人の存在は自己と環境が相補性の下にあるか

このQ&Aのポイント
  • 全ての存在は量子的な不確定性に基づいており、人の存在もその例外ではない。
  • 人の存在は自己と環境の相互補完の関係にあるのか、その問いを検討する。
  • 人間の現実は自然本性と心の組み合わせによって捉えられ、主観真実と呼ばれる部分も含まれる。
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人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題について 別様に問います。  《全ての存在》のなかで 人の存在は  ▼ 量子的な不確定性に基づいており  ☆ と言えるか?   すなわち 世界を おそらく心としての自己と そして自然および社会としての環境(時空間?)とのふたつに分けて捉え これらのものが 相互に補完するようなかたちであると言えるか?  すなわち 自己つまりワタシが この世界において《すべての国家は その執行部たる公民が 生活者市民に 大政奉還すべし》とうったえ そのように実践しようとするとき 相手の環境たる政府について何も認識し得なくなるだろうか?   また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか?  言い得まい。  たとえモノにかんしては その現象が 相補性なるあり方をしていたとしても 人間にかんする世界としての現実は そうではあるまい。それにちなんで 次のような仮説を示します。   ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~~~~~~~    (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)     一般に 心(精神)において 現実を捉える。     身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。    (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*)      * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち このワタシの《主観真実》は 環境をそして自己をもすでにそのつどの時点で捉えている。その捉えた中身についての正否を超えて この主観真実として ワタシは意志行為を成し 相手も同じくそうする。試行錯誤でもある。  つまり 世界は 認識〔のみ〕の問題なのではなく 一般に主体と見なされる存在が――主体ではなくても現象する自然とともに―― つねに問いと答えを繰り返しつつ その意味での対話としての動態過程をあゆむ。  自己(心)を測定すると 環境が測定できなくなるといった情況にはない。測定だけではなく意志行為もが行なわれる。   つまり認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く。  これを問います。

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noname#221368
noname#221368
回答No.12

 #8です。もう少し、ちゃんと書いた方がいいかなと思いました(面倒臭い事を書いても仕方ないが、前回の方針でした)。今回も面倒臭くしない予定ですが、前回は確かに具体性に乏しかった気がします。  不確定性原理ってご存知ですか?。相補性とももちろん関連する話ですが、その代表的例は、「粒子の位置と速度は、同時に無限に正確には確定できない」というものです。が、これはちょっと誤解を招く言い方で、「粒子に運動軌道は存在しない」の方がより妥当です。注意すべきは、運動軌道が存在しないからと言って、電子の位置はないとか、速度はないとか、電子そのものがない、といった類の話ではない事です。そんなだったら、量子「力学」自体を行えません。  少し具体的に考えてみます。  #9さんのように、粒子として電子を取ります。粒子も電子くらい小さくなると、量子としての性質が顕在化して来ます。さらに電子は、等速直線運動しているとします。古典力学でのこの電子の運動軌道は、真っ直ぐな直線です。電子が1m/sの速さで直進してるなら、1秒後には直線上の1m地点、2秒後には直線上の2m地点に必ずいるはずです。  ところが不確定性原理を考慮して量子効果を追加すると直線は、もやもやとした細くて境界の不明瞭な「帯」になります。帯のどこかに電子はいる、という事態です。ただし帯の幅方向の不確定さだけでなく、1秒後には帯上の1m地点の断面上にも、電子は「いない」のが普通です。その「付近にいる」のが普通の状態ではありますが。  帯を詳しく眺めると、そこには濃淡があるのがわかります。濃淡の濃い地点ほど、電子のいる確率が高まります。この濃淡模様をあらわすのが、#9さんの言っていた波動関数Ψの2乗なんです。  帯の最も濃い部分は帯の中心線で、それは古典的な電子軌道に一致します。それがエーレンフェストの定理ですが、軌道が「線にならない」という意味で、量子論において粒子は運動軌道を持ちません。運動軌道は古典力学で定義された概念です。それは粒子がどんなに複雑な運動をしようと、常に「線」でなければなりません。線でない軌道はあり得ない訳です。それが「粒子に運動軌道は存在しない」の意味です。  そしてこれは、1個の電子の話です。では電子はどこにいるのでしょうか?  電子は、ちょうど帯の幅の振幅を持つ波動軌道に載って動いていると考えたのが、ド・ブロイでした。この線に沿って考え方を一般化し、波動方程式を導いたのがシュレーディンガーです。でもシュレーディンガーは帯の濃淡を与えてしまった事に、すぐに気づきます。帯の濃淡の拡がりは、軌道ではありません。ここで波動関数は、いったん正体不明になります。  突破口を開いたのは、#9さんの言っていたボルンです。ボルンは、統計力学(古典力学の一分野)における「玉突きモデル」との数学的アナロジーで、波動関数Ψが、電子の存在確率分布(濃淡模様)を与える事に気づきます。ここからコペンハーゲン解釈が始まるのですが、でも電子はどこにあるのでしょう?。  確率解釈を常識的に適用すれば、模様の最も濃い部分に電子はいそうだ、となります。それは疑いもなく正しい事実です。そうするとこの立場では、未知の物理効果(量子効果)により、電子の位置が少々不明確になっただけだ、と言えます。電子は必ずどこかに、「一個の点として、一個の粒子としてある」のです。  ところが、そうはいかない事も明らかになります。古典論においても現実でも、等速直線運動する電子が絶対に撥ね返るであろうと考えられる障壁を設ける事は、しごく簡単です。しかし波動関数を計算してみると、障壁の後ろ側にも、波動関数が拡がっている事を確認できます。非常に薄い濃淡ではありますが・・・。  普通の場合、こういう数学的解は「無縁根」として捨てられます。プラスの解しかないはずなのに、マイナスの解も出す2次方程式の2根を、物理的判断を行い捨てるのと同じです。  でも障壁の後ろ側にも非常に低い確率でですが、電子は検知されてしまったんです。これをトンネル効果といい、トンネル効果を応用したトンネル・ダイオード(別名、江崎ダイオード)を開発した江崎レオナさんは(たぶん今も筑波大学の学長)、ノーベル賞を取りました。トンネル効果は、現実の話です。  では「一個」の電子は点としてではなく、波動関数の濃淡模様に従って、ぶわぁ~と何処にでも偏在していて、位置を確定しようとする全ての試みを裏切って、位置確定が不可能となるような存在なのでしょうか?。これを称して「電子雲」といいますが、これも真実ではありません。速度の情報を犠牲にすれば、電子の位置は確実に特定できるからです。波動関数は、再び正体不明になります。  ここにいたってボーアは降参します。例えば位置という概念は、そのまま量子には適用できないのだと。  考えてみれば、位置,速度などの概念は古典力学のために整備され、古典力学内において見事に合目的的に機能します。  古典力学は19世紀に包括的に成功し、みんな、ずっとこのままどこまでも行けるのさ!、といったんは思いました。しかし物理的現実は違った訳です。そして古典力学は、日常経験を最も厳密に数学化,概念化したものです。  つまりミクロの(量子的な)世界において、古典力学(日常:マクロな世界)において洗練された概念装置は、全く通用しない訳です。  でも我々は、古典力学の概念装置でしか、現実を語れません。  それしか知らないだけでなく、そういうものしか観測できないという、我々の物理的現実がついてまわります。  我々は電子ほどには小さくなく、量子効果の発現しない世界にいる、というのがその理由です。  そうなると我々は波動関数の一側面を、位置とか速度とかいう古典力学的な概念に限って切り取って観測して初めて、波動関数に対して、やっと何かを語れるようになります。  これは、とても異常な事態なんですよ。  例えば古典力学(ニュートン力学)は、ガリレイの落体理論(放物運動)の理論に依存しません。放物運動は、一様重力場中の自由落下という、ニュートン力学の特殊ケース(極限)に過ぎず、ガリレイの落体理論がなければニュートン力学の結果を解釈できない、などという事にはなりません。ニュートン力学は、論理的に自立しています。  特殊相対性理論でも同じです。特殊相対性理論は、ガリレイの相対性理論を、物体速度が光速度に比較して0に近い極限として後者を含み、ガリレイの相対性理論と特殊相対性理論は、論理的に独立です(重複する部分はけっこうありますが)。  それでは量子力学はどうでしょう?。  例えば電子の質量が仮に1gだったら(それは公称されている電子質量の10^20倍以上のでかさです)、波動方程式の与える濃淡は、ほとんど1本の直線になります。その幅は、1/10^20くらいと考えてOKです。現実には幅0です。このような極端な(極限の)ケースでは、波動方程式はニュートンの運動方程式と、寸分たがわぬものになります。  しかし波動方程式は粒子が十分小さいケースで、ニュートンの運動方程式の予想できない、はるかに豊かな結果を与えるので、量子力学はニュートン力学をその極限として含む、古典力学の拡張です。  にも関わらず、位置とか速度とかの古典的概念枠で量子力学は定式化されるので、量子力学は古典力学に依存し、概念的に独立でないんですよ。  ミクロの量子法則(波動方程式)とマクロな古典物理の概念が、両方あって初めて我々は、量子に関して何かを言える。この異常事態をさしてボーアは、「相補性」と言ったんです。  もっと簡単に言いましょう。   ・我々は、日常経験で培われた概念が通用しない非日常的物理領域へ、ついに突入した! ・・・という、認識論的「叫び」だったともとれます(この世は、不思議の塊だぁ~!(^^;))。  もうおわかりと思うのですが、物理における相補性は、量子力学に特化した考えで、人間の精神活動一般と関連づけるべき根拠は一つもないと思います。  あなたも既に予想されているように、要するに関係ないんです(私の意見では)。だから、 >▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 > ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・なんて事から、 >人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか なんて悩むのは、辞めませんか?。  ・・・というのが、自分の趣旨です。

bragelonne
質問者

お礼

 ふーむ。まづは ででて^3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1) 次のような区分でよいですか?  マクロ:モノ(個体):古典力学:位置と速度とが測定できる。  ミクロ:量子:量子力学:位置と速度とを同時には測定できない。  (2) これらのふたつ・すなわち言わば確定性原理(?)と不確定性原理とが相補性を成すかたちとして 世界は成ると現在の科学は見ている。ということですか?  (3) このとき 人間なら人間という個体は 確定性原理の通用するマクロ世界に存在するが その身が成り立っている要素は さかのぼって行けば ミクロ世界の量子現象であると言ってよいか?  (4) ひとの身体ならそれを例に取って その個体としてのモノ――つまり分子だとか細胞だとか――は もとはと言えば量子現象が 言ってみれば無数にあつまって言わばマクロ世界の現象へと相転移をおこなった結果としてある。と見ることは 出来るか?  (5) 出来ないと言えるほど どこかでミクロとマクロとは切れているのか? 出来ても マクロの世界では 意味を持たないのか?   (6) ミクロとマクロとは そういうふたつの世界としてそれなりにおのおのが独立していつつ 相補性のもとに捉えることが出来た世界観である。それ以外には 互いに《切れている》とか《つながっている》とかと言ったり見たりすることは ない。のか?  (7) すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もうおわかりと思うのですが、物理における相補性は、量子力学に特化した考えで、人間の精神活動一般と関連づけるべき根拠は一つもないと思います。  あなたも既に予想されているように、要するに関係ないんです(私の意見では)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と見る以外に 世界観はあり得ない。ということですか?  (8) すなわち  ★ にも関わらず(* この意味については省略します)、位置とか速度とかの古典的概念枠で量子力学は定式化されるので、量子力学は古典力学に依存し、概念的に独立でないんですよ。  ☆ というとき 将来において 量子力学を言わば主体として そこにおいて独自にすべての概念をあたらしく決め その概念体系を 古典力学の世界に当てはめ直すといった事態にはなり得ない。か?  (9) すなわち  ★ これは、とても異常な事態なんですよ。  ☆ と見られる量子現象のミクロ世界が ぎゃくにふつうの事態であって マクロ世界のほうが異常だという見方になる気遣いはないか?  いまいちど よろしくお願いいたします。

その他の回答 (12)

noname#221368
noname#221368
回答No.14

 #12です。#9さん風に言うと、量子力学の胡散臭さを圧縮して喋るのはむずかしいなぁ~と、あらためて思いました。とりあえず、話を聞いて下さい。  #12で、 >我々は電子ほどには小さくなく、量子効果の発現しない世界にいる、というのがその理由です。 と書きましたが、すいません、これは大噓です。日常スケールでも量子効果は発現するし、利用できます。日常スケールで量子効果が発現しないなら、現在の半導体製品は全滅です。それにはPCも含めて、ほとんどすべての家電製品や自動車,船舶,飛行機も含まれます。  言いたかったのは、生の波動関数をそのまま観測する事は不可能だ、という事です。#12で描いた電子軌道の帯は、波動関数の数値的結果を、PCのプログラムで図化したようなものです。まぁ~、絵にかいた餅ですね(^^;)。  電子の生波動関数の観測を試みます。電子は蛍光板にぶつかれば蛍光板との衝突地点が発光するので、電子の位置がわかります。それが、今や懐かしきになりつつあるブラウン管の原理です。  一個の電子の生波動関数のもやもやビームの前に、蛍光板を立てましょう。波動関数のもやもや模様に従って、円形の雲みたいなもやもやなスナップショットを期待したとします。  ・・・そうはなりません。一個の「輝点」が現れるだけです。その位置は、古典的電子軌道の中心から少々ずれているでしょうが、とにかく観測できるのは一個の「輝点」だけです。「電子雲」のスナップショットは、決して撮れません。つまり、電子の「位置」を「測定」しました・・・。  量子力学には、ありがた迷惑な「観測理論」というのがあります。そこでは外部と相互作用していない純粋な量子系を想定し(蛍光板にぶつかる前の生波動関数)、その量子系が外部と相互作用した時(相互作用を衝突とも言います)、観測が成立したと考えます。  その時に何が起こるかというと、波動関数の「波束の収縮」が起こります。さっきの例のように観測とは、対象と相互作用する事です。ところが相互作用が起こった瞬間、波動関数は原形をとどめずに一点へ収縮してしまうんです。だから「位置の測定」が可能になります。  「波束の収縮」は自分の意見では物理機構も何もわかっていない経験則ですが、今まで一回も外れた試しがありません。「波束の収縮」を前提にした実験結果は理論値と、史上まれに見る精度で一致します(まぁ~、実験技術の進歩もあったんですけど・・・)。  そういう訳で、観測理論を信じる限り悩ましい事態になります。もやもやした波動関数の実態を知りたいのに、知ろうとして観測を行うと、観測対象は変化して「位置を持った一点」という「古典力学の対象」に必ず化けてしまいます。そして状況に応じて、「古典力学としての測定値」が確定します。  従って、 >それしか知らないだけでなく、そういうものしか観測できないという、我々の物理的現実がついてまわります。 という事態になります。  量子力学はその対象領域において、古典的概念装置がもはや破綻しているとわかっているのに、古典力学の言葉で定式化せざるえないジレンマを抱えています。それも恐らく、自然の原理としてそうなる・・・。でも計算結果は、間違いないんですよ。いつも!(^^;)。 > (2) これらのふたつ・すなわち言わば確定性原理(?)と不確定性原理とが相補性を成すかたちとして 世界は成ると現在の科学は見ている。ということですか?  そうですね、微妙ですが、量子論の初期の大御所ボーアは、そう考えていたのかも知れません。さっきのような出口のない仕掛けを考えたボーアは、「観測した時に、我々が物理的実在と「呼ぶもの」が、初めて現れる」とまで言っています。  しかし現在は、もう少し常識的感覚だと思います。 > (3) このとき 人間なら人間という個体は 確定性原理の通用するマクロ世界に存在するが その身が成り立っている要素は さかのぼって行けば ミクロ世界の量子現象であると言ってよいか?  これは、人間には魂が宿るのか?、それとも機械仕掛けの自動人形か?、の問いに類似している気がします。それで意見を述べれば、ミクロ世界の量子現象の結果です。 > (4) ひとの身体ならそれを例に取って その個体としてのモノ――つまり分子だとか細胞だとか――は もとはと言えば量子現象が 言ってみれば無数にあつまって言わばマクロ世界の現象へと相転移をおこなった結果としてある。と見ることは 出来るか?  ここで相転移の定義をやかましく言うつもりはありません。比喩と捉えます。無数にランダムに集積し相転移した結果、日常世界に量子効果はほとんど現れません。ただし集積を方向付けてを制御してやれば、日常スケールでも量子効果を利用できます。 > (5) 出来ないと言えるほど どこかでミクロとマクロとは切れているのか? 出来ても マクロの世界では 意味を持たないのか?   (6) ミクロとマクロとは そういうふたつの世界としてそれなりにおのおのが独立していつつ 相補性のもとに捉えることが出来た世界観である。それ以外には 互いに《切れている》とか《つながっている》とかと言ったり見たりすることは ない。のか?  量子論の初期に、こういう見方が支配的だった時代があります。つまり日常スケールに量子効果は現れない。ミクロの量子系が、マクロの世界に属する観測装置と相互作用した時に、観測が成立する。我々は相互作用後の結果さえ見てれば良いのだと。波動関数がいくらもやもやしていたところで、現実にそれは観測できないのだから、ミクロとマクロは隔絶された世界だ。我々は、少々修正を受けただけの古典力学の世界に安住していられると・・・。  観測理論もボーアの哲学も、実はこんなところに根を持っているのは事実です。対して、「眼をつぶってるんじゃねぇ~!。量子的ミクロな世界と、我々の世界は間違いなく連続している」と、喝破したのがシュレーディンガーなんですよ。それが「シュレーディンガーの猫」の思考実験なんですよ。  物理は正直です。その後そういう態度が不誠実である事はすぐに発覚します。実際に制御された形で、日常スケールに量子効果は大々的に発現させられるので。  現在では、量子効果が支配的なミクロな世界と、我々の住むマクロの世界は連続的につながっていると認識されていると 思います(考えてみれば、当然じゃないですか)。問題は、「相転移」のきっかけをどこに探すかです。  個人的な感想ですが、定性的な考えを読んだ限り、デコヒーレント理論が最も現実的に思えました。  ・・・だとしても、今までの事を、世界観に結びつける必要はあるのだろうか?。もちろん今、物理的な世界観の話をしましたけれど・・・。 > ☆ というとき 将来において 量子力学を言わば主体として そこにおいて独自にすべての概念をあたらしく決め その概念体系を 古典力学の世界に当てはめ直すといった事態にはなり得ない。か? >☆ と見られる量子現象のミクロ世界が ぎゃくにふつうの事態であって マクロ世界のほうが異常だという見方になる気遣いはないか?  現在の物理は、あなたの意見に半分賛成しているようなものですよ(^^)。  「古典的概念装置がもはや破綻しているとわかっているのに、古典力学の言葉で定式化せざるえないジレンマを抱えている」からです。  しかし新しい概念体系を調べる手がかりは(今のところ)皆無です。それが観測理論の帰結です。  何とかなって欲しいなぁ~(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。と思います。  つまり まづは 前途洋洋であると受け取ります。  ででて^3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。      それで ヒモだとか超弦だとか言っているのですね。量子の素が。  つまり 量子力学こそが 世界の主役ぢゃわいと。  (それって 形而上学なのかなぁ)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし新しい概念体系を調べる手がかりは(今のところ)皆無です。それが観測理論の帰結です。  何とかなって欲しいなぁ~(^^;)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 万感の思いが込められていると言いますか これまでの研究の軌跡の詰まった思いということなのですね。  おもしろそうぢゃないですか。    思考の緑野と感性の原野なる経験世界と そして 非思考の庭とのあいだに 量子のお化け屋敷が見え隠れしているんでしょうか。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・問題は、「相転移」のきっかけをどこに探すかです。  個人的な感想ですが、定性的な考えを読んだ限り、デコヒーレント理論が最も現実的に思えました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 具体的には分かりませんが 見通しがないわけではない。ですね。  ★ ・・・だとしても、今までの事を、世界観に結びつける必要はあるのだろうか?。もちろん今、物理的な世界観の話をしましたけれど・・・。  ☆ 《絶対無》だとかと言っていますからね。《無限不確定性》だとか。・・・  いやぁ ここまでとして わたしなりによく分かりました。ありがとうございます。  これからの探究にもおもしろい内容があるように思いました。    ★ 量子力学はその対象領域において、古典的概念装置がもはや破綻しているとわかっているのに、古典力学の言葉で定式化せざるえないジレンマを抱えています。それも恐らく、自然の原理としてそうなる・・・。でも計算結果は、間違いないんですよ。いつも!(^^;)。  ☆ このあたりも 非常におもしろそうだと思いました。何が出て来るのだろうと期待がかかるのではないでしょうか。  わたし自身は どうすればよいかは しばらく考えつつすすみます。

  • kurinal
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回答No.13

こんにちは。 >「経験論(その《論》の部分)と言うとき すでに人間のそれぞれの善悪や価値の判断もおこなわれています。」 これは、ムズいですね。 「証拠」とか「証明」という話となりますと、 >「世界は 認識〔のみ〕の問題なのではなく 一般に主体と見なされる存在が――主体ではなくても現象する自然とともに―― つねに問いと答えを繰り返しつつ その意味での対話としての動態過程をあゆむ」 認識し得るか、認識し得ないか、ということも問題になるのでしょうか。 (認識し得なかったのか?・・・延々と続く、みたいな)

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  経験論とは 経験事実の認識だけをおこなうのではなく そこから その行為や事象の一般性をも取り出して来て 理論づけることをもすると思います。  ★ 認識し得るか、認識し得ないか、ということも問題になるのでしょうか。  ☆ けっきょく つねにすすめられていく過程においてそのつどの認識が 取り上げられるものと考えられます。  とうぜんですね。  もっともここでは さらに別種の認識の可能性が問われているようです。量子にかんして。  そしてそのことが 一般の社会行為にかんして どの程度にまたどのような世界観のもとに 取り上げられ取り扱われるか。――  これは たとえばいまの段階では 《ミクロの量子現象とマクロの一般的な社会行為現象とが 相補性を持つ》という見方に到達したところです。  これにかんして もう少し これからの展望をもまじえておそわろうかと思っているところです。

回答No.11

こんばんは。 ~~~~~~~  波動と粒子のウゴキとが 両者を同時には観測できない。ということが ミクロの次元では 成り立つ。  ただし マクロの次元では そのような不確定性が 無視できるほど小さな誤差である。  そういう意味で ミクロの現象は マクロの次元にはかかわらない。  ――もしこういうことでしたら けっきょく 量子なる物理現象は あまねくいつ・いかなるかたちの如何なるところでも ハタラキを持ち得ていて 世界がそれをまぬかれることはない。と帰結されます。  そうなのですか? ~~~~~~~ 物理学的な考えに従うならば、 YES。 ですが、物理学は、しょせん、自然を見る一つの見方に過ぎず、さらに、その中に、多くの仮定、前提を含んでいます。 せいぜい、良くても、部分的な真実のいくらかを語るできるだけですよ。 わたし、物理の理論をあまり信じていませんから。 所詮、物理は現象説明の一つの理論にすぎないと考えていますので。 ☆ でも 人間にとって おのれの存在を構成する量子の不確定的なウゴキが くわしく分かったとしても その情報は――人間の意志決定にとっては―― 何の影響をもおよぼさない。のではないか。マチガイですか? ◇わかりません。 ただ、人間を有機体からなる一種の機械と考えるのならば、意思決定になんらかの影響を及ぼすと考えるべきなのでしょうね。 まったく無縁とはすこし考えにくいでしょうね。 しかし、肉体を構成する細胞同士が盛んに情報の交換などをして、話し合いをするんじゃないですか。そして、その話し合いの結果、集団としての意思決定がなされる可能性はある。 《集団的知性》のようなものが、この時に、生まれるのかもしれない・・・。 《意志》や《意思》といった心の作用が、この時に、生まれるのかもしれない・・・。 わたし、この可能性は、否定しません。 そうなのかもしれない、とも思っています。 集団的知性 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E7%9F%A5%E6%80%A7

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。    ◇ 物理学的な考えに従うならば、 / YES。  ◇  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  わかりません。  ただ、人間を有機体からなる一種の機械と考えるのならば、意思決定になんらかの影響を及ぼすと考えるべきなのでしょうね。  まったく無縁とはすこし考えにくいでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことだったんですか。ででて^3さんが 《(身も蓋もない事を言いますよ)。》って言っていたのは。  それならそれで 世界の見方をあらためて考えて行かなければならないと思います。  誤差が無視し得るほどだという問題ではなくて そうだという場合に その根源においてどういう現象が起きているのか。また そのことの意味は 存在論や世界観にとってどういうことなのか。――こうなると考えられます。  ◇ 《集団的知性》のようなものが、この時に、生まれるのかもしれない・・・。  ☆ これは でも 《わたし》なる存在の中の細胞組織としての問題ですよね。部分要素としての。  いえ 分かりませんが いま量子現象を抜きにして認識し意志決定することの奥に根元に起きているものが 人間存在にとって どういうふうに位置づけられるのか。これだと思われます。分かりませんが。

回答No.10

こんにちは。 ☆☆ でもそれは いわゆる経験事象として捉えられるふつうのモノなのではないのですか? ◇タトエになりますが、電子という???の存在には、《粒子》という表の顔と《波》という裏の顔がある、と言った方がいいのかもしれませんね。 見方(観測方法)によってどちらの顔(《粒子性》と《波動性》)を見せるかが変わってくる。 粒子として観測したければ、電子は粒子の一面を見せ、そのように観測される。 波として観測したければ、電子は波としての一面を見せて、そのように観測される。 哲学的には、 《粒子性》や《波動性》は、電子という???の存在の《属性》と言った方がいいのかもしれないですね。 《粒子性》や《波動性》は、電子という???の存在の《本質》ではない。 電子の、粒子としての振る舞い、波としての振る舞いは、物理的に観測できるので、まぁ、経験事といえば、言えますが・・・。 ただ直接的に電子を見るとか感じるとかではないので、経験事象でないともいえます。 間接的にその存在を知る以外に、その存在を知る方法はありませんので。 ☆☆ Ψ は 《未知》なのですか? いづれ分かるようになるものとして捉えられているのですか? ◇波動関数Ψは、初期条件や境界条件などを与えれば、数学的に解くことができます。簡単なものならば、正確に求まります。 ───複雑なものは、コンピュータなどを使って、近似的に求めるしかないです─── Ψは解けるけれど、求まるけれど、それが何を意味するかがわからなかった。 ほいで、実験とピタリと一致するのは、電子の持つエネルギーとか、電子が放つ光のスペクトルとかで、???のΨが実験とピタリと一致するということではないです。 このΨがなんであるのか、何を意味しているのか、その正体は、ボルンが確率をあらわすのだ、というまで、わからなかった、です。 ☆ 《確率論的解釈》は 分かるようになったということを意味するのですか? ◇確率、確率分布はわかるですかね。 ほいで、確率がわかると、《期待値》、平均値みたいなものが求められるんですよ。 日本人ひとりひとりはわからないけれど、平均的な日本人像は求められるみたいな感じですかね。 で、この《○○の期待値》は、おおむね、古典的な物理の理論みたいなものにしたがうことがわかっています。数学的に証明(?)されています。 (エーレンフェストの定理といいます) エーレンフェストの定理は、 http://homepage3.nifty.com/rikei-index01/ryousiriki/eren.html 数式がでているところは芸術作品のように眺めていただき、 ───結構、ここで出てくる数式の姿は、美しいです─── 日本語の部分だけを読んでいただければ、十分かと思います。 そして、これが電子などの量子が古典的粒子像として、古典的波の像として観測できることの根拠になっています。 ☆マクロの日常次元では 分からないかたちなのですね? ◇かなり粗い説明になりますが、 マクロの日常次元は、平均としての振る舞いと考えられますので、量子力学的な意味での不確定性はほとんど消失している、消えてなくなってしまいます。 (ヤマシサをいだきつつ、エーレンフェストの定理を根拠に、さりげなく、こう断言してしまう、わ・た・し。) あくまで、物理現象は、ですよ。 生き物のココロの部分の話、議論ではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ あくまで、物理現象は、ですよ。 / 生き物のココロの部分の話、議論ではありません。  ☆ ですね。  とは言うものの やはり分かりづらいですね。  波動と粒子のウゴキとが 両者を同時には観測できない。ということが ミクロの次元では 成り立つ。  ただし マクロの次元では そのような不確定性が 無視できるほど小さな誤差である。  そういう意味で ミクロの現象は マクロの次元にはかかわらない。  ――もしこういうことでしたら けっきょく 量子なる物理現象は あまねくいつ・いかなるかたちの如何なるところでも ハタラキを持ち得ていて 世界がそれをまぬかれることはない。と帰結されます。  そうなのですか?    でも 人間にとって おのれの存在を構成する量子の不確定的なウゴキが くわしく分かったとしても その情報は――人間の意志決定にとっては―― 何の影響をもおよぼさない。のではないか。マチガイですか?  

回答No.9

dtdtdtさん、お久しぶりです。 bragelonneさん、こんばんは。 dtdtdtさんが、光量子のお話をしたので、わたしは、電子のお話などを・・・。 波だと思われていた光が粒子だったら、 粒子だと考えられている電子が波であってもいいじゃないか!! ド・ブローイは、こう考えた。 そして、《物質波》(ド・ブロイ波)てなことを言い出した。 1923年のこと。 そして、 この線にそって、《シュレ猫》話のシュレディンガーさんが、量子力学の基礎方程式の一つである《シュレディンガー方程式》を導いた、定式化した。 1926年のことです。 1927年には、電子が《波のような性質・波動性》をもつことが、電子線の回折・干渉現象の発見から明かになった。 ───《波のような性質・波動性》をもっているのであって、電子は波ではありません。同時に、電子は《粒子のような性質・粒子性》を持っていますが、古典物理学的な意味での粒子ではありません。─── そして、 シュレディンガー方程式とは、 こんな感じの式です。 ih(∂Ψ/∂t) = HΨ   Hは《ハミルトニアン》 (微分記号がいっぱいつく演算子とよばれるもの)   i = √(-1)  (虚数単位)   hは、お馴染みのプランク定数   Ψは、波動関数と呼ばれる不思議なもの。その正体は??? このシュレディンガー方程式を解くと、いろんなものが計算できる。 まるで、打出の小槌であるかのように、いろいろなことが計算でき、その答えが実験結果とぴったり一致する。 でも、Ψの正体は不明、これが何だか分からない!! この式を作ったシュレディンガーさんにも、わからなかった!! Ψの正体が何だかわからなくても、答えだけは出る、そして、実験の結果とピタリと一致するというのがポイント(笑い)。 この胡散臭さ、気持ち悪さが、量子力学の特徴であり、魅力!! のちに、マックス・ボルンというヒトが、 Ψの2乗〔の絶対値〕は、確率〔密度〕に等しいということを示した。 というか、主張した。 そして、量子力学の確率論的解釈が始まった。 実は、量子力学には、ボーアの考え方を発展させたもう一つのタイプのものがあります。 ハイゼンベルグの行列力学と呼ばれるもの。 おそらく、こちらの系統は、 dtdtdtさんがご紹介してくれるに違いない!!

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  シュレディンガー方程式を解くと、いろんなものが計算できる。  まるで、打出の小槌であるかのように、いろいろなことが計算でき、その答えが実験結果とぴったり一致する。  ・・・・・  ◇ Ψ の正体が何だかわからなくても、答えだけは出る、そして、実験の結果とピタリと一致するというのがポイント(笑い)。  この胡散臭さ、気持ち悪さが、量子力学の特徴であり、魅力!!  ・・・・  ◇ のちに、マックス・ボルンというヒトが、  Ψ の2乗〔の絶対値〕は、確率〔密度〕に等しいということを示した。  というか、主張した。  そして、量子力学の確率論的解釈が始まった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ Ψ は 《未知》なのですか? いづれ分かるようになるものとして捉えられているのですか?  《確率論的解釈》は 分かるようになったということを意味するのですか?  マクロの日常次元では 分からないかたちなのですね?  でも マクロの見方とつながっているのですか?  どこかでそのミクロでの理解とは 切れていますか?  ◇ ───《波のような性質・波動性》をもっているのであって、電子は波ではありません。同時に、電子は《粒子のような性質・粒子性》を持っていますが、古典物理学的な意味での粒子ではありません。───  ☆ でもそれは いわゆる経験事象として捉えられるふつうのモノなのではないのですか?  人間の感情は 粒のごとく突き当たって来る場合もあれば 波のごとく押し寄せて来る場合もあります。    でも人間は 人間という存在です。おそらくモノとは次元が違うと考えられます。  モノの〔自己〕運動は 人間の手に負えません。おとなしくしていただくより他に手の打ちようがありません。  でも 人間は モノとは別だと思われます。

noname#221368
noname#221368
回答No.8

 今回は不参加で行こうと思ってたのですが、無理でした。デデデの三乗です(なんか、ゲゲゲの女房みたい(^^;))。  まず、「相補性の概念」の物理学上の(特に量子力学での)意味を反省してみます(身も蓋もない事を言いますよ)。  量子力学では量子を扱います。量子とは平たく言えば、粒子でも波でもないのに、粒子でもあり波でもある「何か」です。例えば電波(量子的には光子)は、日常的なあらゆる場面で「波」と考えれば、あらゆる事を説明できます。一方であまり日常的でない光電効果を説明するためには、それを「粒子」と考える必要があります。   ※もっともソーラーパネルがこんだけ普及してしまった昨今、光電効果はあまり日常的でないなどとは、言えなくなっています。時代って速いなぁ~(^^;)。  しかし波かつ粒子でも良いじゃないか!、とは言えないんです。少なくとも古典力学の範囲では。古典力学における波と粒子の物理機構は全く別物で、両者は相いれません。言い換えれば、そのような物理的実在はあり得ない、という事です。  ここで古典力学(古典物理)は、日常経験における物質挙動を、最も厳密に数学化してみせた理論だと言えます。それは先行する物理理論のどれにも依存せず、それらを極限として包摂するものです。  それに対して量子力学は、非常に特異な理論です。量子力学は古典力学を、その極限として包摂すると同時に、その概念的基礎付け(位置,速度,運動量,時間,・・・など)は、古典力学に依存している理論なんです。これは史上初めての事でした。  量子的計算を行い、さっき言った「何か」を観測対象として具現化するためには、計算結果を古典力学的対象に変換してやる必要があります。何故なら我々は、粒子でも波でもないのに、粒子でもあり波でもある「何か」を観測する事なんか、現実には出来ないからです。  この奇妙な論理構造を最初に「相補性」という言葉で定式化したのは、ボーアでした。可観測対象(環境?、もしくはマクロなものの集合)と、量子(人間?、もしくはミクロな計算対象)との相補性です。量子力学は、両方で組み立てられた理論です。両方が、「補い合って初めて成立」します。   ※上記の事実を教えてくれたのは、ランダウの量子力学(非相対論領域)でした。さすがはランダウ先生と思いました。  では以上の状況を、普通の言葉で述べてみます。   ・我々は、ついに、非日常経験領域に突入してしまったのだ!。  ・・・これだけですよ。これが、物理的な「相補性」の正体です。もっとも、「この世は不思議で一杯」な訳ですが。  だからこそだと思います。疑似科学を標榜したスピリチュアル系がそれなりに盛んなのは。だって現実の世界、「この世自体が不思議の塊」なんですもの(^^;)。  Pさんの仰るような事は、自分は嫌いではないんですよ。というか、SFとしてはけっこう大好きです。それもサイエンス・フィクションではなく、スペキュレーティブ・フィクションやサイエンス・ファンタジーの類として。  でも「この世は不思議の塊」なのは事実ですが、それはそのままそうだと素直に受け入れた方が、自分には健全に思えます。恣意的な解釈を強引にさし込む事無く・・・。  人間の精神を待つまでもなく、この世の意思を持たない物質達がすでに、「不思議の塊!」なんですから・・・(^^;)。  ボーアの言った「相補性」を物理の外に持ち出してみても、自分にはあまり意味を見出せません(成立過程を知ってるので)。それは、意思を持たない物質達がすでに「不思議の塊」だったからですが、人間の精神はもっとハイレベルですよね、きっと!・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうーう。まづは ででて^3さん こんばんは。まだ明確にはつかめていませんが えらい画期的なことと思えるような内容のご回答をありがとうございます。  ★ まず、「相補性の概念」の物理学上の(特に量子力学での)意味を反省してみます(身も蓋もない事を言いますよ)。  ☆ 身もふたもないことと言えば ふつう 一般の人間にもはっきり分かることであるはずなのに やっぱしダメでした。分かりません。  ★ 量子的計算を行い、さっき言った「何か」を観測対象として具現化するためには、計算結果を古典力学的対象に変換してやる必要があります。何故なら我々は、粒子でも波でもないのに、粒子でもあり波でもある「何か」を観測する事なんか、現実には出来ないからです。   ★ この奇妙な論理構造を最初に「相補性」という言葉で定式化したのは、ボーアでした。可観測対象(環境?、もしくはマクロなものの集合)と、量子(人間?、もしくはミクロな計算対象)との相補性です。量子力学は、両方で組み立てられた理論です。両方が、「補い合って初めて成立」します。  ☆ ですから この相補性は マクロの次元にもそのままかかわっているのですか? かかわっているのなら ふつうの日常の言葉で説明できるのではないでしょうか。  ★ ボーアの言った「相補性」を物理の外に持ち出してみても、自分にはあまり意味を見出せません(成立過程を知ってるので)。  ☆ ならば マクロの次元には 相補性はかかわって来ないとなるのではないですか?  そうだとしても・そうは成らないとしても  ★ それは、意思を持たない物質達がすでに「不思議の塊」だったからですが、人間の精神はもっとハイレベルですよね、きっと!・・・(^^;)。  ☆ なんて言われても どこがどうなっているのか。分かりませえーん。  お手上げです。  いつか 思い出してそうだったかと言えるときが来るといいのですが。ったく わかりませええん。

回答No.7

こんにちは。 ☆☆ でも決定論である。つまり 自由意志はない。ということなんでしょうか。 ◇量子力学も決定論です。初期条件などを入れれば、量子力学的状態を求めることができます。 サイコロを例にとり説明しますと、 古典的な物理学では、  サイコロを投げると、出る目が正確に計算できる、出る目を正確に予想できる。  投げた瞬間に、既に、出る目は決まっている、 と考えます。 量子力学では、  1が出るか、2が出るか、それを確定的には予想できない。  けれども、1~6の目が出る確率は1/6であると計算できる。  サイコロのどの目が出ているかは、実際に見(観測し)てみないと、わからない。 と考えます。 極端なことを言いますと、量子力学的には、確率が求まればいい。そして、確率は計算できるし、予想できる。そして、サイコロを振った瞬間に確率は決まっているし、1~6のいずれの目がでるということも決まっているので、量子力学は決定論です。 ただ、量子力学は、古典物理学的な意味での決定論とは異なる。 だから、量子力学的な不確定さは、自由意志の《自由》の根拠にならない、というわけです。 無制限の自由はないので。 そして、自由意志が存在していない、とは言っていませんよ。 量子力学は自由意志の根拠にならない、です。 さらに、 ウィキペディアの文章中にあるコペンハーゲン解釈では、量子力学的な不確定さは、情報の不足、無知に基づいて起こるとされており、必ずしも、古典物理学的な意味での決定論を捨てたわけではない。情報が不足しているから、不確かさを含む確率的な解釈・統計的な操作をおこなうしかないのだ、となります。 ☆ 一方を測定しようとするとき 他方のものも 《情報の不確かさ》を持ってなら 同時に測定し得る。こうだとすれば 双方のモノは 互いにふつうに関係しあっているだけであって 相互補完性を持つというようなことではない。こう見てよろしいのでしょうか? ◇ハイゼンベルグの不確定性原理という縛りはありますけれども。 まぁ、普通に関係し合いますかね、お互いに影響を与えあうと考えればいいのではないでしょうか。陰に陽に影響しあっている、といった方がいいのかもしれませんが・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  反応を持ったところで考えてまいります。  ◇ 極端なことを言いますと、量子力学的には、確率が求まればいい。そして、確率は計算できるし、予想できる。そして、サイコロを振った瞬間に確率は決まっているし、1~6のいずれの目がでるということも決まっているので、量子力学は決定論です。  ☆ これは 《決定論》ではなく 《サイコロには 1~6までの目があり それよりほかにはない》ということが決まっているということではないのでしょうか?  自由意志にかかわらせて捉えるならば たとえば《サイコロを振らない》という選択肢があります。極端な例としては サイコロを壊してしまうというのが考えられます。みな 意志による自由選択ということの為せるわざです。  ◇ そして、自由意志が存在していない、とは言っていませんよ。 / 量子力学は自由意志の根拠にならない、です。  ☆ あぁ そうなんですか。まづは 留意します。  ◇ ハイゼンベルグの不確定性原理という縛りはありますけれども。  ☆ まだ むつかしそうです。留意して出直します。  

  • kurinal
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回答No.6

B様、こんばんは。 >「認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く」 「経験論」でしょ?

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  経験論ですが 議論は たとえ形而上学であっても その妥当性を判定するのは すべて経験論としてだと思われます。  つまり 経験論(その《論》の部分)と言うとき すでに人間のそれぞれの善悪や価値の判断もおこなわれています。

回答No.5

こんばんはです。 ~~~~~~ ▼ 量子的な不確定性に基づいてお  ☆ るのであるなら マクロの次元でも どちらか一方の測定・認識しか出来ないと言っているのだと思います。 ~~~~~~ 不確定性というのは、たとえば、電子などの場合、  位置xと運動量pを同時に正確に測定できない、 の意味であって、 (量子力学を含まない古典的な物理学では、原理的には、どちらも正確に測定できると考える) まったく、何もかも測れないというものではないんですよ。 位置の不確かさをΔx、運動量の不確かさをΔp、プランク定数をhとすると、  Δx・Δp ≧ h 程度の情報の不確かさが存在する、というもの。 (ハイゼンベルグの不確定原理) http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity3055.html わたしたちが普段認識するレベルでは、この情報の不確かさはほとんどゼロなので、無視できます。 電子レベルの話でなければ、《不確定性》の話は出てこない。 なのですが、世の中には、この《不確定性》をもとに、人間の自由意志の問題を解こうとする物好きな人もいます。 ───────── 物理学 一般的に、「意志は脳の働き」であり、かつ、「脳が物理法則に従う」ならば自由意志はないと考えるのが適当である。逆に自由意志があるのであれば、これらの一方か、両方が否定されなければならない。 初期の科学思想家のうち、ある者は決定論的なものとして宇宙を描き、またある者は完全に正確に未来の出来事を予言するには、充分な情報を集めさえすればいいと考えた。しかし、量子力学は、そのような情報はどのようにしても完全には求められないことを明らかにした。また、量子力学の解釈(観測問題)では、この世界は観測者の無知ゆえに厳密に決定論的な記述ができないとする解釈(定式化)が標準的である(コペンハーゲン解釈)。これにより、量子力学に自由意志を見いだす考えもあるが、これは統計学として量子の振る舞いを解釈するコペンハーゲン解釈を誤解しているもので、自由意志の存在の根拠にはならないと否定する見解もある(「サイコロ」を振って統計的揺らぎとして意思決定をするようなものであり、非決定論といっても、単に観測者が量子(サイコロ)の振る舞いを予測できないという自由意思の外部のものに支配されていることは変わらないため。)。コペンハーゲン解釈に対する多世界解釈は決定論的だが、この場合も世界内の観測者がサイコロの軌道を知りえないと言うことにおいて、自由意志を記述する根拠には成り得ない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 ───────── みたいな話。 シュレディンガーの猫、シュレ猫たウィグナーの友人の話も、これに関係する話です。 ノイマン・ウィグナーの学説では、シュレ猫の生死を決定するのは、《観測者の意思》である、となる。 ☆☆ それは けっきょく因果関係の類似するものを言うのでしょうか? ◇ええ、ある種の因果関係、因果律を前提として考えています。 (理系出身なので、わたくし。ですから、基本的に原因と思われるものとその結果と考えられるものを結びつけて考えます。) でも、人間の心や自由意志に基づく行動まで、物理的な因果律で縛ろうとは考えていません。 物理的な刺激に対する反応は、心的な状態によって異なるであろうし、経験によっても変わってくるであろうし、そこはブラック・ボックスとして残します。そこの詳細なメカニズムはわからないであろうし、わからなくても大まかな傾向性だけはわかります、理解できます。 極端な話、相手の嫌がることをしたから、相手は怒ったのだ、くらいの非常に緩やかな因果律でよいし、こんなことをすると相手は怒るくらいの計算能力くらいの意味。この計算は外れることもあるでしょうし、当たることもある。 あとは、この計算の精度の問題でしょう。 計算の精度をあげるように努力すればいいし、計算方法をかえたり、因果関係の範囲を広めればいいじゃないですかね。 意志を持たない自然はともかく、意志を持つ人間同士の間では、この程度のことしかできない、と考えています。 ネコとヒトの関係もかくの如しです(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ なのですが、世の中には、この《不確定性》をもとに、人間の自由意志の問題を解こうとする物好きな人もいます。  ▼ 量子力学の解釈(観測問題)では、この世界は観測者の無知ゆえに厳密に決定論的な記述ができないとする解釈(定式化)が標準的である(コペンハーゲン解釈)。  ☆ でも決定論である。つまり 自由意志はない。ということなんでしょうか。  初期条件を設定すれば あとはすべて人間の為すこと考えることは 決まっているというふうな見方でしょうか。  これなどは ひとの自由意志がみづからの行動の軌跡を 初期条件の設定について初期条件の選択(つまり自由意志)としておこなったと考えればよいかも知れない。かな?  つまり そのつど初期条件を意志によって選択している。と。     *  ◇ 物理的な刺激に対する反応は、心的な状態によって異なるであろうし、経験によっても変わってくるであろうし、そこはブラック・ボックスとして残します。そこの詳細なメカニズムはわからないであろうし、わからなくても大まかな傾向性だけはわかります、理解できます。  ☆ これについて疑問・質問があります。  すなわち 人間の採り得る選択肢は そうは言ってもおよそ限られている。だから ブラック・ボックスに入れたところの自由度は それほど大勢に影響しない部分であるかも知れない。  あるいはつまり そのブラック・ボックスに入れて置いたと思っていた部分の自由度もしくは選択肢が 歴史の進展につれて おおきく前面に出てくるといった場合があるかも知れない。  たとえば 社会形態として《国家》という概念および社会事実。これは それがなかったときには ブラック・ボックスに入れることすら考えられなかったかも知れない。そしてそれが成り立った時代には それがなくなるというのは もはや不問に付しておいてある。  けれども人間の思考や想像は 自由であって その自由意志による思想と行動は 歴史の進展につれて社会のオモテに現われて来うる。つまりは 人間が そのように自己表現するようになる。  となれば 計算の精度は あまり問題にならない。不要な選択肢としての自由度は 措いておかれるであろうし 必要なそれは すでに自己表現される内容となり始めるから。  言いかえると 計算の精度は 選択肢の構想について内容を競うかたちに取って代わられるかも知れません。      *  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まったく、何もかも測れないというものではないんですよ。  位置の不確かさをΔx、運動量の不確かさをΔp、プランク定数をhとすると、    Δx・Δp ≧ h  程度の情報の不確かさが存在する、というもの。  (ハイゼンベルグの不確定原理)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうしますと 例の《相補性》は どうなりますか?  一方を測定しようとするとき 他方のものも 《情報の不確かさ》を持ってなら 同時に測定し得る。こうだとすれば 双方のモノは 互いにふつうに関係しあっているだけであって 相互補完性を持つというようなことではない。こう見てよろしいのでしょうか?  ■ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「自我仮説(時間軸=時間の流れ=記憶=過去=超光速)」と  「時空仮説(空間軸=空間の広がり=予測=未来=光速下)」  は相補分化している、   【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8207934.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.4

こんばんは。 ~~~~~~~~ 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 ~~~~~~~~ や ~~~~~~~~  《全ての存在》のなかで 人の存在は  ▼ 量子的な不確定性に基づいており  ☆ と言えるか?  ~~~~~~~~ の是非は別にしまして、  ☆人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか については、 こういう考え方もありかな、 と考えます。 《ココロ》の発生のメカニズムはあまりに複雑で、難しいので、 環境について考えれば、 法則のようなもの、規則のようなものがものがあって、概ね、それに従っているように見えるからです。 人間、一人一人は、色々な性格や行動様式があって、それらは一人一人異なっているけれども、社会という大きなマクロ系で考えると、そこには一種の規則性のようなものが発生することはありますし、実際にある。 (一人一人の人間が、この一種の規則性にしたがっているのではなく、社会というトータルで見ると、そこに規則性のような構造性があるの意味!!) そして、 わたしは、わたしの《ココロ》と《環境》という二つの変数によってある、成立する、 と考えればいいんですよ。 ───ただし、《ココロ》と《環境》が与えられれば、わたしの行動が一意に定まるという意味ではない。そこには自由度がある─── 《環境》も、自分一人のこともあれば、二人の時もある。町内会のような小さな集団から、国家レベルまである。 ここに《環境》の多様性も出てきます。 組織の構造が違うのですから、その規則性のようなものも、それぞれ、異なってくる。 といったふうに考えてみては、いかがでしょうか。 であるならば、  ☆また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか? とはならないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  であるならば、   ☆ また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか?  とはならないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですよね? つまり 言えない。つまり 心と環境とは 同時に認識し得て それなりに(主観としてながら)どちらをも確定しうる。ですよね?  ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    つまり このいま扱っている命題は 階層現象というんでしょうか それによって世界が――モノとしての要素は同じだとしても――ミクロの次元とマクロの次元とに分かれるとき それでも 両次元は つながっている。こう言っているのだと思います。  つまり  ▼ 量子的な不確定性に基づいてお  ☆ るのであるなら マクロの次元でも どちらか一方の測定・認識しか出来ないと言っているのだと思います。  それは どうしてそうなるのか? というのが この質問の趣旨です。  ○ 政府じしんも 自分自身についての事実認識を 相手たるワタシについての認識と同時に 得ることが出来る。  こうですよね。つまり 量子的な不確定にもとづいては いない。と。  ☆ 人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか  ◇ については、 / こういう考え方もありかな、 / と考えます。  ☆ これについてのご説明がいまひとつ読み取りにくかったのですが そうですね。  まづ この・こちらの命題については わたしの物言いとしては そもそも《自己(心)と環境》に二分すること自体が おかしいと考えています。  人間の存在は 身と心とであって 身はワタシにとってすでに環境のごとくであるとも考えられます。食べ物が胃袋に入るまでは ワタシにとって《外》ではないかとも考えられます。  心は 身と けっきょく一体であろうし(つまり 身ないし細胞組織という基礎の上にその心的現象が繰り広げられる)  身体の組織活動を認識するとき 社会や自然としての環境についても 必要ならばやはり同時に認識します。  心を決めるなら 身や外部の環境のことを認識し得ないというのは どう見てもおかしい。そういった環境についての認識にもとづき知解し判断し 行動をも決める――つまり 心を決める――のですから どう考えてもおかしい。  ◇ 環境について考えれば、 / 法則のようなもの、規則のようなものがものがあって、概ね、それに従っているように見えるからです。  ☆ それは けっきょく因果関係の類似するものを言うのでしょうか?  満員電車で 急ブレーキをかければ 人びとは一斉に倒れます。隣の人から押され 別の隣の人を自分も押します。  あるいは やはり満員電車で 乗降口近くにいると 止まった駅で自分は降りるのではないとしても 降りる人たちに押されてドアの外に押し出されます。  こういった不可抗力によるからだの移動という法則があるはずです。  ですが だからと言って 自分の心 とそして環境としての・この場合は人びとの動きや流れ とのあいだに どちらか一方をしかいっぺんには認識できないというたぐいの問題でもないはずです。  自分の意志やそれにもとづく行動が ままならないからと言って 何も《心と環境とのあいだに相補性が成り立つ》などという問題にはなりません。  ◇ わたしは、わたしの《ココロ》と《環境》という二つの変数によってある、成立する、 / と考えればいいんですよ。  ☆ いえ。わたしは そういった意味での変数を取り上げたり扱ったりする必要はないと思うのです。  心のとおりに行動できるかどうかを別とすることが出来るはずであって そうであっても 心は――意志は―― 認識と判断また行動の決定を成し得る。こう考えます。環境は この心が取り扱う対象です。心は およそワタシのことです。それは 意志行為が中軸を成していると見ます。  ◇ 《環境》の多様性  ☆ これは ごくふつうの現実だと見ます。

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     人間としての存在にしぼっています。ですから 実存と言ってもよい場合です。  そして この問いは 言わば実践編です。  (α) 《わたしはわたしである》という境地にあること これが わが存在である。  (α‐1)  じっさいにワタシが《わたしはわたしである》と言っているのでなければダメである。  (α‐2) むろんワタシは動態ですから さらに詳しくは《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》 これが わが存在であり実存である。  (α‐3) ほかには無い。その余は テツガクごっこであり たいていはオフザケでありタワゴトである。  (β) 言いかえると ワタシの動態は この《わたし》の自己到来を くたばるまで あゆむことであるが しばしば人はこの道から逸れる。道草を食い さらには脱線する。  (β‐1) しかも人は 道を離れ外れたと気づいたとき はっとわれに還り やはり初めからの自己に還帰する。  (β‐2) この方程式を措いて ほかにわが実存としての道はない。  (γ) ところが じつはこの《方程式》は じつに――そもそも人間の言葉による表現というものがそうであるように 規定したというとただちに―― 観念に早変わりするものである。  (γ‐1) 《われはわれなり》という命題は すでに観念として持ってしまうなら それはほんとうの《わが実存なる過程》から疎外されて行ってしまう。わざとひどく言うなら あたまの中で引っかかりをつくってしまう。つまづきの石となる。  (γ‐2) わたしがわたしについて 言葉による表現として その存在を規定するなら その規定は 観念と成ってわたしをあたかも否定する。われは賢いとかバカだとか いろんなふうに規定したなら その規定した内容が観念となって目の前をちらつく。このちらつきを何とかしない限り 自己到来のよき命題が 自己到来どころか 自己をぎゃくに自己から切り離してしまう。  (γ‐3) 《わたしはわたしである》という自己還帰の命題は 自己還帰をさまたげるクソ観念と化す。  (γ‐4) いまひとつの例として 《神は死んだ》とか《神は生きている》とかいづれの規定にしてもその規定内容が観念となって 目の前をちらつく。言おうとしたことが むしろ遠のいて行ってしまう。  (δ) どうすればよいか?  (δ‐1) 或る人は それについて 《自然法爾》と言った。《念仏は 非行非善なり》と。すなわち 《ハカラヒ無きを持って 自然とす》と。  (δ‐2) では ハカラヒを無くせばよいか? ――否。そうすれば ハカラヒを無くすハカラヒになる。  (δ‐3) そこで 《義無きを以って義とす》と言った。  (δ‐4) ここまでを言って 自然法爾なるわたしの動態としての道について みなさんからのご見解をつのります。《われはわれなり》という命題――それによって わたしは規定されその規定としての観念がわたしをむしろ否定し疎外させるその命題――から自由な 自己到来とはどういうことになるか? どうでしょう?  (δ‐5) 哲学は哲学を乗り超えるためにおこなうものらしい。か?

  • 認識が存在に先行するか?

     1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成る のか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っている のではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は では どのように存在することになるのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 認識は 存在に先行しない

     【Q:存在と存在理由・・・】の姉妹質問です。ついでに問います。  1. 知解行為においてものごとを知り世界を認識し存在をも思う――このことによって《存在》が成るのか?  2. モノの存在はいざ知らず ヒトなる存在は認識作業の以前にすでに成っているのではないか?  3. 人間は モノに還元されるのか?  4. ひとの意志は 知解行為と――そして記憶行為と――時間差をともなって一体であると思われるが 認識(知解)するというならすでにそれをしようとする意志もがはたらいているはずだ。記憶・知解・意志なる三つの行為能力を持つひとの自然本性は 身とともに すでに存在している。という原点から出発するほかないのではないか?  5. この世に生み落とされたというところから出発するよりほかにないのではないか? 言わばモノがそのようにひととしての生命を持ったところからという意味である。  6. モノは認識によって存在するようになると言った場合 その認識をおこなう存在は・そしてその認識の能力は では どのように存在するようになったのか?  7. 認識等の知解行為をおこなう主体は すでにあくまで自然本性として存在を受け取り その動態としての存在を生き始めている。あとは そのことの認識作業は 言わば事後の知解行為に過ぎないのではないか?  8. 存在とは ものごころが着いたあとの 意志行為を中軸として生きられている。  9. このひとの存在は モノの自己運動についてはけっきょくのところ手に負えないのであるが その弱さ(つまりひとは受け身であるということ)においてながら モノの存在とは一線を画している。か?  10.  モノは認識しない。とりわけ意志しない。ただの自己運動のみである。しかもひとによって加工・操作される。よわいほうのヒトが えらいと見なずばなるまい。  11. 有るゆえに知るのであって 知るゆえに有るとは言えない。のではないか?  12. この《有る》が うつろいゆかざるを得ないものであることは また別の問題である。

  • 神 信仰および宗教についての一般理論

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

  • さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第六章 さとりとは 何か  1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。  2. 真理とは 変わらざる真実である。  3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。  5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。  6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。  7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。  8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。  ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。  賛成だとしても 添削をもどうぞ。  9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

  • ずっと前に書いた関係=存在のことですが

    こちらで以前書いたものなのですが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3052150.html 以前かなり言葉足らずだったので。 前に、関係=存在といったのですが、 客観世界では関係=存在は当然と思う人もおられますが、 主観世界でも同じことが成り立つのでは?という話です。 つまり主観世界での関係=存在、とは、 人間関係=人間存在、ということです。 つまり人とつながっている=自己が存在している。ということです。 これは、主観世界の認識の問題なので、ここが違うと、心を表現する言葉、それを感じる直感、心に対して重要な価値観、良心、行動、などが見事に逆になります。 人の世がこうできてるのだーというところが違うと言うことは一番大事なものが違う、ということになります。 この2つの認識の違いを、関係直観、存在直観と仮に呼んでいます。 関係直観の人は最も重要なものを「絆、信頼」と言いますし、存在直観の人は最も重要なものを「自分、自由」と言われます。 でも逆だけれど同じだ、という話なんです。 よくたとえで、女性とおばあさんのだまし絵の話をします。 これは人の認識能力の限界を探る話で、関係=存在のわかりにくさの説明をしてるつもりです。 あまり説明しても長くなりますが、だいたいこんな感じなのですが、 どう思われるでしょうか? この手の内容に興味のある方がおられたらお話聞かせていただけたらうれしいです。よろしくお願いします。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)

     1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。  8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。  15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. というふうに推し測った仮説です。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。  24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。  25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。  26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。