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ニーチェの言葉の英訳文

マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!

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回答No.1

>「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 The earth, said he, hath a skin; and this skin hath diseases. One of these diseases, for example, is called "man." Thus Spake Zarathustra、邦訳は『ツァラトゥストラ』ほかさまざまなタイトルで出ています。 第二部 大いなる事件(中公文庫だとp.208) 英文テキストはこちら。 http://www.literaturepage.com/read/thusspakezarathustra-147.html 最後の部分です。 >「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 Whis is it, is man one of God's blunders, or is God one of man's blunders? いくつかの英訳がありますが、これが引用句集では一般的なもののようです。 出典は"The Twilight of the Idols" 、『偶像の黄昏』として邦訳もあります。 未見のため場所はわかりません。 ただ電子テキスト http://users.compaqnet.be/cn127103/Nietzsche_twilight_of_the_idols/the_twilight_of_the_Idols.htm MAXIMS AND ARROWS の7.を見てください。 What? Is man merely a mistake of God's? Or God merely a mistake of man's? という文章があるので、このことかもしれませんし、本文で展開されているのかもしれません。 >「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 これは村上春樹の作品の中で出てくるとかで、『ツァラトゥストラ』のどこにあたるか、私もこれまで四回ほど聞かれたことがあります。 調べたのですが、正確にはこれに相当する部分はありません。一番近いこの部分から、村上春樹がインスピレーションを得て、創作したものではないでしょうか。 第四・最終部 酔歌 12(中公文庫だとp.527) O man! Take heed!  おお、人間よ、心して聞け。 What saith deep midnight's voice indeed?  深い真夜中は何を語る? "I slept my sleep--,  「わたしは眠った、 "From deepest dream I've woke, and plead:--  深い夢からわたしは目覚めた、 "The world is deep,  世界は深い、 "And deeper than the day could read.  昼が考えたより深い。 FOURTH AND LAST PART. 79. THE DRUNKEN SONG.12 http://www.literaturepage.com/read/thusspakezarathustra-340.html

yojimbo
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