持発展するために貢献してきたとか? h:親のしつけの問題であることがわかりましたよ。 ◇そうですね、坊やが人の言うことを聞かずにわがまま言いたい放題言っているのは君の親と上司のしつけの問題だろうね。 h:つまり、本当の心のふれあい、端的に言うと愛情に飢えているわけだ。 ◇よく言うよ、同意を求める質問しか出来ないくせにw そうでなければカントがうんぬん などと言ったケナゲな質問をし、哀れだね!w「自分はこんなに真面目に賢く考えてます!」なんてアピールしなくていいっての!w h:それでここで誰彼構わず構ってもらおうと、駄々をこねている。 ◇駄々のこね方で言えば坊やのほうが上手なようだね!w h:そして、このように生き辛いのは親のせいだと思っているし、実際そうだと思うが、それは誰もが通らざるを得ない関門でね。 ◇はいはい、自分がまともな理解力と知恵をつけてから言いましょうね、「最低の脳みそ」といわれたのは理由があるという現実から逃げずに、しっかりと目を向けて頑張んなさいwww h:君はそのことに関して親と対峙する時期を逸したんだと思う。 ◇説教モードで上から目線のアピールご苦労さん。君は、君が怖がっている「肩で風を切って歩いているチンピラ」と対峙する時期を逸したんだと思うよw 怖くなくなるまで頑張ってくれたまえwww h:あ、顔が見える人とは喧嘩できないんだっけ。 ◇えーと、坊やは顔の見えない人と喧嘩が出来る人でしたっけ? h:ひとつ勉強になったかな? ◇わはは もちろん自分で皮肉だとわかって言っているんでしょうね。いくら正しいことを言ってもひどくプライドを傷つけてしまったらもう聞く耳持たなくなっってしまう、というのは勉強になりましたw h:それから、くれぐれも他人に迷惑かけちゃいかんよ。 ◇そう言う奴の存在自体が迷惑だってーの!w h:君が本当はいい子だというのはわたしにはよくわかる ◇自分の優位性と相手を貶めるための 演出的表現ですね、ご苦労様ですw  ちょっとおどかしてやったらいい子すぎて あわふいて卒倒しちゃうんだろうな!www  「仕方のない脳味噌の持ち主」とか言われてすねちゃってオレに八つあたりして悪態ついてるけど、本当はこの子は良い子なんですよ、 「仕方のない脳みそ」を持っているのは生まれつきですので仕方ない(爆)  こんな感じです。どうでしょう。

回答No.7

奇妙な逆説を仰いますね。 『「不完全性定理」の通りの現実』を受け入れ難い、と判断して、 悪足搔きをするからこそ、「饒舌」を回避し難くなるのですよ。 此処でも、矢張り、手取り足取りの説明が必要なのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 此処でも、矢張り、手取り足取りの説明が必要なのでしょうか?  ☆ なかなか飲み込めるまでにはまいりません。どうかよろしく願いたいところです。  わたしのいまの立ち位置やその考え方を述べます。  No.8の ok9608 さんのご説明を合わせて捉えるにはですが いちばんの焦点は ここでは《公理系もしくは はじめの定義》をこそ問題にしている。こういうことではないかと考えます。    なるほど確かに 《神およびその信仰》という初めの想定(また定義)も問題になりましょうが その定義を前提にしたうえで その言わば神ものがたりについての――天使をめぐっての――整合性を問うています。  言いかえると なぜこうまでして食い下がるのかと言えば 神およびその信仰という定義は それ自体においてすでに《想定》でありそこから展開する話はあくまで《物語》であるとことわっているものであるからです。  ということは たしかにここで採るべき方法は 神の物語を編むことをいっさい放棄することか もしくは人間の経験合理性の行き着くところまでは いかに饒舌になったとしても 行き着かせておくことか おそらく二つに一つなのでしょう。  質問者は まだ二つ目の方法を取ろうとしています。  一つ目の方法しか道はないということでしたら その説明をお手数でしょうが していただければありがたいと思います。  そのように食い下がる理由を述べます。  ◆(No.8 ok9608 さんの回答) 『**(は)言葉によっては認識されないもの』も**の定義〔にちなむ〕堂々巡り  ☆ の議論がありました。この議論にちなんで言えば こうです。  《神およびその信仰》の――想定による――定義においては   ( a )神は人間の言葉によっては認識されないもの  とはしていますが これはげんみつには 次のように想定して表わすべきものだからです。  ( b )神は 人間の言葉や経験思考をいっさい超えているところに想定される。  ( c )言いかえると 言葉や思考を じつは 蔽い包んでいるとも――派生的に――捉えられる。  ( d ) 有るとも無いとも人間には決められ得ないナゾの何ものかが じつは人間の・《わたし》の 心なら心の庭に はげしく接しているかも知れないし 指の先でそうっと触れなんばかりに迫って来ているかも知れない。あるいは そんな生易しいことではなく すでにわたしたちと世界のすべてを蔽ってしまっている。かも知れないとこそ言わねばならない。  こうなります。  このほうが精確です。これに従えば( a )は不案内です。    神の議論はどういうわけか 《饒舌》で不毛な《堂々めぐり》にはならないようなからくりになっている。こう考えます。どうでしょう?  つまり このことは むしろ  ★ 『「不完全性定理」の通りの現実』を受け入れ  ☆ ているからこそ起きる主題であるように考えます。  

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.6

  ご存知かと思いますが、少し不完全性定理に触れてみます。 不完全性定理は 論理学の基本を示している第一の法則と思います。第1と第2の法則があり、述語の論理では第2法則の理解で十分と思います(正確には一階述語理論)。理論とは公理より演繹して理論体系を構築していくのですが、公理は正しいことの証明ができないというのが第2法則です。公理とは定義であって その言葉を説明しても 堂々巡りになるというものです。 先に例としてあげられた『**(は)言葉によっては認識されないもの』も**の定義と思われます。堂々巡り的にいえば (1)『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』 (2)『『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』 (3)『…『『『**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』の**(は)言葉によっては認識されないもの』…』 となり **の説明は延々と続くものです。**は神であってもいいわけです。 以上のように定義とは必要以上にくどくど説明しても仕方がないものとも理解されまが 重要なものです。 問題は 使用されている言葉に定義がない(通常のコミュニュケーションでは圧倒的に多い)場合は どうするか ですが 受け取り側で意識して定義するしかないのではと思います。今回の堕落天使はbragelonneさん定義から始まる物語として展開されたらいいのではないかと思います。2階建考え方で整理してほしいところです。   参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん ていねいなご説明とご回答をありがとうございます。  そうなんです。要するに わたしは 天使論について分かっていないのです。  いままでも避けて来ましたが 今回ほんのちょっとひらめいたものですから つまり《ことば(ロゴス)》の階層の中に位置づければ或る程度はおさまるかなと思ったものですから 尋ねています。  不完全性定理には 《公理》の取り扱いもあるわけですね。定義に当たるでしょうか。  趣旨説明に述べた内容についてその楽屋裏をしるしてみます。  まづ天使についての公式(?)の定義があります。  まづ じつは天使が神の み使い(伝令)であるという限りでは 何の問題もないのだと思います。  ▼ (ヰキぺ:天使) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%BF  は、比較宗教学によればアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖典や伝承に登場する神の使いである。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ところが この神の使いである者が 或るとき神に逆らい堕落し そしてその堕落した状態で悪魔としてはたらくという話になったとき 問題は生じます。じっさい聖書の創世記でも その悪魔に相当すると考えられる《へび》が――エワやアダムを誘惑するはたらきとして――登場します。  ▼ (ヰキぺ:堕天使) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E5%A4%A9%E4%BD%BF  もともとは旧約聖書、偽典にある天使の身でありながら高慢、嫉妬、自由意志などの理由でヤハウェ・エロヒム(主なる神)に反逆し、結果天界を追放、つまり堕天された者のことを指す。  堕天使は悪魔と同一視される。堕落した天使が悪魔になったのである。これがキリスト教の教理としての立場である。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このヰキぺには 《高慢・嫉妬・自由意志》のそれぞれについて説明がなされていますが けっきょくは高慢や嫉妬からの思惟と行為とも《自由意志》による判断を経るものであるのですから 自由意志によって神の心に逆らったと考えられます。  そして仮りに天から追放され地へと墜落したとしても 天にいたということは 霊的存在である(つまり死なない)と考えられます。つまり被造物なのではないと。ところが ヰキぺの説明では 《神によってつくられた》とも書いてあります。この点も よく分かりません。  ▼ (ヰキぺ:御使い) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BD%BF%E3%81%84  § カトリック教会   ≫天主のつくり給うたもの≪の中で、最もすぐれたものは天使であって、天使とは人よりも智慧と能力との優れた霊であり、天使は、聖にして、幸福なありさまにつくられたと教えている。  ▼ (同:堕天使) ~~~~  § 堕天した理由 / 高慢によるもの  ≫天界において神の直下の座にいた≪天使ルシフェル(ルシファー)は他の天使を統べる大天使長であった。強大な権威と力をもつ彼に「自分は神をも凌ぐ力を持っているのではないか」という驕りが出てしまった。うんぬん。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし堕天使が悪魔と同じであるとすれば この悪魔(サタン)は 神によるゆるしがある限りで(ヨブ記冒頭) そのはたらきを《〔世界の創造のときから〕永遠に》為すものであるのですから やはり霊的存在でありつづけているとも考えられます。  従いまして やはり次の問いになります。  ☆☆(趣旨説明) ~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  ~~~~~~~~~~~  ☆ ひとつの解は すべてが表現の問題であり それとして物語の中で登場するに過ぎないと割りきる見方です。神の声――これも比喩ですが――を擬人化して言ったのみ。しかも ただし その声を善と悪とに分けて聞くのは 善き天使と堕天使との区分には関係なく・また神の心が揺れているのではなく そうではなく 聞く側つまり人間のその心と意志による判断にかかっているのだと。(=回答No.3でのやり取り)。  それによると 悪魔も あくまで人間のそれとしての心の動きでありへその曲がり具合いを言っているのだということになります。  あらためておしえてください。

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回答No.5

アタマと性格がはこぶる、じゃなかったすこぶる悪くて堕落したのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。そういうご見解でしたか。  ご回答をありがとうございます。  ただし  ★ アタマと性格がすこぶる悪くて  ☆ という広い性質としての定義のもとに つねに   ★ 堕落した   ☆ とは もしくは堕落するものとは 決まらないでしょう。  またその《堕落》の程度問題もあります。    その結果 悪魔と呼ばれるまでに堕落したというそのありさま これについてさらに知りたいと考えます。

回答No.4

「神の言葉」という内容の有無よりも前に、 「言葉」は対象の認識の為に存在しています。 その言葉を個人的な記録に留めず、 複数の人間達との間で共有しようと試みる際には、 相手の認識媒体の初期化もが必要になりますね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88 其の際に、独自の言葉の意味を解説する為に、 別の独自的な言葉を並べますと、どんどんと混沌に陥る訳です。 勿論乍ら、「連歌」の様に、 若し『秩序の意図的な破壊による「無常化」』が賛美されているのでしたら、 其の場合には、相手に意志が伝わり切らなくとも宜しいのでしょうから、 複数の方々が不意打ち的な表現を網羅する遣り方さえもが賞賛され得ますが、 布教等の御諭しの場合には、論理的な整合性を欠かせませんね。 でも、遺憾乍ら、たとえ論理的な説得を狙っていましょうとも、 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。 従いまして、饒舌の悪魔としまして、 後にメフィストフェレスもが某物語に登場するのです。 是もが既に常識ですが、難し過ぎますかねえ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 布教等の御諭しの場合には、論理的な整合性を欠かせませんね。  ☆ 布教もしくは《〈宣教〉 という愚かな手段》(パウロ)は もう要りません。聖書の解釈や解説が出されるのは自由ですが・そしてそういう手続きをわたしさえも踏むことはあり得ますがいまは 《天使とは何か?》を問い求めています。  すでにいただいたご回答とそのやり取りにおいて分かったと思われることは こうでしょう。  1. 天使ないし堕天使つまり悪魔についての話は 考えるに 表現の問題として起こされたものであろう。  2. 人間にとって《非経験の領域とそして〈わたし〉とのかかわり合いが想定されるとしたら そのような非思考という中身を持つ〈信じる〉という経験行為――信じるそのコトは 意志による経験行為です――》 このように非思考の庭がわが心に成ったという信仰のあり方を仮りに説明するために たとえばこの天使ないし悪魔も 物語として編まれたものであろう。  3. そこでその説明表現において《論理的な整合性》を問うことは どこまで重要で必要不可欠であるか? このような問いに代えることも出来ましょう。  4. すなわち おそらく最大の問題点は こうでしょう。《天使はいわゆる被造物ではないのに しかも自由意志を持ってそのおのれの思うところを成そうとした》 すなわち神にさからうことをおこなった。この点だと思われます。  すなわち  ★ 布教等の御諭しの場合  ☆ ではありませんで 以上のような問いに特化しています。この問題点のみを問い求めていると言ってもよろしいかと考えます。そのとき  ★ 論理的な整合性を欠かせませんね。  ☆ の問題は おそらく《仮りの説明表現として一編の物語である》という限りでは そうではなく きわめてゆるやかな整合性についての条件になっていると思われます。ただし 上に挙げた(3)(4)の問題点は ただちにゆるめてしまうわけには行かないでしょう。という懸案を持ったいまの状態であると質問者は捉えています。  残念ですが この考え方に立てば  ★ 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。  ☆ という見方は 筋がはづれていると見ます。《饒舌》であるかないかは この際かかわりません。《天使》論を たどり着けるところまでたどっておこうという作業です。  おそれられることは 天使あるいはそもそも神の議論が 必ずしも一般的であるわけではないということです。  もしこの神ないし天使や悪魔についての物語はわたしはお呼びでないという向きには そもそもそのような神学じたいがナンセンスだという議論によって 回答を寄せていただくのも一考かと思います。  このような考え方に立っています。それによりますと  ★ 従いまして、饒舌の悪魔としまして、 / 後にメフィストフェレスもが某物語に登場するのです。  ☆ という見方は 残念ながら 筋が違って見えます。それとも このような物語は いづれも全否定だというご見解でしょうか? もしそのようでしたら あらためて 上に述べました考え方・問い求めの仕方について批判を与えることによって そのご見解を説明していただければありがたい。このように思いますが いかがでしょう?  ★ 饒舌は聴衆の理解を更に遠ざけていく可能性が御座います。  ☆ であっても かまわないという立ち場に ここでは 立っています。そういう――質問者としましては――問い求めの態度であると再度申し上げてお応えとします。

回答No.3

3番の内容は、周知の通りに、「不完全性定理」と同じです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「不完全性定理」  ☆ どうなんでしょう。けっきょく判断という行為に帰着するのでしょうか?    しかも人間のおこなう判断には 経験合理性による推論にもとづいて妥当性があると認識するからそれをえらぶという場合と そしてそうではないもう一つの場合があります。  論理的に妥当でなくとも(あるいは ふたつ以上の・論理的に妥当性を有する選択肢がある場合 そのいづれがよりただしいか分からずとも) ひとつをえらぶという判断です。  不完全性定理は この判断に直接にかかわっていましょうか? どうでしょうか?  もし直接にはかかわっていないとしたら それは 特に後者の判断形式において 選択肢とその妥当性を認識するための推論やその基準を示しているだけだとも考えられます。  矛盾がないからその命題が完全であるとは言えない。あるいは 或る命題について矛盾がないとしてもその矛盾がないことをみづからが証明することは出来ない。でしょうか。  つまり こういう内容を持つ状態や情況であったとしても 人間はどれか一つをえらばなければならない場面に出会うことはあり得ます。たとえばプロポーズを受けたときや 職業をえらぶとき・会社をえらぶときなどです。  ★ 無心  ☆ がこの難題を突き抜けて行ける答えでしょうか? そのとき ときと場合によっては 天使や堕天使の物語が何かよい方向を指し示すことがありましょうか? そういう問題でしょうか。  ○ エポケー・もののあはれ・《無根拠》を根拠とする非思考の庭に立つこと・・・  * 不完全性定理の取り扱いがおかしいようでしたら お知らせくださいませ。見識がその程度ですから。

回答No.2

詠嘆的な認識内容の共有の為に、聴衆を説得すべく、 言葉の意味の説明に適した言葉を並べようと試みた途端に、 それ等の言葉の意味の説明もが言葉によらざるを得なくなり、 そうしていく裡に、どんどんと「真の自然(天地)」から解離していく。 確かに「無心」の理念が標榜されて久しいのですが、 遺憾乍ら、『我々の「認識」』は、既に言葉によって支配されており、 『「言葉によって認識され得ない物」という言葉』によってでも、 認識したがりやすい、という傾向に陥っていますね。 但し、「不立文字」なる表現にも託されています通りに、 無文字時代の事象を理解する手段にも、 何らかの価値が含まれているのでしょうから、 単純な論述への固執を一時的に休止させて、 温まった故事から新しき御諭しを獲得してほしい、 という期待を込めて、そういう方便もが拵えられたのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 じどうしゃがいしゃさん ご回答をありがとうございます。  不完全性定理としての見方はいま措いておいてわたしなりにご回答を受けとめますと  ○ すべては表現の問題である。中には 比喩やそれを用いた物語として――たとえそれがおとぎ話であっても――語ったほうが話はよく伝わることがある。  ☆ となります。  言いかえると   ○ 天使はただの方便である。神とても想定であるが その想定の上では あるのは 神の声であって それをわざわざ天使と呼んで 擬人法を用いて物語にして語っているのみだ。堕天使が悪魔になったというのも もし自由意志の問題だという見方に立てば すべては 神の声を聞きとる人間の側の問題になる。良く受けとめるのも悪く取ってしまうのも その人間の意志や境地の問題に尽きるのだ。  ☆ となります。  じつは ずっとそのように考えていました。いまもそうです。ただ《天使 あるいは 堕天使》ということが 信徒でなくても 一般的に受け容れられている側面(社会情況)があるように思われ ひととおりの定義を持つ必要がある。こう考えた結果の質問です。  もっと言えば わたしは個人としてキリストの神を信じる者ですが ゆくゆくは キリストのキの字も言わなくて済むようなコミュニケーションの情況になるであろうと考えています。そのために信仰の類型を捉え その一般論を問うています。  天使は神の声と定義しておけば済むのではないかと思っています。ただし 《かみ / 信じる》という言葉は なかなか無くならない。無くならないどころか 天使という言葉の使用の比ではなく ごく一般的に使われています。ですから その定義が必要です。  そしてこの神と信じるについて定義をしたとなると じつは 或る程度において天使についても定義が必要になるかと思われるのです。それに《悪魔》のほうは これもきわめて一般的に用いられています。  というような背景事情があります。  ちなみにの話ですが  ★ 詠嘆的な認識内容の共有  ☆ としては 日本語では《もののあはれ》があります。《あは( Ah ! )》という詠嘆のありさま( Ah-ness of things )をそのまま中立的に言ったものだと理解します。これだと《不立文字》にかなっています。  ★ 「真の自然(天地)」  ☆ というような《もの自体( Ding an sich )》としての名づけもしなくて済みます。  ただし 本居宣長は この《もの自体》について 《古神道》だとか言っていて それはかれにとっては具体的であり取りも直さず神武天皇以来のすめらみこと体制を言うようです。  つまりそれでも《もののあはれ》という用語は 遣いようによって遣い勝手があると思われます。  ★ 単純な論述への固執を一時的に休止させて  ☆ という場合のいわゆるエポケーです。判断や思考の停止というよりは 中断であり思考し判断をおこなうための一時的な《詠嘆》です。  そのような表現の問題にあって 《天使 / 悪魔》といった用語も使い勝手がよいということでしょうかね。そうかも知れません。

回答No.1

この問いには正解はない。 いや、正解があろうが誰も知らない。というべきだろうか。 ゆえに、僕が一番有力と思っている説を述べたいと思う。 天使が堕落した理由としては、高慢、嫉妬、自由意志が あげられるが、おそらく真相はこうだと思う。 太古の昔、地球には、人類が誕生する前にすでに先住人類がいた。 彼らは人間と姿かたちが同じだが、ある特殊能力を持っていた。 それは、あらゆる動植物と合体できるという能力。 それゆえ、彼らは合体を繰り返し、わけのわからん醜い姿になった。 つまり、それが悪魔、デーモン一族である。 彼らは弱肉強食の世界で生き抜くために合体を繰り返したのであった。 久しぶりに地球を覗いてみた神は、彼らのあまりにも醜い姿、飽くなき までの闘争心に驚き、消してしまおうとしたのだが、それに反対した 天使がいた。それが堕天使ルシファーである。 ルシファーは言った。「自分(神)が創ったものが失敗作だからと いって、それを簡単に消してしまっていいのか?彼らも必死で生きて いるではないか」 と、いうことで、ルシファーは悪魔(デーモン一族)と一緒に神と 戦いました。 その結果、ルシファーは堕天使となりサタンとなったのです。                  〈デビルマンより〉

bragelonne
質問者

お礼

 べりーずさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。むつかしいと言いますか ややこしいようにも感じますし。    人の創造は 二段階があったのですね。第二段階でつくられたのは いまの人類であるが 第一段階で作られた人類は  ★ あらゆる動植物と合体できるという特殊能力。  ☆ を持っていた。  ★ それゆえ、彼らは合体を繰り返し、わけのわからん醜い姿になった。 / つまり、それが悪魔、デーモン一族である。  ☆ ふうーむ。最初の人類が 動植物との合体をくり返した結果 デーモン一族となる。それが 《悪魔》だということですか。  そして あとで 神に逆らうルシファーと言う天使は 《サタン》と成った。  ○ ~~~~~~~~~  最初の人類が 動植物との合体をくり返し いわば堕人類となった。それが 悪魔 デーモン一族である。  天使ルシファーが 神に背き 堕天使となり サタンとなる。それは デーモン一族の存続を主張し守ろうとしたから。  ~~~~~~~~~~  ☆ 最初の人類が ルシファーの反対と抵抗にもかかわらずけっきょく神によって消されたのか。たぶん消されたのでしょうね。そして第二の人類のみが生き残っている。ただしサタンとなった堕天使ルシファーは それとして存続している。  ★ 天使が堕落した理由としては、高慢、嫉妬、自由意志が / あげられるが、おそらく真相はこうだと思う。  ☆ というとき そうしますと  ○ 自由意志にもとづきデーモン一族への同情を持つことによって 神に逆らった。これが 堕落の事情のようです。  ☆ ううーん。どうなりますかねぇ。  ★ あらゆる動植物と合体できるという特殊能力。  ☆ この能力が その第一の人類に《自然本性》としてそなわっていたのか? これが鍵になるような気がしますが どうでしょう?  ★ 失敗作  ☆ であったとしても 自然本性としてそなわっていたのなら 最初の人類に罪はないであろうし ルシファーがかれらを擁護するのもうなづけます。  ひょっとして  ★ ルシファーは悪魔(デーモン一族)と一緒に神と / 戦いました。  ☆ の結果は デーモン一族も存続をゆるされたということなのでは? いまも存在しているということなのではないですか? それはないですか?  ということは どうも人類の創造にふたつの段階があったのではなく そうではなく いちどの創造において人類はつくられた。ただしその中でデーモン一族に成って行くひと群れがいた。ということであるようにも思われます。それに過ぎないようにも思われます。いまもその種族は存続しているのだと。  つまりは 天使ルシファーは その一部分の種族に対する神のさばきを嫌って反対した。神に逆らった。たぶんそれでも みなゆるされたのではないだろうか。ただし 堕天使となったルシファーは デーモンたち=悪鬼たちのかしらとしてディアボロス(=サタン)なる悪魔というすがたを取るようになった。  となると 神の み使いに ふたつの種類がいることになります。神のこころに従う声と さからう声と ふたつの種類の天使がいることに。  いやぁ 分かりません。  ★ この問いには正解はない。 / いや、正解があろうが誰も知らない。というべきだろうか。  ☆ であるかも知れませんし そうでないかも知れません。  これまで――この設問を思いつくまで―― 天使とは何か? また堕天使ルシファーとはいったいどういうことでそうなったのか? についてピンと来なかったのです。ふと思いついたことを問うています。  ご回答を受けて 反応しましたが まだよく分かりません。  わたしとしましては いまの考えを寝かしておきながら みなさんからのご見解を受けて考えてまいりたい。こう思います。ありがとうございました。

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     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

     人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!