存在とは《われはわれなり》と自己に到来すること

このQ&Aのポイント
  • 人間としての存在にしぼっています。ですから実存と言ってもよい場合です。そしてこの問いは言わば実践編です。
  • 自己到来の命題は観念と化し、自己還帰をさまたげます。規定した内容が目の前をちらつき、自己到来どころか自己を切り離してしまいます。
  • 自然法爾なるわたしの動態としての道について、わたしは自由な自己到来を求めます。哲学は哲学を乗り超えるために行われるものです。
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存在とは《われはわれなり》と自己に到来すること

 人間としての存在にしぼっています。ですから 実存と言ってもよい場合です。  そして この問いは 言わば実践編です。  (α) 《わたしはわたしである》という境地にあること これが わが存在である。  (α‐1)  じっさいにワタシが《わたしはわたしである》と言っているのでなければダメである。  (α‐2) むろんワタシは動態ですから さらに詳しくは《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》 これが わが存在であり実存である。  (α‐3) ほかには無い。その余は テツガクごっこであり たいていはオフザケでありタワゴトである。  (β) 言いかえると ワタシの動態は この《わたし》の自己到来を くたばるまで あゆむことであるが しばしば人はこの道から逸れる。道草を食い さらには脱線する。  (β‐1) しかも人は 道を離れ外れたと気づいたとき はっとわれに還り やはり初めからの自己に還帰する。  (β‐2) この方程式を措いて ほかにわが実存としての道はない。  (γ) ところが じつはこの《方程式》は じつに――そもそも人間の言葉による表現というものがそうであるように 規定したというとただちに―― 観念に早変わりするものである。  (γ‐1) 《われはわれなり》という命題は すでに観念として持ってしまうなら それはほんとうの《わが実存なる過程》から疎外されて行ってしまう。わざとひどく言うなら あたまの中で引っかかりをつくってしまう。つまづきの石となる。  (γ‐2) わたしがわたしについて 言葉による表現として その存在を規定するなら その規定は 観念と成ってわたしをあたかも否定する。われは賢いとかバカだとか いろんなふうに規定したなら その規定した内容が観念となって目の前をちらつく。このちらつきを何とかしない限り 自己到来のよき命題が 自己到来どころか 自己をぎゃくに自己から切り離してしまう。  (γ‐3) 《わたしはわたしである》という自己還帰の命題は 自己還帰をさまたげるクソ観念と化す。  (γ‐4) いまひとつの例として 《神は死んだ》とか《神は生きている》とかいづれの規定にしてもその規定内容が観念となって 目の前をちらつく。言おうとしたことが むしろ遠のいて行ってしまう。  (δ) どうすればよいか?  (δ‐1) 或る人は それについて 《自然法爾》と言った。《念仏は 非行非善なり》と。すなわち 《ハカラヒ無きを持って 自然とす》と。  (δ‐2) では ハカラヒを無くせばよいか? ――否。そうすれば ハカラヒを無くすハカラヒになる。  (δ‐3) そこで 《義無きを以って義とす》と言った。  (δ‐4) ここまでを言って 自然法爾なるわたしの動態としての道について みなさんからのご見解をつのります。《われはわれなり》という命題――それによって わたしは規定されその規定としての観念がわたしをむしろ否定し疎外させるその命題――から自由な 自己到来とはどういうことになるか? どうでしょう?  (δ‐5) 哲学は哲学を乗り超えるためにおこなうものらしい。か?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

あんたが否定的に観念と表現しているのを、頭でっかちにふさわしい思い込みだと柔らかく行った方が説明がうまくいくよ。 観念と言えば、開眼者には観念世界でつながっている。 その共通項としての観念とことばの使い方が違う。 いい商売してるね。 がんばってね。

bragelonne
質問者

お礼

 たとえば  ☆☆ (γ‐3) 《わたしはわたしである》という自己還帰の命題は 自己還帰をさまたげるクソ観念と化す。  ☆ ここの《クソ観念》であっても イデアの世界に通じていると思うってわけだ。  日本人は 意外と ロマンティックなのかなぁ。  まぁ どうなりますか。回答がつかないものもありますねぇ。  ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (1)

回答No.2

ところで、いい商売している君と違って、私はあこぎな商売をしているよね。 笑いが止まらないよ。 やめられない。

bragelonne
質問者

お礼

 まあまあまあ。  いろんな質問が思い浮かんでくるきょうこの頃。  ご回答をありがとうございます。

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