天使とは?――《はじめにことばがあった》

このQ&Aのポイント
  • 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
  • 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
  • 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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天使とは?――《はじめにことばがあった》。

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

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noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ヒドッチでございます。  前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。  ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。  何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?  そしてダニエル書とイザヤ書ですか。  さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。  ★ ~~~~~~~~~  【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。    【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。    ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。    「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の    果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。  【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。  それほど大きなまちがいではないように思われますね。  それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。  たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。  さらに何かありましたら お寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。  パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。  ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~  ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。  新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。   (III)  では、実際はどうであったのでしょう?   (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。  (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。  (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。  これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?  ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。  天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・  

その他の回答 (80)

回答No.61

「善乗千里馬」よりも高度な次元に位置した悟り(?)なのかも知れませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 たぶん 直前のやり取りでお礼欄の末尾に書きました二点が やはりかかわっているように思うのですが。  悟りを得るかどうかが 人間の側の操作によって簡単に実現しうるという性質のものではないのではないかと。  どこかで書いておられたように記憶するのですが   ★ 畏れ  ☆ ここから――神とのつながりは――すべて始まるというように思っています。  あっ もしその方程式を破るとしたら それは それも 神の側からなのであると。(つまりその例としては 極悪人が 神のあわれみによって 一瞬のうちに我れに還るといった場合のようなです)。

回答No.60

久し振りに此方側にも参加します。 又もやデジタル通信関連の用語による喩えで畏れ入りますが、 イメージに過ぎませんから、次の通りの報告を御許し下さいませ。 つまり、先験的な言葉は神から特定の人間へ発せられていなくて、 ユーザーのPCからサーバへのアクセスの様に、 神の側が学び手達を受け入れる為に、ポートを空けてくれているのに、 人間の側から其処へアクセスする為のアプリケーションソフト(中継媒体)が失われたのかも知れない、という気がして参りました。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A1%BC%A5%C8 従いまして、妄想的な私見によりますと、 本来的に備わっていた原始心性のアプリケーションの機能鈍化こそが、 堕落の切っ掛けだったのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーん。一点。  技術にかんすることなどが分かっていないかも分かりませんが もし神とのつながりを問題にするのでしたら それは そのつながりが出来るかどうか その通常は一回きりの一時点こそが大事なのではないかと そういう思いを持つの一点です。  わが心に非思考の庭が成るかどうかのその一時点での判断です。  たしかにいつでもつながりうるという存在のあり方をしていると言えば それまでですが その《いつでも》という状態は それほど人間の側が自由に操作することが出来るようなものではないように思われます。  ★ ~~~~  神の側が学び手達を受け入れる為に、ポートを空けてくれているのに、  人間の側から其処へアクセスする為のアプリケーションソフト(中継媒体)が失われたのかも知れない、という気がして参りました。  ~~~~~~  ☆ この場合のような《アクセスするためのソフト》は たしかにその種はやどっているというかたちでそのとおりだというふうにも思われるのですが どうもそう簡単に《いつでも》アクセス可能といった状態とは少し違うようにも思えて来るのです。  微妙と言いますか こまかい事態についても詳しく知らないと何とも言えないようですが けっきょく次のことをわたしの側からは確認のために提出したいと考えます。    1. 神とのつながりは 神の側がその機会をつくってくれるものである。  2. もし神へのアクセス・ソフトヱアが失われたのかも知れないと言うとすれば それはむしろ人間がそのソフトをいつかどこかで棄てたのである。  ☆ このようです。どうでしょうかねぇ。微妙でしょうが。

noname#143207
noname#143207
回答No.59

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > どうもわたしは 世間で使われる自己責任という語の意味を誤解していたようです。  責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担である。こういう意味で言っているようなのですね その主張者は。  「責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担(税金を使うな)」ということのようでございます。  Google検索におきましても、自己責任、次にスペースとしますと、自動的に“津波”、“地震”がきております。それだけ、この震災におきましても“自己責任論”が蔓延していると察せられます。以下に一例を示してございます(2chなので、特に表現がキツイのかもしれませんが)。つまり、なんでもありの状況となっているように見受けられます。 「地震も津波 も被害にあうやつは自己責任 まあそんなバカなやつは死んでもいい」 「地震の処理費用を税金で払うのはおかしいだろ」     これは、ご質問者様が掲げられた以下のご質問にも通じるところがあろうかと推察しております。ですが、なぜこういった輩が多くなったのかは不明でございます(税金を使うと言いましても、別段、彼らは高額納税者という訳でもないと思うのですが)。 http://okwave.jp/qa/q6713001.html  > あとは 不可抗力の事態や公共性の問題などの観点から その《自己》は存在の関係性(社会性)といった基礎の上で 連帯していると見られる場合が起きるということ。こう見ていました。  実を申しますと、愚生も同じ考えでございました。 > ですから 助かって帰って来たとき 《ちょっと危険を冒し過ぎたかも知れません。ご心配をおかけしました》と言っていれば 問題はないと思うのです。そのとき実際はどうだったか 記憶が薄れていますが 何だかぎくしゃくしたのではなかったでしょうか。  ここで問題となりますのは、誰に対してか? と考えられます。マスコミに煽られた国民に対してなのか、それとも政府に対してなのか?でございます。  まず、納税者たる国民には、一言お詫びの言葉を添えておくべきだったと思われます。ですが、政府に対しましては、その必要性はないと考えております。  そもそも、イラクに大量殺戮兵器があるという名目で、宣戦布告したはずでございざます。しかも国会答弁にて、コイズミ氏が「見つかると思いますよ。フセインの死体が見つからないからフセインはいなかったことになるんですか?」と答えたにも関わらず、フセインの身柄が拘束され、処刑された今になっても大量破壊兵器が見つからない状況にあります。つまり、そもそも無理のある戦争だったかと思われるからでございます。そんな無茶をしておきながら、彼らに非難を浴びせることには無理があろうかと考えております。 > ▲ アメリカにしても、フランスにしても、たった一人になったとしても、言論と活動を通じて、justice を守りぬくことは尊いという理想があります(justice は「正義」と言うよりも、「公正さ」と訳すべきです。日本国憲法の前文では正当にそう翻訳されています)。フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。  ☆ これは 社会行動についての考え方の違いがあると思います。その公正さを実現するためには どう振る舞うのがよいかは 日本では臨機応変にするのがよいとわたしは考えます。一般には 根回しのようなこととして人びとの見方考え方を 水かさを増すように かたちづくって行く道をとります。  これは愚見でございますが、そもそも日本は、”自己決定”を育む社会ではないため、欧米諸国とは少し異なるのかもしれません。 > ☆ これは 演劇や映画のコンセプトについての見解から広げて見た場合を言っていますが このように見て来たところから考えますと わたくしが言いたかったことは ただひとつです。無謀を顧みず自由文体をすすむ場合には 無謀を顧みる人びとも世の中にはいるのだと分かった上でやって欲しい これです。  なるほどですね。了解致しました。 > ところが確かに そこで・その上で分かっていることは そのように《いまやることは無謀だと自分で分かっていて しかもほかの人びとがそのように無謀だと心の内でも思っているしあるいは時にオモテに出しても言っているということ これも分かっている人間》に対しては 日本人の一般は もう相手にしないくせがあるようなのです。  仰れますように、 かような人達には以外と冷たいところがあるのかもしれません。 元来日本人は義理人情には厚い国民かと思われるのですが、こういった方達には案外冷ややかなのかもしれません。 > ということは どうなのでしょう。ひとりの素朴なスサノヲには その行動にも圧力を加えて押さえようとする勢力があるとともに それを評価する人びとがいるということでしょうか? 世界の趨勢は 後者である場合がしばしば見られるということなのでしょうか?  世界一般からしますと、 その当時でおいてすら、 後者の方達はしばしば見られるかと思っております。残念ながら、日本では、かなりの時間が経過してから、というのが多いように見受けられます。 > わたしの考えでは 思想つまり社会思想は そういう文学的な自由さですすみますねと見ると同時に 理論は けっきょくアマテラス公民の(つまりは一般に社会科学の)立ち場にも立って 打ち出すものと考えています。スサノヲ市民およびアマテラス公民の全体観として言い出すものと考えていました。自己責任についても そういう観点から見ていたと思います。  果たして わたくしは変わっているでしょうか?  いえいえ。そんなことはないと考えております。ただ、ひどっちクンも変わり者扱いされております故、残念ながら、愚生には説得力が幾分欠けるかもしれませんが・・・ > 日本の社会民主党は 為政者の立ち場に立ってというよりは 社会思想家の立ち場からものを言っていると思います。素朴なスサノヲでしょうか。  確かに、沖縄基地に関しましては、非常に筋が通っていた(筋を通していた)かと推察しております。おそらく、この件では、評価が高まったとも耳にしております。  現在の社民党につきましては、詳細を存じていないのですが、以前の”社会党”と呼ばれていたときには、自民党なんか比べ物にならない程、保守的な政党であったと耳にしたことがございましたが(友人の父君が社民党の市会議員をしておりまして、そこからの伝聞でございます)・・・ > 日本共産党は その見なしは 現在の社会現実を飛び越してしまっていると思われます。  現時点におきまして、日米安保破棄は非現実的かと考えております。また、多数決を認めない というところも少し愚生にはついていけないところがございます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ▲ フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。   ☆ これは《知識人》が知識人としておこなうという特別の要素もあるのかも知れないと思いました。言いかえると 公共の仕事をする人びとの中で 弱者や少数意見の側を擁護する人つまり同じ公民がいるかたちではないかと。市民は デモに繰り出すのではないかと。  自己責任の使い方を思うと 何だか情けない思いになって来ました。そう言えば ここでも荒らしをする場合は けっきょく破れかぶれなんですね。自己責任という味気ない考えにみづから閉じこもって行こうとしているような。  けれども すべてが言いっぱなしであるという特徴は もっと広くひとかどの文章を書く人の場合にも 現われます。おれが書くものを 受け容れるなら受け取れ いやならそれでよいと言っているようです。独我論が流行るわけです。  どうも暗くなって来ました。日本人は死んでいるのでしょうか? などの問いを問うていたとき そこまでの認識がなかったものですから。  どうしましょう?

noname#144995
noname#144995
回答No.58

つまり、聖霊の風に吹かれていたいのだという事でしょうか。 ここで、心が清められていなくてはならないとありますが、心が清まるとはどういった事を言うのでしょうか?邪心がなくなるとかそういうことですか? 隣人を愛するについては、おっしゃりたいことはなんとなくわかりました。隣人の内部にも聖霊が宿っているから大丈夫だ、みたいな事でしょうか。 つまりブラジュロンさんの中では、天使とは聖霊の事であると決まっているのではないですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ つまり、聖霊の風に吹かれていたいのだという事でしょうか。  ☆ 何となくそういうふうに表現をされると あれっ ちがうかなという感じを持ちますが うまく反論できません。  ★ ここで、心が清められていなくてはならないとありますが、心が清まるとはどういった事を言うのでしょうか? 邪心がなくなるとかそういうことですか?  ☆ これは 主観です。また主観と主観とだけの対話です。まったく自由に拒み得ます。きよければ神が――天使をつうじて――おとづれる。神があなたの心の窓をノックするなら あなたの心はきよい。そういったことにおいて すべては主観です。そういう限定した話も出しました。  ★ 隣人の内部にも聖霊が宿っているから大丈夫だ、みたいな事でしょうか。  ☆ あぁ えぇ そうなのかも知れません。かも知れないというのは そう思って行動してはいないからです。きわめて通俗的に日本語なら日本語で話し合えば 言おうとすることは通じるはずだと思って 隣人とともにあるほうを――その流れやたとえば津波にさえ流されるとしても――基本的にえらぶということだと思います。  ただ この頃は――この今年に入ってからのことです――変わって来ました そう言えば。それを忘れていました。以前の通例として答えていました。  この二月三月には わたしにとっては大きな事件がこの質疑応答の場でありました。いまこのように自分の考えを明らかにして発表しつつ情報交換をしているその営みのようなことについて 時が満ちるということが現われました。時が満ちたのです。  したがって このように時が満ちたからには その転換のことをもしっかりと自己表現の中に表わして行こうと思っています。たとえば同じことの繰り返しになるようなら その対話を――それはもはや対話ではないと見限って――原則としてやめようと考えています。その実行にすでに入っています。たとえば ブロックするといったことです。  そのほうが 相手は おのれの心に返り見ることになります。またそうしなければ 堂々巡りになります。つまり 実際問題としてもうかれこれ三・四年は 同じことの繰り返しや水かけ論のみをおこなって来たという事情があります。これを嫌い これを切ることにしました。  ★ つまりブラジュロンさんの中では、天使とは聖霊の事であると決まっているのではないですか?  ☆ これは 違います。聖霊は 神です。天使は み使いです。

noname#144995
noname#144995
回答No.57

なるほど、なんとなくつかめました。スピリトゥス、つまり神界と呼びうるような世界があって、それは世界に遍在していると。しかし直接的な経験はできず、かみの声、つまり天使によって間接的に認知されるだけだと。しかもそれは非思考のもので、いわば経験として与えられる。そして、その絶対なる神界からのメッセージを聞いて随うのであるが、なぜか苦境に導かれることがある。それを悪魔と呼ぶとする。(垂直の壁とは絶望的な状況と解釈しました。) ここで疑問に思ったのは、何故神界を不可侵の絶対領域として認めるのであろうかという事です。 質問者さんはどうしたいのか、どうなりたいのか、と言うところも知りたくおもいます。 ある人々は神に近づきたい、と思うでしょうし、神界を経験したいとも思うはずです。 しかしブラジュロンさんは、あえてそこは不可侵の領域として、非経験の謎と設定されている。その意図は何なのかと言うことが気になります。 私の場合なら、神域は経験されるべきで、それを目指すという方が、しっくりきます。それは素晴らしいものであるのなら。 経験世界を超えているのに、遍在であるということもまた不思議です。遍在であるなら既に(その神界を)経験しているとさえ言えないでしょうか。経験されているが遍在であるために認知できない、そういうならばわかる気がします。透明は見えないが、色彩の成り立つ前提としてあるようなものです。神界は透明のようなものではないのか? この質問におけるブラジュロンさんの方向性としては、悪魔に見えたものが実は天使なのではないか?ということを考えてみたいという事でよろしいでしょうか。 (悪魔が実は天使であったかどうかと言うことは、結果を見なければわからないともいえますが、)できることは、苦境に立たされているその時点で、自分がどうあるか、その時点で最善の選択をするということよりも、自分の有り様によって行く先を決定させるといった方が、よいでしょうか。 苦境に立たされると、いつもの自分ではいられなくなりますし、逃れたいという必死の思いに奔走することになると思います。ですがそうではなく、常に自分自身のあり方を確立して、苦境にあっても動じないということが、結果的に良い方向へ人を導くのではないかと思います。そのとき、自分には確かな天性、あるいは神性があったといえるのではないかと思います。そのようなことができる人は稀だと思いますが。。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  二点ありますね。今回はどちらにも反論いたします。  ★ ~~~~~   ここで疑問に思ったのは、何故神界を不可侵の絶対領域として認めるのであろうかという事です。  質問者さんはどうしたいのか、どうなりたいのか、と言うところも知りたくおもいます。  ある人々は神に近づきたい、と思うでしょうし、神界を経験したいとも思うはずです。・・・  ~~~~~~~  ☆ 違う観点というのは こうです。天使をつうじてということになるのでしょうが 神は 神のほうからわたしたちに近づく。これです。この命題を持っています。なぜか?   神は 風のように吹くのですし 神はいつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。  からです。えこひいきするからです。  そのためには 心がきよめられなければならなかった。心の清い人はさいわいだ 神を見る。ゆえに。  ★ ・・・常に自分自身のあり方を確立して、苦境にあっても動じないということが、結果的に良い方向へ人を導くのではないかと思います。  ☆ わたしの考えでは その情況その当事者たちにそれぞれ正面から向き合って その相手にきちんと向き合ったかたちにおいて言わば成り行きに従ってすすむ。これが 偉大な振る舞いであると考えます。  その心は ともに――隣人とともに――その絶望の苦境から・つまり悪魔から脱出するのだという方程式にあります。  《隣人を愛せ》に 神を愛することが含まれていると思うからです。  つまり 苦境にあって 神を信じる者は 《動じる》のです。情況に沿って思いっきり動じます。揺れますし 悩みますし よれよれにまでなります。神がそのわたしを練り上げてくれます。ほどよい仕上げですよ。それでないと 純金はできにくい。でも 純度100%にまで行くと これまた 周りからけむたがられます。

noname#144995
noname#144995
回答No.56

非経験の謎といわれているものがなんなのか、よくわかりません。それが、未だ経験されていない事柄の事なのか、原理的に一生経験できない事柄の事を指しているのか、またそれが謎だといわれているところがさらによくわかりません。質問者としてはこれがキーワードになっているようなので、これを理解せねば問答もおぼつかないと思います。補足お願いできますでしょうか。 また、垂直壁と言う表現がありますが、これも良くわかりませんでした。ずいぶんと独自の世界を構築されているようですし、いきなりで理解するのは難しいと思いました。垂直壁という表現ですが、これについても補足お願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~~~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで《天使(α’)》の横線の上と下とで 非経験と経験世界とに分かれます。非経験というのは 経験世界を超えているところという意味です。絶対=無限=不可変性などと同義です。  人間が経験しえないところと言えば 《なぞ》です。  ところが この相対的な経験世界を超えているということは――その想定にもとづくなら―― その非経験の領域は じつにこの経験世界を覆っている。包んでいる。あるいは つらぬいている。とまで言えることになります。つまり 神は遍在するという帰結になります。そういう問題もあつかっています。  遍在しているそのナゾの何ものかが 仮りに声を発するとすれば それを人間の側が受け取るとき 言ってみれば天の使いというふうにも言ってみる。こういう主題です。  ところが われわれは その天使の声によいことばかりを聞くわけではありません。悪いことを聞きますし 悪い情況つまり苦境にもあたかもみちびかれることがあります。その苦境に立ちはだかる垂直の壁 これのことをも悪魔と呼びたいのですし その情況にみちびいた声(ないしはたらき)をも悪魔と呼びたい。  けれども ゆくゆくは(つまり その苦境の進展するにしたがって) この悪魔だと思っていた声は やはり天使であって 実際には神のみちびく手だったと気づくことがある。のではないか?――こういう問いを前にしています。  ○ 垂直壁  ☆ No.26補足欄で 悪魔をそのような情況のこととしてたとえたものです。《垂直壁》という言い方にしてくださったのは ok9608 さんです。=回答No.38。

noname#143207
noname#143207
回答No.55

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ★▼ 1)「自己責任」の現在の一般的用法・・・  ☆ この場合の《一般的》という言葉には 困りました。わたしはあくまで誤用であると一般的に思われているものと思っていました。  誠に申し訳ございません。出典の記載を忘れておりました。ソースを以下に示してございます。上から目線の「自己責任」を揶揄したものとなってございます。誤解を招く表現となってしまい、深くお詫び申し上げます。 http://www.jlp.net/letter/040615d.html (労働新聞からのものでございます)  なお、イラク問題のときにも「自己責任」が叫ばれましたが、本家(?)の欧米人は、「なぜ、自国民の人質に対して、こんなに冷たいの?」と不思議がっていたのを記憶しております。 参考:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/mm/mm34.txt  ・そもそも、イラクへの入国を日本国が禁止したことは一切ないこと(外務省から、退避勧告は出ていましたが、退避命令は出ておりませんでした)。 ・国民の生命と財産を守るのが国家の役割で、それを放棄されてしまいますと、国家不要論が出てきます。  以上から、「自己責任」と一蹴するのは、おかしいと判断しております。  そこで、ご質問者様の見解につきまして、愚見を述べさせていただきます。 > (1) すべての思惟および行動としての自己表現は それに答責性がともなう。  “自由”、この単語は、福沢諭吉( or 西周)によって和訳されたものかと記憶してございます。freedom, liberal の語源は略させていただきますが、自らが由と(よりと)判断して、行動・発言することを意味しているかと考えております。  従いまして、必然的に答責性が伴う、と解してございます。 > (2) その意味で 自己責任が 原則である。  後述させていただきたく存じます。 > (3) 自己責任の範囲にあることは すべてそのまま自己が負う。  はい。“人様でなく、自らが負う”、まさしく仰るとおりかと存じます。 > (4) 自然現象などの不可抗力が人びとの共同自治にとって支障をきたす被害をもたらした場合 これは公共のこととしてあつかう。  このご見解につきましても、意見を等しく致します。もし、共同自治に住んでいる人たちが甚大な被害を被った場合、それを支えていくのが地方自治の役割かと思われるからです。もちろん、国家権力の乱用を防ぐためにも、住民が主体となります。 > (5) 原子力発電所にかんしても 住民が家屋に被害をこうむったことと同じように扱われる。さらにその放射能にまつわる第二次災害についても 同じである。  原則、公共性の高い発電所に関しましても、当てはまると考えられます。ただ、「原子力損害の賠償に関する法律」というものがあるとのことです。原則、無過失責任が要求されているのだそうです。ただ、賠償額が巨大になりすぎますと、国が支援する、ということになっているようでございます(国が支援するのをシブッているようではございますが)。  従いまして、東電と、国(最終的にはおそらく)が共同で補償していくことになるようでございます。 (無過失責任、責任の集中等) 第三条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。 (国の措置) 第十六条  政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第三条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。 参考:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO147.html  > (6) つまり 自己責任の原則を基礎として その上にさらには不可抗力の問題あるいは公共性の事実にかんがみる場合 連帯責任ないし原状復帰への連帯行動をも 同じく原則とする。  自己責任、“self-responsibility”にもございますように、”self”が主体となっております。つまり、”self”を超えたものにつきましては、公共性鑑み、連帯責任・連帯行動が要求される、と解されます。 > (7) 法律が明示していなければ この原則にもとづきあたらしくつくることとする。  ここまで、この言葉が独り歩きしてしまうのでしたら、新たに定義づけした方がよろしいかと考えております。  そこで、(2)とも関係するのですが、何時ごろから、「自己責任」という言葉が出てきたかということでございます。  以前は、「自分のケツは自分で拭け」、「自分のまいた種は自分で刈り取らねばならない」等の言葉がよく似た意味で用いられていたかと記憶しております。  そこで、”自己責任”、“self-responsibility”で検索をかけましても、それらしいものがヒットしてこないのです。  1999年には、既に見られていたようではございます。おそらく、銀行への公的資金注入の問題が生じた頃ぐらいかと思っているのですが、もし、ご存じでしたら、ご教示いただければ、幸甚に存じます。 参考:玄倉川水難事故(くろくらがわすいなんじこ)は1999年8月14日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%80%89%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  どうもわたしは 世間で使われる自己責任という語の意味を誤解していたようです。  責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担である。こういう意味で言っているようなのですね その主張者は。    わたしは 自己表現にはつねに答責性があるということ。そしてそれゆえ そのおのれの意志行為である(あった)という事実は つねに引き受けられているということ。――ここまでのことを言っています。  あとは 不可抗力の事態や公共性の問題などの観点から その《自己》は存在の関係性(社会性)といった基礎の上で 連帯していると見られる場合が起きるということ。こう見ていました。  ★ 玄倉川水難事故  ☆ 被災者らは 災難に遭った本人としてまづおのれにその答責性を求めるのが ふつうだと考えます。その意味での自己責任は 原則であり しかも自然災害などの観点から――自己責任の原則を離れてではなく その原則の上にと考えるのですが――公共の支援や助け合いがおこなわれると見ます。  ほかの場合も同じようです。  ▼ (イラクにおける日本人人質事件) ~~~  パウエル長官(2004年4月15日)  ( a ) そうですね。誰でも、危険地域に行くことのリスクは理解すべきです。  ( b ) だからといって誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私たちには前進はなくなります。私たちは私たちの世界を前進させることはなくなるでしょう。  ( c ) …ですから、私は、あの日本人市民が、より偉大な善のため、より崇高な目的のために、自己を危険に曝したことは嬉しいことです。  ( d ) 日本人は、そのようなことを進んで引き受けた市民を持っていることを大いに誇りに思うべきです。  ( e ) またイラクに派遣された、危険を引き受ける用意がある、あなた方の兵士のことを大いに誇りに思うべきです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ( a )から( b )へ話が移るときの考え方にはっきりしないところがあると考えます。  ( a )は 答責性をともなう自己表現の行為を言っていると見られます。そのあと わたしの考えでは その意味での自己責任性を別の場所に置くということをしないで その原則に立って社会性の問題は捉えていくものと思っていました。  言いかえるならこの場合には 《リスクを引き受ける》ことは 多少ともほかの人びとの同意を得ておこなうものだと考えます。  ルモンドの場合は   ▲ 人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに  ☆ ということですが この見方も わたしなら自己表現(あるいは文体)の原則の上に成り立つものと思うのです。言いかえると 少なくともその若者本人たちは おのれの責任を思うはずだと思っていました。つまり 国が人質状態からの解放を成し遂げることや人びとがそのために協力することも その自由文体という原則を互いに確認し合っておこなうことだとです。  ですから 助かって帰って来たとき 《ちょっと危険を冒し過ぎたかも知れません。ご心配をおかけしました》と言っていれば 問題はないと思うのです。そのとき実際はどうだったか 記憶が薄れていますが 何だかぎくしゃくしたのではなかったでしょうか。  ( c )は 《より偉大な善のため、より崇高な目的のために》の中身をどう考えるかで 人それぞれだと思います。一概に決まっているとは考えません。それは( e )の場合も同じだと思います。つねに主戦論と非戦論との両方の見方を考慮するほうがよいと思います。  ルモンドによる評論として  ▼ 解放された人質が「イラクで仕事を続けたい」と発言したことをきっかけに、「日本政府と保守系メディアの間に無理解と怒号が沸き起こった」  ☆ とのことですが 怒号は別として《無理解》は 一理あると考えます。ほんのひとこと 《また人質になってご厄介をおかけするかも知れないのですが わたしの気持ちと考えとしては》とつけ加えて欲しかった。  ▲ 「日本では人質が解放費用の支払い義務」  ☆ これは 自由文体にもとづき いちおうその災難経験者たちに向かって言ってみるということだと見ます。支払えなければ 国民が負担しますよという意味でひとこと伝えるものと考えます。  ▲ アメリカにしても、フランスにしても、たった一人になったとしても、言論と活動を通じて、justice を守りぬくことは尊いという理想があります(justice は「正義」と言うよりも、「公正さ」と訳すべきです。日本国憲法の前文では正当にそう翻訳されています)。フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。  ☆ これは 社会行動についての考え方の違いがあると思います。その公正さを実現するためには どう振る舞うのがよいかは 日本では臨機応変にするのがよいとわたしは考えます。一般には 根回しのようなこととして人びとの見方考え方を 水かさを増すように かたちづくって行く道をとります。  杉原千畝の場合は 一人で行動せざるを得ないと判断したのだろうと考えます。ですから その決断は政府に背くという腹を決めてやったのだと思っていましたら あとで戦後になってなおもかれは 外務省職員の地位にとどまろうとしています。そこが わたしの考える自由文体という原則との違いです。背いたという自由行為を引き受けなくなっていると見るからです。  ▲ 田中正造のように justice のために、孤独な闘争を続けた人もいます。  ☆ ほかに道はなかったのかも知れません。直球勝負をつらぬいたのだと見ます。  ▲ ~~~~~~  日本人は「プロットを運ぶことばかり考えて」、「完結的」で、「自分が『わかっているところ』」でしかしないのです。観客は無視されています。日本人の「小ささ」はこうした自己完結性から生まれます。  コンセプトさえしっかりしていれば、「むしろ未完のまま、理由づけされないまま、存在としての幅を広げてくれること」が望ましいのです。  世界が求めているのはそういう姿勢です。  その逆が正しいと信じているとしたら、国際社会にとってではなく、自分にとっての国際貢献でしかありません。  人質になった被害者はイラクに「自分の手からなにものかを手離す」ことを実行してきました。それを「自分が『わかっているところ』」でしかしようとしない人たちが責めているのです。被害者に好意的なメディアでさえ、その判断を疑問視していますが、「自分が『わかっているところ』」でしか物事をしない認識に毒されている証です。  ~~~~~~~~~~  ☆ これは 演劇や映画のコンセプトについての見解から広げて見た場合を言っていますが このように見て来たところから考えますと わたくしが言いたかったことは ただひとつです。無謀を顧みず自由文体をすすむ場合には 無謀を顧みる人びとも世の中にはいるのだと分かった上でやって欲しい これです。  ところが確かに そこで・その上で分かっていることは そのように《いまやることは無謀だと自分で分かっていて しかもほかの人びとがそのように無謀だと心の内でも思っているしあるいは時にオモテに出しても言っているということ これも分かっている人間》に対しては 日本人の一般は もう相手にしないくせがあるようなのです。  ということは どうなのでしょう。ひとりの素朴なスサノヲには その行動にも圧力を加えて押さえようとする勢力があるとともに それを評価する人びとがいるということでしょうか? 世界の趨勢は 後者である場合がしばしば見られるということなのでしょうか?  わたしの考えでは 思想つまり社会思想は そういう文学的な自由さですすみますねと見ると同時に 理論は けっきょくアマテラス公民の(つまりは一般に社会科学の)立ち場にも立って 打ち出すものと考えています。スサノヲ市民およびアマテラス公民の全体観として言い出すものと考えていました。自己責任についても そういう観点から見ていたと思います。  果たして わたくしは変わっているでしょうか?  * 日本の社会民主党は 為政者の立ち場に立ってというよりは 社会思想家の立ち場からものを言っていると思います。素朴なスサノヲでしょうか。日本共産党は すでに現在において或る社会制度が潜在性としてでも現実であると見なした上で 為政者の立ち場に立っているように思います。その見なしは 現在の社会現実を飛び越してしまっていると思われます。

noname#144995
noname#144995
回答No.54

文字の訂正です。 ・私は次のように考えました。原書の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、云々→私は次のように考えました。原初の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、云々 ・c)の返答部分、石と言う漢字を、意思にしてください。 ・d)むしろことばがあり気で・・→むしろことばがありきで・・ 誤字多くてスミマセン。

bragelonne
質問者

お礼

 了解。

noname#144995
noname#144995
回答No.53

人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。なぜなら、ラチオ以下様々な言葉の種類は皆、ラチオによって解説されているからです。今話している言葉もラチオであるはずです。 私は次のように考えました。原書の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。 その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。 このような考え方を持ちました。 故に、 a)内なることばと聞けば、それは想いであるのではないかと思いました。 b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか? c)ここでいう命とは、感動の事ではないかと思いました。石が伝わることの感動、伝わらないという闇の中で、伝わるという光、そのように思いました。 d)神を何故ことばにたとえたか、むしろことばがあり気でなぜそれが神になったのか、と言うほうが私にはわかりやすい問いではありますが、その階層は、 神としての言葉               =原初の言葉 天使としての言葉              =少し文法や単語が生まれた段階 経験事象としての光なることば(ひらめき?) =言いたい事をずばり言う直感のようなもの 人間のことば                =現代の我々が使用している言葉。 e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。 f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。 以上が別の観点から見た解答になります。 もう一つ回答があります。それは、人が目指すそれについてです。究極、人はどのようなことばを話し、どのような体験をし、どのような振る舞いをなすものなのかと言う問いから見た、今回の設問における考えです。 この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。これに沿うと、 a)それは思想ではないが、いわば航行する船における羅針盤のようなものであり、言葉や行為、経験などを導くそれであると思う。   b)むしろそれは人間のそれであり、つまり、なにか究極を目指して歩く人の生き方なのであり、堕落とは正反対に作用するものであると思う。この場合の天使は在るというだけであり、人堕落させることもないし、自らが失墜することも勿論ありえない。羅針盤は只指し示すのみであると知られる。   c)喩えを羅針盤の変わりに道先案内人とするならば、霊的な命はあるといって良いかもしれない。生命体としての命ではなく、生ける言葉としての命と言う意味で。どちらに進めばよいかわからない、何をすればよいかわからない、という暗闇の中で、それは確かに明かりであるといえると思う。闇夜に星々が輝く。人類はそれによって息を吹き返すとも言える。   d)言葉をブラッシュアップすれば大体はそのような階層分けのようなことも可能なのかもしれないが、(δ)に挙げられている人間のことばは、ここでは、常用の言葉と言い換えた方がよいかもしれない。 e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。だから、使いと言うよりは、子供と言う方がしっくりきます。子供は成長すれば大人になるのであり、その意味でも、使いと言うよりは子供の方が相応しいと思います。 次にインスピレーションですが、本質的な事柄を言い当てた言葉のことをインスピレーションと言ってよいのかどうかわかりません。ラチオについても、かならずも論理的であるかどうかはわかりません。感情的なものもあるだろうし、言いきれないと思いました。   f)もし仮に、道を歩くことだけで満足して目的に到達せずとも良いと考えた人があるとします。この人の歩みは歩みといえるものでしょうか?堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。 大人になどなりたくないと言う子どもの様でもあるかもしれません。 傍から見れば十分大人であるのに、本人はおとなになりきれておらず、やんちゃばかりしている不良少年の類と言っても良いかもしれません。そしてそのままヤクザになった少年のような天使が、悪魔ということになるのではないでしょうか。どうして堕落して悪魔になったか?それはわからずやだったからです。勘違いのバカヤロウということになります。法を逸脱することではくがつくと思っている人たちと一緒です。究極を求めない人はさておいて、究極を一時は求めておきながら、途中の求めているだけで満足してしまい歩みをやめてしまうような修行僧と同じかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。  ☆ すなわち《人間を中心に見て考えると》であるようです。  すなわち次のように 人間という目から見てのことです。  ★ ~~~~  私は次のように考えました。原初の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。  その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。  ~~~~~~  ☆ すなわち人間の目が中心でありおそらく最高のものだという前提があるのでしょう。  《スピリトゥス》は 《非経験》だと言っているのにです。それを《ことば》と言っているのは あくまで仮りの表現です。シルシとしての《ことば》が神ではありません。《神》ということばもほんとうの神ではありません。《神》という文字も神ではありません。k-a-m-i という発音も神ではありません。  非経験なのですから 人間の能力では表象し得ません。  それでも 人間はこの神を想定して 言語習慣の中でも用いています。その神が ただ一つの言葉にまとまってしまうと人は窮屈に感じますから たとえばそれを《無い神》と表わす場合も出て来ました。そういう事情として捉えたら いかがでしょう。  あとは この事例に即して 《経験事象》と《非経験のナゾ》とをげんみつに分けて捉えてください。    経験世界に属するもの:  ★ a)《内なることば》と聞けば、それは《想い》であるのではないかと  ★ c)ここでいう命とは、《感動》の事ではないかと思いました。《意志》が伝わることの感動、伝わらないという《闇》の中で、伝わるという光、そのように思いました。  ☆ 《命 / 光》は 両様に使われています。経験事象としての場合と非経験を仮りに表わすための場合と。  ★ b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか?  ☆ ここでは悪魔=堕天使ということを主題としていますので 《堕落しうる》ということに絞っています。  ★ e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。  ☆ ありがとうございます。  ★ f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。  ☆ ですから 悪魔という主題に絞るということは 人生において遭う苦境のことを問題にしています。自分の前に立ちはだかるいわば垂直壁は 悪魔に見えるのではないかといった事態です。  ★ もう一つ回答があります。・・・この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。  ☆ このように捉える視点は おおよそ上にわたしが述べましたその内容と同じ方向を向いていると思います。    ただしその具体的な中身は さまざまな観点から考えられ表わされているようで 光が乱反射しているかに思いました。例示します。  ★ e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。  ☆ クレドは 非経験なる神をわが心に受け容れるというその行為を表わした定義のしての言葉です。用語がふさわしくないとすれば そのように議論しますし そうでなければ定義として仮りでにも受け取ってください。  ★ 究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。  ☆ おそらくわが心においてつまり主観としては神は《明らかであるはず》なのでしょう。ただし一般の定義としては 非経験なのですからどこまでも《なぞ》です。それ以外にこの場合は考えられません。よ。  ★ 次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。  ☆ おそらくこう見るのが 一般的ではないでしょうか? すなわち《究極のことばなる神の使いとしての天使は 純粋思想であって それがあたかも神の声として人にとどくことがあると捉えられる。そのとき この天使は 人間にとってすでにわが心の〈内的なものであって〉よいでしょう》と。  《人の内的願望 あるいは希望・・・から発生したもの》は それとしてありましょうが もしそれが天使やましてや神のことだと言ってしまえば けっきょく人間の思いが天使であり神であることになります。矛盾です。非経験だと言っているのですから。  ★ 堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。  ☆ もし天使が純粋思想であるなら それを擬人化してそういう堕落の物語をつくることも出来るかも知れません。たぶんそのときの問題は その堕天使が悪魔として 人にとっては苦境に遭ったときの垂直壁になるという事態をどう見るかです。そういうかたちで これまで問い求めて来ています。  そこのところが いまひとつ腑に落ちるかたちでぴったりとした説明が得られていません。そのような状態です。

noname#143207
noname#143207
回答No.52

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > でも自己責任という言葉の定義をしっかりとしたほうがよくありませんか?  はい。以下に愚見を述べさせていただきます。 1)「自己責任」の現在の一般的用法 「考え方が違うのだから「自己責任」だと、いつから日本人は「成熟」した(?)西欧人になったのかは存じませんが、お上に対しては何も言えず、「普通」の人には汚い言葉を吐き、自分より弱いと判断したらさらに追い詰めていく。このときに用いられる言葉」 2)「自己責任」、近代法の原則 「自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。従って他に責任を負う者が居るのに、事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」を意味するものではありません。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB 「自己責任」からでございます   仰られますように、まずは“責任”がどれだけの人たちまでに及ぶかを検討する。そして、もし及ぶとするならば、その範囲内で幾分かの責任に対して甘んじてもらう。しかし、往々にして個人としては責任を負いかねる問題がときには生じる。このときは、国・地方(もしくは国民)をあげて支援する。 3)そこで、この震災の件について、当てはめてみますと、 ・「個人の住宅に関しては全て自己責任とするのは仕方ないでしょう」との意見に対して  愚生はこれを否定致します。たとえば、道幅が2m未満の道路に面した土地に住居を建てるのは、まず間違いなく役所からの建設許可が下りないはずです。ですが、この被災地におきましては、役所は建設許可を出しています。つまり、許可が下りた一般市民はその役所(安全性)を信頼してしまうと思うのです。つまり、少なくとも住民以外にも責任を負うべき存在がいることは確かだと考えられます。従いまして、自己責任は当てはまらないと解します。 ・「原発を誘致した自治体は、国から多額の地方交付税を貰いハコ物をどんどん建て、財政再生団体に転落した北海道・夕張市が羨むくらいの優雅な暮らしをしてきたのだろう。」との意見に対して  単なる、ヒガミ根性、それ以外ものを見出すことは愚生にはできないというのが率直な感想でございます。同じ同胞なのですから、手を差し伸べても何ら問題はないものかと考えております。 > ☆☆ ~~~  そこで神の聖霊のもとに生きている人間は どうこれを見るか。  まづは課題として示しておきたいと思います。  ~~~~~~~  今回の震災につきまして述べさせていただきます。原子力発電を止めて、必然的に高くなる電気代に甘んじ、さらには質素な生活を送っていた40年以上前の電気事情に戻りうるのか。それとも、ある程度の危険性を認めながらも、原発とうまく付き合っていくのか、こういった問題に突きつけられていると思われます。 参考:「電気料金 国際比較」 http://www.enecho.meti.go.jp/denkihp/shiryo/ryokin-kokusaihikaku.pdf   ですが、被災者・被災地につきましては、国債を発行(もしくは期限付きの復興税)をすることにより、援助をしていくべきかと考えております。 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。  1コリント 08:14  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ★ 仰られますように、まずは“責任”がどれだけの人たちまでに及ぶかを検討する。そして、もし及ぶとするならば、その範囲内で幾分かの責任に対して甘んじてもらう。しかし、往々にして個人としては責任を負いかねる問題がときには生じる。このときは、国・地方(もしくは国民)をあげて支援する。  ☆ わたしの見方は 単純です。  (1) すべての思惟および行動としての自己表現は それに答責性がともなう。  (2) その意味で 自己責任が 原則である。  (3) 自己責任の範囲にあることは すべてそのまま自己が負う。  (4) 自然現象などの不可抗力が人びとの共同自治にとって支障をきたす被害をもたらした場合 これは公共のこととしてあつかう。    ただしその公共の共同自治が果たす役割は 一般に個人や世帯がおこなう自己表現にとって間接的なかたちにおいてである。住民が主体である。  (5) 原子力発電所にかんしても 住民が家屋に被害をこうむったことと同じように扱われる。    家屋が社会において位置づけられる重要性の上にさらに公共性があるとすれば そのことも考慮される。    さらにその放射能にまつわる第二次災害についても 同じである。  (6) つまり 自己責任の原則を基礎として その上にさらには不可抗力の問題あるいは公共性の事実にかんがみる場合 連帯責任ないし原状復帰への連帯行動をも 同じく原則とする。  (7) 法律が明示していなければ この原則にもとづきあたらしくつくることとする。  ★▼ 1)「自己責任」の現在の一般的用法・・・  ☆ この場合の《一般的》という言葉には 困りました。わたしはあくまで誤用であると一般的に思われているものと思っていました。

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    天使(光)=大天使ミカエル 悪魔(闇)=堕天使ルシファー が最高位ですか?? 光と闇を両方の力を持つ、天使か神は居ますか??

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

     人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!