天使とは?――《はじめにことばがあった》

このQ&Aのポイント
  • 天使とは純粋思想であり純粋なる内なることばのことを言うか?
  • 天使は堕落しうる存在であり、ヨハネによる福音書によれば、光と闇の対比に位置づけられる。
  • 天使の存在は神のことばやロゴスの階層においても説明され、人間の言葉化や思考にも関連している。
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天使とは?――《はじめにことばがあった》。

 ( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか?  ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。  ( c )  つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。  ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~    1:1 はじめに ことばがあった。     ことばは神とともにあった。     ことばは神であった。  1:2 このことばは はじめに神とともにあった。  1:3 すべてのものは ことばによって成った。     成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。  1:4 このことばに命があった。     この命は人を照らす光りであった。  1:5 光りは闇のなかに輝いている。     闇は光りをとらえなかった。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。  言いかえると 次のように位置づけるかたちである。  ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。   ○ (ことばの階層) ~~~   (α) 神としてのことば    (α’) 天使としてのことば   (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?)     (δ) 人間のことば   ~~~~~~~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。  被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか?  もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。  おしえてください。  

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noname#143207
noname#143207
回答No.19

 こんばんは、ヒドッチでございます。  前回の”悪魔学”でもそうだったのですが、明確なことはわかりませんでした。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  まず、天使の例を以下に列記してございます。 [大天使ガブリエルの例] ダニエル書 8章15から17節 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」 彼 [ガブリエル] がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼 [ガブリエル] はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」 [大天使ミカエルの例] ダニエル書 10章12から15節 彼は言葉を継いだ。「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった。それで、お前の民に将来起こるであろうことを知らせるために来たのだ。この幻はその時に関するものだ。」こう言われてわたしは顔を地に伏せ、言葉を失った。 同 10章21節 しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルのほかに、これらに対してわたしを助ける者はないのだ。彼はわたしを支え、力づけてくれる。  ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。ただ、このペルシア王国の天使長が、以下のイザヤ書に見られる堕天使にあたるかどうかは不明でございます。「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」という共通点が見受けられは致しますが。 イザヤ 14章12から15節 ああ、お前は天から落ちた明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされたもろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた墓穴の底に。  何らかのお役に立つことができれば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ええ たしかに名前までついているのですよね。また 天使長というように 集団を成しているのでしょうか?  そしてダニエル書とイザヤ書ですか。  さらにそして ペルシャの天使長や 《天から落ちた明けの明星》――明けの明星のままなら 天に輝いているのだと思われるのですけれど――などでは 神に背いた場合の天使あるいは堕天使もいるという具合いで。  ★ ~~~~~~~~~  【( d )――神のことば――】 ガブリエルの例ですと、確かに、以下の表現になっているかと考えられます。  (α) 神としてのことば 
 (α’) 天使としてのことば 
  【 ? ――神の使い?――】 しかし、ミカエルの例となりますと、神の”助っ人的”存在となってございます。    【( f )――神に背く――】 一方では、ペルシア王国の天使長は、明らかに神に敵対する存在として描かれています。つまり、「神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者」とも受けとられます。    ▼ (イザヤ書 14:13) かつて、お前は心に思った。    「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の    果ての山に座し雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。  【( f )――自由意志を持つ――】 さらに申しますと、「自由意志を持ち選択という行為をなす存在である」ともみなしうると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 今回は ロゴス(α)と (β)以下の人間に経験しうるロゴスとのあいだに あたかもまぼろしとしてのような天使のことば(α’)を位置づけるということ これがふと思い浮かんだということでした。  それほど大きなまちがいではないように思われますね。  それと同時に やはり( f )の問いが依然として残ります。神のもとにある霊的存在であって しかもおのれの意志を決めそれを実行に移すという時間的行為の主体であるという。その間のやはり矛盾(?)をどう受け取ればよいのか? これだと思います。  たぶんそういう捉え方で――つまり問い求めの進め方として――よいとは思うのですが ただいまはこういったところでしょうか。たしかに致し方ないと思います。もう少し待ってみます。ほかの回答者さんたちの様子を見て この質問は一たん閉め 何かのきっかけで再びみたび掲げることもあろうかと考えます。  さらに何かありましたら お寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 参考資料を見つけました。  パウロの次の《異言》にちなむときの《天使》をめぐって 見解が述べられています。  ◆ (コリント前書13:1) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。  ▼ http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koshin/s22.htm ~~~  ギリシア語の原語の「人間と天使の異言」を最新の岩波訳は「人間の、そしてみ使いたちの言葉」と訳してあり、これは同じ「言葉」が両方の意味を持つと解釈しています。  新共同訳では「人々の異言、天使たちの異言」とあってはっきり違ったものを指すように訳されています。・・・この辺で、この箇所の解釈と受け取り方にかなりの混乱があるように思われます。   (III)  では、実際はどうであったのでしょう?   (あ) パウロは人間が語る異言は、「神に向かって語る」とはっきり述べています(Iコリント14章2節)。  (い) ところが先に挙げた天界の異言は人間が語ることができないほどのものなのです。  (う) すなわち、「異言」とは「人が神に向かって語る」場合と「神が天使を通して人に語る」場合とが存在するとパウロは考えていたようです。異言にはこの両方の役割があるのです。  ~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)から(う)の解説は あざやかであるように思われます。  これによれば 天使は はっきりと神の使いでありその声そのものであるとさえ言ってよいように思われます。ただし 神そのものであるとか 神の声と言う場合にも声そのものであるとかと言うのは やはりはばかられるだけではなく経験事象となってしまっておかしいので 天使という概念を用いたのでしょうか?  ひどっちさんは いかが解釈されますか? お聞かせください。  天使たちをめぐって いろんな物語があるというのは また別の話であるように思われるのですが。・・・  

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noname#143207
noname#143207
回答No.41

 こんばんは、ヒドッチでございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。  ご返答いただいたときからも、考えていたのですが、やはり分からないままでございます。ただ一点、興味を引く事例がございましたので、愚見を述べさせて頂きます。 > 《悪魔》については こう捉えます。    (再考でございます)
   人にとってその場その時点での情況があまりにも辛くきびしいものであるとき その目の前の壁が切り立った崖のごとくであるように思われ それは微分したかたちで言って垂直に立ちはだかっている。ここで人が味わう非力もしくは無力感について もしその苦境が相手のあることであるなら その相手は あたかも悪魔であるように思えることがある。悪の究極が 自分の前に立ちはだかっているように思える。
   近年イタリアにおきまして、下記の著書にもございますように、 悪魔払いを受けたがっている被術者が増加しているのだそうです。
 書店でパラオラとしか内容は見なかったのですが、極めてまじめな内容に見受けられました。  今時? と思われるかもしれませんが、事実のようでございます。ヴァチカンの中でも、疑問を抱く人達(神父・司祭さん等)も相当数いるのだそうですが、真剣に取り組もうとしている方達もおられるとのことです。そしてその中では、患者(被術者)の方は病気に苦しみ、その原因として悪魔を信じたがっている傾向があり、また一方、神父さん(ヴァチカン)の方は、そうした人達を勇気づけようとしているのだそうです(儀式的なものはそれなりにするのだそうですが、もちろん無償のため、その前にカウンセラー(精神科医)等に相談経験がある 等の条件が付されているようです)。この勇気づけ(?)のためか、一定の効果を上げているのだそうでございます。  愚生には、悪魔の存在につきましては、何とも申し上げられません。ただ、この21世紀におきましても、それに苦しみ、またそれを治療しようとする人達も現実におられるというのは、社会学的見地からも、一考に値するものかと考えさせられました。 島村 菜津著「エクソシスト急募」(メディアファクトリー) 参考:http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20101106/1288976338   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  なるほど。ワ゛チカンにエクソシストが公式にいるということは聞いていました。ここまでの実態であるとは知りませんでした。  ▼(島村 菜津著「エクソシスト急募」) ~~~~   70年代、イタリア半島全体でわずか20人ほどだったエクソシストは、90年代に200人を超え、現在は300人を数える。にもかかわらず、彼らが暮らす教会や修道院には、ひっきりなしに電話が鳴り、全員が寝る暇もないほど大忙しだという。  理由は明白だ。エクソシストの人数よりも、儀式を必要とする人々のほうがより増えているからである。  ある調査によれば、イタリア国内だけで年間50万人もの人々がエクソシストのもとへ相談に訪れているという。これが本当だとすれば、エクソシストの不足は尋常ならざるレベルに達しているといえるだろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただちにわたくしの考えを述べることになりますが   ○ テレポーテーション   ☆ はどうですか? テレパシーというのも 広く言葉としては普及しているようですが 量子論によれば 光子か電子か何かが飛び交うことはあり得ますか?  そう言えば 生体電気現象を追究していましたね われわれは。わたしは単純にアース役が受け取るガミガミ電波のことを想定しています。  どういうことかと言いますと この電磁波を受け取ったということをそのまま認めることが大事ではないか。他人(ひと)からそういう信号を受け取ったなら まづはそれを引き受けるということ ここから――その処理に到ることまでを含めて――始まると考えます。  もしこのとき 悪魔という見方をするのならば その情況全体として自分が苦境に落ち入っているときのことだと捉えます。そしてそれさえも 神からの贈り物なのであると。転機であり 転機であるしかないと。    悪魔憑きという言い方でその電磁波受け取り現象ないしその悩みを捉えるのは だめだと考えます。なぜなら そういう処理の仕方では アース役にあって相手からの生体電気現象の現場にいるという事態を知らないで居つづけることにしかならないからです。おのれの意志による人生のひと駒であるということ――いやな事態にもおのれがいることになったことや いやな現象に遭っていることが 消極的にでもやはり自分の意志行為によるのだと ひとまづ引きうけるというのでなければ おそらく前進はないと考えます。  悪魔憑きと悪魔払いなどという見方によっているかぎり その循環は 永遠につづくのではないでしょうか。  もし欧米においては 日本人に見られるお上志向がないとすれば 確かにアース役という事態は考えられないかも知れません。すべて自己責任だということなのかも分かりません。そこのところを しっかりと捉えなおすのがよいと考えます。同じような現象や事態ではないかも分かりませんから それでも参考になるような分析が出来るのではないか。こう思います。  推測ではありますが・そして素人の見方なのですが ここにしるします。どうなんでしょう。

回答No.40

古来から多くの方々が、絶対的な非経験の事を言葉で語る事に苦労されてきたんですね。 では本題とずれて申し訳が御座いませんが、伺います。 『人類が初めて言葉の利用を体験した時の感覚は、 教えによる間接体験の様な物だったのでしょうか?』

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いいえ 本題です。たとえば次のように《天使》の問題です。  アブラムという人が――つまりのちのアブラハムですが―― 或る日父祖の土地を去って行けという声を聞いた。ここから話が始まります。  どこへ行けばよいのか そんなことは一向に明らかにされません。もうアブラムは 七十五歳ほどでした。かれがこの天使の言うことに従って生きたところからそのあと たとえばモーセも出たし 時をくだってキリストと呼ばれたイエスという男も出ました。  この非経験の絶対というナゾについて従ったそれぞれの人生が一連の《神の物語》としてつづられました。  おそらくそのようなふつうの天使のもたらす声のほかに この世界には世間の知恵といったみちびきの声も流布しているのではないでしょうか。みちびきということでは 同じようなはたらきがあります。  早い話としては 天使の声などは ただの妄想であり単なる神がかりであるというもう一方の声が 世間の声のひとつとしてあるはずです。  おそらくこのような事情から 天使にはふつうの天使とそしてわるい天使=堕天使=つまり悪魔との二つの種類があるというふうに 語られることが慣わしとなった。このようにも思われます。  ★ 『人類が初めて言葉の利用を体験した時の感覚は、 / 教えによる間接体験の様な物だったのでしょうか?』  ☆ たしかに天使の声を聞くというとき やはり《ことば》をとおしてなのでしょうかねぇ。つまりインスピレーションを得たとした場合にもこれを解釈することから思いや行動に活かすことになると思われるからです。  そのヒラメキ(直感および直観)の中身を言葉にして表わす。この表わしたものが 《おしえ》とされるようになる。  アブラハムは わが子を殺してささげよという天使からの言葉を受けてそうしようとしたところ 止められた。《人は人をころさない。おのれをもころさない》ということをさとった。  このヒラメキが 言葉に表わされけっきょく《なんぢ ころすなかれ》というオシエになった。オシエにされてしまった。戒律になった。法律にまでなります。法律として押しつけられるようになると 子どもからは《なんで人をころしてはいけないの?》という問いかけが出されこれが出されつづけることになる。  ですから オシエは 関係ないと考えます。つまり アブラムのヒラメキは 非思考です。  無根拠にもとづこうとするあほばか体験( absurdity )です。このあほばか体験から モーセの十戒がことばにして表わされ持たれるようになりました。現代社会もその法治社会という共同自治のあり方に従っています。つまり オシエが大事だと思われています。むろんデカルトのコギトもその間おおきくはたらいたようです。  人類のはじめの生きるかたちは ヒラメキです。《かみとわれとのふれあい》からです。無根拠です。  こう思いますが どうでしょう。

回答No.39

「き」と「けり」との峻別は難しいのかも知れませんが、 最初に訳された方が、どういう意図の下で「き」を採用されたのか、という点への留意の価値を、 私は申し上げています。 因みに、語り手自身による直接体験が過去に済まされている事情を聴衆に語る場合に、「き」の方が採用されています。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  直接体験を述べるかたち これを採用しても その言葉による表現のままに――つまり《直接体験》が示されたというその中身のままに―― 受け取られるとは限らないということを 申し上げています。   つまり非経験のことがらについては どだい無理だということです。仮りのシルシとして・代理表現として 表わしたのみだということ。だったら かえって直接体験を表わすかたちででも あるいは要するにどのような表現形式においても いちばん文学的にうつくしくふさわしいかたちをえらぼう。こうなります。  経験世界と非経験とを峻別してください。

回答No.38

http://okwave.jp/qa/q6710310.html 此方にも御協力を賜れますと幸いに思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ▼ (語源由来辞典:ご馳走)   http://gogen-allguide.com/ko/gochisou.html  ☆ コピーペーストが出来ないようです。  仏教とは関係ないように思います。食事一般のもてなしを言っているようですから。No.1のたぬはちさんと同じ回答になりますので。

回答No.37

仕事の中で素晴らしい業績を残し続けてきた方だと思われますので、 問題視を致しませんが矢張り文法を忘れていらっしゃる様ですね。 「愚かにも」、私は学校教わった内容を記憶に留めておりますが、 他の方々が運用して下さらないと、勿体無い、と思われますから、 御偉い方への発言で畏れ入りますが、申し上げます。 過去の助動詞の「き」は『過去の「直接」体験』を表していまして、 過去の助動詞の「けり」は『過去の「間接」体験』を表しています。 そこで、改めまして考えてみて頂けますと、 有り難いので、執拗ながらも伺いますが、 「き」と「けり」とを入れ替えましたら、 『「初めに言葉有り~」の文言の印象』は、一体どう変わりますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もんだいは ひとつに 言おうとすることが相手に伝わることです。それには こう受けとめてくれるはずだという思わくで表現するのは 王道ではないと考えます。  相手が誰であろうと同じだと思います。  ★ ~~~  「き」と「けり」とを入れ替えましたら、  『「初めに言葉有り~」の文言の印象』は、一体どう変わりますでしょうか?  ~~~~~  ☆ あなたは わたしがあなたの思っているとおりに解釈するはずだとおっしゃいますが 分かるものは分かる 分からないものは分からない ということではないのですか?  あなたなら(つまり わたし bragelonne なら)分かるはずだと言って 迫りますが それは誘導尋問のようではないですか?  わたしの考えは すでに述べています。  およそ人間のことばで表わすことがらは いかに超絶技巧において表わし得たとしても それは もし非経験のことについてであったなら ただそれの仮りのシルシにおいて表現したにすぎないものである。これです。  ★ ~~~~  過去の助動詞の「き」は『過去の「直接」体験』を表していまして、  過去の助動詞の「けり」は『過去の「間接」体験』を表しています。  ~~~~~~  ☆ もんだいは 経験事象を表わしているのか それとも非経験のことをであるのか です。《間接》だから その表わすものが 非経験で非思考のものだとは言えないでしょう?  ☆☆(趣旨説明) ~~~~  ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。   ○ (ロゴスの階層) ~~~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ    ・・・ ~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~  ☆ その直前の( d )の図式では表わし得なかったのですが ここでは 《神》と《インスピレーション:人間のヒラメキ》との間に 実線が引いてあります。これは 当然のごとく――人間の側からは――絶対的なへだたりがあるということを意味させています。つまり経験事象と非経験のこととの隔たりです。  そして 非経験のことは 人間のことばでは そのままを表わすことは出来ない。このことを一貫して言って来ています。どうでしょう?  ケリは キとのあいだには差があるのでしょうが 両者とも経験事象に属し経験的存在なる人間の言葉であるに過ぎません。だとすれば どの言葉を持って来ようと 非経験のことを表わすには そのままでは無理である。不立文字と言ったとしても これも文字ないし言葉で《不立》ということを伝えている。ですから 神は 仮りのシルシにおいてしか指し示すことは出来ない。この大前提から踏み出すのがよいと考えます。

回答No.36

35番の振り返りです。 「き」と「けり」とを入れ替えますと、意味「は」齟齬を来たしますね。 そういう部分への注目を御願いしたい、 と考えまして、『初めに言葉こそ有りけめ。』 と表現したのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★★(回答No.35) ~~~~  ”『初めに言葉ぞ有り「ける」』と言った場合には、  「不立文字」の立場からの視点で語れたのではないでしょうか?”, we thought.  敢えて" I "ではなく、  ”we"を此処で採用しています。  ~~~~~~~~~  ☆ というところから今回のご見解ですよね。  念のために引きますが:  ▼ ~~~~  1:1 はじめに ことばガ あった。(はじめにことば〔 〕ありキ。)     ことばハ 神とともにあった。     ことばハ 神であった。  ~~~~~  ☆ そしてこの場合のガ格は 何かはっきりしないがその《はじめ》のことがらとしていま話題にしようとしている何かなのでしょうね。その第一主題である《何か》から《ことば》を関連第二主題として引き出した。  そしてあとはその《ことば》をつぎの中心主題として(つまり ハ格をともなって) 第二文や第三文が言い出されている。こういう事情であるでしょう。  ★ 『初めに言葉ぞ有り「ける」』  ☆ これは 一般に倒置形だと言われます。  ○ 初めに有ったの‐ハ 言葉ぞ。  ☆ でしょうか。そうしますと 上に捉えた場合とくらべるなら 中心第一主題が 《はっきりしないが話題として出したい何か》とそしていわば同じそれをやや具体的に規定したかたちの《初めに有ったの》とです。  という意味合いでは   ★ 意味「は」齟齬を来たしますね  ☆ とまでは行かないかに思われます。  ううーん。《けり》は 《き‐有り》でしょうから。  でも  ★ 『初めに言葉こそ有りけめ。』  ☆ というふうに特別に取り立てた場合には ちがって来ましょうか? ただしこの《こそ》の用法としては そのコソによって譲歩を示したあとで《有りけめ》につづいて 主文が来るかたちを取るのがふつうではないかとも思うのですが? ちょっと自信がないですが。

回答No.35

つまり、『相対的な「善」』・『相対的な「正義」』の対象が、 見方によっては「悪」へと堕落せしめられるのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  おそらく掲げられた命題に次の条件を挿入したら どうでしょう?  すなわち《見方によっては》ということの内容を構成すると思われるものですが:    その相対的な《善》や《正義》が――スサノヲ身体から切り離され   て――単独に分立し さらにはその一種のアマテラス概念ないし理念   が あたかも神としてのごとくあがめられるといった見方に立って   しまえば     何を隠そう けっきょくはデカルトのそうとすれば一つの解釈としてのコギトの神格化のことになるでしょうか。  これも 回答No.33の補足欄の (3-3)に触れましたが どうでしょう?

回答No.34

更に別の視点で綴ってみます。 絶対的な善が存在しているのか否かの証明は、 不完全性定理の教えの通りに不可能なのでしょうが、 前近代人達には、絶対的な善に縋っていたい精神的な弱さが有った、と思われます。 従いまして、天災等に巻き込まれた際に、 崇拝の対象から裏切られた、という心境に陥らない様に、 信徒達の民衆を啓蒙すべく、責任転嫁の対象を外部に見出させる為に、 悪魔なる仮想敵を想定したのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  この論点は 都合よくまさにそのことを扱いました回答No.36でのやり取りをごらんになってください。    すなわち細分化された論点としては   1. 悪魔は飽くまでひとりの人間の主観にとっての概念であろうと思われること。個人を集めて十把一絡げにして――その一人ひとりの自由意志を無視して――共通の悪魔観を持つということには 基本的に言って 意味がない。次の事例に関連してのことです。  ★ ~~~   天災等に巻き込まれた際に、  崇拝の対象から裏切られた、という心境に陥らない様に、  信徒達の民衆を啓蒙すべく、責任転嫁の対象を外部に見出させる為に、  悪魔なる仮想敵を想定したのではないでしょうか?  ~~~~~  ☆ そういう事例が起こらないというのではなく 起こってもそれは聖書の指し示す神の信仰ではないのだと。神の信仰のもとでの悪魔観ではないのだと。  2.   ★ ~~~~~  絶対的な善が存在しているのか否かの証明は、  不完全性定理の教えの通りに不可能なのでしょうが、  前近代人達には、絶対的な善に縋っていたい精神的な弱さが有った、と思われます。  ~~~~~~~  ☆ これは どうなんでしょう。まづそういう見方は 一般的にそしてひとつの観点として言えるでしょうね。  そして他方で 非思考の庭がわが心に成るといった神の信仰にあっては あくまで個人にとってのですが 次の微分方程式が持たれると考えます。  ○ 堕天使=悪魔=人間の前の垂直壁=神  精神的なよわさは そのよわさのままでよいという歴史知性であり超知性なる非思考としての境地を表わしています。それは 安易なかたちで言ってしまえば 〔つまりその知性と超知性としての境地は〕不完全性定理をおのれの非思考の庭にやどった無根拠の霊が覆い包み込んでいるものと思われます。(回答No.4から始まった一連のやり取りです。No.8&No.9&No.11です)。

  • ok9608
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回答No.33

No.8,11です。消化不良のままの感想です、ご容赦を。 (ヨハネによる福音 1:1-5)の内容を論理構成的に解釈して行こうとされている のは おぼろげながら理解できるのですが、出来たとして 読者に何を主張されるのでしょうか。論理構成は ご存知のように公理がら始まる演繹形の構造です。キリスト教の場合 神(呼び名は一つではないが)が創造主で他は被創造物であります。この二つに無理でも分類しないと理解できないと思います。それで 堕天使=悪魔=人間の前の垂直壁=神   に落ち着いたように思われますが、読者にとってはそれがどうした という感じがします。やはり一階部分を明示して古事記のアマテラス/スサノオ式のような大胆なbragelonne流テキスト分析をみせて欲しいのです。 一方では、天使をつかって布教活動を続けていたが 天使の人気が出てきて神と同等以上の地位を得、これは教義に反するとして堕天使として神未満の地位にさげられたと言う説や、異教の王の存在が 神側では神を脅かすモノとして認識され 堕天使=悪魔として神に敵対するモノに再定義された説 などはキリスト教物語の歴史を理解する上でおもしろいと思います。こちらのような物語歴史を掘り下げることも キリスト教をより理解することになると思いました。 以上失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 (4) こう考えて来ますと けっきょくは世の中のあらゆる悪魔は――あくまでひとりの人間の主観において瞬間的に観測されるかぎりでですが―― すべて〔その主観にとっては〕神のしわざであるということにもなります。試練であるということになります。  つまりここでの断り書きとしては 大勢でまとまって共通の敵としてのように悪魔呼ばわりするような悪魔観は 信用できない。つまり 自由意志が十把一絡げで捉えられることには 間違いが生じていると考えてよい。だと考えます。  (5) その(4)の断り書きに関連して 次の事例があると思います。  ★ ~~~~  一方では、  (あ) 天使をつかって布教活動を続けていたが 天使の人気が出てきて神と同等以上の地位を得、これは教義に反するとして堕天使として神未満の地位にさげられたと言う説や、  (い) 異教の王の存在が 神側では神を脅かすモノとして認識され 堕天使=悪魔として神に敵対するモノに再定義された説  などはキリスト教物語の歴史を理解する上でおもしろいと思います。こちらのような物語歴史を掘り下げることも ≫キリスト教≪をより理解することになると思いました。  ~~~~~~  ☆ (い)が《キリスト教》という集団の問題です。組織宗教としての悪魔観になるかと考えます。しかも もし集団としてのまとまった視点ではなく個人として捉えた場合にも だとしてもそれは   堕天使=悪魔=人間の前の垂直壁=神  という方程式にのっとるならば その異教の王も 神の手によるしわざであるとなります。  (あ)は 複雑ですね。まづ  ★ 天使をつかって布教活動を続けていたが   ☆ これがよく飲み込めません。《天使を使う》というところです。もし使ったとしても それは目に見えません。それともけっきょくミカエルだとかの名前の天使が称えられたりあるいは 高名なキリスト信徒がいわゆる守護霊として持たれたりすることから逆算できるその情況のことでしょうか?  なお布教活動は基本的にすでに終わっているという命題は すでにNo.13でのやり取り(そのお礼欄)にて提出しました。参照されてください。  ★ 天使の人気が出てきて神と同等以上の地位を得  ☆ 天使も守護神も 神に仕えるということははっきりしていると思いますが それでも――つまりはむしろ組織宗教ないしその社会全体の慣わしとして――そのような天使らの力が大きくなった場合を言うのでしょうか?  ★ これは教義に反するとして堕天使として神未満の地位にさげられたと言う説  ☆ ですからここでは《教義》ということが 問題です。なぜなら 非思考の庭が成るというのは わが心に無根拠が霊として宿ることだと言っているのですから 教義もへちまもまったくありません。表象しえざる神のことですから。  それに堕天使として悪魔と呼ぶという場合にも これは《大勢で一人ひとりの自由意志を十把一絡げに束ねて――良心・信教の自由を損ねて――悪魔観を持つ場合》だと考えられます。  (6) ★ (ヨハネによる福音 1:1-5)の内容を論理構成的に解釈して行こうとされている のは おぼろげながら理解できるのですが、出来たとして 読者に何を主張されるのでしょうか。  ☆ ここはあくまで《天使》の位置づけです。神の声として(1)は 確認出来たと思っています。あとは 堕天使ないし悪魔との関連で どういう理論になるのかです。  取り敢えずの見方としては あくまで個人の苦境における瞬間的な垂直壁 これがその人にとって悪魔だと呼ばれること・そしてそれは 乗りこえられようとするときにはよく落ち着いて捉えるならむしろ神の手づからのワザとして まわりまわってその人の境地を高めるために与えられたものではないか。  だから 悪魔とただ呼ぶだけであり――悪の究極を想定してひとつの観念とするかたちで悪魔と名づけるだけであり―― あとはさらに神の・み使いと関連づけられてしまった。つまり天使の堕落し地へと墜落して来たものなのだという解釈がつけ加えられた。  そのとき注意すべきは それは個人の主観にとっての微分方程式としてのみ現実性を帯びるという点です。二人以上の主観にとって まとまった悪魔なる存在は ただのまぼろしであると考えられます。  まだまだです。いまは ここまでです。

bragelonne
質問者

補足

 ok9608 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ やはり一階部分を明示して古事記のアマテラス/スサノオ式のような大胆なbragelonne流テキスト分析をみせて欲しいのです。  ☆ これについてまだ成案をいだけないままお応えすることになります。  これまでに分かっていることを箇条書きにして提出します。  (1) 天使は ひとりの人間に対してもし神が声をかけることがあるとすれば その言葉・その声のことを喩えとして言っている。(コリント前書13:1)  (2) そもそも神なる非経験のナゾが――《かみ》という言葉をじんるいが一様に持つといった言語習慣からして――ひとの思いに起こるということは かれが孤独存在であるからだと考えられます。  人間存在あるいは主観というのは 孤独ということの異名です。それは 自由意志を持つことを意味します。そうでなければ 本能によって生き動くものとしてあって自分が孤独であるとも孤独でないとも考えない。  経験事象として この孤独をくつがえす(または癒やす)ことは 《ひとはどうしようもなく独りである。あるけれども それは孤独関係である》になると思います。ただしそれでももしこの孤独関係が 経験的で相対的な存在である人間としての他者であるのなら その癒やしは 同じく相対的なものに留まらざるを得ないかも知れない。――そこでそれでもなおこの孤独関係ということに・つまりは《関係》であるということに癒やし(あるいは心がやわらがしめられること)を見出しその発見に現実性があるとしたなら それは《絶対》としての無根拠である。  ゆえに 《かみ》が人類にとってもひとりの人間にとっても 普遍性を意味する。  《天使》は かみの み使いであるかたちで それとして普遍的である。  (3) それでもなお なおそれでも人間は不安である。孤独地獄という言い方さえ出される。この地獄の――つまりは相対的な存在をさえそこへ落ち入らせるというその――主宰者の問題が起きる。言わずと知れた悪魔さま!! このように人を孤独を噛みしめさせるそのうえに存在をさえ無きものにしようとしてはたらく〔おそらく〕観念!! これについては  ★ それで 堕天使=悪魔=人間の前の垂直壁=神   に落ち着いたように思われますが、読者にとってはそれがどうした という感じがします。  ☆ という情況にあります。    (3-1) この方程式はひとつに 独りの人間にとっては成立するのではないかとまだ思っていますが どうでしょう? 大勢の人びとにとって同時に成立するようでは どこかおかしい。大震災が悪魔だという見方は どうもおかしい。ただし孤独存在にとっては 有効であるのではないか?  (3-2) 同じくこの方程式は あくまでも流動的なその場の過程に即してあてはまると考えるものです。悪魔が主観にとって現われるのはしかもその落ち入っている情況の微分においてという見方である。  いわゆる試練であるならば それ以前からの神との関係が厳然としてある。永続的である。つまりその苦境を乗り越えたとき(または 乗りこえる力として)神が現われる。《堕天使=悪魔=人間の前の垂直壁=神》。  (3-3) もしここでアマテラス / スサノヲ論からの分析を差し挟むならば そこで落ち入ることのある欠陥は アマアガリ・シンドロームとアマテラス予備軍症候群です。  ふたつとも同じようなものですが それは 精神ないし公民たるアマテラスが 身体ないし市民たるスサノヲを差し置き置いてけぼりにして単独分立すること。果ては 唯我独尊を社会力学として確立することです。  孤独を スサノヲ自然本性そのものにおいて孤独関係として地道に生活の勤勉の中に受けとめるのではなく モノをつうじて・すなわち学力にものを言わせてそのガリ勉によって得る金銭や地位や名誉をつうじて克服しようとする。スサノヲとして一階の市民であっても そのような性癖を持つとき 後者のアマテラス予備軍症候群に陥ります。前者は すでに階段を駆け上ったかたちです。  ただし いかに症候群だと言っても その初志はむしろ天下国家のため社会のためであったかと思われます。そしてそれは 精神としてのアマテラスの優越を見るという〔じつはおそらく〕悪魔の誘惑にもとづくものと考えます。  スサノヲ孤独のきわめて弱い互いの関係性においてこそ――無神論なる非思考の庭にあって――強さを発揮するというのではなく しかも おのれをすべて神にゆだねるという無根拠の庭において心がやわらがしめられるというのでもなく そうではなく人間精神の偉大さにおのれの存在を賭けた生き方 ここに身を投じた。  そうするとおそらく 人間であるおのれが 垂直壁になる。あたかもその存在が特異点であるかのごとく神になる。あるいは その壁によって自由をはばまれる者にとっては 悪魔となる。

回答No.32

”『初めに言葉ぞ有り「ける」』と言った場合には、 「不立文字」の立場からの視点で語れたのではないでしょうか?”, we thought. 敢えて" I "ではなく、 ”we"を此処で採用しています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーん。どうでしょうか。  ことばは 不思議なものだと思います。  ことばで表現してしまえば――しかも脳裡において思ってしまっただけでも その表象において・その観念として―― すでに象(かたち)を持って そのまま経験事象となります。  言いかえると 非経験のことを仮りにしめすシルシになることは出来ますが 非経験のナゾをそのまま示すことは出来ません。  象に表わすということにおいて 象があるのですから ナゾではなくなります。つまりはぎゃくに言って そのナゾを仮りに示すシルシには成り得ます。そのためには 何らかの象がむしろ必要ですから。  ★ 敢えて" I "ではなく、 / ”we"を此処で採用しています。  ☆ この場合も 同じだと思います。  あるいは  ★ 「不立文字」  ☆ にしても じつは ナゾを指し示すシルシであるだけではなく 文字を立てないという観念すらをはっきりとそれは表わしています。  つまりは 文字を立てないという立ち場でなくてはならないという解釈を生んでしまうことがあり得ます。そういう限定は 本意ではないのではないでしょうか?  ですから ことばないしそれが伴なう表象 これが一たん現われたならば すべてはすでに経験事象になります。それでも非経験のナゾを指し示したいというのであれば 仮りのシルシとして・代理表現として ことばを使っているだけなのだという表現の前提を断り書きするしかないように思うのですが どうでしょう?

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  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!