人の存在は自己と環境が相補性の下にあるか

このQ&Aのポイント
  • 全ての存在は量子的な不確定性に基づいており、人の存在もその例外ではない。
  • 人の存在は自己と環境の相互補完の関係にあるのか、その問いを検討する。
  • 人間の現実は自然本性と心の組み合わせによって捉えられ、主観真実と呼ばれる部分も含まれる。
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人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題について 別様に問います。  《全ての存在》のなかで 人の存在は  ▼ 量子的な不確定性に基づいており  ☆ と言えるか?   すなわち 世界を おそらく心としての自己と そして自然および社会としての環境(時空間?)とのふたつに分けて捉え これらのものが 相互に補完するようなかたちであると言えるか?  すなわち 自己つまりワタシが この世界において《すべての国家は その執行部たる公民が 生活者市民に 大政奉還すべし》とうったえ そのように実践しようとするとき 相手の環境たる政府について何も認識し得なくなるだろうか?   また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか?  言い得まい。  たとえモノにかんしては その現象が 相補性なるあり方をしていたとしても 人間にかんする世界としての現実は そうではあるまい。それにちなんで 次のような仮説を示します。   ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~~~~~~~    (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)     一般に 心(精神)において 現実を捉える。     身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。    (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*)      * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち このワタシの《主観真実》は 環境をそして自己をもすでにそのつどの時点で捉えている。その捉えた中身についての正否を超えて この主観真実として ワタシは意志行為を成し 相手も同じくそうする。試行錯誤でもある。  つまり 世界は 認識〔のみ〕の問題なのではなく 一般に主体と見なされる存在が――主体ではなくても現象する自然とともに―― つねに問いと答えを繰り返しつつ その意味での対話としての動態過程をあゆむ。  自己(心)を測定すると 環境が測定できなくなるといった情況にはない。測定だけではなく意志行為もが行なわれる。   つまり認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く。  これを問います。

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noname#221368
noname#221368
回答No.12

 #8です。もう少し、ちゃんと書いた方がいいかなと思いました(面倒臭い事を書いても仕方ないが、前回の方針でした)。今回も面倒臭くしない予定ですが、前回は確かに具体性に乏しかった気がします。  不確定性原理ってご存知ですか?。相補性とももちろん関連する話ですが、その代表的例は、「粒子の位置と速度は、同時に無限に正確には確定できない」というものです。が、これはちょっと誤解を招く言い方で、「粒子に運動軌道は存在しない」の方がより妥当です。注意すべきは、運動軌道が存在しないからと言って、電子の位置はないとか、速度はないとか、電子そのものがない、といった類の話ではない事です。そんなだったら、量子「力学」自体を行えません。  少し具体的に考えてみます。  #9さんのように、粒子として電子を取ります。粒子も電子くらい小さくなると、量子としての性質が顕在化して来ます。さらに電子は、等速直線運動しているとします。古典力学でのこの電子の運動軌道は、真っ直ぐな直線です。電子が1m/sの速さで直進してるなら、1秒後には直線上の1m地点、2秒後には直線上の2m地点に必ずいるはずです。  ところが不確定性原理を考慮して量子効果を追加すると直線は、もやもやとした細くて境界の不明瞭な「帯」になります。帯のどこかに電子はいる、という事態です。ただし帯の幅方向の不確定さだけでなく、1秒後には帯上の1m地点の断面上にも、電子は「いない」のが普通です。その「付近にいる」のが普通の状態ではありますが。  帯を詳しく眺めると、そこには濃淡があるのがわかります。濃淡の濃い地点ほど、電子のいる確率が高まります。この濃淡模様をあらわすのが、#9さんの言っていた波動関数Ψの2乗なんです。  帯の最も濃い部分は帯の中心線で、それは古典的な電子軌道に一致します。それがエーレンフェストの定理ですが、軌道が「線にならない」という意味で、量子論において粒子は運動軌道を持ちません。運動軌道は古典力学で定義された概念です。それは粒子がどんなに複雑な運動をしようと、常に「線」でなければなりません。線でない軌道はあり得ない訳です。それが「粒子に運動軌道は存在しない」の意味です。  そしてこれは、1個の電子の話です。では電子はどこにいるのでしょうか?  電子は、ちょうど帯の幅の振幅を持つ波動軌道に載って動いていると考えたのが、ド・ブロイでした。この線に沿って考え方を一般化し、波動方程式を導いたのがシュレーディンガーです。でもシュレーディンガーは帯の濃淡を与えてしまった事に、すぐに気づきます。帯の濃淡の拡がりは、軌道ではありません。ここで波動関数は、いったん正体不明になります。  突破口を開いたのは、#9さんの言っていたボルンです。ボルンは、統計力学(古典力学の一分野)における「玉突きモデル」との数学的アナロジーで、波動関数Ψが、電子の存在確率分布(濃淡模様)を与える事に気づきます。ここからコペンハーゲン解釈が始まるのですが、でも電子はどこにあるのでしょう?。  確率解釈を常識的に適用すれば、模様の最も濃い部分に電子はいそうだ、となります。それは疑いもなく正しい事実です。そうするとこの立場では、未知の物理効果(量子効果)により、電子の位置が少々不明確になっただけだ、と言えます。電子は必ずどこかに、「一個の点として、一個の粒子としてある」のです。  ところが、そうはいかない事も明らかになります。古典論においても現実でも、等速直線運動する電子が絶対に撥ね返るであろうと考えられる障壁を設ける事は、しごく簡単です。しかし波動関数を計算してみると、障壁の後ろ側にも、波動関数が拡がっている事を確認できます。非常に薄い濃淡ではありますが・・・。  普通の場合、こういう数学的解は「無縁根」として捨てられます。プラスの解しかないはずなのに、マイナスの解も出す2次方程式の2根を、物理的判断を行い捨てるのと同じです。  でも障壁の後ろ側にも非常に低い確率でですが、電子は検知されてしまったんです。これをトンネル効果といい、トンネル効果を応用したトンネル・ダイオード(別名、江崎ダイオード)を開発した江崎レオナさんは(たぶん今も筑波大学の学長)、ノーベル賞を取りました。トンネル効果は、現実の話です。  では「一個」の電子は点としてではなく、波動関数の濃淡模様に従って、ぶわぁ~と何処にでも偏在していて、位置を確定しようとする全ての試みを裏切って、位置確定が不可能となるような存在なのでしょうか?。これを称して「電子雲」といいますが、これも真実ではありません。速度の情報を犠牲にすれば、電子の位置は確実に特定できるからです。波動関数は、再び正体不明になります。  ここにいたってボーアは降参します。例えば位置という概念は、そのまま量子には適用できないのだと。  考えてみれば、位置,速度などの概念は古典力学のために整備され、古典力学内において見事に合目的的に機能します。  古典力学は19世紀に包括的に成功し、みんな、ずっとこのままどこまでも行けるのさ!、といったんは思いました。しかし物理的現実は違った訳です。そして古典力学は、日常経験を最も厳密に数学化,概念化したものです。  つまりミクロの(量子的な)世界において、古典力学(日常:マクロな世界)において洗練された概念装置は、全く通用しない訳です。  でも我々は、古典力学の概念装置でしか、現実を語れません。  それしか知らないだけでなく、そういうものしか観測できないという、我々の物理的現実がついてまわります。  我々は電子ほどには小さくなく、量子効果の発現しない世界にいる、というのがその理由です。  そうなると我々は波動関数の一側面を、位置とか速度とかいう古典力学的な概念に限って切り取って観測して初めて、波動関数に対して、やっと何かを語れるようになります。  これは、とても異常な事態なんですよ。  例えば古典力学(ニュートン力学)は、ガリレイの落体理論(放物運動)の理論に依存しません。放物運動は、一様重力場中の自由落下という、ニュートン力学の特殊ケース(極限)に過ぎず、ガリレイの落体理論がなければニュートン力学の結果を解釈できない、などという事にはなりません。ニュートン力学は、論理的に自立しています。  特殊相対性理論でも同じです。特殊相対性理論は、ガリレイの相対性理論を、物体速度が光速度に比較して0に近い極限として後者を含み、ガリレイの相対性理論と特殊相対性理論は、論理的に独立です(重複する部分はけっこうありますが)。  それでは量子力学はどうでしょう?。  例えば電子の質量が仮に1gだったら(それは公称されている電子質量の10^20倍以上のでかさです)、波動方程式の与える濃淡は、ほとんど1本の直線になります。その幅は、1/10^20くらいと考えてOKです。現実には幅0です。このような極端な(極限の)ケースでは、波動方程式はニュートンの運動方程式と、寸分たがわぬものになります。  しかし波動方程式は粒子が十分小さいケースで、ニュートンの運動方程式の予想できない、はるかに豊かな結果を与えるので、量子力学はニュートン力学をその極限として含む、古典力学の拡張です。  にも関わらず、位置とか速度とかの古典的概念枠で量子力学は定式化されるので、量子力学は古典力学に依存し、概念的に独立でないんですよ。  ミクロの量子法則(波動方程式)とマクロな古典物理の概念が、両方あって初めて我々は、量子に関して何かを言える。この異常事態をさしてボーアは、「相補性」と言ったんです。  もっと簡単に言いましょう。   ・我々は、日常経験で培われた概念が通用しない非日常的物理領域へ、ついに突入した! ・・・という、認識論的「叫び」だったともとれます(この世は、不思議の塊だぁ~!(^^;))。  もうおわかりと思うのですが、物理における相補性は、量子力学に特化した考えで、人間の精神活動一般と関連づけるべき根拠は一つもないと思います。  あなたも既に予想されているように、要するに関係ないんです(私の意見では)。だから、 >▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 > ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・なんて事から、 >人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか なんて悩むのは、辞めませんか?。  ・・・というのが、自分の趣旨です。

bragelonne
質問者

お礼

 ふーむ。まづは ででて^3さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1) 次のような区分でよいですか?  マクロ:モノ(個体):古典力学:位置と速度とが測定できる。  ミクロ:量子:量子力学:位置と速度とを同時には測定できない。  (2) これらのふたつ・すなわち言わば確定性原理(?)と不確定性原理とが相補性を成すかたちとして 世界は成ると現在の科学は見ている。ということですか?  (3) このとき 人間なら人間という個体は 確定性原理の通用するマクロ世界に存在するが その身が成り立っている要素は さかのぼって行けば ミクロ世界の量子現象であると言ってよいか?  (4) ひとの身体ならそれを例に取って その個体としてのモノ――つまり分子だとか細胞だとか――は もとはと言えば量子現象が 言ってみれば無数にあつまって言わばマクロ世界の現象へと相転移をおこなった結果としてある。と見ることは 出来るか?  (5) 出来ないと言えるほど どこかでミクロとマクロとは切れているのか? 出来ても マクロの世界では 意味を持たないのか?   (6) ミクロとマクロとは そういうふたつの世界としてそれなりにおのおのが独立していつつ 相補性のもとに捉えることが出来た世界観である。それ以外には 互いに《切れている》とか《つながっている》とかと言ったり見たりすることは ない。のか?  (7) すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もうおわかりと思うのですが、物理における相補性は、量子力学に特化した考えで、人間の精神活動一般と関連づけるべき根拠は一つもないと思います。  あなたも既に予想されているように、要するに関係ないんです(私の意見では)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と見る以外に 世界観はあり得ない。ということですか?  (8) すなわち  ★ にも関わらず(* この意味については省略します)、位置とか速度とかの古典的概念枠で量子力学は定式化されるので、量子力学は古典力学に依存し、概念的に独立でないんですよ。  ☆ というとき 将来において 量子力学を言わば主体として そこにおいて独自にすべての概念をあたらしく決め その概念体系を 古典力学の世界に当てはめ直すといった事態にはなり得ない。か?  (9) すなわち  ★ これは、とても異常な事態なんですよ。  ☆ と見られる量子現象のミクロ世界が ぎゃくにふつうの事態であって マクロ世界のほうが異常だという見方になる気遣いはないか?  いまいちど よろしくお願いいたします。

その他の回答 (12)

回答No.3

bragelonneの存在は、心と環境の破壊をもたらしている。 これまでの複数の方々から病院に行って専門家による治療を受けるように勧められているにもかかわらず、これらに全く聞く耳を持たず心優しい人々の心と良質なネット環境を破壊し続けている。 【つまり認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く。】  エゴむき出しでたえず自己主張しか行わない bragelonne がこの種の書き込みを平然と行える精神性には治療が必要。  何度か通報はしてはみたものの、今の法律では、強制的に隔離することはできないらしく当局も困惑しているが何とか前向きに検討して頂きたい。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

時間

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~   《全ての存在》のなかで 人の存在は   ▼ 量子的な不確定性に基づいており   ☆ と言えるか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ 時間  ご回答をありがとうございました。

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    こちらで以前書いたものなのですが。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3052150.html 以前かなり言葉足らずだったので。 前に、関係=存在といったのですが、 客観世界では関係=存在は当然と思う人もおられますが、 主観世界でも同じことが成り立つのでは?という話です。 つまり主観世界での関係=存在、とは、 人間関係=人間存在、ということです。 つまり人とつながっている=自己が存在している。ということです。 これは、主観世界の認識の問題なので、ここが違うと、心を表現する言葉、それを感じる直感、心に対して重要な価値観、良心、行動、などが見事に逆になります。 人の世がこうできてるのだーというところが違うと言うことは一番大事なものが違う、ということになります。 この2つの認識の違いを、関係直観、存在直観と仮に呼んでいます。 関係直観の人は最も重要なものを「絆、信頼」と言いますし、存在直観の人は最も重要なものを「自分、自由」と言われます。 でも逆だけれど同じだ、という話なんです。 よくたとえで、女性とおばあさんのだまし絵の話をします。 これは人の認識能力の限界を探る話で、関係=存在のわかりにくさの説明をしてるつもりです。 あまり説明しても長くなりますが、だいたいこんな感じなのですが、 どう思われるでしょうか? この手の内容に興味のある方がおられたらお話聞かせていただけたらうれしいです。よろしくお願いします。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)

     1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。  8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。  15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. というふうに推し測った仮説です。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。  24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。  25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。  26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。