天使とは?――《はじめにことばがあった》

このQ&Aのポイント
  • 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
  • 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
  • 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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天使とは?――《はじめにことばがあった》。

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

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noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ヒドッチでございます。  前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。  ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。  何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?  そしてダニエル書とイザヤ書ですか。  さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。  ★ ~~~~~~~~~  【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。    【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。    ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。    「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の    果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。  【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。  それほど大きなまちがいではないように思われますね。  それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。  たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。  さらに何かありましたら お寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。  パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。  ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~  ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。  新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。   (III)  では、実際はどうであったのでしょう?   (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。  (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。  (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。  これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?  ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。  天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・  

その他の回答 (80)

回答No.51

個人的な私見だけを入力しますと申し訳が無い、 と思われましたので、学習の為に、スピンオフをさせて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6728196.html 助動詞の「き」の採用には、 リズムの調整の効果もが期待されている様ですね。 元々には「堕落論」の解釈の要点にならないか、 と私が勝手に拘ってみたのですが、見直しが必要になりそうですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  なるほど。探究として道筋がつながっていることも分かりました。  ☆☆(No.51お礼欄) ~~~~  ▼(大野晋) ~~~~~~~~  【き】    意味は キの承ける事柄が 確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは 自己の体験であるから キは《・・・だった》と自己の体験の記憶を表明する場合が多い。   ・人言を繁みこちたみ逢はざりキ 心あるごとな思ひそわが背子     (万葉集538)     しかし 自己の体験し得ない または目撃していない事柄についても用いる。例えば みづから目撃していない伝聞でも 自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には キを用いて《・・・だったそうだ》の意を表現した。   ・天皇(すめろき)の遠き御世にも     押し照る難波の国に    天の下知らしめしキと    今の世に絶えず言ひつつ (万・4360)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから       はじめにことばありキ。  と言っても それはそれで言えるのではないですか?  つまり非経験のことを指し示すという視点はいま別として――ということは 文学の手法として考えればという意味になりますが―― 《世界の初めには 〈ことば〉があったんだ》もしくは《・・・あったそうだよ》という意味表示に成り得ると思います。  つまりは そのように何でもない・ふつうの経験事象に関する表現だと思わせておいて いやいや言おうとしていることは それだけには終わらないのだよという含みをも持つ。この一文だけでは この含みのことは分かりませんが 次にはすでに《神》という言葉が現われますから そこにおいて複雑な表現形式をもくろんでいるのだなと分かるようになっています。  ★ 助動詞の「き」の採用には、 / リズムの調整の効果もが期待されている様ですね。  ☆ これは それほどこだわらないでおきます。

回答No.50

私の力量が乏し過ぎるせいなのかも知れませんが、 『「ことば」が無くなった』、という譬えへの理解は難しいですね。 神との一体性が失なわれた、という意味を 其の文言は諭してくれているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  やっと意味が分かりました。  でも 結論は なおやはり《経験世界とそして非経験の領域とを峻別してください》です。   はじめにことばがありき。  と言った場合――それによって聖書の言おうとしていることはという意味ですが―― 《ことば》が 経験世界における人間の使っている言葉のことではなく そうではなくあくまで非経験のなぞの何ものかのことを仮りに人間の言葉であらわすなら そうなるというに過ぎない。こうでした。  しかも じつは 《ことば》がそうであるなら 《はじめに》も《あり》も同じような前提がつけられています。  非経験のナゾの領域を指し示すようにして言い表わしているのなら 時空間を超えているとすでにそのまま 言っています。つまり《はじめに》というのは 用を成さない。無限ないし永遠という時空間のナゾの何ものかについて指し示そうとしており しかももし四次元の時空間を超えているとするならば その経験世界について言うところの《はじめや終わり あるいは 有る無い》などを超えており しかも超えつつそれらを包んでいると言えることにもなります。  経験世界における《はじめ》をそのナゾ(つまり神)は超えているゆえに その《はじめに》の時点にも存在し得るということになります。(あるいは 無神論の場合には 初めにも終わりにもどこにも《存在しない》という命題で表わすこともできます)。  つまり《ありき》と言っていますが けっきょくどこでも遍在し いつでも遍在するのであり 《初めにあった》ことのみを言っているわけではありません。  ★ 神との一体性が失なわれた、という意味を / 其の文言は諭してくれているのでしょうか?  ☆ 神は 普遍であり遍在しています。むろん非経験のナゾとしてであり 人間の内面にとっては非思考の庭としてです。そのようなかたちにおける《一体性》 これもまた普遍であり遍在です。ですが それを人間は自由意志によって棄てることもあります。自由にこの神から離れることも出来ます。(無神論の場合には 神という名を言わない(つまり神はないと言っている)のみであって 非経験のなぞを離れるものではない)。  ★ 神との一体性が失なわれた  ☆ かどうかは 一人ひとりの人の内面の問題です。人それぞれです。  ★ 先験的  ☆ という用語で説明する場合は 《仏性ないし神の聖霊がやどるという言い表わし方での〈神との一体性〉》が後天的に得られるのではなく そうではなく生まれつきなのだと言おうとしています。そういうかたちで 非経験のナゾの何ものかのことを指し示しています。  ★ 神との一体性が失なわれた  ☆ かそうではなく保たれているかは 特に言い表わしていないはずです。個人の内面にゆだねられています。

回答No.49

すいません。 前回の内容の直接的な続きで伺いたい愚問が御座います。 『「無くなった」言葉』と『「今にも有る」言葉』との違いが、 堕落の問題にも関わっているのでしょうか? 私の学びの度合いが浅過ぎて畏れ入りますが、 宜しく御願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼(大野晋:ツ・ヌ・タリ・・・) ~~~~  ツ・ヌは動作・作用・状態の完了を表現し リ・タリは進行・持続を明示するのが本来の役割であった。これは 動作が完了したか 継続しているかについてだけ表現するのであって 過去についても現在についても 未来についても使うことができる。  つまり過去・現在・未来という 時の経過の過ぎ去った時点 あるいは現在という時点 あるいは未来という時点のうちの一つとして捉える時の認識とは別の認識の仕方を表わすものである。  (これを 文法学者によっては アスペクトの助動詞といっている。アスペクトはテンス(時制 過去・現在・未来)とは別の範疇に属する認識の仕方で 動作の開始 継続・完了という点に注意した把握の仕方をいう)。  【ツ・ヌ】   動詞および助動詞の連用形を承ける。ともに動作・作用・状態の完了を示すことが本来の役割で ツとヌとは 古くはそれぞれが承ける助動詞や動詞に相違があった。  まづ ス・サス・シムを承けるのはすべてツであり ル・ラルを承けるのはすべてヌであった。  また万葉集・源氏物語で ツとヌとが承ける動詞を見ると 次の相違がある。   ツだけが承ける動詞の例    かざす 散らす 召す 成す 見す 返す 過ぐす 見る 聞く 嘆く    かぬ(不能の意) 結ぶ 告ぐ 定む 告(の)る 治む 植う 刈る    取る 宣ふ 飲む 結(ゆ)ふ 率寝(ゐぬ) 挙ぐ 失ふ 置く     (以上 万葉集)       言ふ 明かす 死なす 渡す 返す 隠す 暮す (源氏物語)   ヌだけが承ける動詞の例    成る 経(ふ) 過ぐ 更(ふ)く 移らふ 散る 色づく 咲く 絶ゆ    吹く (霧・霜が)置く 消(く) 乾(ふ) 生(お)ふ 恋ふ 立つ    別る 隠る 濡る 知る 恋ひ渡る 寄る 逢ふ 坐(いま)す 近づく    憤る 帰る 入る  (以上 万葉集)    成る 老ゆ 過ぐ 亡(う)す 帰る まさる 経(ふ) 更く 生る    かくる 忘る 染(し)む しづまる 絶ゆ (源氏)  この例を見れば ツが他動詞 つまり作為的・人為的な意味を持つ動詞を承け ヌが自動詞 つまり自然推移的・無作為的な意味を持つ動詞を承ける傾向のあることが明らかである。  [語源と意味]   ツとヌとの語源を考えると ツとヌとは それぞれ動詞の棄(う)つ・去(い)ぬと 活用が同一である。また 意味的にも 棄つと去ぬとに根本的な共通性を保っているから 棄つからツ 去ぬからヌが転成したことが推定される。  つまり 物を意志的に眼前にほうり出してしまう意の棄つのはじめの母音 u を脱落したツは 作為的・人為的な動作を示す動詞や 使役の助動詞ス・サスの下について すでに動作をしてしまったという完了の意を示す。  一方 眼前にいたものがいつの間にかどこかへ去って見えなくなる意の去ぬのはじめの母音 i を脱落したヌは 無作為的・自然推移的な作用・動作を示す動詞や助動詞ル・ラルの下について すでに動作・作用が成り立ってしまったという完了の意を示すのである。   ・妹を思ひ眠(い)のねらえぬに秋の野にさ男鹿鳴きツ 妻思ひかねて     (万葉集 3678)   ・今よりは秋づきぬらし あしひきの山松かげにひぐらし鳴きヌ(万3655)  また奈良時代にはアリを承けるのはツで 平安時代に入っても形容詞連用形にアリのついて成立したカリ活用の形容詞を承けるのは 《いみじかりツル》のように多くツである。   ・をとつ日も昨日もありツ(万4011)  棄つという語は本来物をほうり出す意であるが 捨ててもその結果の物は眼前に在る意味を持ちうるに対し 去ぬは 消え去って見えなくなる意味が原義であるから 存続・存在を意味するアリを含む語をヌが承けることは 意味の上で矛盾をきたす。その結果アリを承けるにはヌを用いず ツを用いた。  しかし平安時代に入ってツ・ヌの原義が忘れられ 完了の意が次第に薄れて来て ツ・ヌの表現するところが確認へと移るにつれて 動詞アリにもヌがつきうるようになり 源氏物語では動詞アリおよび這ひありから転じた侍りを承けるには ヌがツの二倍以上も使われるに至った。  ツ・ヌは 動作・作用・状態が完了していることを示すのが本来の役目であったが 奈良時代から平安時代にかけて 《散らしテム》《よく見テマシを》《潮満ち来ナム》《散りヌベシ》などのように推量の助動詞と共に用いて 完了だけでなく確信・確認・堅い意志を表わすように用法が移って行った。   ・いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひヌラム(万63)   ・長谷(はつせ)の弓槻(ゆづき)が下に吾が隠せる妻 あかねさし   照れる月夜に人見テムかも(万2353)  そして中世になると ツもヌも次第に用いられなくなり 大勢はタリを多く用いる方向へ向かって行った。  【リ・タリ】  [意味]   リもタリも存続・持続の意を示すのが本来の意味であった。しかし 動詞には 意味上 (1)時間的に持続・継続することがもともと当然であるものがある。例えば劣る・まさる・似る・止まる・思ふ・生ふのごときである。  これに対して (2)時間的には 動作が瞬間的に一回づつ完結するものがある。例えば釣る・摘む・倒る・出だす・(歌を)詠む・生むのごときである。  (1)をリ・タリが承けた場合は 《・・・している》の意で その状態のそのままの持続・存続の意を示すことが多く    ・珠にぬくあふちを家に植ゑタラば(植えておいたら)山ほととぎす    離(か)れず来むかも(万・3910)  (2)をリ・タリが承けた場合には その動作が済んだ結果が 状態として存続している意を表わすことになる。       ・花咲(ゑ)みににふぶに咲みて会はしタル(お会いした)今日をはじめて     (万4116)  このような場合のリはツとほとんど同じ意味を表わすことになり ツとリとを共存させる意味が薄くなる。その点からもリの使用は次第に衰えるに至った。   (古語辞典・基本助動詞解説)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ・    

回答No.48

過去の助動詞の「き」につきましての興味深い記述を見付けました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%88%B6 此のページでの解説によりますと、「き」が使われている場合には、既に其の状態が完了して無くなっているそうですね。 それならば、『初めに言葉有り「き」』という表現の解釈はどうなるのでしょうか? 本来の形状が無くなった、という意味を託して、助動詞「き」が使われているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 此のページでの解説によりますと、「き」が使われている場合には、既に其の状態が完了して無くなっているそうですね。  ☆ 次の説明のことのようですが わたしにはよく分からないです。  ▼(ヰキぺ:時制) ~~~  § 日本語   平安時代までの日本語では、過去を表す助動詞は「き」と「けり」だった。  前者は、過去にあって、それが今はなくなったという意味があり、後者は、現在の事態から過去に思いを馳せることを表す。  現代の「タ」と異なり、これらは絶対的な過去を表し、相対時制としては使われない。「き」を経験、「けり」を伝聞とする解釈もあるが、当てはまらないことがある     ・山口明穂; 鈴木英夫; 坂梨隆三; 月本雅幸(1997), 日本語の歴史  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ▼ 前者(= キ)は 過去にあって、それが今はなくなったという意味があり  ☆ について何を言っているのか分かりかねます。過去のその動作が今はなくなっているというのなら それは当然のことなので なぜそのことを言うのか。まるでわかりません。  次のように記憶の問題だと言うことだとすれば 過去のその動作が今とはつながっていないのは 当たり前です。  ◆(大野晋=No.45お礼欄) ~~~  過去とは 話し手の記憶の有無 あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故 ここにキ・ケリについて過去の語を用いず 回想という。むしろ 進んでこれは記憶 あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。  【き】    意味は キの承ける事柄が 確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは 自己の体験であるから キは《・・・だった》と自己の体験の記憶を表明する場合が多い。   ・人言を繁みこちたみ逢はざりキ 心あるごとな思ひそわが背子     (万葉集538)     しかし 自己の体験し得ない または目撃していない事柄についても用いる。例えば みづから目撃していない伝聞でも 自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には キを用いて《・・・だったそうだ》の意を表現した。   ・天皇(すめろき)の遠き御世にも     押し照る難波の国に    天の下知らしめしキと    今の世に絶えず言ひつつ (万・4360)  ~~~~~~~~~~

noname#143207
noname#143207
回答No.47

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > イエスと悪霊の場面については わたくしも保留とします。
  お役に立てず、誠に心苦しい限りでございます。申し訳ございませんでした。
  > 自己責任論:これは やはり理論的には 《まづ一人ひとりが自己責任として事態を引き受け それらにもとづき皆で互いに助け合う》という見方を採りたいと考えます。
 問題は 情況をとらえながら実態・実情に即して対処して行かねばならない。こうだと考えます。
 やはり海外の安い賃金というのが 前に立ちはだかっているように思います。
 全体的に給与水準を下げて広く潤うようにする。地道に輸出産業を伸ばしたり開拓したりする。そして競争力のある産業の足を引っ張らないようにする。
  意見を等しく致します。  愚生は、昨今の”自己責任”を見ますと、以下の意味にしか理解できないというのが実情です。 自己責任(ヒドッチ辞典):自分への影響もしくは連帯責任行動を拒否する場合に、予め注意しておく場合に使用する言葉。もしくは、他人に責任をなすりつけるための口実の言葉。もちろん、外国の海岸などに立っている「at your own risk(自らの責任において)」の看板に用いられているなどとは、意味が異なる。 http://www.istockphoto.com/stock-photo-5000029-enter-at-your-own-risk.php  

> ★ 既に存在していた放射能と原発の放射能とのつじつまを合わせたい?
   ☆ 人為的に地震を起こしたというのは その福島の原発がすでにいくらかの放射能を漏れさせてしまっていたということですか?   以下の参考アドレスの文言からもお分かりいただけますように、今回の地震は何らかの核反応によるものだったというものであります。従いまして、必然的に、放射能汚染が海水中に既に見られていたと考えられます。 「あらかじめ水素核融合反応を進行させた活断層内部で核爆弾か高性能爆薬を起爆して、一気に破壊を誘発すれば、秒単位で地震の発生をコントロールすることが可能だとされています。」 http://blog.goo.ne.jp/tank1208/e/e5c3402ed8d27a97e3f9875edd8ee099  「3月11日の地震の波形は爆発の波形だったよ~」 http://moto-0358.at.webry.info/201104/article_17.html  > それに輪をかけた事故を起こせば しりぬぐいをすることが出来ると。GE もからんでいたので アメリカ政府も乗り気である。と言うか アメリカ側が起こした話であるかも知れないのですか。
  確かに、GEの問題もあるかと思われます。ただ今回の震災では、アメリカはとても親切過ぎるように見受けられます。(こんなことを言ってしまいますと、非難の嵐を受けてしまうかもしれませんが)援助と言いつつ、それと同時に海中で爆破させた破損物の回収をしていたのかと、つい疑ってしまいます。 
> そこで神の聖霊のもとに生きている人間は どうこれを見るか。
   まづは課題として示しておきたいと思います。  了解致しました。 

> 《天使》からかなり主題が伸びましたが きわめて現実的なことになってまいりました。
  誠に申し訳ございません。以後気をつけたいと考えております。 
> 先日すでに気づきましたが お名前を別にもつくられたのですね。  ここ1、2か月、このOKWaveでいろいろとございましたため、気分一転という意味で、かえてみただけでございますが・・・ 深い意味は全くございません。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうとございます。  ★ 自己責任(ヒドッチ辞典):・・・  ☆ なるほど。責任の連帯からまぬかれるためにそう言うということのようです。責任は別々に負うものだと言いたいのでしょうか。  分かりましたが でも自己責任という言葉の定義をしっかりとしたほうがよくありませんか?  自己責任で行動し事後的にも自己責任をそれぞれが負うかたちにまづなるようにする。そうなれば あとはしかるべき時には 負う人負わない人を問わず 互いに協力するものであると。  ☆☆ ~~~  そこで神の聖霊のもとに生きている人間は どうこれを見るか。
   まづは課題として示しておきたいと思います。  《天使》からかなり主題が伸びましたが きわめて現実的なことになってまいりました。
  ~~~~~~~  ☆ これらは互いにひとまとめです。  ですから 考えてまいりたいのです。ただし 人工地震説 これは まだ何とも反応のしようがないように思うのですが? ありうるかもというところまでだと思います。  ★ ただ今回の震災では、アメリカはとても親切過ぎるように見受けられます。  ☆ この点は 確実に感じました。どうなってるんだろうと。オバマが全面的に支援すると言い切りました。中国からの援助で 船の入港を――港の不備を理由に――政府はことわりました。・・・  でも分かりません。留意とします。  ★ 気分一転  ☆ 了解しました。

noname#143207
noname#143207
回答No.46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 
> ☆ わたくしは単純にその事柄や情況の当事者であるなら まづその結果として現われている状態を認識だけとしても引き受けるというふうにだけ考えていました。そのあとの行動のゆくえを考えたら 「簡単に言えるものではない。」こういうことですね。
  はい、仰る通りでございます。以下にその一例を述べさせてもらっております。つまり、「自己責任論」がはびこっているため、容易には助けを求めることは困難な状況にあろうかと考えております。 「親の死後ひきこもり状態にあった兄弟(32歳と26歳)が餓死して発見される」、 「こういった状況は、政財界によって作られているにも関わらず、まだまだ自己責任論の空気が覆う社会のなかで、多くの若者が生きづらさに苦しんでいます。」 http://seinen-u.parfe.jp/sekinin.html    また最近では、この震災におきましても、「自己責任論」が出てきているようでござます(このサイトからのものもございます)。おそらく今後、益々増えていくものと推察しております。 http://okwave.jp/qa/q6696290.html http://okwave.jp/qa/q6673872.html  http://blog.livedoor.jp/omoidesokuhou/archives/2453689.html 
> 仮りにこのたびの大震災も地震を人為的に起こしたとすれば ふり返ってみれば鳩山政権ではアメリカは距離を置いていたが 菅政権ではかつての竹中金融行政のときと同じような密接なつながりがあらためて出来たというところでしょうか。
  もし、人工的な震災であったとの前提に立ちますと、つながりがあったと考えております。 ・どうして、放射線に汚染された冷却用水(海水)を海に破棄するときに、放棄した後、海外諸国に報告したのか(普通は、知らせてから破棄するのが常識かと思われます)。 → 破棄前の海水の放射能を調べられずに済む? ・誰も正確な情報を入手できていないにも関わらず(言い換えれば、情報を完全にコントロールできます)、またロシアがチェルノブイリとは深刻度レベルが全然違うとの声明を出してくれたのもかかわらずに、アメリカサイドの指示により今回のレベル7への変更となり、一方的なアメリカの言いなりになっていること。 → 単に原発の放射能のみの問題? それ以外にも放射能が出ているのでは? ・あまりにも対処が後手に回り過ぎている。 → 既に存在していた放射能と原発との放射能とのつじつまを合わたい? 
> 株価の上げ下げには 重要な情報がそのつど時を見計らって発表されるというような感触を持っています。ギリシャやポルトガルの財政危機にしても 頃合いを見計らって情報を出したりその危機の度合いをあおったり リビヤ情勢もそのほかのアラブ諸国での民主化の動きもその扱い方と相場のゆくえとを人為的に相関させているかと思わされるところがあるように思います。
  ビン・ラーディンが暗殺された際も、一時的ではございましたが、急騰致しました。 

> ★ これを読みます限り、「悪霊のほうから」と理解できるのですが…..
 ☆ ということは 人びとの意志とは別のところで何かが動いたし人びとを動かしたということでしょうか? そこまでは考えられないのですが どうでしょうか。
  この問題につきましては、もう少し考えさせてくださいよう、お願い致します。  既述のマタイ伝におけます”神の子”という表現(英訳、例えば、ESVでは”Son of God”)は、イエスご自身、ペテロ以外には、ほとんど用いられていない という事実がございますため、もう少し考えてみたいと考えております。よろしくお願い申し上げます。 ソース: http://www.studylight.org/desk/?l=en&query=Matthew+8§ion=0&translation=esv&oq=mt%25208&new=1&nb=mt&ngt=Go+To%3A&ng=8&ncc=8 上部の”using”箇所のカーソルをかえていただきますと、他の英訳にジャンプしてくれます。 

> 今回は 実質的なお応えが出来ずにいると思います。判断がつかないというのが 正直なところです。  誠に申し訳ございませんでした。少しマニアックに過ぎたと反省しております。深くお詫び申し上げます。  駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  株価の変動の件 了解しました。  イエスと悪霊の場面については わたくしも保留とします。  自己責任論:これは やはり理論的には 《まづ一人ひとりが自己責任として事態を引き受け それらにもとづき皆で互いに助け合う》という見方を採りたいと考えます。  問題は 情況をとらえながら実態・実情に即して対処して行かねばならない。こうだと考えます。  やはり海外の安い賃金というのが 前に立ちはだかっているように思います。  全体的に給与水準を下げて広く潤うようにする。地道に輸出産業を伸ばしたり開拓したりする。そして競争力のある産業の足を引っ張らないようにする。  ★ 既に存在していた放射能と原発の放射能とのつじつまを合わせたい?  ☆ 人為的に地震を起こしたというのは その福島の原発がすでにいくらかの放射能を漏れさせてしまっていたということですか? それに輪をかけた事故を起こせば しりぬぐいをすることが出来ると。GE もからんでいたので アメリカ政府も乗り気である。と言うか アメリカ側が起こした話であるかも知れないのですか。  そこで神の聖霊のもとに生きている人間は どうこれを見るか。  まづは課題として示しておきたいと思います。  《天使》からかなり主題が伸びましたが きわめて現実的なことになってまいりました。  先日すでに気づきましたが お名前を別にもつくられたのですね。

noname#143207
noname#143207
回答No.45

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ☆ ひどっちさんご自身は どうなのでしょう? どういう見解を形成されて来ましたか? ・活断層の上部を深さ数キロメートルほど掘削してそこに大量の水を注入 ・明石海峡の周辺では震災の前に謎めいた船が目撃  まず、上述のことから、日本国政府が関与していなければ、到底不可能なことかと考えられます。以下には、陰謀論に対しまして、”あえて肯定的に”述べております。もちろん、証拠等はございません。 米国側の利益: ・オイルマネーの復権:温暖化CO2悪玉説がございますが、これを完全に封じたいこと。 ・自国の金融機関にマネーを稼がせたいこと。  2番目につきまして、少々補足させていただきます。以下のサイトの2011年の3月の外資系動向を見ていただきたいのですが、3月の15日頃から、外資系金融機関の極端な買い越しが見られることがわかります。つまり、“安値での買い”が見られることがお分かりいただけるかと存じます。 http://www.traders.co.jp/domestic_stocks/domestic_market/foreign_funding/foreign_funding_bn_list.asp (あくまで、寄付き前の注文数でございますが) 日本国(政府)側の利益: ・温暖化CO2悪玉説がアヤシクなってきたこと:先日まで、エコ!エコ!との大合唱の中、「エコポイント」なるものが利用されていました(実際は、景気回復のために実施されたものです)。ですが今では、その舌の根も乾かぬ内に、まるでCO2温暖化説が存在しなかったかのように、火力発電を起動させようとしています。 ・復興活動による景気回復(少なくとも土建やさん達は潤います) ・アメリカに稼がせてやりたいと思っている輩の利益  3番目につきまして、補足させていただきますと、以前にも同じような醜聞がございました。“りそな銀行のインサイダー疑惑”でございます。 ・平田氏(公認会計士):りそな銀行を監査中に自殺。 ・鈴木啓一氏(朝日新聞論説委員):自殺。その翌日に朝日新聞のスクープ記事「りそな銀行、自民党への融資残高3年で10倍」が公開された。 ・植草氏(大手銀行株をめぐるインサイダー取引疑惑について調べていた):手鏡でスカート内のぞいたことにより、逮捕される。言論界からの事実上の抹殺。 ・太田氏(国税調査官):手鏡でスカート内のぞいたことにより、逮捕。  まず、2003年3月28日に、バブル崩壊後の最安値をつけました(終値7607.88円)。これは、「メガバンクは国内に2つだけあればいい」との政府高官の発言によるものといわれております。  ですが一方、りそな銀行の自己資本比率が、国内基準である4%を大幅に下回る2%台に転落する可能性が出たため、同行に対して、政府は5月17日に公的資金投入を決めました。そのときに何らかのインサイダー取引があったと噂されております(上記サイトの外資系動向では、既に5月初旬に買い越しが見られます)。 参考:http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-a54f.html  > ★ 残念ながら、自己で引き受けるという程、ひとは強くはないようにも見受けられるのですが、いかがでしょうか。  ☆ これはわたしの考えでは まづ引きうける。そのあとで これは自分ひとりの努力では解決が不可能だと認識する。といったかたちになるのではないか。と思っているのですが?  仰られますように、「ひとりだけでは決して解決できない」ことを認め、そして、協力しあいながら、前進していく、これは日本人が昔から得意としてきた互助の精神、またそこから生まれる組織力に、その基礎を置くものと思っております。ですが現在では、上から目線の「自己責任論」がはびこっているため、少し困難になっているのかと危惧してございます。 > じつはこれは相手との間で確認し合っている体験内容でして 単純にテレパシーなのだと捉えています。むろん遠隔の伝達を言っています。    何らかの“量子波”のようなものが関与しているのかもしれません。残念ながら、愚生には詳細が分からないだけかもしれません。 > もっともイエスの場合には 悪霊のほうから寄って来ましたね。悪霊の憑いた人たちのほうからと言うべきか 悪霊のほうからと言うべきか。これは どうでしょう? 電子のぶつかり合いがあった上でのことでしょうか? 単純に人格の香りからでしょうか?  以下の福音書からのものでしょうか。これを読みます限り、「悪霊のほうから」と理解できるのですが….. マタイ 8章28から31節 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。  最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 仰られますように、「ひとりだけでは決して解決できない」ことを認め、そして、協力しあいながら、前進していく、これは日本人が昔から得意としてきた互助の精神、またそこから生まれる組織力に、その基礎を置くものと思っております。ですが現在では、上から目線の「自己責任論」がはびこっているため、少し困難になっているのかと危惧してございます。  ☆ どうも陰謀と切り結びしているような様相ですが あぁ そうなんですか 情況からして《引き受ける》などと簡単に言えるものではなくなっている。こういうかたちですね。  わたくしは単純にその事柄や情況の当事者であるなら まづその結果として現われている状態を認識だけとしても引き受けるというふうにだけ考えていました。そのあとの行動のゆくえを考えたら 簡単に言えるものではない。こういうことですね。  ということは そうとう大きく強固な垂直壁であるようです。それゆえにも 大きく陰謀つまり図り事として事態は作られているし流れている。  仮りにこのたびの大震災も地震を人為的に起こしたとすれば ふり返ってみれば鳩山政権ではアメリカは距離を置いていたが 菅政権ではかつての竹中金融行政のときと同じような密接なつながりがあらためて出来たというところでしょうか。  株価の上げ下げには 重要な情報がそのつど時を見計らって発表されるというような感触を持っています。ギリシャやポルトガルの財政危機にしても 頃合いを見計らって情報を出したりその危機の度合いをあおったり リビヤ情勢もそのほかのアラブ諸国での民主化の動きもその扱い方と相場のゆくえとを人為的に相関させているかと思わされるところがあるように思います。  あるいは 列車や飛行機などの事故 これさえも じつは演出されたのではないかと思ったことが そう言えば過去にありました。ただ 地震はどうなのかなぁという科学音痴の一面があります。  ★ これを読みます限り、「悪霊のほうから」と理解できるのですが…..  ☆ ということは 人びとの意志とは別のところで何かが動いたし人びとを動かしたということでしょうか? そこまでは考えられないのですが どうでしょうか。  今回は 実質的なお応えが出来ずにいると思います。判断がつかないというのが 正直なところです。

回答No.44

『先験的に言葉(は)有り「き」』、という見方を採用すれば宜しいのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 先験的  ☆ あるいは いまは統合論的とか何とか言うのだと聞きましたが この用語は確かに《非経験》のことを言おうとしていると思います。おまけにその非経験のナゾの力がすでに人間という存在にいづれ現われてはたらくとまで言っています。    ○ もの自体( Ding an sich ) / 人が仏性を持つ / 人に神の霊がやどる  ☆ こういったところまでその意味を伸ばして言っているようです。  といったふうに説明するときの言葉だと思います。  ○ もの自体は 先験的にあり人間にはついぞ分からないが その思考や行動にあたって間接的に潜在的にはたらく。  ☆ というふうにも見るのでしょうか。  ということは   ○ この《もの自体》を 別の言葉で言いかえると 《ことば》であるとも言えるのではないか。  ☆ こういった見方になるかと思われます。あるいは実際の歴史では 先に《ことば・ロゴス》説が言い出されてそのあとこれをめぐって たしかあなたも触れていましたか ゲーテが《おこない》という言葉に言いなおしたのでしたか そういう経過をたどって この《もの自体》に到ったということなのでしょう。(いえ 歴史の順序はぎゃくでしたか。考え方の上でいろんな説が出て来得るということで)。  さらに言いかえると わたしは 《絶対・非経験》というそのコトをどのように定義して想定しておくのか ここにすべてはかかっていると思っています。  非経験・絶対あるいは無根拠であるなら 人間とその世界からそれこそ絶対的に隔たっていると捉えられます。何の接点もないのだと。超えているのですから。  しかも――ここからが《先験的》という言葉での見方が出て来得る事由なのですが―― すべてを超えてすべてから隔たっているコトであるなら もしそれがあるとするなら そのすべてを蔽っているかも分からない。接点がないというとき 人間の側からはそう見られるとしても あちらの側からは人間とその世界に対してあらゆるところで接しているのかも分からない。  想定の上からは そう考え得るということになります。あるいはそのナゾはわれわれを包んでいるかも分からない。あるいはすべてを――人間および世界のすべてを―― つらぬいているかも知れない。人間はこの《絶対なる無根拠》の海にどっぷりと浸かっているかも。いや 大気の中にでしょうか。  となると たしかにこの非経験のナゾは 人間の存在に先立って・その生まれ生き死ぬという経験に先立って存在しているのかも。  つまりは 仏性としてあるいは神の霊としてひとにもともと宿っていることになると。  その仲介を天使が――もしくは菩薩が――果たすというふうに言ってみるのだと。  たぶん  ★ 『先験的に言葉(は)有り「き」』、という見方を採用すれば宜しい  ☆ のだと思います。そしてそれは 哲学の行き方ですね。哲学や科学に対する反逆児であろうとする場合のある文学は  ▼ はじめに ことばがあった。  ☆ とだけ言って この世界と科学知の行き方を突き抜けようとしているのでしょうね。そんな馬鹿なとか 世の中それほど単純ではないよとか 言わせたいのでしょう。そういう反応を予期してのことでしょう。ですから 哲学の地道な行き方と文学のミサイルとだと思われます。ロケットにしましょか。

noname#143207
noname#143207
回答No.43

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。
   
> ☆ はどうですか? テレパシーというのも 広く言葉としては普及しているようですが 量子論によれば 光子か電子か何かが飛び交うことはあり得ますか?
  ”量子テレポーテーション”のことでしょうか。情報を瞬時に送信・受信は可能なようでございますが、以下の文章にもござますように、どちらかと申しますと、”光子(電子)そのもの”というよりも、これら”光子(電子)の状態”を瞬時に伝える という方が適切かと存じます。  「量子テレポーテーションの例としてAさんからBさんに量子状態を転送するとする。AさんはEPRペアの光子2つ(光子1、光子2)を生成し光子2をBさんに送る。次に、”Aさんは光子1を観測する。すると、古典的な情報転送によってBさんに光子2の量子状態を知らせることができる”のである。」  ( Wikipedia 量子テレポーテーション からでございます)  略しますと、「Aさんは光子1を観測」 → ”量子状態の情報”が瞬時に転送され → 「Bさんに光子2の量子状態を知ることが可能」  ただ、上述のような”量子状態”を、お互いが何らかの器官を通して、受信し合っている ということは 完全には否定はできないかとも考えております。 > この電磁波を受け取ったということをそのまま認めることが大事ではないか。他人(ひと)からそういう信号を受け取ったなら まづはそれを引き受けるということ ここから――その処理に到ることまでを含めて――始まると考えます。
  仰られますように、”引き受ける(直視し、認める)”というのが最初の段階かと考えております。 
> もしこのとき 悪魔という見方をするのならば その情況全体として自分が苦境に落ち入っているときのことだと捉えます。そしてそれさえも 神からの贈り物なのであると。転機であり 転機であるしかないと。
   確かに、上述のように、転機を、認める・(時には)腹をくくること とするのがベストかと考えております。 
> 悪魔憑きという言い方でその電磁波受け取り現象ないしその悩みを捉えるのは だめだと考えます。なぜなら そういう処理の仕方では アース役にあって相手からの生体電気現象の現場にいるという事態を知らないで居つづけることにしかならないからです。
   悪魔憑きと悪魔払いなどという見方によっているかぎり その循環は 永遠につづくのではないでしょうか。
  イタリアの事情につきましては、通じておりませんので、大したことは申し上げられなのですが、強力なマフィアの存在(地下経済が約30%ともいわれております)、経済格差等の社会不安がこれらを助長しているようにも察せられます。これらは、今日の日本の”陰謀論(参考1)”にも通ずるかとも考えております。残念ながら、自己の問題として直視するよりも、他のものに責任転化した方が精神的に楽からだと思われるからでございます。   残念ながら、自己で引き受けるという程、ひとは強くはないようにも見受けられるのですが、いかがでしょうか。 参考:311震災のような天災についてさえも、陰謀論が叫ばれているようでございます。 ・リチャード・コシミズ著「3.11同時多発人工地震テロ」(自費出版のようです) http://blog.goo.ne.jp/tank1208/e/e5c3402ed8d27a97e3f9875edd8ee099  ・ジェリー・E・スミス著「気象兵器・地震兵器・HAARP・ケムトレイル」(成甲書房)・・・震災の約3か月前に出版されていました http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-category-1.html   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は 陰謀論については反応のしようがない状態ですし あとの量子論などは勝手に推測するだけになりますし うかがっただけになりそうです。  ★ 参考:311震災のような天災についてさえも、陰謀論が叫ばれているようでございます。  ☆ ひどっちさんご自身は どうなのでしょう? どういう見解を形成されて来ましたか?  ただひとつ次の点については 自信をもってお応えできると思います。   ★ 残念ながら、自己で引き受けるという程、ひとは強くはないようにも見受けられるのですが、いかがでしょうか。  ☆ これはわたしの考えでは まづ引きうける。そのあとで これは自分ひとりの努力では解決が不可能だと認識する。といったかたちになるのではないか。と思っているのですが?  ★ ~~~~~  略しますと、「Aさんは光子1を観測」 → ”量子状態の情報”が瞬時に転送され → 「Bさんに光子2の量子状態を知ることが可能」  ただ、上述のような”量子状態”を、お互いが何らかの器官を通して、受信し合っている ということは 完全には否定はできないかとも考えております。  ~~~~~~~  ☆ あぁ えぇ 《量子状態の情報》が移送されるのですね。  わたしは じつは 家族ですとかあるいは男であるわたしにとって相手が女性であるときには かなりの情報が送られて来ると体験しています。情報というよりは 相手の状態ですね。相手がどういう状態にあるか これが わたしの体の変化をとおして伝えられる。こういう体験です。  おかしいと思われるでしょうが じつはこれは相手との間で確認し合っている体験内容でして 単純にテレパシーなのだと捉えています。むろん遠隔の伝達を言っています。  ま これ以上はふくらまさないでおきます。よい機会がありましたら いづれきちんと言えるかも分かりません。  もっともイエスの場合には 悪霊のほうから寄って来ましたね。悪霊の憑いた人たちのほうからと言うべきか 悪霊のほうからと言うべきか。これは どうでしょう? 電子のぶつかり合いがあった上でのことでしょうか? 単純に人格の香りからでしょうか?  ヘンなフリになってしまいましたが。

回答No.42

直接的に教えを賜った、という意味を託して、 翻訳者が「けり」よりも「き」の方が適切だ、と見做した故に、 『初めに言葉有り「き」』なのではないでしょうか? 御返事の内容から私が勝手に妄想しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ (大野晋:古語辞典) ~~~~  【き・けり】   回想の助動詞である。多くの文法書では これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の用法に倣ったものと思われるが 現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には 時の把握の仕方に大きな相違がある。  ヨーロッパ人は 時を客観的な存在 延長のある連続と考え それを分割できるものと見て そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし 古代の日本人にとって 時は客観的な延長のある連続ではなかった。  むしろ 極めて主観的に 未来とは 話し手の漠とした予想・推測そのものであり 過去とは 話し手の記憶の有無 あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故 ここにキ・ケリについて過去の語を用いず 回想という。むしろ 進んでこれは記憶 あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。  日本人は 動詞の表わす動作・状態について それが完了しているか存続しているか 確認されるかどうかをツ・ヌ・タリで言い ついで それらに関する記憶の様態をキ・ケリで加えた。それが日本人の時に関する表現法であって ヨーロッパ語で示される時の把握とは根本的に相違がある。  【き】   動詞・助動詞の連用形を承ける。キ・シ・シカという活用形だけを持つ。    意味は キの承ける事柄が 確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは 自己の体験であるから キは《・・・だった》と自己の体験の記憶を表明する場合が多い。   ・人言を繁みこちたみ逢はざりキ 心あるごとな思ひそわが背子     (万葉集538)  しかし 自己の体験し得ない または目撃していない事柄についても用いる。例えば みづから目撃していない伝聞でも 自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には キを用いて《・・・だったそうだ》の意を表現した。   ・天皇(すめろき)の遠き御世にも     押し照る難波の国に    天の下知らしめしキと    今の世に絶えず言ひつつ (万・4360)  なお キの未然形としてセを認める説もあるが これは動詞スの未然形とする見解もあって未だ決定的でない。   ・一つ松 人にありセば 太刀佩けましものを(記歌謡29)  なおまた キがカ変・サ変の動詞につく場合には 接続上特殊な変化があり カ変はコシ・コシカ・キシ・キシカ サ変は セシ・セシカ・シキとなる。   ・出でてコシ我を送ると(万・3957)  【けり】 動詞・助動詞の連用形を承ける。活用は奈良時代には ケラという未然形もあった。   ・この花の一枝(ひとえ)のうちは ももくさの言(こと)   持ちかねて折らえケラずや (万・1457)  が 平安時代以後は亡び ケリ・ケル・ケレという活用形だけになった。  意味:ケリは 《そういう事態なんだと気がついた》という意味である。  気づいていないこと 記憶にないことが目前に現われたり あるいは耳に入ったときに感じる 一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故ケリが詠嘆の助動詞だと言われることもある。しかしケリは 見逃していた事実を発見した場合や 事柄からうける印象を新たにした時に用いるもので   ・世の中は空しきものと知るときし いよよますます悲しかりケリ     (万・793)  真偽は問わず 知らなかった話 伝説・伝承を 伝聞として表現する時にも用いる。      ・遠き世にありケルことを昨日しも見けむが如も思ほゆるかも    (万・1807)  語源:《来有り》の転であるという説がおそらく正しいであろう。(*1)  《事態の成り行きがここまで来ている》と今の時点で認識するという意味がケリの基本であり また《来(き)》と《あり》との複合の音変化 kiari → keri も極めて無理なく説明できるからである。    (基本助動詞解説 1990補訂版)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (*1):わたしは 単にキアリと言っていましたので おわびして訂正します。   ▼ 《事態の成り行きがここまで来ている》と今の時点で認識するという意味がケリの基本であり   ☆ であれば このケリは使わないというように思われます。  ▼ 日本人は 動詞の表わす動作・状態について それが完了しているか存続しているか 確認されるかどうかをツ・ヌ・タリで言い ついで それらに関する記憶の様態をキ・ケリで加えた。  ☆ であれば ツ・ヌ・タリでもないのでしょう。  記憶の様態として キになるということでしょうかねぇ。

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  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 絶対無=不確定性無限 か?

     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

     人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!