天使とは?――《はじめにことばがあった》

このQ&Aのポイント
  • 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
  • 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
  • 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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天使とは?――《はじめにことばがあった》。

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

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noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ヒドッチでございます。  前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。  ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。  何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?  そしてダニエル書とイザヤ書ですか。  さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。  ★ ~~~~~~~~~  【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。    【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。    ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。    「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の    果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。  【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。  それほど大きなまちがいではないように思われますね。  それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。  たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。  さらに何かありましたら お寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。  パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。  ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~  ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。  新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。   (III)  では、実際はどうであったのでしょう?   (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。  (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。  (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。  これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?  ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。  天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・  

その他の回答 (80)

回答No.81

クライアントPCのユーザーがサーバの挙動の把握を経験し得る可能性は存在していません。 例えば、「此のサイトへの入力の際に、サーバの遠隔操作を為さっているのだろう。」 と若しかして誤解なさっているのではないですか? あくまでも、クライアントPCの側での読み書きは、ブラウザーソフトウェア上だけでの出来事でして、画面更新の際にクライアントとサーバとの間で行なわれる通信は、ユーザーの経験に「全く」関わっていません。 そこで確認の為に伺いますが、何故に無関係なのかを既に理解出来ていますよね。 因みに、最近の日本では、多くの小学生達が是を理解しています。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりません。小学生以下です。  もしどうしても コンピュータの理解から始めて 神ないし天使の問題とからめるという順序を取るというのでしたら それは ご自分でそういう質問を立てて情報交換をなすったらよい。  順序が このわたしの質問では 逆です。

回答No.80

ターミネータとかマトリックスとかの映画で極端乍らも描かれています通りに、電力供給とか接続関連のメンテナンスとか利用料金の回収とかが必要になっている事情を除きますと、ネットワークの現状維持には、最早、人間の存在が要求されていません。 つまり、既に【人間が関与する低俗な領域】を、 「通信ネットワーク」は超越しつつあるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 その超越と 非経験の領域とは 別だと 口を酸っぱくしてお伝えしつづけています。

回答No.79

例よって、質問者が教えようとなさる、という本末転倒が起きつつありますが、私の側での説明の不足が多過ぎるからなのかも知れませんから、追加の補足説明を致します。 そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。 但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、 サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、 其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。 そして、プロトコルの裏をかく「ポイスニング」の犯罪の存在が、 是迄にも報告され続けてきていますので、そういう意味では、 堕落の恐れもが潜んでいる、と言えます。 確かに、プロトコルはあくまでも「規格」に留まっていまして、繋がりの仕組みを保たたせるだけですが、ネットワークへの参加の為の開発の基準を、【OSI参照モデル】のプロトコルが開発者達に教え諭しているのかも知れません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%B1%A4 http://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 質問者が教えようとなさる  ☆ これは 誤解です。これまでにそういう振る舞いがあったとしても それは 互いに問い求めの同じ出発点に立ちたいというための質問者としての務めです。務めとしておこなっているものです。   しかも 今回は 単に質問の焦点はどこにあるか。これを明らかにしたまでです。とうぜんだと考えます。    このところ じどうしゃがいしゃさんからの投稿は この問いで問い求めるところとは 筋がずれています。そのように指摘したまでです。  ★ そもそも、神もが「繋がり(ネットワーク)の【管理者】」になってはいけません。  ☆ これはあまりにも 不用意な発言ないし考え方です。《神》を出すのに こんな漠然とした持ち出し方はないと思います。定義の問題としてはです。そうでなければ 雑談のたぐいになります。  あるいはひょっとして ネットワークのことに詳しくないからそのわたしが 汲み取れないだけかと思い直すなら それでもまづはしっかりとした初めからの定義のもとにひととおりの仮説を述べるのでないと それは通りすがりに顧慮されるに終わっても仕方がない問題提起だと考えます。  おそらくこの判断に大きな間違いはないでしょう。そこのところをしっかりと受けとめさらに 持論を展開していただくよう願います。  ☆☆(No.80お礼欄) ~~~  (あ) 神は非経験です。  (い) おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。    (う) 神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この(あ)と(い)とのふたつの側面が 同時に言えるというのが 神の存在=(あ)であり それに伴なわれる属性=(い)です。  たとえばこの命題と絡み合わせて 論じるのでなければ 筋が違っていると見えてしまいます。  次に 例証します。  ★ ~~~~  但し、プロトコルはサーバが開発される誕生の前から、  サーバによる経験に先立って存在しているとは言えましょうから、  其の意味ではプロトコルが神の象徴なのかも知れません。  ~~~~~~  ☆ この場合の《経験に先立って存在している》というのは その形相つまりアイディアとして人間の頭の中にはもともとあったのだということを意味しているはずです。  神は それらすべての経験事象を超えている。と同時に それら経験事象のいづれに対しても 遍在しているという捉え方もされ得る。こういう見方を 提出しています。  この見方に絡めて 説明して欲しいという要望を出すと 質問者が教えることになりましょうか。

bragelonne
質問者

補足

 そろそろ閉めようと思っています。

回答No.78

プロトコルへの認識が経験され「得ない」様に作られているからこそ、 其の仕組みの喩えが妥当なのだろう、と言えます。 そもそも、辿られるべき経路は、ユーザー側で認識されない処か、 中継のノードによっても認識され得ず、隣接部位だけが分かる様に留められています。 余りにも理解が杜撰過ぎます。

bragelonne
質問者

お礼

 あまりにも神を無みしすぎます。  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。

回答No.77

#75の続きです。 先ず、若し神をネットワークの外部へ配置するのでしたら、 ネットワークは破綻します。 そして、たとえ「サーバとユーザーのクライアント群との連絡を取り持つ【プロトコル】は神なのだ」と見做しましても、別の大きな問題の存在が直ぐに明らかになります。 つまり、プロトコルは文字通りの約束事に留まっていまして、閃きの提供を期待させてはくれないのです。 (※各プロトコルに準拠した製品を拵えませんと、他社製のサーバとの通信を致せませんから、企業が自社の製品の売れ行きを伸ばす為に、OSI参照モデルのプロトコルに準拠させて、PC関連の製品群が開発されています。) 従いまして、現時点では、勇み足の状態に過ぎないのかも知れません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 外部  ☆ というのは どこまで言っても 経験世界におけるどこかの場所です。神は非経験です。  おのぞみなら 神は遍在すると言えるのですから すべてに通じていると捉えたら どうでしょう。  神を何か特定のひとつのことに取り決めることが まちがいでしょう。  もし仮りに 神を経験世界における何のもかにでも決めるのでしたら そのような仮説なり理論なりをまづ提出してからの話になります。  コンピュータやインタネットの世界で 神のことをめぐって話をするのはあくまで たとえ話としてです。  それをもくつがえすというのでしたら それなりの見方を出して話をすすめてください。  同じことの指摘は もう飽きました。

回答No.76

サーバから率先してクライアント側へのアクセスを試みさせて貰えない、 という事情を皮肉った冗談プロトコルもが策定されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Hyper_Text_Coffee_Pot_Control_Protocol http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E9%A1%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8BIP

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。

回答No.75

初めに有りし約束事は何なのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 りとるきっづさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  うん?  ★ 初めに有りし約束事  ☆ ? いやいや そんなものありませんよ。あるって誰が言ったんですか?    あぁ それとも モーセのときの十戒やらその前のアブラハムとの契約の話ですか?  それなら アブラハムの《約束事》が先ですから それについて述べますが でもずいぶん何度か書いたはずなんですが。  でもそれは オモテに現われたこととしては 《父祖の地を去って 行け》という声を聞いたということです。75歳だったそうで けれどもどこかはっきりした土地を示されたのではなく 分からないままとにかく去れという声に従ったという話です。ここから 《信じる》という行為が――おそらく人類にとって歴史的に明確なかたちでは初めて――始まりました。  この信仰の中身を たとえばむさぼるなかれといったように戒めとして モーセのときに言葉として表わされたという歴史がつづきます。  さらにそのあと歴史を経て イエスという男は 自分はこれらモーセやアブラハムより前にいたのだと言い出しました。その信仰の動態が 一人ひとり《わたし》の生きることにおいて実現したよとも言いました。  イエスの前には そのような実現は無理でした。むさぼるなかれなどの戒めを生涯きちんと守ることのできる人間はいなかったからです。  パウロは これを説明して その存在じたいが完全になったのではないが その信仰の動態をあゆむその過程は たとえ脱線したとしてもただちに復帰できるかたちにおいて〔過程をあゆむこと自体としては〕すでに完全であると言いました。つまり イエスの十字架上のはりつけとその後の復活〔のうわさ〕によってそれは実現したと宣言しました。  ★ 初めに有りし約束事  ☆ というのでしたら そういう話になると思いますが 果たしてお応えできましたでしょうか。  * 初めにあったのは 《ことば》です。それと《わたし》との関係が・つまり約束事が アブラハムの時に起きたという物語です。

回答No.74

厳密な訳語に気付きました。 「初めに言葉成りませり。」 という表現こそが原義に近似しているのかも知れません。 つまり、【高天の原に成りませる神】と同じ見方です。

bragelonne
質問者

お礼

 《成る》というのも 経験事象に とうぜん当てはまります。  それを非経験のシルシとして成り立たせるのは  おそらく次に出て来る《神》などの語ないしそれを取り巻く全体としての物語の性格にあるでしょう。  ★ 【高天の原に成りませる神】  ☆ については たとえば その神が  ● 独り神に成りまして 身を隠したまひき。  ☆ でしたか そういう表現で中身を吟味させようとするまでの文章としての力量はありますが 総合的に言って 非経験のナゾの何ものかについてその文章のままで指し示すところは きわめて薄いと考えます。    アマテラスは お日さまのことです。  オホモノヌシ(物)とヒトコトヌシ(事・言)のそれぞれ神という表現については モノの究極としての物質や精神ないし概念の究極としてのイデアのようなものを想起させていると採れば採れないこともないようではあります。そのつてで 取りようによっては 非経験のナゾについて解釈が出来なくもないと思います。  ですが 総じて言って 記紀神話だけによっては 発展がその力にとぼしいと見ます。  経験世界と非経験とを峻別してください。また そのように峻別したかたちに解釈しうる文章表現を問い求めるべきです。  一文だけでは 用を成さないとも考えられます。

回答No.73

失礼を致しました。 更にもう1つの情報の追加が必要でした。 ブロードキャストの場合には、TVの配信と同じく、 受信側がキャッチ出来ているのか否かの確認をしていません。 其の際に使われるプロトコルは是です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/UDP

bragelonne
質問者

お礼

 直前のお応えにて 礼を失するとは考えません。

回答No.72

すみません。 私の勇み足なのか、微妙な修正が必要です。 そもそも、「布教」と申します行為の喩えは、恐らく「サーバ(神様)へのアクセスの為のアプリケーションソフトの【無料配布】」に相当するのだろう、と思われます。 現在には私達が当たり前の如くにインターネットへのアクセスの権利を行使させて貰っていますので、通信費を期日迄に支払っていますと、中々気付かれ難いのですが、インターネット接続(ウェブブラウジング)の為のブラウザソフトウェアは、昔からインストールされていたのではなく、昔のPCの中には存在していませんでした。 従いまして、最初にインターネット回線のサービスが提供された頃には、それを利用する為に、「様々なソフトウェア・ハードウェアの意図的な【追加】」が必要になっていました。 とすると、それ等の流布の際に「【初期不良品群】の混入」もが有り得たのではないでしょうか? そして、もう1つです。 ユーザーのクライアントPCの側ではウィルス・スパイウェア等からの侵略を防ぐべく、空きポート番号を隠す為に、毎回にポート番号を変更させていますので、どの番号のポートが開放され得るのかはサーバ側から分かりませんから、無謀なブロードキャストが出来ないのです。

bragelonne
質問者

お礼

ご回答をありがとうございます。  ですが 残念ながら 同じお応えになります。 さて おそらくコンピュータないしインタネットの仕組みとの喩えでは ぴったりときれいに当てはまっているのであろうと思われます。  それと 神とわれとの関係にかんしてどう捉えるかについては 微妙に違うところも見られる。こういう結論に行き着きます。  わたくしの立ち場からのみ捉えるなら こうなります。  《天はみづから助くる者を助く》ということわざに即して考えるなら どうなるかから出発する。  けっきょくこれまでの説明を受けて理解したところによれば こう考えられます。  1. サーバは 神ではなくて 人間とその社会としてのいとなみなる経験世界に属している。  2. 神は 天のほうである。その神は 《無い神》でもよい。  3. つまり 《みづから助く》という行為が 人間のつくったサーバなり何なりを含むそのネットワークの全体にかんする取り扱いに及ぶものだと見られる。  4. 無い神にしろ神にしろその天が そのような人間たちのいとなみを見守っている。  5. 無い神つまり無神論の場合には そういう《無い神とわれとの関係》としては 有神論と同じ類型において非思考すなわち信仰という心の場も持ち合わせているが その信仰類型を一たん確かめたあとは もうその《無い神》にはこだわらない。  5-1.せいぜいが いま取り上げていることわざやあるいは《人事を尽くして天命を俟つ》というようにたとえば《天》で言いかえるのが ふつうのようである。  6. 有神論としての信仰の場合には むろん同じように人事を尽くすのであるが そのあと天命を俟つというかたちでは必ずしもないかも知れない。それには ふたつの見方がある。  6-1. ひとつには 人間の能力と努力には限界があるとつねづね思っている。もともと《天命》には勝てないと思いつつ 能力を最大限に発揮する。人事を尽くすと言うよりは つねに――おのれの能力が磨かれて発達することもあれば情況が絶えず変わっていることもあり 全体としておのれの境地が高められることがあるとともに――振る舞い方や問題への対処の仕方も変わるはずであるから 《尽くし切る》ということはむしろないという前提に立っている。  その務めあるいは人生としての仕事について局面は変わり段階を踏むことになりステージも移って行くであろうから そのつどの一幕ごとに区切られた個別の仕事もあると考えられるが そして人力に限界があると思っているにもかかわらず おのれの務めを尽くし切るということはないとも思っている。  6-2. ひとつにはぎゃくに見ることになるが すでに《走って来た》という自負があるときには むしろ天命を俟つと言うよりは 神に対してその走って来たことの結果を堂々と催促すると言ったほうが 合っている。ただし けっきょくのところは つねに天命に俟っている。  すなわち基本的に天命に俟ちつつしかも 具体的な個々の天命を俟つというよりは おのれの務めの成果を求めて神に請求書を出す。しかも上の観点をここに加味すれば 務めの終わりという意味での仕上げはない。  こんな感じでしょうか。今回は大胆に述べています。  そうですね。  理神論という思想がありました。アダムスミスの経済学は その考え方に則っているとも言われます。  簡単に言って 一人ひとりがむしろ利己的に経済活動をおこなうなら その結果こそが――《見えざる手にみちびかれて》―― 社会全体の効率をよくし利益をも増すのだという自由市場経済の説明にあるものです。  言いかえると 市場経済に《一元的な管理者を存在させていない という仕組み》こそが 《見えざる手》の解釈としては 神の配剤によるのだということでしたでしょうか。  よく似ています。インタネット回線のその世界大の仕組みについてと似ています。  どうなんでしょう?   スミスは はっきりと《神》とは言っていないかも知れません。《 the Invisible Hand 》とのみ言っているかと思います。ただし理神論を信奉していたらしい。  どうですかねぇ。  ★ 【認識されていない神】の介在を連想させてくれている、と言えそうですか?  ☆ うっすらと言えるかも知れませんかねぇ。ただそれは どうも《認識されていない》という規定において 《非経験》のことを示唆しているゆえに そうであるだけなのかも知れません。    結論:そのように《連想させてくれる》かも知れないが 特筆大書してそう規定するものでもないと思われる。  ですかね。さらによい見解がありましたら お寄せください。

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    天使(光)=大天使ミカエル 悪魔(闇)=堕天使ルシファー が最高位ですか?? 光と闇を両方の力を持つ、天使か神は居ますか??

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

     人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!