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人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

 次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

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noname#221368
noname#221368
回答No.5

 #3です。 >☆ そのくだりを例示して ・・・  例えば、「あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論により、・・・」とありますが、超弦理論の現状は余りにも不完全な数学理論というに過ぎず、「・・・無限不確定性に発散する(=無)こと」は全く明らかになっておりません。また無限不確定性とは不確定性原理の事と思われますが、少なくとも通常の不確定性原理からは、無に発散するなどという結論は出ません。同様に、 ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生 などについても、あなたの意見で十分足りるように自分も思います。  ・・・その後ですが、まとめてお応えします。ただし「大山鳴動して、結果ちょっぴり」がこういう話の常ですので、余り期待しないで下さいね(^^;)。  まず、   ○ 公理系が 無矛盾で出来ているなら その真か偽かが分からない場合がある ではなく 必ず分かるようになる    ○ 公理系が 無矛盾であれば 自身の無矛盾性を証明できない場合がある ではなく 必ず証明できるようになる はどちらでもありません。不完全性定理は定理ですから、上記の事実はどう頑張っても変わりません。ちなみに自身の無矛盾性を主張する命題は、真か偽かが分からない命題の一つになります。  ここで注意を述べると「真か偽か分からない」という言い方は、じつは不正確です。不完全性の結論が出た時点にいたっても、扱っている命題全てに対して、「真であるか偽であるかの、どちらかである」という前提は相変わらず有効なんです。数学は結局、こういう理想化された系しか相手にしません。  なので不完全性定理の実際は、公理から導かれる一般解法では、真か偽か決定不可能な命題が存在する、だけです。例外があるのに一般解法というのも変な言い方ですが(^^;)、大抵の命題は一定の手順(プログラム)に則れば、意味を考えなくても真か偽かを判定できます。ライプニッツの普遍言語の夢の実現です。  ところが有限を扱えば無矛盾で完全な公理系に無限を扱かわせると、一般解法(有限手順)では証明できない命題を必ず生成してしまう。しかしその決定不可能命題も、「真であるか偽であるかの、どちらか」なのは、最初から決まっています。  という事は、その命題の真偽を、訳もなく直感的に人間がわかってしまう事態はあリ得る事になります。これが不完全性定理を突破する、の意味になります。  非常に人為的な例ですが、そのような命題はいくつか実際に作られているそうです。ただその真偽のほどが余りに人為的でトリビアルなため、その後の発展にはつながっていないみたいです。  ペンローズは、最初に現行のコンピューターを考察します。現行のコンピューターは、無矛盾な公理系の有限性と不完全性を、それらをそのままに具現化したものだからです。  現行のコンピューターが、人間と見分けのつかない応答を示すエキスパートシステムになる可能性は、否定できません。有名なチューリングテストです。しかしそれでも現行のコンピューターが、全く何も考えていないのは明らかですよね?。ましてや自分を意識するとか、やっている事を理解する能力などは、持っているはずがありません。ペンローズはこれらを、理解力と呼びます。  この論を認めると、学習し推論する回路であるニューロ・コンピューターも、生の量子効果により超並列化をめざす現在の量子CPUも、それらに決定論的カオスを取り入れて冗長性を持たせようとするアプローチも、人間の理解力をシミューレートする試みとしては、いずれも安易だという結論になります。いずれのアプローチも不完全性定理の限界内にあり、あなたの目の前にあるPCと原理は同じだからです。  そうすると霊とか魂とかの(現行物理の)非物理的原因を除外すれば、消去法により、人間の理解力の本質は、不完全性定理を突破できる人間の能力によるしかないではないか?、とペンローズは論じます。  これは数学者ペンローズの偽らざる本心だと思うんです。数学者は何かの数学理論を構想するとき常に、目標理論の外のメタ理論で考察し、そこは完全性定理の埒外で不完全性定理の拘束が横行します。にも関わらず、人間はある程度は正しい(妥当な)結論に達してしまう、と。  不完全性定理自体、そういうものではないのか?。現行のPCの内部規則だけで、不完全性定理を証明できるか?。不完全性定理の証明は、(私見では)構文論と意味論の衝突に気づかねば無理だ。人間は、有限個のシンボルに無限の意味を負わせる事ができるが、機械にそれは出来ない。  以上が、みすず書房から出ている「心の影」の第一部の要約です。続く第二部では、不完全性定理を突破させる、物理機構の秘密(?)を論じます。  ところが、ここで述べられる例がまた、秀逸なんですよ(^^;)。  真空の量子的な相転移によりビッグバンは発生し、現在の4次元時空は形成されたが、現在の宇宙はちゃんと物質が存在し重力場が形成されるような宇宙になっている。現在のような宇宙になるかどうかは、量子的な相転移がどのような時空構造を選択するかで決まる。ところがその選択は、数学的には決定不可能命題になる。   ※ 自分にはどうしてそうなるのか到底わかりませんが、ペンローズにはわかるようです(^^;)。  にも関わらず相転移は、現在の宇宙になるように量子力学に従って正しい(?)選択を行った。同じ事が、ミクロの領域でも起こっていないか?。波束の収縮がそうだ。  波束の収縮とは二重スリット実験が有名ですが、要するに観測前は確率的にモヤモヤしていた実在の確率波が、観測を契機に確定した点位置や速度ベクトルに化けて、確定した実在として現れるという現象です。  波束の収縮は、今もってその正体がわかっていません。ボーアは、それを物理的実在の基本性質の一つとして認め、その機構追求は諦めろと言いました。ボーアの相補性原理です。そうやって20世紀は過ぎました。ボーアの裁定にさえ従えば、何もかも上手く行ったからです。  ここ20年ほど、波束の収縮の物理機構を明らかにしよう、という動きが出てきています。これはボーアの裁定に強硬に反対した、アインシュタインの信じた素朴実在論への回帰とも読み取れます。確率的にモヤモヤした実在なんて、やっぱりみんな、嫌いなんですよ。  波束の収縮は、非因果的・非論理的(有限手続きの意味において)なものです。これが人間の脳神経細胞が、不完全性を突破する能力を持てる源泉だと、ペンローズは言います。  ただし一個の脳神経細胞は必ずしも、決定不可能命題に対して正しい波束の収縮を起こす訳ではありません。脳神経細胞が集団として協調したとき、正しい波束の収縮が重ねあわされ、確率的に無視できない直感的判断が生まれるのではないか?、と言っているように思えます。  しかし細胞スケールでの量子効果というのは、現行の量子力学から言えば、途方もなく巨大なスケールです。ペンローズはその問題は、波束の収縮の物理機構を明らかになった時に、解決されると見ているようです。そのためには、量子重力理論が必要となり、それに首尾よく成功した場合の量子効果発現のスケールまで、彼は試算します。・・・細胞レベルです。  つまり今、大脳生理学で古典力学や通常化学で説明されている現象は、かなり生の量子効果の発現の結果であるかも知れない、という事になります。  つまりペンローズは、人間の脳は量子コンピューターだと言っているのですが、その量子コンピューターは、現在予定されている超並列化量子コンピューターとは、別次元のものです。人間の直感と理解力を持つ「何か」です。  もうここまで来ると自分としては、勝手にして下さいなんですが(^^;)。それでも奇説かも知れませんが、現在の数学と物理の限界点を知っている人が書いた、現在の数学と物理の限界点の向こう側の話は、もっと紹介されて良いと思います。  いやっ、それにしても・・・「大山鳴動して、結果ちょっぴり」・・・でしたね(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   例えば、「あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論により、・・・」とありますが、超弦理論の現状は余りにも不完全な数学理論というに過ぎず、「・・・無限不確定性に発散する(=無)こと」は全く明らかになっておりません。また無限不確定性とは不確定性原理の事と思われますが、少なくとも通常の不確定性原理からは、無に発散するなどという結論は出ません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わあっ。それほど断定しうる事柄なんですか。いったいどうなっているのかと疑ってしまうわけですが その仮説を主張している人ご自身は そうしますと (1) 仮説だから かまわない と思っているのか。それとも(2) ・・・(いや 質問者は分からなくなりました)。  すみません。分かりきったことをお尋ねしてしまったようです。  そして でぃーでぃーてぃーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ☆☆ 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか  ★ つまりペンローズは、人間の脳は量子コンピューターだと言っているのですが、その量子コンピューターは、現在予定されている超並列化量子コンピューターとは、別次元のものです。人間の直感と理解力を持つ「何か」です。  ☆ そうしますと ふたつの反応を持ちます。  まづ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理をかかげます。簡略版ですが:   ○ (ひととしてワタシなる存在の成り立ち) ~~~      非思考の庭(しんじる。心の明け。直感かつ直観)    ________________    思考の緑野(かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(≒直感・ヒラメキ)    ________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そこで反応としましては:  (あ) 量子力学の量子につきまとうモヤモヤを払うには 《非経験の場》ないし《非思考の庭》を想定しておくという手があるかと思います。  ★ 波束の収縮は、非因果的・非論理的(有限手続きの意味において)なものです。これが人間の脳神経細胞が、不完全性を突破する能力を持てる源泉だと、ペンローズは言います。  ☆ ここでまづ 《(有限手続きの意味において)》という条件規定は 《非論理的》にだけかかるのか。それとも《非因果的》にもかかるのかが知りたいところです。  ですが この場合 《非論理的》はなるほど《有限の手続き》において・つまり経験行為として――直感等において――成り立つと思います。  けれども 《非因果的なもの》というのは その《波束の収縮》という経験事象をめぐって すでに人間には捉えられない非経験の場のハタラキとでも言うべきコトを言うのではないでしょうか?  波束の収縮を認識し それに一定の意味を捉えるという場合に その収縮なる現象が《非因果的に》成り立ったとするのなら それはすでに《非経験の場》のハタラキであり(という意味は 無根拠のことであり 人間には無・ゼロとして見えているものであり) 人間の心において《非思考の庭》として――そのゼロと交感しあい対応しあうかたちで――成り立ったと言わねばならないように思うのですが どうでしょう。  (い) 量子にまつわる《人間の直感と理解力を持つ「何か」》に 人間存在は還元される。という意味に採りましたが この場合 それでもこの人間存在は その還元された《直感および直観(さとるという理解力をともなっている)》が けっきょくほかの動物とははっきりと別である。と見るならば やはりその還元物は 人間に特有のものだと言えるのではないでしょうか?  ならば ほかの生物が還元された場合のモノ(量子?)と人間の場合のモノ(直感なるハタラキを持った量子?)との違いは どこから来ているのか。これを明らかにしなければならない。というように考えますが いかがでしょう。  ということは (あ)の場合の《非思考の庭》が 人間には特別に――仮説として・想定として――そなわっている。という見方と互いに相い携えての存在論だと言えるかと思います。  つまり この非思考の庭というのは 《一切衆生 悉有仏性》だとか《自性清浄心》だとか あるいは《梵我一如》であるとか もしくは《神の霊がわが心にやどる》といったように言われていることと相い通じている。(ただし この仏性だとかの世界観の場合は 人間にだけ限ることなく あらゆるもの・ことにまで その神の霊の遍在を言っているわけですが)。  ただし  ★  そうすると霊とか魂とかの(現行物理の)非物理的原因を除外すれば、消去法により、人間の理解力の本質は、不完全性定理を突破できる人間の能力によるしかないではないか?、とペンローズは論じます。  ☆ といった注意書きをももらっているようです。  そして 質問者の場合には このような《霊とか魂とかの(現行物理の)非物理的原因を除外すれば》という立ち場は けっきょく《神の霊や仏性》にかんして 《無い神》を立てている場合だと捉えることになります。  《非経験の場〔なる磁場のごときチカラ またそのハタラキ〕》は 経験存在たる人間がそれを《除外》しても 痛くも痒くもなく 独り満ち足りている存在である。よって 人間はこれを任意に欲しいままに《有る神》か《無い神》かのふたつにひとつの表現で受け留めている。ということになっているのではないか。  大山鳴動して 質問者は 我が田に水をどしどし引いて来ました。  ★ 現在の数学と物理の限界点の向こう側の話  ☆ に加えられるようになるなら さいわいです。

その他の回答 (7)

noname#221368
noname#221368
回答No.8

 #7です。 >微妙であり こうであるなら わざわざ《霊なる無根拠》を持ち出すことなど必要ないではないか? と問い返されそうですが。  霊なる実在論的根拠を持ちださなくても、何とか納得できそうな説明は捻り出せるじゃないかと、確かに自分は、あなたを説得したがっているのかも知れませんね(^^;)。 >人間だけが 個人としてもその実存の歴史を持ちその歴史に立って活動します。 >・・・人間の場合は 言わば自己秩序作用――脱線したら我れに立ち帰るハタラキ――をくわえる必要があるように思うのです。  犬や猫に実存があるとは思えませんし、それを言ったら自分も実存の事はよくわかっておりませんが(^^;)、人間が過去の出来事を秩序立てて保持する、データベースを持ってるのは確かだと思います。しかしそれは程度の差こそあれ、犬や猫も同じではないでしょうか?。  我が家の馬鹿犬は図体ばかりでかくて、臆病で行儀のとりわけ悪いアホ犬でしたが、図体がでかかっただけに、もし私に飼われていなかったら、盲導犬として活躍したかも知れません。  盲導犬としての行動を律する自己秩序作用は、過去の訓練を蓄積したデータベースからの呼びかけだと思えます。ひどい言い方ですが、いい加減に育てられた人間は、どうしようもない奴にしかなりません。  そう考えると、人間と所謂動物の境は、流動的に思えてきます。ところで唐突ですが、 >・・・ゆえに 霊を説明するにあたって 仏性とは 自性清浄心だとも人びとは規定したかったのだと考えます。 に、賛成です。  普通に言えば自己秩序作用とは、意志の力だと思います。でも意志の力の発露は、非常に困難ですよね(あぁ今日もまた、酒飲んでるよぉ~(^^:))。というのは、   ・自己を即時的にモニターし、その結果から即時的に自己を更新するのが意識である. とすれば、上記はとんでもなく強烈なフィードバック機構です。負のフィードバックが生じれば、一瞬で死に至る病に取り憑かれます。  人間は外界の雰囲気や環境にとことん弱い生き物でもあります。環境の中には、自己の思いや気分まで入ります(現時点でのモニター結果)。「どうしてもやりたいんだ」という反秩序的行動も、その一種と考える事は可能です。  精神疾患やストレス性胃潰瘍などにかかりうる生物としてホモ・サピエンスは、恐らく全動物種の中で、トップに君臨すると自分は思っています(^^;)。 >コンピューターは 自分では そういう自己秩序作用〔の部分的な・ただ随伴するだけのハタラキ〕を持たないのではないでしょうか?  逆の印象を持ちます。通常のプログラムはエラーが出たら、そこで活動を停止します。それは「死」に似ています。現在では不測のエラーで止まる(落ちる)アプリは、もはや御法度ですから、そうならないようにプログラマー達はあくせく働き、想定し得る限りの条件分岐を書いて、どうしてもエラーになるなら「それは出来ません」というメッセージをユーザーに伝えようとします。   ※ 注・・・実話です(^^;)。  ユーザーへの警告後なら停止も許されますが、効率良くやりたいならデータベースに禁則事項を書いておく事です。アプリが何かの動作を起こそうとする度に、その直前でデータベースを検索させ、禁則事項に触れるような入力をユーザーがしていたら、警告メッセージを出してアプリを停止させるかどうかを選ばせます。停止が選ばれたら、何も考えない機械は、ストレスを感じるはずもなく動作を停止します。  人間はこの点、非常にしぶといです。それは人間が、生物的な超並列ニューロ・コンピュータになっているからです。一つの論理パスが遮断されても、それを迂回する論理経路はごまんとあるからですよ。だからなかなか死にません(死ねません)。  この冗長性は無視できないというのが、現在の人工知能の一つの行き方です。 >☆ シャイな神学であるというだけではないでしょうか。はにかみやであるだけなのではないでしょうか。  仰りたい事はわかるのですが、神学を認識論にとどめるか/実在論にまで妥当すると考えるか、は、極端な言い方ですが自分にとって、人生のリスク管理に直結する問題なんです。神に御利益を願ってはいけないと言われそうですが、   ・経験上、苦しい時の神頼みは、絶対に助けに来ない!(^^;) ・・・です。俺もあんまり、良い目は見てないのかなぁ~(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 霊なる実在論的根拠  ☆ えっ? 《無根拠》なんですけれど。  こんばんは でぃーでぃーてぃーさん。ご回答をありがとうございます。  《実在》か否かを超えている。実在か否かは 人間には分からない。無根拠。  つまり確かに無根拠という根拠ではあるのですが。  ★ ひどい言い方ですが、いい加減に育てられた人間は、どうしようもない奴にしかなりません。  ☆ そのとき ひとは その自分の姿をどこかで・いつかは自覚するものと思われます。死ぬまで立ち直らなかったとしても 自分のありさまは知っているものと思われます。たぶん動物は そうではない。と言いますか グレてどうしようもない状態になるということがないのではないかと思われます。  反・自己秩序作用的なふるまいは 動物は出来ないかも知れません。  ★ 精神疾患やストレス性胃潰瘍などにかかりうる生物としてホモ・サピエンスは、恐らく全動物種の中で、トップに君臨すると自分は思っています(^^;)。  ☆ 挙げましたが これは微妙だとも思っています。《わかっちゃいるけど やめられない》というのが だいたいの場合であって 《フィードバック》の・まづ直感のごとき信号が発せられて そのあと これに従うかどうかも 自分の中であれこれ考え悩むといった過程をも通る。――このどっちつかずの状態にあって迷っているというのも 人間に特徴的であるかと思います。  ああ。ええ。次のくだりで わたしの言おうとしたところを言ってもらっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・・・禁則事項に触れるような入力をユーザーがしていたら、警告メッセージを出してアプリを停止させるかどうかを選ばせます。停止が選ばれたら、何も考えない機械は、ストレスを感じるはずもなく動作を停止します。  人間はこの点、非常にしぶといです。それは人間が、生物的な超並列ニューロ・コンピュータになっているからです。一つの論理パスが遮断されても、それを迂回する論理経路はごまんとあるからですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《エラー》のときの処理の仕方で 舌足らずと言いますか 不確かな言い方をしてしまいましたが 言いたいことは こういうことでした。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  仰りたい事はわかるのですが、神学を認識論にとどめるか/実在論にまで妥当すると考えるか、は、極端な言い方ですが自分にとって、人生のリスク管理に直結する問題なんです。神に御利益を願ってはいけないと言われそうですが、   ・経験上、苦しい時の神頼みは、絶対に助けに来ない!(^^;)  ・・・です。俺もあんまり、良い目は見てないのかなぁ~(^^;)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 初めの《無根拠》説にもどります。《神頼み》をしてもよいのですが・そして肩こりを直して欲しいと願ってもよいのですが 基本は 《無根拠》です。その上でのマジナイです。  《認識論ですとか実在論ですとか》 そういった思考や操作ができる相手ではなく その基本に立ったならそこで チチンプイプイとやります。  泉のごとくわが心の中から汲めども尽きない水が湧き出て来ると言われていますから。

bragelonne
質問者

補足

 みなさんにですが 特に ddtddtddt さん そして ok9608 さんに向けて おぎないです。  《非経験の場》は けっきょく 経験存在であるわたしたちが  それ自体を・つまり《非経験の場》の想定として規定される《神》そのものを  何とかして経験世界の言葉で差し示そうとする  そのための《補助線》である。  こう考えます。  たぶん受け容れてもらえると思います。

noname#221368
noname#221368
回答No.7

 #5です。 >☆ ここでまづ 《(有限手続きの意味において)》という条件規定は 《非論理的》にだけかかるのか。それとも《非因果的》にもかかるのかが知りたいところです。  (有限手続きの意味において)は、 《非論理的》にだけかかります。  ちょっと言葉の定義が曖昧でしたね。そこでまず、ボーアの裁定に関して、20世紀における状況をお話します。  現時点での宇宙全体の状態の知識(情報)を理想的に手に入れて、それを古典力学に与えれば、未来永劫にわたる宇宙の挙動は決定論的に完璧に計算できる。これが古典力学のスタンスで、時に因果的と呼ばれます(ご存知と思いますが)。  量子力学では、物体(例えば電子)の確率波の挙動は現時点での情報から決定論的に完璧に予測でき、観測条件さえ明示すれば、電子がどの位置にどれくらいの確率で現れるかも、決定論的に完璧に計算できます(因果的に)。ところが悩ましい事に、その発現は常に確率に支配されます。その意味で量子力学は、古典力学より不正確な予測しか、未来に対して行えません。この状況を「非因果的」と言いました。  ボーアは、発現が確率的なのは、全ての物理的実在は確率的存在だからだと考えます(何故かはわからないが)。自然はそうなんだから、しょうがないじゃないかと。なので実在が確率的である根拠は「問うな!」、と裁定します。これの別表現が、不確定性原理です。  しかし確率性が発揮されるのは、上で述べたように観測時の波束の収縮においてのみです。はっきり言って現状では、波束の収縮は物理法則とは言い難いものです。強いて言えば経験に基づく、現象論敵法則です。  その事を明確化したのは、量子力学を公理化してみせた数学者フォン・ノイマンでした。射影公理と呼ばれます。ノイマンは数学者なので、「あんたら(物理学者)は、こんな事をやってるんだよ」と余り気にしなかったみたいですが、射影公理の異常な論理を突きつけられた物理学者達の方は慌てました。そこから超多時間(多世界)理論みたいな、いかがわしい(?(^^;))話も沸いてきます。  射影公理は公理なので、そこでとんずまりです。俺達はとにかくそれを認めてしまったのだと、物理学者達は痛感します。まずこの意味で射影公理(波束の収縮)は、「非論理的」です。  しかし「気にしなくても良いんじゃないか?」という雰囲気もありました。射影公理の痛みはそれはそれとして、工学的な実学応用研究は、盛大に可能だったからです。その結果が、インターネットや一人一台のPCだったりGPSやスマホだったりする訳ですが、最近やっと見直しの動きが出てきました。  でも量子重力により波束の収縮が基礎づけられたとしても、不確定性原理は覆らないと思います。現在の波束の収縮を責任転嫁した部分は、残ると思われます。その意味で波束の収縮はやはり、「非因果的」です。  最後に、有限手続きの一般解法で得られた結論だけが「論理的」と、現状では言われます。確率的挙動はそこには載らないので、その意味で「非論理的」です。 >波束の収縮を認識し それに一定の意味を捉えるという場合に その収縮なる現象が《非因果的に》成り立ったとするのなら それはすでに《非経験の場》のハタラキであり(という意味は 無根拠のことであり 人間には無・ゼロとして見えているものであり) 人間の心において《非思考の庭》として――そのゼロと交感しあい対応しあうかたちで――成り立ったと言わねばならないように思うのですが どうでしょう。 などについて・・・。  認識論としては、もちろん賛同できます。しかしこれらが実在論にまで及ぶとなると、自分は後ずさりを始め、「禁欲しよう」と思うのが本音です。根が即物的なので・・・(^^;)。  余談です。けっきょく自分と言う存在は、脳という物理機構に還元でき、そこにはどうしようもなく即物的な数学原理が働いている。この点に関してだけは、自分もペンローズも同じです。ところで自分は、意識を次のように捉えています(前も書きましたが)。  自分を自分で即時的にモニターし続け(脳内での出来事なので)、その結果に基づいて自分で自分を即時的に更新し続ける動的システム、それが意識である。  とすれば、これは犬も猫も同じでなかろうか?。以前、犬も猫も飼っていましたが、彼らには明らかに自我があり感情があり、本気で離せば(雰囲気で(^^;))言葉さえ通じると、自分は思っています。人間ほど鮮明に自分を意識してはいないかも知れないが。その点に関してはやはり、あなたの仰るように言語だと思います。言語は自分を客体視する手段を提供します。  しかしそれなら、原理的にはチューリングテストをパスするようなニューロ・コンピュータにだって、そういう事は可能なはずだ。完璧なニューロ・コンピュータは、意識を持つのだろうか?。  そういう時にふと、自分という存在は、脳という物理機構とは独立な存在だという感覚を、どこかで持っている事に気づきます。自分を意識する事さえ意識(モニター)できるシステムだから、そう感じるのだという「理屈」は立ちますけど・・・。  逆に、自分が脳という物理機構の結果に過ぎない事は、酒でも呑めばてき面ですけどね・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 でぃーでぃーてぃーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  その実際の現象やそれを説明する理論については分からないのですけれど 文章で明らかにしてくださった限りでの内容は 今回特にわかりやすかったです。  だからと言って ほんとうは復唱したほうがよいかと思いますが 今回は 全体として捉えて なおおそわりたいと思うところを述べさせてもらいたいと思います。  動物は それらにも言葉があってあたかも用いていると言われることがあります。  問題は その蓄積であり そういった歴史とともに歴史の中に生きるというのは 人間だけであるのではないか。この問いをなおお尋ねしたいと考えます。  人間だけが 個人としてもその実存の歴史を持ちその歴史に立って活動します。自由意志には 答責性が伴なわれ あたかも自己の言動については――むろん あやまちうる動物ですので 考えなおし身を正せばよいのですが――《索引》がつけられているようなものです。  これがもしほかの動物には見当たらないとなれば 人間性としての還元物は 特別であるのではないかと考えます。これが《霊――つまり 人間にはワケのわからない何ものか――》の原理です。ほかの生物や鉱物が還元されたところの量子とは 別扱いされるのではないでしょうか?  《わたしの自覚や感情》等々をめぐる《意識》として議論されていると見ますが この意識に 人間の場合は 言わば自己秩序作用――脱線したら我れに立ち帰るハタラキ――をくわえる必要があるように思うのです。ゆえに 霊を説明するにあたって 仏性とは 自性清浄心だとも人びとは規定したかったのだと考えます。  ★ 自分を自分で即時的にモニターし続け(脳内での出来事なので)、その結果に基づいて自分で自分を即時的に更新し続ける動的システム、それが意識である。  ☆ 微妙であり こうであるなら わざわざ《霊なる無根拠》を持ち出すことなど必要ないではないか? と問い返されそうですが たぶんこんどは逆のかたちで 説明を加えるとすれば 人間は 我れなるおのれ自身に自由にさからって自己表現をおこなう。そして 我れに立ち帰らずに 依然としてその反秩序的行動を 何とかして辻褄をあわせるかたちで おこないつづけることができる。  エラーの警告が出ても これを無視して突っ走ることができる。それは コンピューターでも出来るかも知れませんが 人間は そろそろ我が心にさからうのをやめて我れに立ち戻ろうかと ふと思ったり考えたりすることがあります。コンピューターは 自分では そういう自己秩序作用〔の部分的な・ただ随伴するだけのハタラキ〕を持たないのではないでしょうか?      *  ★  射影公理は公理なので、そこでとんずまりです。俺達はとにかくそれを認めてしまったのだと、物理学者達は痛感します。  ★  ボーアは、発現が確率的なのは、全ての物理的実在は確率的存在だからだと考えます(何故かはわからないが)。自然はそうなんだから、しょうがないじゃないかと。なので実在が確率的である根拠は「問うな!」、と裁定します。これの別表現が、不確定性原理です。  ☆ すでに《神 あるいは 無い神》を立てたところの議論なのではないでしょうか? 《ナゾの何ものか》などとさえ言いたくないのでしょうけれど。  《公理》の根拠は 《無根拠》なのだと。  ★ しかしこれらが実在論にまで及ぶとなると、自分は後ずさりを始め、「禁欲しよう」と思うのが本音です。  ☆ シャイな神学であるというだけではないでしょうか。はにかみやであるだけなのではないでしょうか。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

>「ん?」 めんどくさいか、くだらないかは、知りませんが、 めんどくさいのでしょうか、くだらないのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。もっと詳しく書き込んでくれるとよいとわたしも考えます。No.1の回答者のひと。  くりなるさん ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

>「めんどくせーな。」 >「くだらねーんだよ。」 >「お前それで哲学者か。何を知ってる、何がわかってる。自分自身を知れ。それこそが哲学ってもんだ。何逃げてるんだ。」

bragelonne
質問者

お礼

 ん?

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 ◆(回答No.1)については、恣意的な解釈が入り過ぎだと思えるので、何もいいません。また反証できる類のものでもないので、否定もしません。  という訳で、虎の威を借りてみます(^^;)。  今や世紀の天才として定着した物理学者ホーキングですが、その共同研究者にペンローズという人がいます。ペンローズはたぶん天才の部類に入る数学者で(ペンローズの本職)、物理学者としても当然一級です。  ところがペンローズは「心の仕組み」について、かなりぶっとんだ試論(奇説)を唱えています。彼の問題にする「心の仕組み」とは人間の理解力についてなんですが、この理解力には、「何かを了解できる事」や「自己認識」や「意識の問題」まで含まれます。  彼が言うには、人間はゲーデルの不完全性定理を突破する能力を持ち、それが全ての理解力の源泉だとなります。そしてその能力を発現させる物理機構は、量子力学そのものの原理だというのが、その結論です。  あんまりファンタジックすぎて、現在のところ奇説としか言いようがないのですが、彼ほどの該博な知識と才能があれば、こういう事もやってみたくなるんだろぉ~なぁ~と、ちょっと気持ちはわかります。同じ理系人間なので・・・(←言い過ぎ(^^;))。  ともあれ、どこまで本気かはわかりませんが、天才数学者で一級の物理学者でもあるペンローズは、人間の意識は数学・物理的原理に還元できる可能性を、認めているようです。  ・・・がっつり虎の威を借りを借りました(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。むつかしいですね。  おっと でぃーでぃーてぃーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  中身もむつかしそうですが 応答するのも むつかしいように感じます。  ええっと まづ  ★ ◆(回答No.1)については、恣意的な解釈が入り過ぎだと思えるので  ☆ そのくだりを例示して 出来れば論駁して欲しいとは思いました。  さて  ★ ペンローズは、人間の意識は数学・物理的原理に還元できる可能性を、認めているようです。  ☆ このお話については それでもがんばってふたつの反応を持ちました。  ひとつは 問いです。  ★ ゲーデルの不完全性定理を突破する  ☆ とは どういうことを言うのですか?   ○ 公理系が 無矛盾で出来ているなら その真か偽かが分からない場合がある ではなく 必ず分かるようになる    ○ 公理系が 無矛盾であれば 自身の無矛盾性を証明できない場合がある ではなく 必ず証明できるようになる  ということですか?  もうひとつは このペンローズの場合の  ★ 人間の意識は数学・物理的原理に還元できる  ☆ というのは 《還元のされ方》がどのようであるのか これが分かりづらいように思いました。  すなわち わたしも突拍子もないことを言いますが   ○ 人間は その身と心とは一体であって 精神の能力は 身体の組織を基礎としている。   ○ 人間としての自然本性は・という意味は 精神の内とりわけ存在(実存)の中軸となる意志行為の能力はと言いたいために重ねて記すのですが すべて脳の神経組織を基体(でいいのかな)としている。つまり そういう意味では 生物化学的かつ物理学的なモノにもとづかないならば 何も始まらない。  と言えると考えます。ただ そこで問題は このモノに 人間の存在が還元されるか? と問うときには おそらく還元し得ないと答えるものと思います。  なぜなら 人間は ほかの動物とも違って 広い意味での言葉(つまり 言語行為とそれによる交通)を時空間の全体としての歴史においてその言語行為の蓄積たる歴史として持ちつつ社会を成して生きる。  という限りで言えば もしモノを基体とした身体とともに心のハタラキを持つ人間の存在が 物理学的なモノに還元されるとすれば 同じモノによって成り立っている動物であるなら 同じような精神能力を持つことができるのでなければ おかしい。となるのではないでしょうか?  ★ 彼が言うには、人間はゲーデルの不完全性定理を突破する能力を持ち、それが全ての理解力の源泉だとなります。  ☆ この能力は いま上に触れた自然本性としての精神能力と同じ種類のものであると考えられます。単純にそうでないと見る理由が分からないところからです。  ★ そしてその能力を発現させる物理機構は、量子力学そのものの原理だというのが、その結論です。  ☆ ここが問題になるかと考えますが わたしからのうたがいを表わすならば もしそうだとした場合 この量子力学の原理のあるところ・つまりその原理のハタラキのあるところ どこでも いまの人間の持つ精神の能力が芽生えて来ていなければ おかしい。のではないでしょうか?  よって 物理学的なモノの現実に人間は その身と心との存在のすべてを基礎として負っている。けれども ほかの生物とのあいだに埋め合わせを成し得ないようなへだたりをも持つとすればその人間の存在は モノには還元され得ないのではないか です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

>「何を知ってる、何がわかってる。自分自身を知れ。それこそが哲学ってもんだ。何逃げてるんだ。」 人権を侵害しないでね。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます くりなるさん。  ずばずば言う・またはずばり言うというトレードマークのぶらじゅろんぬクンに似合わない話しっぷりだと言っているのでしょう。No.1の回答者さんは。

bragelonne
質問者

補足

 質問者の見解をおぎなって たたき台をさらに明らかにします。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~   ○ 図-a-1  ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2  量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この末尾の図-a-2 にさらに 次のように事項をおぎないます。  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~   ・・・・・    (中略)   ・・・・・・   ○ 図-a-2  量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動        |       無根拠(神または 無い神)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 無根拠なる神(または 無い神)は 遍在すると――想定にもとづくかぎりで――見なければならないと思われるからです。

  • atti1228
  • ベストアンサー率15% (111/711)
回答No.1

めんどくせーな。お前それで哲学者か。何を知ってる、何がわかってる。自分自身を知れ。それこそが哲学ってもんだ。何逃げてるんだ。くだらねーんだよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 何逃げてるんだ。  ☆ をそっくりそのまま あってぃ1228さんに。

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     または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?  つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。  質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。  主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が  有なのだ。  無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、  現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)  と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)  『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として  の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい  う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)  としての量子(感受表面~超弦)。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、  絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面  (仮想)的に有限的存在性を生じる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?  (2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?  (3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?  (4) ですからたとえば:  ◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。  ☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?   (5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?  (6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?  (7) さらに畳み掛けるようにですが:  ◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。  ☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。  ◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。  ☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?   (9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。  ◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。  ☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。  それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。  (11) 《本質的に無である》 これも定まりません。  (12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。  ◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。  ☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。  (14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。  (15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

     1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。  2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。  3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?  7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?  8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。  * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 天使とは?――《はじめにことばがあった》。

     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。