ブディズムと天使について

このQ&Aのポイント
  • ブディズムでは天使という概念はないが、《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。
  • 《いかなる国語にも属さないこころのことば》は人間の心の窓を真理へ開くきっかけである可能性がある。
  • 真実の言葉は《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようであり、わが日本語やどの言語にも属さないような音や声として語られる。
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《天使》を ブディズムでは何と言うか?

 天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

こんにちは。 ☆そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? ◇原始仏教では、ヴェーダに登場するような神々(deva)。 大乗では、菩薩。 ベックはその著書『仏教』において、 「ヴェーダや仏教に登場する神々・devaにgodという訳語を与えるのは適当でなく、天使・engelとするべきだ」 といったことを述べています。 菩薩については、無著・asangaの伝説が理解しやすいのであろう、と思います。 ───────── 伝説によるとこの時彼は神通力で兜率天に向かい、そこで弥勒(マイトレーヤ)から大乗仏教の空思想を学んだのだという。また、他の人々にも、弥勒が直接『瑜伽師地論』(『十七地経』)を説くように要請し、無著がその解説をすることにした。これが唯識思想流布の端緒とされる。彼は弥勒から日光三昧を教えられていたので、大乗の教義を容易に理解し、記憶することができたという。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%91%97 ───────── なお、ここで登場する《弥勒・マイトレーヤ》を弥勒菩薩ではなく、実在の人物とする考え方もあります。  1 無著のお師匠さん説  2 無著本人説 ☆たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? ◇そのように考えて構わない、と考えます。 そして、 成道の前に現われる《マーラ・mAla》を、荒れ野でイエスの前に現われた悪魔になぞらえてもいいのでは。 ☆(だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。 ◇真言宗のお経には、「菩提樹の下では悟っていなかった」と書いていますね(ニコニコ)。 つまり、ゴータマさんは、あの時、悟っていなかったのに、「自分は悟った」と勘違いした、ということ。 本当の悟りは、その後、違った形でもたらされます。 ではでは。

bragelonne
質問者

お礼

 うけたまわりました。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆(だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。   ◇真言宗のお経には、「菩提樹の下では悟っていなかった」と書いていますね(ニコニコ)。  つまり、ゴータマさんは、あの時、悟っていなかったのに、「自分は悟った」と勘違いした、ということ。  本当の悟りは、その後、違った形でもたらされます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これでなくては 思想に値しません。と断定します。    あとは もし天使のことを  ◇ 大乗では、菩薩。  ☆ と受け留めるとしたら このボディサトワとは けっきょくそこよりヒラメキを得るところのブッダター(つまりは アートマンなる霊我)のこととなると思います。《非思考の庭》のことでもあります。  さらに この仏性でもあるボディサトワのさらに奥にブッダダーツ(仏界・仏性)があるとすれば つまりは それ・もしくはダルマカーヤ(法身)としてのブッダが とどのつまり《非知》なる神である。こうなると思われます。  これなどをきっかけにして さらにブディズムが外に向けてみづからを開いて行くなら 大きな歩みになるかと考えます。  ◇ 菩薩については、無著・asangaの伝説が理解しやすいのであろう、と思います。  ☆ これのヰキぺにおける解説内容なども それは 非思考の庭における直観をめぐって そのイメージ的な直観を思考の緑野に卸して来て いろいろと整理し天使ないしヒラメキについての説明とした。と受け取られます。  そういうものだと確定し確認しておくことは 普遍性へ向けての大きな一歩であると見ます。

その他の回答 (6)

noname#207067
noname#207067
回答No.7

順番の訂正です。 誤:vinayapitakaのマハーヴァッガのマハーカンダカの梵天勧請の一部です。 正: Vinaya Pitaka → Mahākhandhaka → mahāvagga ヴィナヤピタカ → マハーカンダカ → マハーヴァッガ でした。

bragelonne
質問者

お礼

 うけたまわりました。

回答No.6

「仏教の《飛天》のモデルは天使なんじゃないか」という説が、あることはあるんですよ。 空を飛べるので。 ~~~~~~~ 仏教の飛天はそれらオリエントの神々と異なり翼を持たないことが特徴である。しかしガンダーラから西域では有翼像が見られている。多くは天衣(はごろも)をまとった女性像として描かれるため「天女」とも呼ばれる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E5%A4%A9 ~~~~~~~ こういう説もある、ということで。 哲学的な意味は、まったく含んでおりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ほかの記事をも引いておきます。  ▼ (ヰキぺ:飛天) ~~~~~~~~~~~~   飛天(ひてん)とは仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人。仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。  § 概要  その起源はインドと言われるが、オリエントの有翼天人像がシルクロード経由で伝わったものともされ、はっきりとは分からない。   ペルシャ辺りを起源とする有翼天人はゾロアスター教で空中から飛来するとされる精霊(フラワシ Frawashi)を象ったものともされ、ターク・イ・ブスタン(サーサーン朝)やパサルガダエ(キュロス大王宮廷跡)など古代ペルシャ遺跡にその姿が見られる。  これらの表象はエジプトやメソポタミアにも波及、イスラエルの天使やギリシャのエロス、ニケといった有翼神像にも影響を与えた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 確かにニケーは 翼を生やしていますね。《勝利》にもかかわるということですかね。

noname#207067
noname#207067
回答No.5

mahāvagga Mahākhandhaka 5 Brahmayācanakathā “Apārutā tesaṃ amatassa dvārā, Ye sotavanto pamuñcantu saddhaṃ; Vihiṃsasaññī paguṇaṃ na bhāsiṃ, Dhammaṃ paṇītaṃ manujesu brahme”ti. http://suttacentral.net/pi/pi-tv-kd1 “Open for those who hear are the doors of deathlessness; let them renounce their faith. Thinking of useless fatigue, I have not preached, Brahmā, the sublime and excellent dhamma to men.” http://suttacentral.net/en/pi-tv-kd1 vinayapitakaのマハーヴァッガのマハーカンダカの梵天勧請の一部です。 いわゆる「不死の門は開かれた」で有名なところです。 参考資料に。 ~~~~~~~~~~~~~ ところでムドラーなどはどうでしょうか。 印相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E7%9B%B8 ジェスチャーとかボディランゲージとかそういうの。 手話も世界共通というわけではないようですから難しいでしょうが。 ちなみに私の仏教論はもう終わっています。書くことないです。 善悪の彼岸として浄土教の往生をもってきました。 悩むのは、善について、「善く生きる」とか「善のイデア」とかありますが、 まあ、それは個人的な問題です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに私の仏教論はもう終わっています。書くことないです。  善悪の彼岸として浄土教の往生をもってきました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 親鸞の《即得往生》のことだと理解してよろしいでしょうか?  もしそうだとしますと 問題は そのことについてまだ知らない人たちがいるということ この事実が その即得往生した人にかかわって来ています。還相のつとめがあります。要するに 生活共同として 共同自治をいっしょにおこなっていくという寸法です。  ときには 即得往生について説明して欲しいといった要望にも答えるのも つとめです。  ただし あなたは 独り行くというのか あるいは ともに行くけれども独り悟りを得るかたちをあゆむと言うのか そういうつとめは 受け留めないということなんですかね。  ★ 印相  ☆ このことをも クリスチアニズムとの共通性の問題として取り上げますか? そうだとしても わたしには よく分かりません。さとりの具体的な質に違いがあるのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  vinayapitakaのマハーヴァッガのマハーカンダカの梵天勧請の一部です。  いわゆる「不死の門は開かれた」で有名なところです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もうしわけないですが それゆえ 天使との異同は どうなるのでしょうか? よく分からないものですから。  分からないなりに思うことは  △ let them renounce their faith.  ☆ のところから受ける印象としては けっきょく梵我一如なる信仰形態に対して 無梵無我一如なるかたちを――ほんとうは まだ自覚していないと思われますが――目指そうとした。とまでは 勝手に読み取りました。  

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.4

No2です >つまり天使とは どういうものかと問うときには 《非知》のほうから >やって来て《人間の心》をとおして伝えられる。のではないでしょうか? >(非知の側からは 絶対の隔たりをを埋めることができます) アウグスティヌスが言うところに依れば心の窓を真理へ開くには 親しき内密のことばを超えた上で更に窓を開かなければならないと言っています ですので窓が閉じられた状態では、真理へ開かれていないので非知のほうから やってくることは論理的に考えて不可能であると私は考えます 天子がどのようにして神意を伝えるのかわかりませんが 窓が閉じられている人に対しては必然的に経験世界において伝えられると思います ところでアウグスティヌスの言葉を脚色した冒頭にある言葉 >《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は >もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。 これもアウグスティヌスの言葉なのでしょうか? 次の文章と繋がってないみたいなので、親しき内密のことばを超えてさらに窓を 開かねばならない理由を真理(神)へ開くためと結論していいのか疑問が生じました

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  アウグスティヌスが言うところに依れば心の窓を真理へ開くには  親しき内密のことばを超えた上で更に窓を開かなければならないと言っています  ですので窓が閉じられた状態では、真理へ開かれていないので非知のほうから  やってくることは論理的に考えて不可能であると私は考えます  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては 必ずしも思考のみの理論ではなく 観想をまじえた見方になりますが・ですから あまり根拠や推論もないのですが 次のように思います。  すなわち おっしゃっているところの両方の側面が必要である。と思います。  という意味は:  一方で 心の窓はひらかれていることが 大事です。  そしてこれは 必ずしも開くと言ってもその外が見えるようになるといったことではなく 問題は 心が――あたらしい情報や異なった見解に対して――閉じられていないということ ここにあると考えています。  他方では 《非知》のほうから わが心にやってくるということ。これは 霊であり・つまりは ナゾです。夜に盗人のごとくやってくる。  つまり この場合は たとえわれわれの心が開かれておらず閉じられていたとしても もしやって来るときには 《あわれもうと思う者をあわれむ》と言われるごとく われわれの意向に関係なくやって来るものと思います。(のちのパウロなるサウロに ダマスコ街道で そういうふうに向こうから言わば勝手にやって来ました)。  これら 両面があい並び立つ。こう考えます。  参照したアウグスティヌスの文章は:   アウグスティヌス:『三位一体論 DE TRINITATE 』   中沢宣夫訳。東京大学出版会  1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479  です。  たとえば 次のように書いています。  △ (同上書 vol.15 ch.14 [24]) ~~~~~~~  しかしあの私たちの言葉に戻ろう。それは音声や音声の思惟(おも)いを持たず 私たちが見ることによって内的に語るものの言葉であって それゆえ いかなる国語にも属さない。この言葉は神である神の御言にこの謎において(コリント前書13:2)いくらかは似ているのだ。  というのは この言葉は神の御言が父の知から生まれたように 私たちの知識から生まれるからである。だから 神の御言にいくらかは似ている と私たちが見出すこのような私たちの言葉を だが どんなに神の御言に似ていないか 私たちが語り得るように 考察するのに躊躇してはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.3

こんにちは。 「空中の権能」の方のドイツ語の宿題があるので、こちらの方は、調べたことだけを簡単にお伝えします。 ネコさんのおっしゃるdevaについては、 現代の知られている天部達は古代インドではデーヴァと呼ばれた。これはサンスクリット語で輝く者という意味で、専門家の中にはこのネーミングも天部は天使と同じ存在なのだと主張する理由であると考える者もいる。 という説明がありました。 http://takashi1016.com/deva-13292 菩薩という考え方も多いようです。 天使と菩薩 http://www.geocities.jp/chandi1813/ess6tensitobosatu.html スウェーデンボルグが、「天界には方位があり、特定の天使は常に同じ所に現れる。中心はキリストである」と言っていることから、文殊菩薩をあげる人もいるようです。 http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20090507/1241661626 ただし、これに対して、「菩薩は仏のちからがありながら衆生救済のために方便として菩薩の姿をとっていますので 本来 仏です」という方もいます。この方は、天使に当たるのは「童子」だといいます。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1061412260 意外に多く見受けられたのが、「老」「病」「死」を三天使とする考え方で、「どのように生きていくか」を気付かせるという意味では、気になるところです。 http://www.daikakuji.or.jp/hanabira/%E4%B8%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%81%AE-%EF%BC%8D%E9%96%BB%E9%AD%94%E5%A4%A7%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%BD%BF%E3%81%84%EF%BC%8D-%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%B3%E3%82%89%E3%80%8Dvol-60/ http://dipah.com/category/blog/buddhism/ http://www.bdk.or.jp/buddhism/life.html 私は、この御質問は、ここで失礼いたします。この先の議論の参考にでもなれば幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 たすてんかすてんさんのブディズム論は わたしは初めてです。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。    ▽ (仏教にも天使が存在する?西洋だけではない神の使い。) ~~~  仏教の中には如来・菩薩・明王・天部の尊格がある。  如来は釈迦等の悟りの境地に達した者、  菩薩とは悟りを目指している者、  明王は如来が敵(仏に敵対する者)と戦うための化身で、  これらに使える存在として天部が存在する。    つまり天部自身が仏なのではなく、あくまで仏の使徒である。つまり仏よりも人間に近い位に位置する存在ということになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おそらくわたしなどは強引に《菩薩・明王》をも《天部》とひっくるめて 広く大きく《天使》と呼ぶかも知れません。天使も たたかいますから。ヤコブ・イスラエルと格闘をしています。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ネコさんのおっしゃるdevaについては、   現代の知られている天部達は古代インドではデーヴァと呼ばれた。これはサンスクリット語で輝く者という意味で、専門家の中にはこのネーミングも天部は天使と同じ存在なのだと主張する理由であると考える者もいる。  という説明がありました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは デウス・テオス そして 英語のチューズデーのティーウと同源で確かに《輝く》に関係しているらしい。  ★ 天使と菩薩  △  ~~~~~~~~~~~~~~  天使も菩薩も天衣(てんね)を身に着けています。その天衣は身体に沿って流れるような柔らかな薄衣のようです。  天使の天衣は、古代のギリシャ人やローマ人が身にまとっていたような優美なローブのようであり、  菩薩の天衣は、インド人が衣を身にまとうような形式で袈裟がけにして身に着けているようです。  天使と菩薩の髪型や体形が異なるのは、その姿を霊眼で見た人々が属する民族の外形的な差異によるものでしょう。すなわち、キリスト教的な天使は基本的にヨーロッパの白人種がその原形になっており、菩薩は古代インド人がその原形になっているということがその理由でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういった姿かたちにつきましては 質問者から見て《つけたし》とさせていただきます。  文学や美術としてみれば おもしろいでしょう。  ★ スウェーデンボルグが、・・・  ☆ これらは やはり神秘思想として受け留めます。主観の世界ですね。  ★ ただし、これに対して、「菩薩は仏のちからがありながら衆生救済のために方便として菩薩の姿をとっていますので 本来 仏です」という方もいます。この方は、天使に当たるのは「童子」だといいます。  ☆ これは 確かに視点をどこに置くかで違ってくるかと思います。  すなわち 天使である菩薩とみれば それはかんたんでしょう。ただし 境地の区分としてのボディサトワを捉えるなら 人間のまさに境地なのですから 人格ないし存在の全体にとってその――主要なでありながら―― 一部のチカラであると考えられます。  ブッダなる存在にも 人間として(つまり 応身としては) 地獄や畜生の境地をもふくむと考えられるのと同じだと思います。      ★ 意外に多く見受けられたのが、「老」「病」「死」を三天使とする考え方で、「どのように生きていくか」を気付かせるという意味では、気になるところです。  ☆ そうですか。なるほど。何もかも出来るものはみな 《天使》の領域にひっくるめるといったやり方に結局のところ成ると見てよいでしょうか。  そもそも われと神とのあいだが設定されたなら その関係領域には さまざまな《天使》のたぐいが 想像力の及ぶかぎりで 描かれて行ったのでしょう。このように考えます。  《天使》の概念もしくはジャンルと言いますかを設定しておくと クリスチアニズムとの対照にも分かりやすくなるとともにそれだけではなく おそらくブディズムの内部にあっても人間の存在論としてより明らかな理解が得られるようになる。こう手前味噌にて うったえたい気持ちになります。  ありがとうございました。

  • asisai888
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回答No.2

goo辞書で天使とは >天界にあり、神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりすると信じられるもの。 とあるので、verbum cordis = 天子 という関係は成立しません 否であります というのも天子が伝える神意がverbum cordisであるとすると、verbum cordisに属する 真実のことばも同様に神意であることになります しかし文中では >この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭 >に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない とあるので 真実のことば≠真理のことば となり矛盾します

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~   goo辞書で天使とは    >天界にあり、神の使者として人間に神意を伝えたり、人間を守護したりすると信じられるもの。  とあるので、verbum cordis = 天子 という関係は成立しません  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  舌足らずだったと言いましょうか かなりおおざっぱに言ってしまったかと思いますが それでは この《いかなる国語にも属さないこころのことば》が 神からの知らせではないという証明も出来ないのではないでしょうか?  (主観にかんするかぎりで という条件をつけたほうがよいでしょうか)。   そういう意味でゆるい規定にしてしまってはいます。  言いかえると 《人間の心》が《天使》であるとは言えません。そうではありません。経験世界と非経験の場とのあいだに埋めることのかなわぬ隔たりがあると見るからには それは ひとしくはありません。  しかも どうでしょう 非経験の場――非知――と経験世界との橋渡しということになれば・つまり天使とは どういうものかと問うときには 《非知》のほうからやって来て《人間の心》をとおして伝えられる。のではないでしょうか?   (非知の側からは 絶対の隔たりをを埋めることができます)。  つまり まとめますと:  まづ おっしゃるように 《ひとの心》≠《天使》です。  しかも神からの知らせ・つまり天使は 人の心をとおしてもたらされる。  のではないでしょうか?  すなわち重ねて捉えるなら:  基本として  ★ 真実のことば≠真理のことば  ☆ すなわち    経験存在たる人≠非経験の場たる神     であり しかも 真理の言葉は わが心なる非思考の庭のさらに奥座敷なる《真実のことば》と成ってのようにもたらされる。  と――想定のかぎりで――思うのですが どうでしょう?

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     ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

  • 第四章 非経験の場なる神が どうして知られるのか

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論  第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか  § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて  (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。  (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。  (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。  (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。  (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。  § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。  (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。  (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。  (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。  (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。  (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。  (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・  § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。  (し) ところで神は この経験世界に介入するか?   (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。  (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理(非経験)――信じる    世界事実(経験)――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか  (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。  (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。  (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。  (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。     《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)  こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。  (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。  (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。  (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。  § 5 信仰は 心の解放をもたらすか  (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。  それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。  (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。  (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。  (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。  (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。  (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?  (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。  § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。  (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。  (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。  (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。  (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?  (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。  (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?  (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

  • 《わが時》を離れ天使を演じようとすると獣を演じる

     信仰は 動態である。  だから 日から日へ送る生活の中でそれを確認する《わたしのとき》があるかも知れない。  その時は あやまちから我れに還るわが固有の時でもあるはずだが パスカルに言わせれば この時を心の外側において社会的な制度として持つ場合があると言う。字面に現われるほどには必ずしもよいと言っているのではないと思うのだが 特定の宗教のこととして次のように言っている。:   ▲ (パスカル:信仰を保とうとする・心の外なるいわゆる《告解》の制度) ~~~~~~  恐ろしいことだと私はおもうのだが。  カトリック教は 自分の罪を誰にでも無差別にうちあけるようにしいはしない。ほかの人には誰に対しても匿していてかまわないといってくれる。  ただし唯一人例外がありこの人に対してだけは心の奥底をうちあけ自分のあるがままを見せるように命ずる。カトリック教はただ一人この人にたよってのみ迷いを解くがよいと命じ またこの人は 知っていても知らずにいるかのようにしていてくれる。  これほど愛に富んだやさしいことがほかに考えられようか。そうであるのに人間の堕落した心は この定めをさえ苛酷なものと見るほどに 甚だしい。   (『パンセ(瞑想録)』 100 津田穣訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 早い話としては あやまちを侵した自分自身の惨めさを打ち明ける相手は――恥づべき真実を他人には知られたくないとすれば―― 《己れたるわたし》であればよいわけだ。  ところがそれは内に籠もりやすく この自分自身について自信も信頼も持てなかったり さりとて外側で懺悔を聞いてくれる告解師の制度もない場合には あたまの中で思考をとおして処理しようとする。らしい。  要するに 理念の追求だとしても総じて観念をもてあそぶかたちに成りやすい。と言う。この観念によって《わたし》が 《わが固有の時》を離れるなら どうなるか?:  ▲ (心の内において《告解》を展開するばあい) ~~~~~~~  徳(* 自信でもある)を大小二つの極端にまで推し進めようとすると もろもろの悪徳があらわれる。  小さいほうの端では 人に知られないような道をとおって 人に知られないように忍びこんで来る。  大きいほうの端では 大きな塊となって現われる。  こちらの場合では 人びとは その悪徳の中に迷いこみ 徳がもはや見えなくなる。  そこで人は 完全なもの〔という理念〕にしがみつく。(『パンセ』 357)  人間は天使でもなく獣でもない そして不幸なことに 天使を演じようとする者は獣を演じる。(358)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 徳ないし自信が へんな自信となって現われる。:《わが○○なる神は 唯一絶対の神なり。○○神を措いてほかに神はない》と言ってアマのイハヤドに閉じこもる。  お出ましとなったときには 精神 充足 平和 人権 協力を声高にさけぶようになる。  以上のようではないかと問います。

  • オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     1. 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。  2. それを神として 信じるということはあり得ない。信じるとは 無条件に受け容れることである。  3. よって オシエは 考えるもの。信じるものではない。    4. それでもこれを信じなさいと言うのは まだわれわれの知らないよほどの神秘がそこにあると言いたいのか さもなければ よほどのバカである。  5. ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~    普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》 / 《考える + 感じる》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか――無理なのだが何とかして――人間の言葉で指し示そうとして引いた或る種の補助線である。  7. 《となり人を 自分と同じように――〈自 分 を 愛 す る の と 同 じ よ う に〉である――愛しなさい》や《なんぢの敵を愛しなさい》といったオシエがある。けれどもこれらは 神ではなく 信じるものでもない。鵜呑みにするものでは断じてない。  8. それらは 考えておのれの判断にもとづき意志行為として振る舞うという問題である。強いて言うなら そこでは《信じる》は 《考える・心づもりを決める》のうしろに隠れている。  9. さらに言えば このとき《信じる》は――《考える》に非ずその思考を超えているからには――じつは 万人にひとしい。  10. つまり 《普遍真理(いっぱんに 神のことである)》とわれとの関係は けっきょく誰にとっても・どの銀河系に行こうとも ひとしく同じである。  11. その《信仰という生きた動態》について人間の言葉で表わそうとしたオシエは――宗教の教は―― それぞれ工夫をこらしてさまざまである。  12. ぎゃくに言うと 考えて腑に落ちない内容がそのオシエにあればこれを問い質し マチガイがあれば自由に批判しあい正して行かなければならない。ただすことは 避けてはならない人間の義務である。  13. 阿呆なオシエは 廃れるに任せるその最初のひと押しを成すつとめが われわれ一人ひとりにある。  14. シュウキョウは 聖域を成すものではない。《信じる動態》は 良心・信教の自由として――その証明抜きの自同律としても――言わば聖域を成す。  ご見解を明らかにして添削をお願いします。

  • 信仰は どんな得があるか?

     1. ひとつには 無神論もひとつの信仰だと思いますので人は 得があろうがなかろうが・人間であるなら誰もが否が応でも 信仰を持つとは考えます。  2. ひとつには きみは真理を知ることができる。真理を知れば きみたちは自由になる。と言われる得がある。  ☆ ただしこれだけでは 話がすすまないでしょうから 信仰とは何か? から始めるたたき台の考え方を述べます。  A 有神論も無神論も 信仰(すなわち 非思考の庭)である。  3. 人の能力は限りあるものゆえ 限りを超えたところのナゾについては 一般に《かみ》と呼ぶようである。  4. このカミを カミは存在すると捉えて《神》と呼ぶか それとも存在しないと捉えて《無い神》と呼ぶかは 互いに同等のコトである。ナゾゆえ。  5. 前者の神を ヤハヱーやらキリストやらアッラーフやらあるいはブラフマンやらアミターユス(阿弥陀仏)やらマハーワ゛イローチャナ(大日如来)やらとそれぞれ呼んでも 有限世界を超えたところのナゾであることに変わりない。  6. それと同じように 《無神ないし 無い神》と呼んでもまったく同じである。  7. われわれ人間の知り得ないところのナゾは したがってほんとうには有るとも無いともわれわれは知り得ない。ゆえにである。  8. ということはこのナゾに対してはわれわれはその心に窓があるかのごとく その窓で触れられているかにも思われる。  9. 無い神をとなえる場合には この心の窓を閉じたように思うかも知れないが じつは《無い神》と捉えて(想定して)開いている。  10. そのように われわれとカミとのかかわりは おのれの心の明けもしくは伸びとして考えられる。心があたかもひらいている。つまり閉じていない。この《閉じていない》ということが肝心であろうと思われる。  11. むろんこの心の窓におけるカミの有る無いの想定は いづれも最終的には思考の問題ではなくなっている。推論の道筋を超えている。あたかも賭けのごとくに どちらか一つに人は判断し決めることになっている。これが 信仰である。  12. したがって 信仰は 非思考の庭がわが心に成ることを言う。成ったあとの持続する動態をも言う。その持続が切れたというのは ほんとうには無神論が有神論に成り変わったか それともその逆かである。  13. もしくは 一般に何か(たいていは いろんな意味でのアイドルであろう)をあたかもカミとしてのごとくただ思いこんでいるかたちでの有神論であったり無神論であったりする。そのような曖昧な信仰という形式の場合が考えられるのみである。  B 信仰は真理を知ることができると言うのは どういうことか? そこにどんな得があるか?  14. 思考に非ず。経験世界をあたかも超えようとする。しかも経験存在としての人間つまり《わたし》がそのナゾすなわちカミ(神および無神)とのかかわりを たとえば畏れとしてのように持つ。  15. おそらくそこでは ヒラメキが得られる。その中身がまだあいまいで混沌としてさえいる直感としてのヒラメキもあれば 或る程度ものごとの本質を見抜くまでに到る直観としてのヒラメキもある。  16. ヒラメキは インスピレーションないし霊感とも呼ばれる。  17. 煮詰めた議論としては このヒラメキにおいて《わたし》は真理に触れ得たと思われることである。むろん主観である。  18. このヒラメキがわたしにあたかも与えられることが おそらく経験思考を超えていて――もしくは経験思考をゆたかにしてくれる内容を持ち得ていて―― 効用を成す。その意味で《現世利益》である。  19. もしここまでの筋道に大きなあやまちがなければ あとは このヒラメキ主観はその内容をどこまで普遍的なこととして明らかにされ得るか。ここに焦点があてられよう。  20. ということは そのためには 対話ないし交通(まじわり)が肝要である。特に主観の見及んでいないところを互いに指摘し合う批判 これが大事である。  21. 一にも対話 二にも対話。三四も対話 五にも六にも対話 対話・・・ということではないだろうか?  22. 信仰の認識ないし自覚がなくても ひとは交通においてコミュニケーションをとるが そこにおいて対話や批判が肝要であることをさらに自覚するのは 信仰という非思考の庭の存在からではないか? おのれの主観が 互いに 問題になっていると知るゆえである。  23. その意味では カミさんはそっちのけで 経験思考で分かる中身としての互いの対話が必要不可欠であろう。カミをそっちのけに出来ることも――しかもヒラメキ霊感において保ちつつということだが―― 信仰の効用であるだろう。  さていかがでしょう

  • 第二章 オシエは 考えるもの。信じるものではない。

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第二章 宗教のオシエは 経験思考の対象であり 考えるもの。それを神として 信じるということはあり得ない。――さらには 信仰の神は 非経験の場であり 信じるもの。この神を オシエや理念によって勝手に作り上げてはならないということ。   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      普遍真理――信じる    世界事実――考える    主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 宗教のオシエは 一般に文章表現として《事実》に属する。むろん もとはと言えば 《真理》を何とか人間の言葉で指し示そうとして引いた補助線である。  2. 真理を指し示すために たとえば《なんぢの敵を愛せ》というオシエがある。けれども このオシエは 考えるものであり 信じるものではなく 鵜呑みにして規範とするものではない。  3. オシエは あくまで考えるためにある。おのれの考えと判断とによって そのつどその場でみづからの実存を成してゆく。そのためにある。  4. あるいは 神のことを説明して 《全知全能》といった属性が与えられる。そこで これについて反駁する者があって 《もし全知全能なら 世の中の悲惨を早く無くしてくれ》とか あるいは《神は自分が持ち上げられないバーベルをつくることができるか》といった《難題》を提示するようですが これらは 《全知全能》という概念がそのまま神であると誤解したことにもとづいています。  4-1. 言いかえると 全知全能という属性がまちがっていないとすれば その知性と能力がどのように発揮されるかは 人間には分からないというのが 答えになります。  4-2. すなわち 神は 概念や理念ではない。神についてその姿や能力を考えて 像を描いたとしても その思考や想像の産物としての神の像が 神なのではない。勝手に人間が神をつくることはあり得ない。  5. 重ねて述べるなら 《となり人を 自分と同じように愛しなさい》というオシエは 至上命令のごとき規範ではない。つまり 神そのものではない。そうではなく 自分〔たち〕で考えて それぞれがおのれの実存を形成してゆくための指針のようなものである。 信仰にとって 無くても構わない。  ☆ 以上の趣旨説明にて 表題の成否・当否を問います。ご教授ください。

  • 知っている様で知らない真実、真理

    ググると言う事をしますが、思想(思考)偏向、嘘、言論統制、膨大 な情報の網羅の不可能等により、なかなか、真実、真理に到達出来 無いと思います、言葉の壁も有るし、難しいですが これは、確かだと思われる事について、教えて下さい、お願いします

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • カント:《意志の格率が普遍的な立法の原理として》

     ▲ あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ  ・ Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde. ( Kritik der praktischen Vernunft )  ・ Act only according to that maxim whereby you can, at the same time, will that it should become a universal law.  (あ) この命題は 《わたしの意志の格率》と《普遍的な立法の原理》とが ふたつあるという前提に立っています。  (い) もし《原理》が いわゆる永久法(神の法・真理)のことを言うのなら 確かにふたつのことがあります。ただし――ふたつあるのだけれども―― 《わたしの意志の格率》は むろん相対的な思惟の内容でしかなく 絶対なる《原理》とは 絶対的に隔たっています。  (う)  すなわち 《原理》が神の真理だと取る場合には言ってみれば 《物自体》のことである。もしくは物自体にかかわらせたかたちで捉えられたことである。  (え)  その場合には わたしはその存在としても意志としても その原理に及ぶものではないからには けっきょくかつとうぜん《信仰》の問題になる。経験合理性にもとづく思考を超えたところの問題となる。  (お) そうでなく《普遍的な立法の原理》とは 経験合理性にかかわるところの倫理規範などであるのだろうか? けれどもその時にはそれは 《わたしや わたしたち》が考えるものであるとなる。  (か) それは 理にかなわない。なぜなら 《わたしの意志の格率》もまったく同じくわたし〔たち〕が考えた思惟であって 倫理規範のことであるにほかならないのだから。ふたつのものは 実際には同じものである。  (き) つまり その時には せいぜい《あなたの倫理的な思惟および行動を より一層普遍的な内容のあるものにせよ》と言っているに過ぎない。  (く) 《普遍的な立法の原理》を 永久法(真理)としてではなく いわゆる《自然法》として捉えるのは どうか? 自然法は どういうかたちでにしろ 永久法からイメージを直感してその概念内容を得て言葉に表現した倫理規範だということになる。わたしたち人間の考えた人定法や倫理思想とは 少し違う。神秘の色を帯びている。  (け) けれどもけっきょく 自然法を相手にするとしても 最後には 経験思考によって判断することになるか それともそれを超えて物自体との――非思考における―― 一体性(つまり 信仰)によるか ふたつに一つとして分かれる。  (こ) 結論:《神を信じなさい――物自体とわれの一如なる境地――》という内容であるにほかならない。  どうなのでしょう。ほかに解釈の余地はありますか? ご教授ください。